愛知県を中心に、日本全国で68店舗、海外で3店舗を展開している人気居酒屋「世界の山ちゃん」。現在、そのトップは1度も経営に携わった経験のなかった山本久美さん(53)が務めている。そんな彼女の社員とアルバイト合わせて1700名近い人間をまとめる経営の基礎は全国制覇を成し遂げたバスケットボールの部活で培われていた―。

株式会社エスワイフード 『世界の山ちゃん』グループ代表取締役 山本久美さん

山ちゃんの急死

 4年前の、2016年8月21日の朝6時─。

 気象庁の記録によれば、この日、名古屋の気温はすでに25・2度。昨日までの雨も上がり、蒸し暑い1日となることは確実だった。

 自宅2階の寝室で、山本久美さん(当時49歳)が目を覚ました。

 夫の山本重雄さんは、スパイシーな手羽のから揚げを看板に、一代で『世界の山ちゃん』全国61店舗網(当時)を築き上げた飲食業界のカリスマ。やり手経営者の常として、4時か5時には起床。誰よりも早く仕事を始めるのが日課だったから、この時間なら、もう出社しているはずだ。前日は、知人が開いた『ゆかたの会』に参加。大勢のゆかた美人に囲まれて、ごきげんなひとときを過ごしたばかりであったという。

 久美さんが寝室から1階のリビングへ向かう。目に入ってきたのは、床に横たわる重雄さんの姿だった。

 久美さんが言う。

「ふざけて寝たふりをしているんだと思いました。うちの子どもは、起こしたあとによく2度寝しちゃうんです、リビングで。

 主人はそれがすごく嫌いで、“1度起きたら寝るな”と言っていたのに主人が寝ている。だから冗談でやっているんだと。それで、“お父さん、いつも2度寝はダメだって言っているじゃない”そう言いながら起こしにいって……」

 冗談どころか、大ごとだと気づいた久美さんがあわてて救急車を呼ぶ。

 病院に運ばれたが、重雄さんが目を覚ますことは2度となかった。享年59。死因は大動脈解離だった。

『決して悪いようにはせんから─』

 久美さんにも従業員にも、そう語りかけるのが常だったというカリスマ経営者の突然の死去。

「“決して悪いようにせんから”が、いちばん悪いことになっちゃったな、って……」

 久美さんはこのときはまだ、自分が全国68店舗、社員約180名とアルバイト約1500名('20年3月末)を率いる立場になろうとは、考えてもいなかった─。

常にバスケットボールとともにあった人生

『世界の山ちゃん』代表取締役の山本久美さんこと旧姓・塩澤久美さんの人生は、常にバスケットボールとともにあった。

 本格的な関わりあいは、名古屋市立守山中学に入学してからだったという。

「小学6年でバスケを始めたものの、中学ではバレー部に入ろうと決めていたんです。ところが、たまたま姉がバスケ部の井上眞一先生の学年で。春休みに姉に、“妹がバスケをやっているんなら、練習に連れてこい”と指令が下った」

 井上先生は守山中学を経て1986年に名古屋短期大学付属高校(現・桜花学園高校)のバスケ部監督に就任。以来、インターハイに24回、国体で21回など計67回の優勝を果たし、1988年からは全日本ジュニア(現U―18)のヘッドコーチも務めたという名伯楽からの誘いだった。

「練習に行ったら、先生からTシャツとか短パンとかソックスとかをプレゼントされて。“ワイロだな”って思って返したんですけど(笑)、そうしたら先生が“こんなものただの運動着だからもらっておきなさい。別にどの部活に入っても使えるんだから”って」

 現在は桜花学園高等学校の教諭兼監督で、いまでも月に1回程度は電話で話すと語る井上先生も、

「ありましたね(笑)。僕は今、高校(の教諭)なんですけど、中学生の有望な選手にはTシャツをあげたりしていますから。彼女は小柄でしたが、バスケのスキルは当時からありました」

 当時、全国的に中学校は荒れていて、バレー部には不良の先輩がいると井上先生に吹き込まれた結果、久美さんはバスケ部への入部を決心する。

 バスケはこののちも高校大学と続け、社会人となってからは監督を10年以上にわたって続けることとなるが、このバスケを通じての経験と自信が、久美さんの『キャプテンシー経営』の礎となっていく。

