北京五輪で“魂の413球”を投げ切り、悲願の金メダルに沸いた興奮と感動から12年。TOKYOで躍動するピッチング姿は1年先に。10代から日本代表で活躍したが、決して順風満帆ではなかったソフトボール人生。絶対的エース、チームの大黒柱の紆余曲折に迫る―。
ネットニュースで知った東京五輪の延期
38歳の誕生日となる2020年7月22日。本来であれば、福島あづま球場でのソフトボール日本代表対オーストラリア(豪州)代表戦を皮切りに、東京五輪が華々しく幕を開けていたはずだった。
絶対的エース・上野由岐子選手(ビックカメラ高崎)は世界が注目するマウンドに立ち、2度目の金メダル獲得への大きな1歩を踏み出していたに違いなかった。
しかし、新型コロナウイルスの感染拡大によって世紀の大舞台の1年延期が決定。その後の世界規模での感染爆発によって開催自体も危ぶまれている。
前代未聞の事態に対するアスリートたちの受け止め方はさまざまだ。
「1年後が見えない」と、7人制ラグビー挑戦を断念した福岡堅樹さん、現役を退いた女子バレーボールの新鍋理沙さんらがいる一方で、今夏の引退を表明していながら競技続行を決めたスポーツクライミングの野口啓代選手のような人もいる。
そんな中、上野選手は迷うことなく五輪挑戦を決意。緊急事態宣言下の自粛期間を含めた4か月間、本拠地の群馬県高崎市で地道なトレーニングに励んでいた。
「1月までは、ごく普通に代表合宿に参加していたんです。コロナといってもそこまでではないだろうという気持ちもありました。でも2月~3月になって、これは完全にヤバイという感じになり、3月24日に延期が決定した。その一報はひとり自宅でネットのニュースで見ました。
最初は“あと1年頑張らなきゃいけないのか”と思ったけど、“むしろ、もう1年やらせてもらえるのは感謝かな”と。“時間的猶予が生まれたおかげで、これだけのパフォーマンスができた”って言えるようになりたいと今は考えています」
'08年北京五輪ではラスト2日間で413球を投げ、頂点に立ち“神様・仏様・上野様”とさえ言われ、すでにひとつの大きな達成感を得ているはず。にもかかわらず、再び金メダルを目指そうという原動力は一体、どこにあるのか……。
最大のエネルギーになっているのが、日本代表を率いる宇津木麗華監督の存在だと彼女は言い切る。
「麗華監督は親でも親戚でもないのに、自分に尽くしてくれる。自分のことをいちばんに考えてくれるんです。麗華監督と出会っていなかったら、ここまでソフトボールを続けることもなかった。だからこそ、恩返ししたい。熱い思いに応えたいという感情が湧いてくるんです」
麗華監督は「正直、五輪延期でショックを受けたのは私のほうです」と明かす。
「でも上野は問題ない。1年くらい五輪が延びたからといって、実力が落ちるわけじゃないし、まだまだ伸びると思います。上野を超えるピッチャーはそう簡単には出てこない。彼女を中心に戦っていくのは変わりません」と、大きな信頼を寄せている。
恩師と二人三脚でチームを押し上げ、再び成功をつかもうとしている上野選手。
その生きざまを追った。
母との口論、父の喝
1982年夏。上野選手は福岡県福岡市で生を受けた。誕生時の体重は3530グラム。ビッグベイビーが、のちの日本ソフトボール界のスーパースターになるとは、その時点では誰も想像していなかった。
上野家は、会社員の父・正通さん(65)、看護師の母・京都さん(63)、2つ年下の妹の4人家族。幼いころから外を駆け回る活発な少女で、書道、ピアノ、水泳などさまざまなことに興味を抱いた。
「仕事より家庭が第一。子どもがやりたいことは何でもバックアップする」という考えの父は、娘の習い事を積極的にサポート。母も夜勤の多い常勤看護師を辞め、非常勤のパート看護師になるなど、子育てを最優先に考えた。
上野選手が小学校3年のときに同級生に誘われてソフトボールを本格的に始めてからは、両親のサポート態勢もより強固になった。とはいえ、何でも好き勝手にさせないのが上野家流。以下のような家訓を課して、人間教育にも力を入れたという。
●「はい」という素直な返事
●「すみません」という謝罪の気持ち
●「私がします」という積極的な行動
●「おかげさまで」という謙虚な気持ち
●「ありがとう」という感謝の気持ち
