「最初の3か月は、ものすごいプレッシャーでした。TBSの看板番組で、あの久米宏さんの後を継いで2代目司会者になるんですから」
懐かしそうに語るのは“コニタン”こと小西博之(60)。'85年から1年間、黒柳徹子と一緒に歌番組『ザ・ベストテン』の司会を務めた。
「ほとんど記憶がないんです(笑)」
「25歳の若造が抜擢(ばってき)されたわけですから、不思議でした。レギュラーだった同じTBS系のバラエティー番組『欽ちゃんの週刊欽曜日』が終了に近づいたころ、『ベストテン』のプロデューサーさんから高級料亭に誘われて、しゃぶしゃぶをごちそうになったんです。“久米さんの後の司会を2回だけやってほしい”と言われました。
なぜか翌週も呼ばれて今度は、すき焼き。てっきり司会の話がなくなったと思ったら“やっぱり1年間やってほしい”と言うんです。さすがにためらったんですが“今すぐ、この場で返事が欲しい!”と土下座されて、思わずOKしました」
当時、小西がTBSで出演していた『欽曜日』と、ドラマ『金曜日の妻たちへ』の視聴率がともに35%前後。勢いを買われてのオファーだった。
「ベテランのアナウンサーさんから厳しくボイストレーニングの指導を受けました。夜9時からの本番が終わると、ディレクターさんに呼び出され録画チェック。“なんだ、このしゃべりは! 台本と違うじゃねぇか!!”と怒鳴られるんです。その説教が3時間半続き、解放されるのは夜中1時半。すぐ家に帰ると精神がもたないので、朝まで飲んでいました。だから、ほとんど記憶がないんです(笑)」
'85年10月から司会を始め、11月半ばに倒れて3日間だけ入院したことも。年が明けても試練は続いた。
「下積みをしてやっとデビューした『少年隊』がベストテン初登場1位になり、くす玉がドーンと割られてスタジオに出てきて、そこに僕が“今週の1位は『シブがき隊』のみなさんでーす!”って紹介してしまい……。また3時間半怒られるとビクビク。放送後、別室でジャニーさんにバッタリ。謝ったら“ユー、楽しかったよ”って。あのひと言には救われました。ディレクターも“間違えるのはいい。反省会も最初の3か月だけだ”って」
それからの9か月は楽しかったという。人気歌手の素顔にも触れることができた。
「小林旭さんが『今週のスポットライト』というコーナーで歌ったのが印象的でした。歌い出したのはいいのですが、歌詞のほとんどを間違えているんですよ。スタッフがあわてて字幕を消して。でも、小林さんは“えっへっへ、気持ちよかったけど間違えちゃったなァ”って笑っている。ほかのゲストもいるソファの真ん中にドーンと座って“オマエら、よく間違えねェなァ”って。別格でしたね」
命かけてるんだから、ちゃんとやって!
生放送なのでアクシデントもしょっちゅう。中山美穂は新幹線で移動中に歌を披露するはずだった。
「ミポリンが乗っている新幹線が途中駅に到着して、スタッフがマイクを向けたのに、スタジオの声が彼女に届いていない。ミポリンが“何、何?”って言ってるうちにドアが閉まって新幹線は行ってしまった。実はこのとき、新幹線を30秒ほど遅らせちゃったんです。今ではありえないけど、当時のベストテンなら、なんでもOKだった」
'80年代中盤はアイドル全盛時代。小泉今日子や中森明菜が国民的人気だった。
「キョンキョンは『なんてったってアイドル』を歌っていたころ。彼女の何がスゴイって、いちばんいい匂いがした。ものすごくいい匂いで、かいでいるだけで“付き合ってください”と言いたくなる(笑)。どんな香水を使っていたのか、今でも聞いてみたい」
中森明菜は『DESIRE-情熱-』がヒットして、カリスマ的歌姫になっていた。
「明菜ちゃんは、とにかく一生懸命に生きている人だし、血気盛んな年ごろ。本番前の楽屋には彼女の怒鳴り声が響いていた。“命かけてるんだから、ちゃんとやって!”って。彼女のことをいろいろ言う人もいるけど、単に怒っているんじゃない。“打ち合わせで、この服を用意してって言ったでしょ、間に合いませんでしたはダメなの!”って。スタッフが言い訳をすると“だったら、なんで前の日にできないって言わない?”と。
彼女の言っていることはいちいちもっともで、僕は応援していました。歌は全力で歌うし、まじめ。早めにスタジオに入って、懸命にカメラの映り方を研究している。人知れず努力していたんです」
渾身のアドリブでプールにドボン!
'85年は『夕やけニャンニャン』(フジテレビ系)が始まった年。おニャン子クラブの国生さゆりも大人気だった。
「国生さんと僕は徒競走をしました。彼女は高校時代に短距離走の九州大会で優勝した実力の持ち主。みんな国生さんが勝つと思っていましたが、僕が勝っちゃった。走る前にプロデューサーから“お前が本気を出さなきゃ映像的にダメだ”と言われたのを真に受けてしまったんです。国生さんには今でも“勝っちゃった人だ”って言われます」
男性アイドルで輝いていたのは、吉川晃司。
「肩幅が広くて、カッコよかった。彼は誰に対しても媚(こ)びない。“オレは吉川晃司だから”という感じで堂々としていた。アイドル扱いされるのを嫌がっていましたが、偉そうな態度は見せませんでしたね」
回を重ねるごとに、小西は司会業の面白さに目覚めていく。心の余裕ができ、臨機応変の対応もできるように。
「プリンスホテルのプールでの『1986オメガトライブ』のロケ。台本には、僕がギタリストをプールに落とすと書いてありました。でも、かわいそうだから代わりにボクが落ちたんです。そういうアドリブもできるようになっていたんですね。そのときの写真は大きく引き伸ばして、自宅の玄関に飾ってあります。初心忘るべからず、という気持ちを込めて」
小西の原点には『週刊欽曜日』での萩本欽一との出会いがある。名古屋で大学に通っていた彼は、素人発掘番組で萩本の目にとまった。
「卒業後は、教員になることが決まっていました。『欽曜日』のオーディションが終わって“お世話になりました”と挨拶したら、欽ちゃんに呼ばれて“うん、合格”と。なんだかわからないうちにレギュラーになっていました」
それでも小西は、いずれ教員に戻るつもりでいたという。
「『24時間テレビ』で松葉杖(づえ)の女の子が5円玉をいっぱい入れた瓶を持ってきて“コニタン来年も来てくれる?”って聞いてくる。軽い気持ちで“いいよ”と言いましたが、後ろでお母さんが泣きながら“あの子の最後の夢を叶えてくれて、ありがとうございます”と頭を下げるんです。医者に“人生で最後の外出になる”と言われたと。欽ちゃんが“いい仕事だろ? お前はあの子の夢を叶えたんだ”と言うので、僕は“これからも一生懸命やります!”と伝えました。僕の人生の基本は“萩本欽一”です」
'04年に腎臓がんで余命ゼロ宣告を受けた小西は、還暦を迎えても意気軒昂(いきけんこう)。意義のある仕事をしているという思いが生きる活力になっている。