2年生でキャプテンに任命

 名伯楽率いる守山中学は、久美さん入学前からバスケットボールの強豪校として全国にその名をとどろかせていた。

 そんな守山中学監督である井上先生の指導は、切磋琢磨することで実力をつけていくものだったと久美さん。

「3年計画でそれぞれの学年でチームを作り、練習試合や学校内で試合をするときには、3年生対2年生、2年生対1年生とかで試合をするんです」

 上級生は下級生には負けられないと真剣になるし、学年内の結束も強くなる。

 この時代の久美さんを知り、大学に入ってからは親友となる半谷聡子さん(52)が、当時の守山中学をこんなふうに言う。

「私は他校だったんですが、守山中は雲の上のチームでしたね。試合をすると100対15とか100点ゲームになるのは確実。すごかったです」

 そんな強豪校は、部活でありがちな下積みがほとんどないのも特徴だった。

「本試合直前を除き、1年生はボール拾いや声出しばかりといったことがまったくないんです。1年から3年生までほぼ同じメニューを、一緒に組んで練習しました」

 井上先生はそんな学年ごとの対抗戦や練習の様子を見て、学年に関係なく選手を選ぶ。

バスケだけでなく、人生の師である井上先生(中央)、バスケ仲間と

 スポーツとビジネスは重なる部分が大いにある。新人は下積みばかり、起用されるのはエリートや上級生ばかりでは、どんな素質を秘めた人材だって腐っていくばかりだ。

「(経営者となった現在では)人材をよく見、適材適所に置くことを心がけています。これは井上先生の影響ですね」

 真珠が貝のなかで少しずつ真珠層を育んでいくように、バスケでの経験が未来の経営の源となって蓄積されていく。

 2年生のとき、思いがけないことが起こった。キャプテンに抜擢されたのだ。

「2年生と3年生で試合したときに下の学年だった私たちが勝ってしまったことがあったんです」

 上級生のふがいなさに井上先生が激怒、久美さんがキャプテンに任命されたのだ。

 キャプテンには人を引っ張っていくキャプテンシーが欠かせない。2年生の立場で上級生を引っ張って、さらには先生と選手、双方の要望や不満をくみ上げ調整する、パイプ役まで担うことになってしまった。

「2年生で(キャプテンナンバーの)背番号『4』をもらったときには泣きました。でも、先輩たちにしたら“なんで2年生がキャプテンになるの!?”となるわけですよ。キャプテンとして指示すると、“2年生の分際でなに威張ってるのよ!”だし、指示をしないと“キャプテンなのになんの指示もしない”(笑)。まあ1日とか2日の話でしたけどね」

 突如として代表を務め戸惑うことになる未来を、どこか彷彿とさせる話である。

中学3年のとき、バスケットボールの全国大会で優勝した。シュートをしているのが久美さん。部活後は疲れて寝てしまうため早起きして勉強し、通知表はオール5だったという

 さて、そんななかでも守山中学バスケットボール部は、久美さん1年のときの全国優勝に始まって在校中に破竹の3連覇を遂げる。

 華々しい成績を上げたが、高校ではバスケとは半歩距離を置くことを選ぶ。進学先として選んだのは、名古屋市立向陽高等学校だった。

「井上先生から“名短付属には来るな”と言われて(笑)。私は背が小さい(155センチ)からレギュラーになれないということが先生にはわかっていた。キャプテンにはなれても、ベンチにずっといるキャプテンではつらいだろうと。バスケだけが人生じゃないと、おっしゃりたかったんだと思います」

 この高校で久美さんはバスケを続けつつ充実した“JK(女子高生)ライフ”を送る。

未来の夫との遭遇

 高校を終えたあとは大学へ。久美さんが選んだのは、愛知教育大学への進学だった。

 教師を養成する教育大への進学は、恩師である井上先生の影響が大きい。

「厳しい人なんですけど、生徒が言いたいことがあるときは、最後まで全部、聞いてくれるんです。バスケもですけれど、人としても尊敬していて“先生のような教師になりたい”と」

 そんな18歳、大学1年のときだった。

「ひと足先に就職していたマネージャーだった子から、“メッチャ面白くて美味しい店がある。連れていってあげる”と言われたんです」

 その居酒屋は、名古屋の繁華街・住吉にあった。

「ビルの奥の、ちょっと怪しげな店なんですけど(笑)、そこで生のホウレン草のサラダを食べて。今でこそホウレン草はサラダにして食べられていますし、うちの食卓でも出しますけれど、当時はホウレン草を生で食べるなんて、ありえなかった」

