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 BS、CS、動画配信サービスで放送される昭和のテレビ番組が人気を集めている。コロナ禍でステイホームが定着し、全世代においてテレビの視聴時間が増加していることから、往時を知る世代には懐かしく、平成世代には新鮮に映っているのだろう。CS放送のTBSチャンネル2でも、音楽番組の金字塔『ザ・ベストテン』(1978~89年)の再放送を6月より開始。第2弾として、アイドル全盛期の'82年5月6日に放送された回が9月24日の21時からオンエアされることが決定し、大きな話題を呼んでいる。今なお熱き注目を浴びる『ザ・ベストテン』とは、どのような番組だったのか。約10年間、制作に携わった宇都宮荘太郎氏に、舞台裏のエピソードを聞いた。

人気歌手のスケジュール確保に奔走

「学生時代はモダンジャズ研究会で活動していて、『サウンド・イン“S”』('74~'81年)のようなジャズや洋楽系の音楽番組を作りたくてTBSに入社しました。ラジオ制作を経て『ザ・ベストテン』の担当に異動したのは '79年。まずADを務めた後、ディレクターやアシスタントプロデューサーとして番組に関わることになります。

 担当初期で忘れられないのは、郷ひろみさんが『マイ レディー』で1位になったとき('79年12月13日)。局内でドラマの撮影中だった郷さんを私が呼びに行って、Gスタジオ(『ザ・ベストテン』の放送拠点となった、TBS旧社屋で最大面積のスタジオ)で歌ってもらう段取りだったのですが、撮影が押して1位の発表に間に合わなかったんです。司会の久米(宏)さんが何度コールしても郷さんは現れず、一旦CMを入れて、その後に歌っていただいたんですが、歌の途中で番組が終了してしまって(苦笑)。その後も冷や汗もののハプニングは何度もありましたが、それは生放送ならではの醍醐味(だいごみ)でもありましたね」

 '78年1月に放送を開始した『ザ・ベストテン』(木曜21時~)は「視聴者からの葉書リクエスト」「レコード売り上げ」「ラジオ各局へのリクエスト」「有線放送」の4要素で総合ランキングを決定。プロデューサーが出演者をキャスティングする従来の方式とは異なり、“今売れている10曲”をカウントダウン形式で発表する画期的な構成で、たちまち高視聴率を連発する看板番組となった。

「ランキングは放送前週の火曜日に確定するので、そこから出演交渉に入ります。ベストテン入りする可能性が高い方、例えば'80年頃でいうと沢田研二さん、西城秀樹さん、山口百恵さんたちのスケジュールはあらかじめ2か月先まで確認しておいて、それをもとに所属事務所と調整。携帯もメールもない時代ですから、すべて固定電話でのやりとりです。

 テレビ出演に消極的だったニューミュージック系の方には、視聴者の声を反映した公正なランキングであることを粘り強くお伝えして、その結果、松山千春さん、甲斐バンドの皆さん、長渕剛さん、松任谷由実さんたちにご出演いただくことができました

 番組宛てのリクエスト葉書は多いときで週に20万通以上。集計には約10名のアルバイトがあたり、組織票を防ぐため、同じ筆跡や消印のものは除外していたという。トークのネタとして、葉書に書かれた質問が採用されることもあったが、それを選ぶのは放送作家の仕事。そのひとりが、若き日の秋元康であった。

「五木ひろしさんが『おまえとふたり』で1位になったとき('80年1月24日)のことです。リクエスト葉書でエベレストのセットを作り、それを登っていただこうとしたんですが、五木さんは“土足では上がれません”と。本番では裸足になって、感激の涙を浮かべながら葉書の山を登られたことがありました」

『ザベストテン』第141回の進行台本 提供:宇都宮荘太郎 (c)TBS

生演奏・生歌を徹底し現場は“超真剣”

 こうした演出は、ときには未明まで及ぶ構成会議を経て、その回の担当ディレクターが決定。並行して美術デザイナーとセットの打ち合わせを行ない、スタジオに来られない歌手については、中継の手配も進めなくてはならなかった。台本は前週の金曜日に準備稿、放送3日前の月曜日に改訂稿、放送前日の水曜日に決定稿と毎回、3種類を作成していたという。