「ウチの家訓は今も自分の中に焼きついていますけど、特に母の言葉にはハッとさせられることが多いですね。“人の悪口は言わない”“人に好かれる人間になれ”という普通のことなんですけど、自分が生きるうえでの指標になっていると思います」
母は、娘の自立心の強さに驚かされたことがあるという。
「小3くらいのころだったと思います。体育の時間に使った紅白帽の洗濯を私に頼んだのに翌朝、洗濯されていないことに、由岐子と言った言わないで揉めたことがありました。それからは必ずやってほしいことをメモに書いてテーブルに置くようになったんです。本当は私のほうがそうするように教えなければいけなかったのに、何も言わなくても自分で考えて行動していた。そういうところは感心させられましたね」
ソフトボールではメキメキと頭角を現し、小学5年からは男子チームに入ってエースピッチャーに君臨する。
柏原中学校へ進んでからはより一層、存在感を増し、'97年夏の全国中学校大会で優勝した。
その決勝戦では、こんなエピソードが。相手ピッチャーの球をなかなか打てないことに苛立った上野選手は思わずヘルメットをグラウンドに投げつけた。その姿を会場で目の当たりにした父・正通さんから、試合中にもかかわらず「道具に当たるとは何事か!」と一喝された。目が覚めた彼女は次の打席でホームランを放ち、チームを全国制覇へと導いた。
普段は優しいが、ソフトボールになると厳しさを前面に押し出す父から“勝負の懸かったときこそ礼儀正しく振る舞うことの大切さ”を学び、成長したという。
再起不能もありえた大ケガ
'98年4月に強豪・九州女子(現、福岡大学附属若葉)高校へ進学。ソフトボールが'96年アトランタ五輪から正式種目となったのを受け、彼女への期待が高まり、2000年シドニー五輪有望選手という見方もされ始めた。
そして高校2年の夏、台湾で行われた世界ジュニア選手権で優勝。五輪初出場が叶うと思った矢先、体育の授業での走り高跳びで落下。腰椎の横突起骨折という重傷を負ってしまう。一歩間違えば、下半身不随になりかねなかった大ケガで、入院はなんと88日にも及んだ。もちろんソフトボールはできず、ひたすらベッドに寝ている日々。もちろんシドニー五輪出場の夢も消えた。希望に満ちていたソフトボール人生に暗雲が立ち込めた。
そのとき再認識したのが「自分にはソフトしかない」という思いと、「大好きなソフトボールをもう1度やりたい」という気持ちが強く湧き上がり、奇跡的な回復を遂げていく。リハビリもつらかったに違いないが、愚痴ひとつ言わずに真摯に取り組んだ。
「“嫌なことや人の悪口を言葉にしてしまうと、ますます嫌な気持ちになるから言わない”と、由岐子は中学生のころからよく言っていました。もともと愚痴るような子ではなかったけど、苦しいときでも親の前で弱音を吐くことはなかったです」と、母・京都さんも娘の強靭なメンタリティーに驚かされた。
大ケガから復活を果たした上野選手は'01年に日本リーグトップの日立高崎('15年1月からビックカメラ高崎に)に入団。五輪への挑戦が本格的に始まった。
「18歳当時の上野は口数が多いほうではなかったですね。でも周りへの気配りは飛び抜けていました。当時、チームを率いていた宇津木妙子監督(ビックカメラ高崎シニアアドバイザー)が“ピッチャーは特別なんだから、あまり雑用や用事をさせないように”という方針を示していたのに上野はいつも先に動いて練習の準備や片づけはもちろん、食事会場では率先してお皿を並べたり、配膳を手伝ったりしていました。外野手だった自分はよく怒られましたね」
苦笑いしながらエピソードを明かすのは、ビックカメラ高崎の岩渕有美監督。上野選手の3つ年上の彼女は'13年に現役を引退するまでともにプレーし、苦楽を味わってきた。現在は指導者と選手という間柄に変わったが、最速121キロの剛速球を投げる有能なピッチャーに対して、敬意を払い続けている。
ソフト界では時速110キロのスピードボールを投げられる選手は数えるほどしかいない。もちろん、日本では上野選手ひとりだけだ。
「自分は速いボールを投げられちゃった感じ(笑)。時速120キロを投げようとして投げているわけじゃないんです。いいボールを投げたいと努力する中で、だんだんスピードが上がってきました」と淡々と言うが、やはり天賦の才によるところが大きい。
