骨折するほどの壮絶ないじめを受けながら周りの大人からは見て見ぬふりをされた体験から、いじめをなくすには何ができるかを考え続けてきた山崎さん。そのヒントは、中学生時代の読書体験にあった。5年もの歳月をかけて生み出した『こども六法』の誕生秘話と山崎さんの持つ生きる際の信念とは─。

『こども六法』著者 山崎聡一郎さん 撮影/齋藤周造

 書店に入ると、最も目立つ場所に平積みで置かれている『こども六法』。2019年8月20日の発売から現在まで、発行部数はすでに64万部を超え、今なお大ヒットを続ける児童書である。

 その表紙にある妙に心をくすぐる動物のイラストと、“こども”と“六法”という異質な組み合わせに、思わず手にとった人も多いのではないだろうか。

 帯に書かれた「きみを強くする法律の本 いじめ、虐待に悩んでいるきみへ」というメッセージが強く目を引く。

 著者は、教育研究者である山崎聡一郎(26)。

 山崎自身が、小学生のときに骨折するほどの暴力的ないじめを受けていたことが、この本の原点にある。

「もしあのとき、僕が法律を知っていたら……」

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9月1日より前にこだわった理由

 かつての自分を救うような思いで、いじめを受けている子どもたちのために「法律を訳す」という、誰も思いつかなかった発想で難題に取り組み始めたのは、慶應義塾大学3年生のときだった。

 しかし、その最初の動機から出版にこぎつけるまでは、何度も困難にぶつかり、実に5年の年月を要した。

 制作は難航したが、山崎は本の発売日を2学期が始まる9月1日よりも前に出すことにこだわった。9月1日は、1年の中で子どもの自殺が最も多い日なのだ。

「その日の前に、どうしても子どもたちに届けたかった」

『こども六法』のページを開くと、第1章の刑法に始まり、刑事訴訟法、少年法、民法、民事訴訟法、日本国憲法、いじめ防止対策推進法と、まさにしっかりとした法律の本ではあるけれど、ユニークなのは、その法律の条文が大切なところだけ、子どもにもわかりやすいように抄訳されているところにある。

 しかも、すべての漢字にルビがふってあり、その構成も、子どもが楽しめるように工夫がこらされている。

 左ページには法律の内容がパッと見てわかる見出しと、擬人化した動物のイラストが入り、そのページを見るだけでも十分におもしろい。さらに興味が湧くと、右ページにやさしく訳された条文が書かれてあって、2段階で理解を深められる仕組みになっているのだ。

「読者の想定年齢は、10歳から15歳だったんです。ところがふたを開けてみたら、最も厚い層は、8歳から9歳で、低い層では5歳から読んでるんですよ。最近は、さらに4歳に下がりましたけど(笑)」

 乾いた土に水がしみ込むように、その読者層は、幼い子どもから大人まで、じわじわと着実な広がりを見せている。

壮絶ないじめ体験が原動力に

 そもそも、なぜ子どもに法律を教えることが、いじめの問題を解決する糸口になると考えたのか。実際にどんな有効性があるのか。

 純粋なまでに「いじめのない世の中にしたい」という、山崎の理念は、どのような思いから生まれたのだろうか─。

「いじめがいちばんひどかったのは、5年生のときです」

2020年8月、千葉市で行われた講演は、コロナ対策を行ったうえで実施された。日本全国で教育関係の講演会に招かれ、多いときは1か月に8回も自らの体験や法律、いじめについての話をしてきた 撮影/齋藤周造

 山崎が自らのいじめの体験を話してくれた。

「あれは、2学期のほとんど終わりくらいのころかな。僕は、2年生のときから仲がよかった、自閉症の友達がいたんです。そいつは、カッとなると自分の行動をコントロールできない子で、クラスの中でずっといじめの標的になっていて。彼を助けたことから、僕も標的になった。毎日のように殴られ、蹴られて、学校に行くのは厳しかったですね」

