深刻化が増す「貧困」問題。そんななか、SOSを出したくても出せない人たちがいる。支援が必要な人たちを、さらなる窮地へと追い込む「貧困は自己責任」論とはーー。貧困、格差問題を取材し続け、自らも「隠れ貧困」の家庭で育った経験を持つ、『年収100万円で生きる―格差都市・東京の肉声―』の著者でフリージャーナリストの吉川ばんびさんに現状を聞いた。

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「生活保護を受けるほど落ちぶれてはないんです」 

 これまで、貧困当事者から何度も聞いたこの言葉の重みというか救われなさに、頭をもたげることが増えた。彼ら彼女らにとって生活保護を受給することは「恥」であり、超えてはならない最後の一線なのかもしれない。 

 現在の日本には、貧困に陥っている人に対して差別的な意識や偏見を持つ人々が少なからず存在している。そのなかでもっともメジャーで代表的なものが「貧困は自己責任」だ。

 低賃金で働く非正規労働者やシングルマザー、中高年のリストラなどの社会問題を報じるニュース記事には、必ずといっていいほど「自業自得」「自分が悪い」といった批判コメントがずらりと並ぶ。貧困問題について論じることの多い私のもとにも、こうした主張を持つ読者から連絡が届くことは決してめずらしくない。

誰もが他人事だと思っている

「貧困自己責任論」が蔓延している社会で、「自らが金銭的に困窮している」と認めることの意味を考える。

 社会を構成するピラミッドの中で、自分が下層側に位置していること。「恥ずかしい」と考えていた貧困の当事者に、いま自分自身がなってしまったこと。その原因は「自分の努力が足りなかった」せいかもしれないこと(「努力すれば貧困にならない」といった言論はそもそもなんら根拠がない間違いであるため、ここで明確に否定しておきたい)。 

 貧困当事者が、このように自分の置かれた状況を正面から受け止め、すみやかに「しかるべき支援を受けながら経済的な自立をめざす」方向に舵を切ることは非常に難しい。

 また、多くの場合は「自分が支援を必要とするほど困窮している」と自覚ができておらず、公的機関に相談をするべきかどうかの判断もできない。そもそも自分が生活保護を受給することになる状況を想定をしていないため、誰かにSOSを出す発想すらない人も少なくない。 

 さらに、一般的に「生活保護の受給」についてマイナスのイメージが強く定着していることも、支援を求めることを躊躇させる要因のひとつだと言える。たびたび報じられる生活保護の不正受給問題が大きく影響しているものと考えられるが、こういった偏見は、メディアによる偏向的な報道が招いたものだ。 

 厚生労働省が発表している調査によれば、2015年の生活保護の不正受給率は0.45%だった。99.55%は適正に支払われているにもかかわらず、ほんの一部にすぎない不正受給ばかりを過剰に報道することで、世間ではまるで「生活保護を受給している人々すべてが悪者である」かのような認識が生まれ、バッシングが起こるようになったのだ。 

 そんな風潮が根強くある中で、自分や家族が好奇の目に晒されたり、バッシングを受けたり、世の中に対して後ろめたさを感じたりする覚悟で支援を求められる人が、どれだけいるだろうか。 

 こうした「隠れ貧困」に陥っている人々は、おそらく私たちが想像するよりもたくさんいるのだと思う。見えていないだけで、きっと私のまわりにも、あなたのまわりにもいるのだろう。

「ホームレスまで落ちたほうがラク」

 しかしながら、生活がどうにもならなくなり、「最後の一線」を超えていざ助けを求めた人が必ず支援を受けられるかというと、残念ながらそうではない。なんのセーフティネットにもかからないまま、路上生活を余儀なくされる人だって存在している。 

 いわゆる「ホームレス」を経験した人の中には「変に頑張るより、ホームレスまで落ちちゃったほうがラクだった」と話す人が少なからずいる。理由を尋ねてみると、背景には生活困窮者に対しての「段階的な支援の乏しさ」があることがわかった。 

 元ホームレスの男性は以前、働いていた会社から事実上の解雇を言い渡され、家賃を支払えなくなったために数年間、日雇いの仕事をしながらネットカフェを転々とする生活を送っていたという。しかし、持病が悪化したことにより思うように働けなくなり、路上生活せざるを得なくなった。

 彼は賃貸物件に住んでいたころに、知人のすすめで生活保護受給の相談のために役所を訪れたこともあった。しかし職員は「親族がいるなら、まずは親族援助を頼ってください」の一点張りで、結局のところ受給には至らなかったという。確かに男性には親族がいたが、すでに絶縁しており、金銭的な援助を受けられる可能性はほとんどゼロであった。

 男性が「ホームレスまで落ちちゃった方がラクだ」と言ったのは、言い換えれば「ネットカフェを転々としていた数年間よりも、それすらできなくなって路上生活をはじめてからのほうが支援を受けやすくなった」ということだ。

 路上で生活していると、支援団体やボランティアの人から声をかけられ食事の提供、生活物資の支給、住居を確保するための支援や就労支援を受けられることがある。こうした支援は公的機関によるものではなく、NPO法人などの民間団体によるものがほとんどだ。公的制度には、貧困に陥っている人への段階的な支援が充実しているとは言えない。だからこそ、この国では民間団体の支援に依存しがちなのが現状だ。

 ネットカフェやトランクルームや車など、生活に適さない劣悪な環境で飢えをしのぎながらその日暮らしをしていた「隠れ貧困」の数年間を考えれば、彼ら彼女らが「変に頑張るよりもホームレスになったほうがラクだった」と考えるのも納得がいく。

「生活保護を受けるほど落ちぶれてはないんです」

 この言葉が、今も心を掴んで離さない。偏見や差別意識、葛藤、世間への後ろめたさ。いろいろな要素が、あまりにも複雑に作用しあって生まれた恐ろしい言葉だと思う。

「まだがんばれる、まだ大丈夫」

 そう言い続けて、突然、壊れてしまった人をたくさん見てきた。壊れてしまったものは、完全な元の姿には戻らない。

 自己責任とは、一体なんだろう。

吉川ばんび(よしかわ・ばんび)
'91年、兵庫県神戸市生まれ。自らの体験をもとに、貧困、格差問題、児童福祉やブラック企業など、数多くの社会問題について取材、執筆を行う。『文春オンライン』『東洋経済オンライン』『日刊SPA!』などでコラムも連載中。初の著者『年収100万円で生きる ー格差都市・東京の肉声ー』(扶桑社新書)が話題。