「サプライズがある際には、さらに『別冊台本』を用意して、当事者の歌手には決定稿を見せないように工夫していました。田原俊彦さんが『哀愁でいと』で初めて1位になったとき('80年8月28日)は、ドラマ『3年B組金八先生』の同級生たちがお祝いに駆けつけたんですが、田原さんには本番まで秘密。リハーサルなどで両者が鉢合わせしないよう、細心の注意を払いましたね

 放送当日の木曜日は、本番が始まる9時間半前の午前11時30分から、カメラを使わないドライリハーサルを開始。14時から音合わせが始まり、このタイミングで約40名のビッグバンドがスタジオ入りしていた。スタッフはGスタだけで約120名(バンドを含む)。中継が入るとさらに膨らんだ。現在の音楽番組ではカラオケの使用と口パクが盛んに行なわれているが、『ザ・ベストテン』では生演奏、生歌が原則。その真剣さと熱気がブラウン管越しに伝わったからこそ、多くの視聴者の心を掴んだのだろう。

「八神純子さんや久保田早紀さんなど、自前のバックバンドと一緒に出演される方は、セットでバンドの姿が見えない場合でも、必ずGスタで生演奏をしていました。中継の際も、あらかじめGスタでビッグバンドが演奏したオケをもとに歌っていただいたんです。それは、歌手が持ち込むレコードと同じ音源のカラオケを使ってしまうと音がビビッドでなくなるから。“生放送なんだから生を重視しよう”という、我々のこだわりがあったんです」

「追いかけます、お出かけならばどこまでも」。この合言葉のもと、ベストテン入りした歌手を全国どこでも追いかけて、その場で歌ってもらうのも『ザ・ベストテン』の魅力だった。放送初年度の'78年7月6日にはニューヨークからの衛星生中継も敢行。通信環境が今とは比較にならないほど脆弱(ぜいじゃく)だった当時、報道以外の番組で海外からの生中継を実現させたことは大きな反響を呼んだ。

「番組が始まったころは国内中継でさえ、そう簡単にはできない時代。まして海外中継ともなれば、半年ほど前から技術陣との綿密な打ち合わせを重ね、ようやく実施という大プロジェクトでした。ですから、リハーサルで回線が繋がるとスタジオ内で“やったぞ!”と拍手と歓声が沸き起こっていましたね。当然、そのための費用もべらぼうにかかったわけですが、番組の評判がどんどん上がり、視聴率も30%以上が当たり前という状況になり、予算を大幅にオーバーしても何とか許されていたわけです」

「耳に突っ込むのはおやめなさい!」

 国内の中継においても、当初は全国のネット局が「1曲3分の歌のために中継車を出すのか!」と反発。しかし、それも番組の人気が上がるにつれ、むしろ積極的に協力してもらえるように変化していったという。では、ここからは宇都宮氏の記憶に残る中継名(迷?)場面を語ってもらおう。

「近藤真彦さんが『ホレたぜ!乾杯』で1位になったとき('82年11月4日)、東京・本郷の旅館に宿泊していた修学旅行生の前にサプライズで登場していただいたことがあるんです。秋元(康)さんのアイデアだったんですが、女子高生たちがパニック状態になってしまって……。もみくちゃにされた近藤さんは大変だったと思います。

 それから、中山美穂さんの『JINGI・愛してもらいます』が10位にランキングされた回('86年8月21日)。その日は新幹線で移動中の歌手が途中停車した駅のホームで歌うという、ベストテン名物の新幹線中継だったんですが、イヤホンの不調でオケが聴きとれなかった中山さんの耳に、中継スタッフの私が別のイヤホンを差し込むところがテレビにばっちり映ってしまった。それを見た司会の黒柳(徹子)さんから“宇都宮さん、耳に突っ込むのはおやめなさい!”と叱られたこともありましたね(苦笑)

 今をときめく人気歌手の姿を目撃できるとあって、中継先は常に黒山の人だかり。にも関わらず、大きな事故が一度も起きなかったのは奇跡と言ってもいいかもしれない。その中継と並んで、視聴者の人気を集めたのが、他の音楽番組では見られない豪華でユニークなセットであった。