「足の速さと同じで、スピードボールを投げるのも生まれ持った才能。上野も新人時代は細身だったけど、時速110キロは投げていたと思います。その後、筋力がつき、体幹も強くなり、174センチの長身をうまく使えるようになって、一段と速さが増した。あれだけのピッチャーはそうそう出てきません」と、岩渕監督。
“100年にひとりの逸材”と評される彼女だが、最初から絶対的エースだったわけではない。日立高崎時代の'02年ごろまでは増淵まり子選手ら経験豊富な先輩がチームにいたし、日本代表にも高山樹里選手という主軸ピッチャーが君臨していた。若さゆえの波もあり'04年アテネ五輪では大黒柱になり切れなかった。
アテネ五輪での挫折
躓(つまず)きの1歩は開幕・豪州戦。宇津木妙子監督から先発の大役を任されたが、いきなり4回3失点KO。まさかの敗戦スタートを強いられたのだ。それでも予選リーグ最終戦の中国戦では、五輪史上初の完全試合を達成。決勝進出のかかる豪州戦で雪辱を期していた。しかし、上野選手は、まさかの出番なし。チームも0対3で敗れて銅メダルに終わった。
「あのときは22歳。“自分の結果を出すことが何よりのアピールだ”としか考えていませんでした。でも結果的に全くダメだった。大会中に胃腸炎になり、体調を崩したのも響いて、“自分はホントにまだまだだな”という挫折感だけが心に残りました。いちばん悔しかったのは、大事な場面を任せてもらえなかったこと。“上野、頼んだぞ”と監督やチームメートに言ってもらえるピッチャーにならなきゃいけないって思ったんです」
北京までの4年間は、いかにして世界一に到達するかを模索する時間となった。そこで誰よりも親身になってくれたのが、彼女が師と仰ぐ麗華監督だ。上野が18歳で日立高崎に入ったときから日本の主砲として活躍していた偉大な先輩は、'03年から選手兼任監督となり、アテネを機に現役を引退。'04年夏以降は日立高崎から移行した日立&ルネサスの指揮官を務めていた。
その麗華監督は「アテネでメダルを逃した最大の原因はピッチャー。もっとしっかりした人材がいれば、日本はより自信を持って戦えた」と分析。
「上野を世界一のピッチャーに育てて、北京五輪を託すしかない」と考え、上野選手を強豪国アメリカでの“武者修行”に誘った。頂点を目指す彼女も賛同。'05年6月、ふたりでアメリカ・ヒューストンへ赴いた。
異国での最初の投球練習。ボールを投げようとした上野選手は、シドニー五輪で金メダルを獲得した元アメリカ代表のクリスタ・ウィリアムズ・ピッチングコーチにいきなり制された。
「あなたは今、投げる気がないでしょう。この1球を打たれたら終わりだという責任を感じながら、自信を持ってやりなさい」
呆然とする愛弟子の様子を、麗華監督は傍らでじっと見つめていた。
「上野はそれまでのソフトボールへの取り組みを反省したと思います。単に時速120キロのスピードボールを投げればいいわけじゃない。常に感謝と責任を感じ、人間力を高めながらプレーしなければいけない。それを学べたのは財産になりました。アメリカでは、右バッターの内角に食い込むシュートを覚えさせるのが目的でしたけど、それ以上にスポーツマンたるべき姿勢を身につけた。そちらのほうが大きかったかもしれません」
上野選手は「若いころは自己チューだった」と述懐しているが、アテネ五輪くらいまでは、自分がうまくなるために必死で周りが見えていなかった。しかし、アメリカ留学で、それだけではダメだということを知った。この経験は上野選手にとって、ステップアップするために必要なものだった。
自己チューからチームのために
帰国後、上野選手は'05年に大鵬薬品戦、翌年にシオノギ製薬戦でそれぞれ完全試合を達成。'07年には日本人初の1000奪三振、翌'08年には100勝を果たすなど、猛烈な勢いで駆け上がっていく。
「麗華監督に“配球とは何か”を教わったのは本当にプラスになりました。ピッチャーの仕事は“個人として抑えた、打たれた”という勝負じゃない。試合に勝つか負けるかが第1なんです。打たれなくても負けは負けだし、どんなに打たれても勝ちは勝ち。それが理解できてから、あまり自分の結果にとらわれなくなりました。確かに記録は残したかもしれませんけど、あくまで重要なのはチームの勝利。そのためのピッチングをしようと気持ちを奮い立たせていたんです」
そんなフォア・ザ・チーム精神の集大成となったのが北京五輪だ。