 サラダと一緒に食べた手羽先のから揚げもまた、食べたことがない味だった。

「あまりにも辛くて。そんなもの食べたことがなかったからびっくり(笑)」

 今でこそ人気の手羽先も、当時は始末に困っていたような部位。そんな食材や意外な野菜を、斬新なスタイルで“メッチャ面白く美味しく”調理して、知る人ぞ知る店となっていたその居酒屋は、店名を『山ちゃん』といった。いうまでもなく、夫・重雄さんの店であり、『世界の山ちゃん』の前身である。

「当時は(『山ちゃん』に)マニアはいたみたいですけれど、有名店ではなかったですね。このときはまだ、お互いの存在も知らなかったです」

 当時すでに数軒の居酒屋を経営していた山本重雄氏が開発したピリ辛の手羽先が“幻の手羽先”として口コミで人気を博し始めた、その矢先のことであった。

 愛知教育大学を卒業した久美さんは、小学校教員として名古屋市立猪高小学校に赴任した。

「中学に行ってバスケ部を指導したいと思っていたのに、小学校に配属になってしまった。小学校のバスケを指導しようとはこれっぽっちも考えていなかったので、身を潜めていればしなくてすむと思ってました(笑)」

 いくら身を潜めていても、噂は広まっていくものだ。夏にはバスケ部の主任顧問の補助役を引き受けた。

 ところがバスケ部の主任顧問が病気になって、長期休暇を取ることになってしまった。となれば、久美さんが指導の中心になるしかない。

 指導を始めると、子どもたちの実力がみるみる間に上昇していく。主任顧問が他校に転任となり、久美さんが指導の中心となった1年後には、男子チームが市大会で準優勝するほどになっていった。

 “来年こそは優勝だ!”と熱狂も高まるばかり。だが、小学校の部活には全国大会がない。どれほど強くても、市大会までだったのだ。

「そんなとき、ある先生から、“クラブチームを作ると、全国大会にまで出られる。高いレベルでバスケをやることができる”と聞いて。面白そうだと、クラブチームの『昭和ミニバスケットボールクラブ』を作ったんです」

久美さんは「助けずにはいられない人」と友人の半谷さん。久美さんの方向音痴を心配して、バスケの遠征先に付き添ったこともあるとか

熱血監督『デビル塩澤』と呼ばれて

 1993年、久美さんが26歳のときに設立し、猪高小学校の選手たちを主力に据えたクラブチームの活躍は、目覚ましいのひと言だった。

 チーム結成わずか1年目で全国大会で優勝。優勝までのスピードは、全国的な注目を集めるほどであった。

 飛躍の理由は、優秀な選手陣や井上先生仕込みの3年先を見越してのチーム作り、陰で『デビル塩澤』と恐れられた猛練習にある。そして、久美さんならではのみんなをまとめ上げ、引っ張っていくキャプテンシーあふれる指導も見落とせない要因だった。

「子どもたちにもよく言っていたんですが、人には役割があると。雑用をする人も必要だし、人のかげになって働くことになる人もいるだろうと。人を適材適所に置くとともに、それぞれの人間が自分の役割をきちんとやっていこうと伝えてきました。

 苦労している人もいるんだということを常々言い、そういう人をほめたり感謝を伝えたりすることで、みんなまとまっていけたんです」

 チームによっては、レギュラーを大切にするあまり、荷物持ちやボール拾いはレギュラー外の子どもばかりというチームは少なくない。

「うちのチームは、全国大会とか大切な本試合以外はレギュラーが荷物を持たなくちゃいけないと決めていて、バスとか電車に乗るときもレギュラーじゃない子から座らせる。“彼らはあなたたちレギュラーのために(いろいろな雑用を)やっているんだ”と、わかってもらい、感謝を示してもらいたかったから」

 いまも忘れられない経験がある。

「全国大会で力の差があって絶対に勝てるチームだと、控えのCチームを出すんです。こうしたときレギュラーが知らん顔しているチームも多いんですけれど、うちのチームでは、レギュラーが率先しての大応援になるんです。いちばんうれしかったのは全国大会で優勝したあと、レギュラー陣が、“優勝よりも、Cチームもまぜ、全員が得点できたことがうれしかった”と言ってくれたこと。それを聞いたときには“やっていてよかった……!”と思いましたね

