「元気ですよ。太ったけれど。お腹がスゴイんだ(笑)」
以前と変わらぬ人懐っこい笑顔で答えるのは大森隆志。『サザンオールスターズ』の元ギタリストである。'01年にサザンを脱退しているが、バンド結成のキッカケとなったのは、大森の存在だった。
プロになる気はなかった桑田
「地元が同じドラムの松田弘とは、高校1年のときから一緒にバンドをやっていました。プロになるには東京に行かなくてはダメだということで、青山学院大学に進学するために上京。
そうしたら、教室で楽器を演奏する音が聴こえてきて、それに合わせて日本語で歌っているはずなのに、歌詞がサッパリわからない、強烈な個性の歌声も聴こえてきて。“コイツをボーカルにしてバンドを組みたい”と思った。それが桑田佳祐でした。で、“一緒にバンドやろうよ”って誘ったの」
青学で『ベターデイズ』という音楽サークルに入り、そこでバンド活動を始めた。
「俺が“プロを目指して頑張ろうよ”って言うと、桑田が“いいよ、お前に任せるわ”って。俺がバンドを仕切ることになり、ドラムは弘を連れてきたけど、キーボードをどうするか?
そこで桑田が“スゲーいい女の子がいる、男みたいな泥くさい演奏だから”って言って、連れてきたのが原由子でした。ベースの関口和之と、パーカッションの“毛ガニ”こと野沢秀行は後で入りました」
プロ志向の強い大森が、バンド活動を引っ張る形に。
「ヤマハ主催の音楽コンテストに応募しました。これがサザンのすべての始まりです。予選を勝ち抜いて、決勝で桑田が『ベストボーカル賞』を受賞。バンドも入賞したんです。参加していたのは『カシオペア』や『シャネルズ』や円広志さんなど、すごいメンバーでしたよ。
でも、桑田たちはプロになる気はなかったですね。説得しに茅ヶ崎の桑田の家に泊まりにいくと、お父さんからは“佳祐は自衛隊に入れるからダメだ”って言われましたから(笑)」
なじめなかった“芸能界”の空気
それでも、'78年6月にデビューすると『勝手にシンドバッド』がいきなりヒット。
「3曲目の『いとしのエリー』のころは、ライブが終わった後に『ザ・ベストテン』の中継が入り、それから『オールナイトニッポン』の収録。帰って朝5時に寝て、すぐ6時に起きてサイパンへCM撮影。日本に帰ったら、そのまま会場でコンサートというアイドル並みのスケジュールに。
でも、初任給は5万円でした。『いとしのエリー』がヒットして、やっと11万円。“それはないよな”と、みんなで言い合って、どんどん上げてもらいましたけど(笑)」
『ザ・ベストテン』の常連になったが、出演するときは、なぜかコスプレ姿。
「コミックバンドの扱いでした。みんな“こんなはずじゃなかった”と思っていましたよ。ただ、お茶の間のことを考えれば、見てるほうは楽しければいい。だから“それでいいじゃん、頑張ろうね”って、励まし合っていました。’82年の『チャコの海岸物語』くらいまでは。
桑田はいかりや長介さんから“お前、面白いな、ドリフに入らないか?”って言われたみたい。桑田も“いやぁ~、マイッタよ”って(笑)」
デビュー前から学生バンドとしてインディーズ活動を続けていた彼らは、いざ飛び込んだ芸能界の空気にも、なかなかなじめなかったようだ。
「初めて『夜のヒットスタジオ』に出たとき、楽屋が1つしかない大部屋だったんです。そこで和田アキ子さんが俺たちを見て“彼らは何? 見学に来た人たち?”ってマネージャーに言っているのが聞こえてきた。俺らはライブハウス育ちだし、学生みたいな風貌だったから“ザ・芸能界”を違った目で見ていました」
ロックバンドも活躍していたが、サザンはその中でも異色の存在だった。
「ベストテンに初めて出たとき、楽屋に入ったら『ゴダイゴ』がいた。すごく貫禄があっておっかないんですよ。大先輩だし、ビクビクでした。ミッキー吉野さんはGS時代からいる人ですもん。
同世代だけど『世良公則&ツイスト』はカッコよかったね。向こうは正統派ロックバンドで、こっちは衣装がジョギングパンツ(笑)。桑田が宙づりにされて歌ったり、檻の中で歌ったりさ。世良クンにはそれがなかったでしょ」
「サザンをまたやらなきゃダメだ」
サザンはヒット曲を連発するが、'86年にいったん活動休止。
「最大の危機でしたね。原坊が出産して休んでいて、桑田は『KUWATA BAND』を1年限定で結成。素晴らしいバンドだったけれど、ズルズルとのびてしまっていた。俺が“サザンのファンが待っている”って桑田に言ったの。
それで'88年に復活ライブができたんだけど、解散状態だったサザンをまたやらなきゃダメだって、俺がメンバーを説得して歩いたんです」
サザンを復活させた大森だが'01年、自らが脱退。'06年には覚せい剤取締法違反と大麻取締法違反で逮捕されてしまう。
「人にすすめられやってしまった。わきが甘かったんです。軽い気持ちでやってしまった。もちろん自分でやったことは自分で責任を取るしかない」
勾留期間は66日間に及んだ。
「捕まった日は、留置場の中で自殺しようかと思いました。好きなギターは弾けないし……。執行猶予の判決が出て、“おめでとうございます、自分みたいな若い刑事が捕まえてすみません”と言って、花束をもらいました」
それ以来、薬物に手をのばしたことはない。
「弁護士に“抜き打ち検査をしてほしい”とお願いしたことを、裁判官に伝えました。みなさんに対するせめてものつぐないというか、誠実に生きていこうという気持ちです。14年たちますが、今でも弁護士から急に電話がきて、病院に連れていかれます」
「サザンは自分が生きてきた証」
'07年から音楽活動を再開。ライブも行っているが、サザンのメンバーと会うことは少なくなった。
「幼なじみの弘とは連絡をとり合っていますよ。桑田は、辞めてすぐのころは夏にウナギを贈ったりしていましたが……。桑田のお父さんの葬式で会って以来、顔を見ていませんが、彼も大きな病気をしたのに、すごく頑張っていると思います。最大のエールを送りたいですね」
デビュー42周年を迎え、サザンは6月25日に無観客配信ライブを行った。コロナ禍で停滞していた音楽シーンに“復活の兆し”を見せた。
「俺は今でも“サザン愛”がいちばん強い人間だと自負しています。自分がバンドやりたくて、上京して集めたメンバーだし、学生時代から苦楽をともにしてきた。メンバーが現役で、還暦すぎても全員が音楽を続けている……こんなバンドないですよ。
最初2~3人のお客さんしかいなかったのが、武道館や東京ドームでライブをするようになった。サザンでデビューできたことは誇りに思っているし、自分が生きてきた証です」
大森も、新しいアルバムのレコーディングを始めた。
「生涯ギタリストですよ。サザンのみんなに会ったら、お互いに頑張って生きてきたねって、ねぎらいたいね」
桑田たちとまた一緒に音楽をやりたいという気持ちは持ち続けている。
「元気なうちにね、やってもいいんじゃないの」
そう話すと、照れたような笑顔を見せた。