『ザ・ベストテン』の貴重なセットデザイン図 提供:宇都宮荘太郎 (c)TBS

「セットについては、スタジオ入りする歌手が決まった段階で担当ディレクターと美術部のデザイナーとが曲を聴きながら構想を練り、セットデザインの決定後には平面図とデザイン画をもとに技術・美術の担当者と細かく打ち合わせを行ないました。セット作りは3~4人のデザイナーがローテーションで担当していましたが、みなさん素晴らしいセットを作ってくれました」

『ザ・ベストテン』の制作秘話を語る宇都宮荘太郎さん 

『ルビーの指環』特注グッズでお祝い

 番組では1位のお祝いに歌手の望みを叶(かな)えたり、趣向を凝らしたプレゼントが贈られたりすることも多かった。愛煙家だった寺尾聰が『ルビーの指環』で3週連続の1位を獲得した'81年4月23日には、パッケージに寺尾の似顔絵があしらわれた特製タバコ500箱がプレゼントされている。

「寺尾聰さんは当時『ハイライト』という銘柄を好んでいらしたので、専売公社(現JT)にお願いして、特別パッケージのハイライトを作ってもらいました。作製に時間がかかりますし、まさかあれだけ長期間1位を獲得するとは予想できませんでしたから(最終的に番組最長の12週連続1位を達成した)、“納品されるまでは1位でいてくれよ”と、気が気じゃありませんでした(笑)」

「リクエスト重視」「追っかけ中継」「豪華セット」など、従来の音楽番組の常識を覆(くつがえ)す発想で圧倒的な人気を獲得した『ザ・ベストテン』は、松山千春が『季節の中で』でテレビ初出演を果たした'78年11月16日に初めて視聴率30%を突破。'81年には年間51回中50回で30%以上を記録し、同年9月17日には、最高視聴率41.9%をマークした。

今では考えられないことですが、当時は視聴率が30%そこそこまでに“下がる”と上司から“演出が悪かったんじゃないか”と叱られて(苦笑)。注目が高まるにつれ、事務所からの売り込みも激しさを増しましたが“ランキングは絶対にいじらない”というベストテンイズムは曲げませんでした」

 しかし、盤石の強さを誇った『ザ・ベストテン』も家庭用ビデオが普及した'80年代後半に入ると、視聴率は徐々に低下。個人用のステレオやウォークマン、テレビなどで音楽を聴くようになって、国民的なヒット曲が生まれにくくなったことも背景として挙げられよう。そして元号が「平成」に変わった'89年9月、番組は第603回をもって、11年8か月の歴史に幕を下ろした。

「担当した約10年間、いろんなトラブルやハプニングがあって、毎週お祭り状態でしたが、生放送のいいところは木曜22時になれば何があっても終わること。本番が終わったら、すぐに次の放送に頭を切り替えることができました。今振り返ると、番組の成功は司会者の力に負うところが大きいですね。進行が押してあと5秒しかないような場面でも久米さんがうまくまとめてくれましたし、黒柳さんには番組の顔として最後までご出演いただけた。本当に感謝しています

(取材・文/濱口 英樹)


【PROFILE】
宇都宮荘太郎 ◎1953年、東京生まれ。早稲田大学ではモダンジャズ研究会に所属し、全国各地で演奏活動を行う。'77年、TBSに入社。ラジオ制作を経て'79年より『ザ・ベストテン』を担当。日本レコード大賞、東京音楽祭などの音楽番組や、『そこが知りたい』などのドキュメンタリー番組を中心にディレクターやプロデューサーを歴任。TBS退職後はNPO法人『音楽のすゝめ』の理事などを務める。


【INFORMATION】
伝説の音楽番組『ザ・ベストテン』1982年5月6日放送回
9月24日(木)午後9:00 CS放送 TBSチャンネル2にて放送
今後も伝説回・神回を放送予定!
ご視聴のお問い合わせは、TBSチャンネルカスタマーセンターまで
電話:0570-666-296
https://www.tbs.co.jp/tbs-ch/special/the_bestten/