 どんなチーム、どんな企業にも、日が当たる人もいればその陰で働かなければならない人がいる。全員が優秀でも、サポートする人なしには優勝することも、発展することもできない。勝利も発展も、それぞれが自分の役割を果たして初めて手にできるものなのだ。

 将来、自分が担うことになる役割への貯金が、ここでも着実に久美さんのなかに蓄積されていく。

 さて、破竹の勢いの昭和ミニバスケットボールクラブに、あるとき思いがけない逆風が吹いた。

 クラブチームに4校制が導入され、全国大会に出場できるのは4校以内の小学校の生徒から結成されたチームのみとされたのだ。

 強豪チームの常として、同クラブの選手たちの所属校はさまざまだった。今後も全国大会出場を目指すなら、誰かをやめさせ、4つの学校出身に絞るしかない。犠牲になるのはおそらく、久美さんが常々気にかけてきた、レギュラー以外の子どもたち。

「そんなことはできない。それで子どもや親御さんたちにも相談のうえ、全国大会は諦め、東海大会優勝を目指すことにしたんです」

 クラブ創立5年目。久美さん30歳のときだったという。そんなさなか、久美さんに交際話が持ち上がった。

「居酒屋の社長さんなんだけど、面白い人がいるのよ─」

 知り合いがそんな話を持ちかけたのだ。“面白い人”は、名を山本重雄という。

 久美さんが18歳のとき、ホウレン草のサラダを提供していた居酒屋の主人は、“幻の手羽先”が大人気の『世界の山ちゃん』10店舗(当時)を経営する、気鋭の経営者に成長していた。

出会って半年でスピード結婚

「たしか喫茶店かどこかで会った気がするなあ……。いちばん初めに会ったときはおとなしい、物静かな人だなあと。おちゃめなところがあって、人を楽しませるためにギターを弾いたりマジックをやったりするんですが、(看板イラストから想像されるような)ハチャメチャに明るいって人ではないですね」

 しかし、仕事にはきわめて厳しい人でもあった。

「変わっているんですよ。まだお互いに打ち解けたとはいえない時分、たしかお寿司屋に行ったときだったかな、カウンターのかどがとがっていて主人が手を擦った。メチャメチャ怒って、“こんなにとがっていたら危ないでしょう! 次のお客さんも同じようにケガするよ。トンカチ持ってこい!”って」

 重雄さんのけんまくに目が点になった久美さんを尻目に、その場でトンカチを持ちカンカンとかどを叩き始めた。

「私は“人の店で、それやっちゃいけないでしょう!?”って(笑)」

 学校の同僚たちにはないそんな一本気なところに惹かれて、32歳で結婚、山本久美となる。出会って半年の、スピード結婚であった。同時に教諭の仕事を退職した。

重雄さんとの結婚式。久美さんはひとつのことにのめり込む性格で、家庭と仕事の両立は難しいと考え、教師を辞める決断をした

 クラブチームはやめても、小学校の部活の監督は続けていた久美さんが部活からも手を引いたのは、重雄さんからのひと言がきっかけだった。

「市では優勝していたし、その次の年に主力になりそうな子どもたちもすごく上手だったんです。だからもう1年やりたかったんですけれど、主人から、“10年以上やったんだからもういいんじゃないの?”と言われて」

 前出・半谷さんが言う。

「決断は早い人なんですが、結婚を迷っているといえば迷っていましたね。“この人でいいのか?”という迷いではなくて、バスケをやめるタイミングに悩んでいました」

 2000年3月、32歳で教員の仕事を退職。同年5月に結婚し、専業主婦となった。

 その後、重雄さんからの依頼で午前中だけ出社。重雄さんが各店を視察した結果を清書したり、月1回発刊の社内報『変通信』や、店舗に掲示されるかわら版通信『てばさ記』の執筆と編集に携わったが、経営はもちろん、重雄さんの仕事に口をはさむことはほとんどなかった。