 暴力が常態化し、骨折したのは、6年生の終わりだった。

「あれはたまたま打ちどころが悪かったというか。下校時に普通に後ろから蹴られて、道路沿いの田んぼに突き落とされる形で、手をついて骨折したんです」

 普通に、とはどういう意味か聞くと、

「殴られたり蹴られたりするのが日常茶飯事で、整形外科には年中、お世話になっていました」

 その体験は大人になっても決して忘れられない、自らの人格形成のうえでも深い傷になっていると話す。

 1993年、山崎は東京都杉並区にて、2人兄弟の長男として生まれる。父は、大手自動車メーカーの技術者というエリート。母は、専業主婦のサラリーマン家庭に育った。

 5歳のときに父親の転勤で埼玉県さいたま市に移る。いじめにあったのは、そこの公立小学校でのことだった。

「今でいう学級崩壊状態で、テスト中にも歩きまわる子がいて、テスト用紙を破られたこともありました。あまりにも荒れているので、5年生の途中から担任がかわって教務主任の先生が来ても、おさまらなかったですね」

 そんな中で、いじめられている友達を助けたということは、正義感の強い子どもだったのだろうか?

「筋が通っていないこと、おかしいと思うことをそのまま流したくない。大人から見れば面倒くせぇ子どもだったと思います(笑)」

 それだけに問題意識が高く、「9歳のときからずっと選挙権がほしくて、早く投票したいと思っていたし、僕が総理大臣になればうまくいくのにと思っていました」

 何となくその場の雰囲気に同調する多くの同級生からすれば、「空気が読めない」「変わった」子どもだったともいえる。

「いつも自分が周りから浮いている気がしていました。幸い成績はよかったのですが、“出すぎた杭”みたいな感じで、絶対に評価されない。そのことに自分でも苛立ちを感じていたし、友達関係でも、僕は怒らせるつもりはないのに、周りの子がめちゃくちゃ怒ったりする。これは自分が普通じゃないのが原因なのかな、と悩んで、どうしたら普通になれるのかをすごく追いかけていました」

世の中をよりよくするために何ができるか、解決すべき問題は何かを考えることが生きていくうえで大事だと語る 撮影/齋藤周造 

 やがて「いじめにあうのは自分が悪いんだ」という思考に向いてしまうときもあった。

「自殺してしまう子は、そっちのほうへ思いつめていくんだと思います。本当は誰しも、生きているだけで価値があるのに」

 先生たちは見て見ぬふり、親に話して教育委員会に相談してもたらいまわし。自分でこの環境から脱出しなければ、大人は助けてくれない。そう悟った彼が選んだのは中学受験だった。

「そこからは必死に勉強して、授業料が減免される特待生で、私立の桜丘中学校に入学しました。僕をいじめてるやつらは、みんな成績が悪いから、僕は勉強して、将来はやつらを搾取する側に立ってやるんだ、と。すごくゆがんだ動機づけですけど、そう思えたことで死なずにすんだのだと思います」

一転、いじめの加害者に

 しかし、あろうことか入学した中学校では自分がいじめる側の体験をすることになる。

「僕が3年生のときに、囲碁部の部長をしていて、次の部長格だった後輩ともめたんですよ。そのときに部活の雰囲気が悪くなったので部員全員を集めて話し合いをした。そこに、僕ともめた後輩が来ないまま欠席裁判のような形で、その子をやめさせようという話になったんです」

 それが結果的に、いじめだとされ、学年全体を巻き込む大騒ぎとなり、部活は卒業まで活動禁止となった。

「その当時の僕は、むしろ部活の秩序を脅かされた被害者だと思っていたので、いじめと言われても認めることができなかった。自分が受けていたいじめとは違って、僕らはクソだの死ねだの悪口も言ってないし、殴る蹴るもしていない。このくらい、いじめに入らんやろって」

 幸い、その後輩とはすぐに仲直りをして、もとのように一緒に遊んだりもしていた。

それでも先生にめちゃくちゃ怒られたので、僕には加害者になったという記憶が残りました。でも、そもそも、いじめの加害者は、自分がいじめたことを絶対に覚えてないと思うんです。遊びの一環だった、ふざけただけだった、悪気はなかったとか、いろいろ理由はあるけれど、きっと誰でもどこかで加害者になってることがあると思う」