「日本の勝利のために」と言い聞かせてマウンドに立った大黒柱は、予選リーグからフル回転。ラスト2日間には、準決勝・アメリカ戦、決勝進出を決める豪州戦、決勝・アメリカ戦の3試合を投げ切った。日本悲願の金メダル獲得の原動力となった上野選手の“魂の413球”は、多くの国民を感動させた。
「この先、投げられなくなっても後悔しない。肩が壊れてもソフトボール人生が終わってもいいというくらい、すべてを懸けてマウンドに立ちました。誰にも譲る気などなかったです」と語気を強めた。
壮絶な戦いの間、日本から支え続けてくれたのは、麗華監督だった。上野選手は神妙な面持ちで語る。
「試合が終わるたびに連絡していました。“調子どう?”“こういうプランで投げられたらいいね”という軽い感じの会話でしたけど、話をするたびに迷いが吹っ切れた。“麗華さんがこう言ってくれるならやろう”と決断もできた。背中を押してもらいました」
金メダルを胸にかけ、帰国した彼女を襲ったのは想像をはるかに超えた“上野フィーバー”だった。所属チームには取材が殺到。9月から始まった日本リーグにもメディアやファンが大挙して押し寄せる事態になった。
これまでの態勢ではとうてい手に追えなくなり当時、選手だった岩渕監督が上野選手担当マネージャーを兼務することになった。
「スケジュール管理や取材対応、テレビ収録の立ちあいを2年間やりましたけど、本当に目まぐるしい状況で、帰りが深夜になることも少なくありませんでした。本人はもともと人前に出るのが得意ではないので、疲れるうえに、緊張やストレスも重なる。競技に集中しづらくなっていきましたね」
周囲が騒がしくなると、他者への気配りができず、対応もおざなりになりがちになった。日本リーグの試合後、声援を送ってくれる熱心なファンに笑顔すら見せることなく、足早に去っていく娘の立ち居振る舞いに母・京都さんは、こんな言葉をかけた。
「あなたは子どもたちにとってはスターなんだから、スターらしく振る舞いなさい」
上野選手はハッとさせられたという。
「基本的に注目されるのが好きじゃなくて、“嫌だ嫌だ”と言っていたけど“立場上、しかたないんだから、駄々をこねずに受け入れなさい”と、母から言われた気がした。
特に子どもたちから憧れの存在として見られていることに気づいて、ガッカリさせる態度はいけないと感じた。母の言うことは腑に落ちましたね。ストレートに自分を叱ってくれるのは、麗華監督と母くらい。そういう意味では胸に響くものがありました」
気持ちを新たにして、子どもたちの応援を励みにマウンドに立ち続けた。しかし、北京に突き進んでいたときのような闘争心や向上心はなかなか湧かず“燃え尽き症候群”に陥った。メンタルバランスが完全に崩れているのに、試合に起用され、投げれば打者を打ち取れる。力いっぱい練習しなくても結果がついてくる。超一流のアスリートとして中途半端な状況に腹が立ってしかたがなかった。
「このままだとチームに迷惑をかけるし、自分自身もダメになる……」
ソフトボール人生で初めて生じた迷い。それをぶつける相手は、麗華監督以外にはいなかった。
「やる気がなくてもいいから続けなさい。続けることに意味があるんだから」
尊敬する人にこう言われて、上野選手は「それでいいの?」と、反発して聞き返したくなったという。
麗華監督は、このときの心情をこう語る。
「上野は世界一のピッチャー。彼女を失うのは日本にとって損失以外の何物でもない。ソフトボールへの思いを取り戻してくれるまで待とうと思ったんです。'10年の世界選手権も辞退したいなら、私が批判を背負おうと。“あなたは世界一。嫌なことを背負うために自分が横にいるから”と、彼女を励ましたのをよく覚えています」
上野選手は落ち着きを取り戻した。
「やる気が湧かなくても、続けさせてもらえるのならやろうと思ったし、どこかうれしい気持ちもありました。
代表辞退のことも麗華監督が全部かぶり、いろんな批判を受け止めてくれた。自分のためにそこまでしてくれる人に、そうそう簡単に出会えるものじゃない。“麗華監督のために頑張ろう”と決心しました。彼女の言う“ソフトボールへの恩返し”を率先してやろうと前向きになれたんです」
子どもたちのスターに
信頼を寄せ、強い絆で結ばれた恩師が'11年3月から日本代表監督に就任したことで、上野選手も代表に復帰。