 2001年には長女を出産。その3年後には次女、さらに4年後には長男と、3人の子宝にも恵まれた。

 2005年には鳥インフルエンザの流行で、手羽先の入手先に苦労したことはあったものの、『世界の山ちゃん』は右肩上がりの成長を続けている。

 母親として、気鋭の経営者の妻として、充実した毎日。久美さんは、これがずっと続いていくと思っていた。4年前の、2016年8月21日のあの朝までは─。

 冒頭の、重雄さん死去のあの朝─。

「あなたが社長をやりなさい」

 病院には急報を聞きつけた社員や取引先の方々が続々と集まってきていた。不安げな幹部たちに囲まれて、久美さんは混乱するばかりだったという。

「なんにも考えられなかったですね。最初に頭に浮かんだのは家庭のことで、“これからどうしよう?”ということばかり」

 前出・半谷さんが証言する。

「朝、亡くなって、9時とか早い時間に電話をもらっているんですけど、気づかなくって。夕方、3時とか4時にやっとつながって。泣き声だったかなあ……。“山ちゃんが死んじゃった”って言われましたが、言っている意味がわからなかった」

 半谷さんはその後、着の身着のままで病院へ向かった久美さんのために、羽織れるものを持って葬儀場まで駆けつけたという。

59歳という若さで急逝した重雄さんの葬儀には、多くの人が参列

 久美さんが会社のことに意識がいったのは、病院に駆けつけた取引先に会ってからのことだった。

「“あなたが社長をやりなさい”と言われて初めて“あっ! 会社どうしよう?”と」

 葬儀での久美さんを、西日本営業部部長の横井浩孝さん(51)が証言する。

「みんな(社員)と話すときは毅然としていましたが、1人になって棺の横に行くと泣き崩れていましたね。みんなの前では、涙は見せないようにしていました。見ていてウッとこみ上げるものがありました」

 このときの妻としての複雑な心境を、子どものバスケ部を通してママ友という河野京子さん(48)が証言する。

「そのころは部活が盛んだったので、“ご主人のために”というよりは、お子さん中心の生活だったと思います。あとになって、部活のぶん、ご主人と一緒にいる時間があまりとれていなかったから、何もしてあげられなくて申し訳なかったというようなことをおっしゃっていたのを覚えていますね」

 葬儀が終わり、家に帰ってからも混乱は続いた。

 取引先や経営コンサルタントが入れ替わり立ち替わり現れては、『世界の山ちゃん』オーナー夫人に、さまざまな話を持ちかける。後任社長の自薦推薦もあれば、信頼していたコンサルタントからM&Aで経営統合を図る、つまりは“久美さんでは経営は務まらない。ついては会社の身売りを”という話をもらい、口惜しい思いもしたという。

 もとより、経営は素人という自覚があった。そんななか、代表取締役就任を決めたのは、重雄さんの死去1週間後のことだったという。

 以前から続けていた店舗に掲示されるかわら版通信『てばさ記』の締め切りが近づいていた。悲しくてもそろそろ腰を上げなくては、締め切りに間に合わない。

重雄さんが亡くなった後に最初に出した『てばさ記』。お客さまへの感謝が綴られ、楽しげな作りになっている

「社員から、“こんなときですから今回はお休みしましょう”と言われたんです。私は“それはお客さまへの配慮? それとも私への配慮ですか?”と。私は“私への配慮ならばいらない。私は書きます”と答えました」

 湧き上がる涙を堪えるようにして、久美さんが『てばさ記』の執筆を開始する。

 完成した第190号は、“山ちゃん天国へ! ありがとう山ちゃん”と銘打たれ、お客さまや関係者すべてに感謝を伝えるとともに、重雄さんの魂と精神を受け継ぐことを伝えるもの、すなわち、久美さんが代表を引き継ぐことを宣言するものとなった。

「書いていて、主人への思いが半分以上だったとは思いますけど、会社への思いやお店への思いが、自分が思っていた以上にあったんだと感じて。今は私が(代表を)やるべきだと思ったんです」

生きたバスケットボールの経験

 数日後、久美さんが本社3階の会議室に幹部10数名を集めた。そして、

「“私は経営はまったくわからない素人です。だから、ちょっと年をとった新入社員が入ってきたと思って一から教えてください。どうか力を貸してください”と─」

 前出・横井さんがこう言う。

「ありがたかったです。知らない人が来て社長になるよりうれしかったし、安心しました。会長の遺志を受け継いだ社員が大勢いましたから“ちゃんと継続していける”そう思いました」