 自覚がないままにいじめが行われているとしたら、それをどう止めることができるのか。いじめの根の深さを山崎自身が強く体感した出来事だった。

図書室での運命的な出会い

 彼が、六法全書との運命的な出会いをしたのも、この中学生時代だった。

「1年のときに、学校の図書室でたまたま六法全書を手にして読んだことがあったんです。法律については、小学校で憲法だけは勉強しましたが、そこには“権利は大切だ”ということがいっぱい書いてあるだけで、その権利を守るために何をやってくれるのかは何も書いてないわけですよ。

 一方で、ニュースでは“誰々が逮捕されて有罪判決を受けました”と伝えている。つまり、そういうルールが法律にはあるはずだ。権利を守るための具体的な仕組みがあるはずだ、と小学生のころからずっと思っていて。六法全書を読んで“刑法”を見つけたときは、“僕が知りたかったのはこれだよ!”と思いました

2012年、高校卒業目前に大好きなディズニーランドへ。昨年まで、月に1回以上は必ず訪れていたという

 彼の問題意識の鋭さは、さらにその先にあった。

「自分が受けていたいじめは、犯罪だったのではないか。でも、学校の先生は一切助けてくれなかった。もし僕が小学生のときに刑法を知っていて、これが犯罪だと確信できていれば、学校の外の大人に助けを求めることができたんじゃないか。自分で自分の身を守ることができたかもしれない。その後悔が残ったんです」

 悲しい現実だけれど、大人は助けてくれない。非力な子どもが法律という力を持つことで少しでも強くなれたら。「1人目の大人が助けてくれなかったら、2人目、3人目、4人目、5人目とあきらめずに探してほしい」と山崎は言う。

「それは、本当は1人目の大人が止めないといけないんだ、という大人へのメッセージでもあるんですよ」

 その発想の根源が、『こども六法』制作への熱意とつながっていった。

 実際に『こども六法』に着手したのは、慶應義塾大学の総合政策学部に在籍した3年生のころだ。大学での山崎の研究テーマは、「法教育を通じたいじめ問題解決」。

 その副教材として作ったのが、現在の『こども六法』のべースになっている冊子だ。

大学時代に作った『こども六法』。基本的な構成は、このころに固まっていた 撮影/齋藤周造

「そのころから、法律を訳すという発想はありましたね。あとは、普通の六法は憲法から始まって民法、刑法と続くわけですけど、『こども六法』はより具体的な法律の順に刑法から掲載してる。あとは全部の漢字にルビをふるなど、この段階で骨格になる思想はできあがっていました」

 大学の研究助成金に申請し、10万円で400冊を作った。表紙と中のイラストは、学部の同級生と後輩の2人が描いてくれたのだという。

 このテーマは、大学の最優秀卒業プロジェクトに選ばれたが、その時点ではまだ、『こども六法』は研究テーマの副産物にすぎなかった。

売れない要素コンプリート

 その後、商業ベースの出版へと発展していくのは、現在の『こども六法』の企画・プロデュース・広報を担当した、小川凜一さん(26)との出会いが大きい。小川さんは、この本のデザインとイラストの原案を手がけた妻の砂田智香さんと広告団体Creative Capitalを運営している。

「小川くんとは、僕が東大の大学院に落ちて、これから浪人か、と思いつつ就職活動してるときに教育系の企業のインターンで出会ったんです」

 と山崎。そのときのことを小川さんがよく覚えていた。

「何となくお互い目立つな、と意識していて、打ち上げのときに居酒屋の正面に座ったんです。そのときに山崎くんがふところから出したのが、プロトタイプのこども六法で。僕自身が、中学時代にひどい暴力のいじめを受けていたので、“これすごい本だよ!”って、めちゃめちゃ感動したのを覚えています」