'12年ロンドン、'16年リオデジャネイロの両五輪は正式種目からはずれたため、大舞台に立つことができなかったが、'12年、'14年の世界選手権2連覇に貢献した。
その一方で、'16年には肉離れや左ひざの負傷、昨年4月には下顎骨骨折で全治3か月の重傷を負ったが、乗り越えてきた。
30代に入り体力的な心配もありつつ、ソフトボールへの情熱は消えることなく、大人の自覚を意識するようにもなった。
「30歳になったとき、母から“あなたも30なんだから、もっと大人の対応のできる人間になりなさい”と、言われて自覚を持ったんです。
人間は、年相応の振る舞いが必要ですよね。'16年にソフトボールが東京五輪の正式種目に認められてからは、注目度も上がりましたし、数多くの子どもたちがカメラを向けてくる。それに対して笑顔で明るく対応をしなければいけない。だんだんそう思えるようになりました」
所属先の柳川直子マネージャーは、ファンを大事にする一面をこう明かす。
「上野には老若男女問わず、たくさんのファンレターが来るんですが、可能なかぎり、直筆で返事を書いています。ご両親の教育もあって非常に礼儀正しく、マメなのが彼女のいいところ。子どもたちへの気配りは素晴らしいですね。妹さんに甥っ子2人が生まれたことも大きいのかな。以前にも増して子どもたちを可愛がるようになったと感じます」
後輩たちにも気さくな素顔を見せている。
チームでも日本代表でも最年長プレーヤーになっている上野選手は、日常的に若いチームメートたちと接している。とりわけ、バッテリーを組むキャッチャー・我妻悠香選手には目をかけている。
「私は上野さんのひと回り年下。バッテリーを組んで6年になりますが、“ああしろこうしろ”と言われたことはないし、ぶつかり合ったことも1度もありません。私の意見を聞いてくれて、的確なアドバイスもしてくれる。チームを勝たせるために力を尽くしているのがよくわかります。
グラウンドを離れると、岩渕監督の車に虫のおもちゃを置いて驚かせたりするようなイタズラ好き(笑)。甘いものも大好きですね。遠征先でスイーツを食べに行ったり、散歩がてらランチに行くこともあります。それに料理上手で、自宅で鍋を振る舞ってくれたこともありました。牛乳寒天もよく作って持ってきてくれるし、本当に面倒見のいいお姉さん。近くにいてくれて心強いです」
“鉄腕”でストイックな印象から、今は女性ならではの柔軟さと人間的魅力を持ち合わせた大人のアスリートに変貌し、進化を続けている。
ネットの活用、1年後に向けた展望と勝機
東京五輪の1年延期が決まっても動じなかった。コロナ自粛期間には昨年の下顎骨骨折であごに入れていたプレートの除去手術を受けた。
麗華監督は「本人も違和感があったと思うので、取りはずす時間ができたのはプラスでした」と、前向きだ。
プロ野球やJリーグのクラブは緊急事態宣言下では活動休止に追い込まれたり、施設を使えなかったりしたが、上野選手はチームの専用スタジアムを使うことができたため、代表活動や日本リーグの期間以上に負荷をかけたトレーニングができたという。
「いつもは試合を考えて、メリハリをつけながら練習しますが、練習しかやることがなかったので、ひたすら追い込んだ感じです(笑)。こんなに時間があるのは(オフの)冬以来かな。ただ、冬は寒くて投げ込みもそんなにできない。自分のスキルアップのためにここまで時間をさけるのはなかなかない。チームの個人練習以外にはオンラインでヨガをやったり、かなり充実していたと思います」
今回のコロナ禍ではインターネットの活用に注目が集まったが、上野選手もユーチューブで情報を収集したりと、これまでにない取り組みにもチャレンジした。
「今まで“ネットは危ない”という印象があって消極的だったんですけど、今後、自分が指導者になったときに、群馬に居ながらにして沖縄や北海道、海外の人にも教える機会をつくることができる。そう考えると幅も広がるし、引き出しも増えますよね。
自粛期間は、練習以外ほとんど自宅にいましたが、ユーチューブで配信していたお坊さんの禅の心を見て励まされたり、また頑張ろうと思えたりすることもありました。
私はどちらかというと“やりたいことをやる”のがモットー。料理も自転車に乗って出かけるのもそうですけど、今の自由な感情を大事にしたい。そういう素の自分に戻れたのも大きかったですね。それを1年後に生かしたいと思っています」