 代表となることを選んだ久美さんの頭に浮かんだのは、全国制覇を成し遂げたときの経験と、クラブチームの監督として異例のスピード優勝を遂げたときに悟ったこと。すなわち、全員がまとまってそれぞれの役割を果たす大切さだった。

「私の仕事はみんながバラバラにならないようにまとめ、やる気にさせることだと思うんです」

『世界の山ちゃん』葵店の中にある、『世界の山ちゃん博物館』。昔の店舗の再現コーナーには、前会長・重雄さんのパネルも

 そんな経営スタイルの現れのひとつが社員のスペシャリスト化。兼任が多かった職務を、営業なら営業、企画なら企画と、それぞれの役割に専念させる体制に改革したのだ。

「会長のときは思いつきでドンドンやっていたと思いますけれど、これからは社員がそれをやらなくちゃ。それぞれが考えて行動して、責任をとる行動をしなさいと、常々言っています」

 前出・横井さんも、

「以前はよくも悪くもトップダウン。会長に喜んでもらうことをするのが目的でした。今は“会社のためになることをする”が目的です」

 従業員全員をまとめるパイプ役として、東京への出張も意識して増やしている

「私が継いだとき、東京に不採算店がいくつもあって。東京には“名古屋とは別”という意識があったようです。それで行き来を多くして、私も毎月、東京に行ってみんなの顔を見て。そのうち業績はよくなりました。みんなの意識が“名古屋と関東”でなくて、“エスワイフード全体”に変わった。ただ、それだけなんですけどね」

 人と人とを結びつけ、“自分も組織の一員である”という自覚を持つ。すると組織はそこまで変われるものなのだ。

自身のことを「究極の負けず嫌い」と語る久美さん。しかし、わからないことは素直に周りの人に頼ることで会社が成り立っているという

監督も社長も
やっていることは同じ

 さて、ご多分に漏れず『世界の山ちゃん』も新型コロナウイルスに翻弄された。

 自粛勧告を受けての休業で、売り上げは前年比で9割減。だが、休業中も給与は全額を補償、社員の生活を守った。レギュラー以外を切ることができなかった監督に、現場を犠牲にすることなど、できるはずもなかった。

「お店がいいときは、社員さんアルバイトさんにやってもらっているばかり。苦しいときこそ、先代が残してくれたお金を使って生活を守っていってあげないと」

 休業中は社員有志とマスク作りに励み、2200枚の手作りマスクをNPOに寄贈したという。

 母親としての役割も、もちろん続行中である。

「5時か5時半にはお弁当作って、6時半には家族みんなで朝ご飯を食べています。家族全員が顔を合わせる時間が少なくて。早い子に合わせれば、朝なら確実に顔を合わせることができますから。お弁当も作りますよ。上の2人が高校生だったときには、がっつり系とダイエット系、2種類のお弁当を作っていました(笑)」

 前出・横井さんも意外な素顔を証言する。

「実は結構“乙女”(笑)です。仕事を離れると、方向音痴で忘れ物が多かったり。一緒に歩いていていなくなったと思ったら、買い物をしていた(笑)。仕事を離れると、“かわいい女の子”なところがありますね」

 親友の半谷さんが、こんな“かわいい女の子”の頼もしい一面を証言する。

「ご主人の生前に、こんなことを言っているのを聞いたことがありますね。“監督と会社の社長って、やっていることは同じだよね”って」

 バスケの選手からクラブチームの名監督、そして経営者に母とさまざまに立場を変えた久美さん。だが、やっていることは今も昔も変わらない。人を引っ張り、バラバラにならないようつなげていくキャプテンであり、選手を鼓舞する監督としての役割だ。

 さて、こんな久美さんを、天国の重雄さんが見たらなんと言うだろう─?

「今の私を、ですか? う~ん、“子どもの面倒ちゃんと見てる?”って言うと思います(笑)」

 わが子はもちろん、従業員も、わが子同然。そんなわが子たちの面倒を見ていく経営は、これからが本番─!


撮影/渡邉智裕
取材・文/千羽ひとみ(せんばひとみ)ライター。神奈川県出身。企業広告のコピーライティング経験を経て、ドキュメントから料理関係、実用まで幅広い分野を手がける。著書に『ダイバーシティとマーケティング』『幸せ企業のひみつ』(共に共著)