2016年、慶応大学3年時にこども六法プロジェクト、いじめと法教育に関連する内容の研究発表を行う

 それから、山崎は一橋大学の大学院の社会学研究科に進学。小川さんは広告会社へと道が分かれるが、約2年ぶりに連絡したのは小川さんのほうだった。

「僕は普段は企業の案件の仕事をしているんですが、もっと社会の役に立つ仕事がしたいな、と思ってるときに、ふと彼のこども六法を思い出したんです。たぶんもう出版してるだろうと思いきや、なかなか出版に結びつかないと聞いて、それはもったいないな、なんとしても世に出そうよって話をしたんです」

 それについて山崎も、こう振り返る。

「いろんな出版社に持っていって、おもしろいと言っていただいたけど、出版しようとはならなかったですね。まず、“六法”とつくうえで“法律を訳すなんて”と、専門家から石がいっぱい飛んでくる。教育関係者からも、“子どもに法律なんて知恵をつけると御しにくくなる”と石が飛んでくる。そんな危険をおかしてまで、この出版不況の時代に法律の本、しかも、20代半ばの無名の著者の本なんて、売れない要素コンプリートじゃないですか(笑)

 唯一、法律の専門書を発行する弘文堂との話が進みかけていたが、頓挫していた。

「だったら、自分たちで1から作るしかないよね」と、ふたりでクラウドファンディングを立ち上げたのが、'18年9月。24歳のときだった。

 小川さんが実際に受けた、いじめの体験をプレゼンテーション動画にしたというそれは、あまりに切なく衝撃的だった。靴を隠された学生。トイレに捨てられた上履きを茫然と見つめる小学生の表情。こども六法を抱えた子どもの姿に、「いじめという犯罪をなくそう」というコピーが重なる。

 クラウドファンディングを呼びかけるメッセージには、「拡散 一生のお願い」という言葉が添えられ、集まったお金で定価を1200円に抑えたいという具体的な数字まで書かれてあった。

 その動画が大きな反響を呼び、334名から179万6000円ものお金が集まった。

「この本は、これほど社会で求められているのかと、頓挫していた弘文堂さんでの出版が動きだすきっかけになりました」と、小川さん。

動き出したプロジェクト

 しかし、そこからも苦難は続く。『こども六法』には、各章の法律ごとに大学の教授や検事、弁護士と錚々たる専門家が監修についている。

「ところが最初は、なかなか引き受けてくださる方がいなくて。私には手に負えないと断られちゃうんです。監修がついてからも、内容の修正で、この言い回しにすると結局、六法に戻ってしまう。でも、ここまで要約すると意味が変わっちゃうんだよな、と」

 その微妙なバランスをとりながら、正しく法律を訳すということの難しさを改めて感じた、と山崎は言う。

 しかし、法律に強い弘文堂ならではの人脈や周囲のサポートに助けられ、どうにか完成した。専門家による確かな監修や子どもたちへの事前リサーチをした説得力で、出版後には、心配していたほどの批判はなかった。

 中でも、「この本の根幹をなす部分」であり、山崎がもっと広く知ってほしいという、第7章のいじめ防止対策推進法と、最後の「いじめに悩んでいるきみへ」という項目は、弘文堂のホームページに無料で公開している。

「そこはやっぱりお金じゃないよねって」

大学時代に作った『こども六法』。基本的な構成は、このころに固まっていた 撮影/齋藤周造

 その第7章いじめ防止対策推進法のページは、実際にこの法律を創案した、参議院議員の小西洋之さん(48)が監修にあたっている。

「山崎さんとの出会いは、'19年3月に、ジェントルハートプロジェクトの小森美登里さんからメールでご紹介を受けたのが最初です」

 と、小西先生。小森さんは、いじめによる自死で娘を失ったことを悔いて、その後、いじめのない社会を実現するために非営利法人を立ち上げ、活動を続けている。

「山崎さんはすぐに議員会館に来てくださって。こんなに若い方が熱意を持って、素晴らしいアイデアで本を作ろうとしていることに感銘を受けました。

 一方で、法律に関わった国会議員として、その法律の中身が学校現場に伝わっていないことが本当に残念で申し訳ないな、と。そうした中で、まさに子どもたちに届ける本にしよう、というのは、とてもありがたく期待したのを覚えています」