麗華監督は「金メダルをとるためにはピッチャーの選手層を厚くしなければいけない」と、口癖のように言っているが、北京のときのように上野選手ひとりの力に頼るわけにはいかない。
“上野と並ぶ柱”と目される藤田倭選手(29)のさらなる成長は不可欠だし、ビックカメラの同僚・濱村ゆかり選手(25)や勝股美咲選手(20)、新星・後藤希友選手(19)らに成長曲線を一気に上げてもらう必要がある。
「正直、この夏に東京五輪があったら……と考えると準備期間が足りなかった。来年でよかったです」と、我妻選手も偽らざる本音を口にしたように、新たな準備期間を最大限有効活用していくしかない。
「私も北京のときのように若くない。“自分ひとりで投げて完投して金メダルをとる”イメージは全く湧かないですし、次の五輪はいかに周りの選手に助けてもらうかを考えていく必要がある。15人のメンバー全員でサポートしながら戦っていかなければいけないと思います」
と、上野選手は冷静に客観視している。そのうえで、速球に変化球も織り交ぜながら緩急つけ、相手に揺さぶりをかけながら、駆け引きでも勝るような新たなピッチングスタイルを確立していくことが求められる。
選手としてのこれからと結婚観
ライバルのアメリカには、剛速球投手のモニカ・アボット選手(35)と、変化球投手のキャット・オスターマン選手(37)を筆頭に、多彩な特徴を持ったピッチャーが何人もいる。彼女らに投げ勝つためにも、さらなるスケールアップをする必要がある。
「自分の課題は、よく打たれている気がする左バッターをどれだけ抑えられるか。世界的には左バッターのほうが多いので、打たれる確率も上がるのはありますけど、そこでしっかり抑えることが最大のポイントでしょうね。
チームとしてはどれだけ点を取れるか。自分を含めて今の日本ピッチャー陣を考えると、ゼロで抑えるのは難しいと思うので、点を取らなければ金メダルには手が届かないのかな。
でもアメリカとは実力的には互角だし、ガチの勝負になってくる。決して勝てない相手じゃないと思いますよ」
12年前の決勝アメリカ戦と同じように、堂々とマウンドで投げ切った上野選手が歓喜のガッツポーズを見せてくれれば、まさに理想的なシナリオだ。母・京都さんは心からそう願っている。
「今までずっと頑張ってきて、今もまた頑張り続けている娘に私が言えることはありませんが、娘が自分らしく生きていくことを応援していますし、信じています。本当は“身体を大事にして”と、言いたいですけど、やはり“頑張って”としか言えないですね」
そして恩人・麗華監督は、7月22日に開かれた代表ユニフォーム発表会見で、少し厳しい言葉を交えつつエールを送った。
「今の上野はすごく調子がいいです。ただ、来年7月21日に決まった豪州との開幕戦ピッチャーにするとは断言できません。先発は1週間前じゃないと決められないし、現時点では上野はないと思います。だけど、1年あれば私の考えも相当に変化するでしょう。上野とはこれからもコミュニケーションをとりながら、成長を促していければと思います」
上野選手は、力強くバックアップしてくれる人たちに恩返しをした先には何が待っているのだろうか……。
「ゴールは(選手を)辞めるときでしょうけど、それは突然、来ると思う。すべて流れに身を任せます」
まだハッキリした未来は、見えていない。53歳で現役を続けるサッカー界のレジェンド、・三浦知良選手のように投げ続けるかもしれないし、キッパリ辞めて電撃結婚する可能性もあるかもしれない。
「今は考えられないし、余裕もないけど、自分を“普通の上野由岐子”と見てくれる男性が好きですね。いつか必要なタイミングで必要な人と出会う……。そういう運命だと信じて生きていきます」
笑顔で語る彼女にとっては、東京五輪で大輪の花を咲かせることが先決だ。
来年の夏、39歳になった日本の大エースが勇敢に戦う姿を楽しみに待ちたい。
取材・文/元川悦子(もとかわえつこ)1967年、長野県松本市生まれ。サッカーを中心としたスポーツ取材を主に手がけており、ワールドカップは'94 年アメリカ大会から'14 年ブラジル大会まで6回連続で現地取材。著書に『黄金世代』(スキージャーナル社)、『僕らがサッカーボーイズだった頃1〜4』(カンゼン)、『勝利の街に響け凱歌、松本山雅という奇跡のクラブ』(汐文社)ほか。