「日本に帰ってきて10年。とにかく走り続けてきて、このままでいいんやろうか、どうなんやろうと思っていたときに、この本が立ち止まるきっかけになり、自分を見つめ直すことができました」
京都市内にある大行寺の住職、英月さんが初のエッセイ『お見合い35回にうんざりしてアメリカに家出して僧侶になって帰ってきました。』(幻冬舎)で、「タイトルでほぼ内容がわかる」という半生を激白している。
「昼メロくらいすさまじい」母との攻防
英月さんは、ご本尊が国の重要文化財の大行寺の長女に生まれた。短大を卒業後、銀行に就職すると、母親の“あなたにある唯一の取り柄は、若さです。その若さがあるうちに結婚しなさい”というひと言から、お見合いをめぐる母娘の攻防が始まった。
結婚願望がなかったため、お見合い当日にホテルから逃走するなど断り続け、ストレスで耳が聞こえなくなったことも。
「大河ドラマにはならないけど昼メロぐらい、すさまじかったです(笑)。どんな親子も何かしら(問題は)抱えていますが、私の場合は、お見合いだったと思います」
お見合いに嫌気がさして、29歳のとき家出するようにアメリカに渡った。英語力も資金もない状態での極貧生活。日本の生活とは一変したが、気づけることもあった。
「カフェで働いていたときに、パンのヘタ(みみ)をもらったんですが、子どものころから鳩のエサにしていたので、食べるものではないと思っていました。うちは、鳩と違う。でも、お腹がすいているので食べたら、おいしいかった。それからは、集めるようになって、部屋の冷凍庫にためて食いつなぎました。
パンのひとかけを食べられることのありがたさを初めて知り、鳩のエサだったものが、私の命をつなぐ、ありがたいものに変わりました。
英語が話せなかったから、お金がなかったから、出会えた人、経験できたこともあった。それによって今の私がある。無駄なことは何ひとつないということをしみじみ感じました」
ウエートレス、CMモデル、日本語教師、ラジオのパーソナリティーなど、さまざまな仕事をしながら苦境を乗り越え、経済的にも余裕ができ、生活も安定していった。結婚相談所に申し込み、日本で懲りたはずのお見合いをしたが、「誰が好きなのかわからないようになった」と、伴侶を得ることはなかった。
“ポスト瀬戸内寂聴”に?
ビザのために僧侶の資格となる僧籍を取得した。写経の会を開き、寺を開く準備をしてアメリカに骨を埋めるつもりだった。
そんなときに、大行寺を継ぐ予定だった4歳年下の弟が実家を出てしまい、38歳のとき、日本に帰ってきた。
「自分のわがままで好きにやっていたアメリカの10年より、日本の10年のほうが大変で今に至っています。
周囲からは好奇の目がありましたし、大行寺を維持するために仕事を探さないといけなかった。(アメリカで)写経の会をやっていても仏教のことをまったく知らないので、勉強も必要でした」
帰国して半年後、雑誌で異色の経歴の僧侶として紹介されたことをきっかけに注目され講演会などの仕事が増え、『激レアさんを連れてきた。』(テレビ朝日系)や『秘密のケンミンSHOW』(日本テレビ系)などに出演し、知名度がアップした。
大行寺では、予約制で写経の会、法話会を開催。現在は、新型コロナウイルスのため中止しているが、全国各地から参拝者が集まり、リピーターも多い。悩み相談も需要がありそうだが、基本的にはしないという。
「他人をあてにしたり、依存してほしくないと思うからです。それよりも、私が出会った教え、仏教に出会ってほしいと思っています」
法話や講演会は、経歴のユニークさや経験を生かした話術が好評。“ポスト瀬戸内寂聴”になるのでは? と向けると、
「私に言うても意味ないですから、ほかの方に言うてぇ(笑)」と、恐縮。
少女時代の夢は小説家
注目されたりする現状には「調子に乗っている」と語る。
「本を出して、取材をしてもらってアゲアゲの状態だからこそ危ないと思うんです。私は仏教に救われ、その教えを伝えるのが役目なのに、私自身が脚光を浴びてしまってはボタンの掛け違い。だからこそ、ふんどしを締め直して、仏教の教えに耳を傾けていかないと。
今回の本が、仏教に興味のない人にも英月が出会った救いって何だろう、法話って何? と思ってもらえる入り口になったらいいなと思います」
気づいたら、お坊さんになっていたという英月さんの少女時代は読書が好きで、小説家を夢見ていた。
「高校時代には、国語の先生から文学賞に応募するように言われましたが、言葉を遊んで上っ面を書いているだけ。人生を知らない、と世に出る前に筆を折りました(笑)」
独身、気になる結婚については?
「シャットアウトはしていません。ご縁があればいつでも。洋の東西、老若も問いません」
ミニ説法 “量ることのない世界”……あてにするというのは、相手を量ることです。自分にとって、いい人、好きな人は自分の尺度や都合で量っている。例えば、信頼していたAさんが何かのきっかけで一生、口をききたくないと思う人に変わる。それは、あてがはずれた、自分の都合どおりにならなかったからです。そう思っていても、Aさんがちょっと助けてくれたら、あの人もいいところがある、と変わる。Aさんは何も変わっていません。自分が相手を量っているだけです。仏教の「阿弥陀」は、サンスクリット語の「a-mita」の音写語です。「a(ア)」は打ち消し(無)、「mita(ミタ)」は「メーター」「メジャー」に通じる言葉で、量るという意味。「アミタ」とは、量ることのない世界。腹を立てたり、悲しんだり、ねたんだりするのは量っているから。人生は一本道にたとえられ、踏みはずすことが不安になったりします。仏教では、自分の都合や思い、計算で進んでいる道から落ちた下にも別の道があり、量らなくていい世界があることを教えてくれています。そういうことを知る、知らないでは、人生の質が違ってくると思います。