 監修するうえで小西先生が大事にしたことは、「40近くある条文の中から、子どもを守るためにいちばん大切な考え方をもれなく整理して体系的に入れること」だと言う。

「第7章の冒頭に“すべての子どもはかけがえのない大切な存在です”と書いています。いじめられている子どもは何も悪くないし、かけがえのない存在である子どもを痛めつけるのがいじめであり、子どもを守るものが法律である、と。まず根っこの部分の考え方から書き起こしているのが、第1条です」

 できるだけ平易な言葉で、誰にでもわかりやすいように書かれたその文言こそ、虐待され、いじめられている子どもたちが求めている言葉ではないか。小西先生は、山崎と一緒に工夫を重ね、何度も練り上げたと振り返る。

 そのまっすぐな言葉は、大人たちの心をも衝く。

親の理想とは真逆の今

 13歳の図書室でのひらめきから、実に12年の時をかけて、実現した『こども六法』。

 その純粋な情熱と問題意識は、どこから生まれてきたのだろうか。子どものころの家庭環境を聞きたいと思った。

『こども六法』の制作は困難を極め、挫折しかけたという。「誰かほかの人が作ってくれるなら任せたいくらいだったけれど、誰も作ってくれないから自分で出すしかなかった」  撮影/齋藤周造

「特別な家庭のルールがあったわけでもなくて、5時の鐘が鳴ったら帰りましょうぐらい(笑)。政治や社会への興味関心も平均的だったんじゃないかな。習い事は水泳と空手と英語とか。ただ、僕はあまり親にほめられた記憶がないんです。親が求めるのは、“クラスで1番”みたいなところだったけど、僕は競争が嫌いだし、1番とかとったことがないので、けなされてばかりでした。

 特に父親はステレオタイプで、医者になれとも弁護士になれとも言われたし、大学に入ってからは商社とかおもしろいんじゃないか? とか。だけど僕はむしろ、親がなってほしくない職業のワースト1から3まで順に攻めてる感じです」

 だから、仲が悪いんですけど、と笑った。自分の考え方は、親や家庭環境に関係なく、

「あくまでも、自分発信です。子どもは育ちたいように育つ、と思ってますから」と、山崎。

これは『こども六法』を通じて伝えたいことのひとつなんですけど、ある行動をするかしないかは自分に決定権がある。そして、やったことの責任は自分でとらなきゃいけない。

 例えば、人生のライフキャリアの選択の場合だと、親や周りの人が、どういう職業につきなさい、こういうことをしなさいというアドバイスをたくさんくれるだろう。でも、それを選択したからといって、誰も責任はとってくれない。結局、自分の人生は自分で責任をとっていくという信念というか、生き方みたいなのものがあります」

 その信念は、大人に救われることがなかった小学生時代のいじめ体験が培ったものかもしれない……。

 実は山崎には、法教育の研究者のほかに、ミュージカル俳優であり、カメラマンでもあるという異色の顔を持つ。さらには、演劇公演の企画やプロデュースを行う、合同会社Art&Artsの代表も務めている。

 山崎は自らを「いじめの研究をしながら舞台に立つ自由人」と称する。

「人生100年の時代で、しかも1回しかないものなので、やりたいことは全部やっていこうと思って。その中では仕事になるものもあれば、趣味で終わっちゃうものもある、と」

 そうは言っても、そのやりたいことに対する極め方が、彼の場合は並はずれている。

エンタメの世界に惹かれた大学時代

 大学院1年になる'16年には、劇団四季のミュージカル『ノートルダムの鐘』の公開オーディションに挑戦し、1600人の中から、16人のキャストの1人に選ばれる。

「完全にダメもとですよ。もちろん、オーディション会場に入ってパフォーマンスするときは、僕もかれこれ7年も合唱団に身をおいてきたし、テレビも海外の舞台にも出たし、負けねぇよ、と思ってましたけど(笑)」

 出演期間は、'16年12月の東京公演から、京都公演、横浜公演と経て、'19年5月の名古屋公演まで。ちょうど大学院時代と重なり、ゼミと学会と論文と公演を綱渡りした。

「名古屋で公演していたころは、朝起きてドトールで『こども六法』の原稿を書いて、劇場入りして出演して、終わったらマンションに帰って原稿を書き、夜はスカイプで編集会議をする、という生活をしていました(笑)。性格が飽きっぽいので、それぞれが息抜きになるんですよ」

 歌に目覚めたのは、埼玉県立熊谷高校の合唱部に入ってからだった。

「中学校の合唱コンクールのあとに、音楽の先生から高校に上がったら合唱をやりなよ、とずっと言われていて。もともと声が大きかったので見込まれたけど、音痴なので音程感はないんです」

 と、謙遜する。入学した熊谷高校は、関東大会で入賞するような強豪校だった。

 さらに、大学では歴史ある名門の「慶應義塾ワグネル・ソサィエティー男声合唱団」に入団。

「この合唱団も進学先に慶應を選んだ理由のひとつです」

 ほかにもミュージカルサークルに参加し、ディズニーランドの年間パスポートを購入して足しげく通うなど、エンターテイメントの世界に惹かれていった大学時代だった。

2014年、ワグネル男声合唱団の金沢でのイベント出演で、司会を担当。ワグネルでは、ヨーロッパでの演奏会にも参加し、活躍の幅を広げていた

 当時の彼の様子を、ワグネルの女声合唱団に所属していた友人であり、現在は山崎のマネージャーでもある信濃蛍さん(26)が教えてくれた。

「キャンパスでは、みんなに“やまそー”で知られる異色の存在でした。声が大きくてフランクで、なんか変だし、目立ってる。私は、山崎くんは総理大臣になるのかな、と勝手に思っていました。ビッグマウスではなく有言実行で、自分で選んだことを大事にするタイプ。

 山崎くんらしいな、と思ったのは、ワグネルは毎年年始に現役から70代、80代のОBまでが集まる会をホテルで開催するんですけど、みんなスーツで集まる中、山崎くんだけジーパンで来て帰されて(笑)。だいたい場所と雰囲気でスーツだなって察するのに、その空気が読めないハラハラ感といい、そのあと1回も会には出なかったところも山崎くんらしい(笑)」

 子どものころからずっと“浮いてる感じ”だった山崎のことを、小川さん(前出)はこんなふうに分析してくれた。

彼は、自分が見ているビジョンや世界観をそのまま話してくれる人だな、と感じていて。そもそも、『こども六法』自体が彼の理念をそのまま本にしたようなものだし、いわば彼は“表現者”なんだと思います。だから、彼がしゃべるだけで目立ってしまう。

 純粋でストレートだから、カチンとくることもあるけど(笑)、不思議と周りがサポートしたくなる魅力があるんです。そんな僕自身もサポートしちゃったひとりなんですけど(笑)」

 カメラマンとしてのキャリアは、大学在学中からスタートした。祖父の影響で小学生のころからカメラに興味を持ち、中学では写真部の部長も兼任した。

「声楽の師匠からプロフィール写真を撮ってほしいと言われたのが最初の仕事で、そこから劇団のリハーサルやプロフィールの写真、七五三の写真などを中心に撮っています」

ディズニーのキャストになることが夢

 あらゆることに興味関心がある、と山崎は言う。

「特にディズニーに関してはオタクです(笑)」

 今でもディズニーリゾートのキャストになるのが夢だ、と彼は楽しそうに笑う。

「それは小学生のころからずっと言い続けてる夢です。キャストというのは、いわばアルバイト労働者なんですが、エンタメの要素があるもので直接、人を楽しませる仕事がしたいという気持ちがずっとあったんです。それをやり残したから、就職しなかったというのもあるかもしれない。だから、『こども六法』まわりの仕事が一切なくなったら、早くディズニーの仕事に入りたい(笑)

 山崎は自身の成人の日も、自分をいじめた同級生に会いたくなくて成人式に出席せずにディズニーシーにいた。

「子どものころにいじめられた経験のある人で、成人式に出られない人は多いと思います。僕は、ディズニーシーでひとりでカクテルのチャイナブルーを飲みながら、“よっしゃ、いじめなくすぞ”と思っていました(笑)」

 彼の言葉からは常に、「人を楽しませたい」「救いたい」「誰かの役に立ちたい」という純粋な思いが立ち上ってくる。

 7月の半ば、私たち取材班は東京・日暮里にある「d倉庫」で開催された『Way of Life』というイベントのステージに立つ山崎を見た。「舞台の未来を繋ぐ」をテーマにしたライブとシンポジウムで、約1週間、昼夜日替わりでゲストが出演する。主催は、彼が運営するArt&Artsだ。

コロナ対策をして行われたライブ&シンポジウム『Way of Life』。日替わりゲストの本格的な歌唱も楽しめて、ミュージカル界の現状や裏話トークは笑いがあふれていた 撮影/齋藤周造

 今、演劇界は新型コロナの影響により、大打撃を受けている。8月に山崎自身が企画したコンサートも中止を余儀なくされた。

 今回のd倉庫でも、本来は学生サークルの演劇が開催される予定だったが、中止が決まった。だが、劇場のキャンセル料はかかってしまう。それならそこで何か開催しようと、急きょ、1週間前に決めたという。

「僕は走りだしてから考えるタイプで、周りの人を巻き込んじゃうんですけど。このイベントは、社会貢献の意味もありましたし、しばらく舞台に立てていない俳優たちに、舞台に立つことでギャラをもらう経験を久しぶりにしてもらいたかったんです」

 山崎も毎日、舞台に立って歌った。『ノートルダムの鐘』より選んだ『陽ざしの中へ』は、柔らかく豊かな声量で、彼のやさしさがにじみ出るような歌声だった。

 歌い手としてソロコンサートも行ってきた彼だが、今年の5月には、相棒のピアニスト・井村玲美さんと結婚。

「彼女がそろそろスマートフォンの機種変更したいんだけど、せっかくだから家族割にしたかったんで……」と笑わせた。「家でも嫁さんがピアノを弾いてけっこう歌いますね。非常に厳しくミスを指摘されてますよ(笑)」

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「売れない要素コンプリート」だった、20代半ばの無名の著者の『こども六法』は、「そうとう強気だね」と嫌味を言われた初版の5000部から、今や大きな社会現象にまで発展した。

「これを読んでくださる方たちは、ただの購入者じゃないんです。子どものいじめ問題を減らしていくんだ、という僕らのメッセージに共感してくれた、賛同者なんです」

 目標は、日本中のすべての教室に1冊ずつ置かれること。一時的な大ヒットではなく、子どもたちの手の届くところにずっと置かれる辞書であってほしいと願う。

「虐待やいじめを完全になくすことはむずかしくても、それをストップさせる社会の雰囲気を作っていきたい。僕がここまで来るまでに、本当にたくさんの人たちの支えがありました。この『こども六法』で得た経験で、今度は自分と同じようにやりたいことを抱えている人たちをサポートしていきたい。そしたら、世の中がもっとよくなっていくと思うんです」

 山崎はてらいもなく、まっすぐに言い放った。理想を現実にする豊かな発想と強い信念がそこにあった。


取材・文/相川由美(あいかわ・ゆみ)/音大卒業後スタイリスト、音楽雑誌編集者を経てフリーライターに。雑誌『JUNON』を中心に人物インタビューを得意とする。また、『尾木ママの「叱らない」子育て論』、(尾木直樹著)、『脳性まひのヴァイオリニストを育てて』(式町啓子著)など、育児、教育に関連する書籍の構成を多く担当。家族は娘1人と猫のうみくん。