TBS系の火曜ドラマ枠(夜10時)で放送されていた『私の家政夫ナギサさん』(以下『わたナギ』)が最終回を迎えた。
ラブコメの背景にあるもの
本作は、四ツ原フリコの漫画『家政夫のナギサさん』(NTTソルマーレ)を原作とするラブコメディ。
主人公は製薬会社のMR(医薬情報担当者)として働く相原メイ(多部未華子)。彼女の28歳の誕生日に家事代行サービス会社で働く妹の福田唯(趣里)が、会社が誇るスーパー家政夫の鴨野ナギサ(大森南朋)をメイの家に派遣したことから物語が始まる。
家事が苦手で、日々、仕事に追われているメイの部屋は散らかり放題で生活が荒れていたが、ナギサさんがケアに入ったことで部屋はきれいになりメイの生活も改善されていく。
『わたナギ』が放送されている火曜ドラマは、今、もっとも勢いがあるドラマ枠。
家事代行サービスで働く森山みくり(新垣結衣)とIT企業で働く津崎平匡(星野源)が、それぞれの都合から契約(偽装)結婚をする姿を描いた『逃げるは恥だが役に立つ』(以下『逃げ恥』)が2016年に大ヒットし、近年も『初めて恋をした日に読む話』、『恋はつづくよどこまでも』(いずれもTBS系)といった少女漫画原作のラブコメが話題となっている。
気軽に楽しめるラブコメが多いドラマ枠だがときどき、『逃げ恥』のような社会批評性の高い作品が登場するので侮れない。
『わたナギ』もコミカルな描写の奥に社会批評的な要素が込められている。何より「部屋を片づける」ことで「自分の生活を見直す」という姿が、ステイホームが叫ばれるコロナ禍の現状と、うまくマッチしていた。
筆者も、コロナ禍で家にいる機会が増えてから、仕事の合間に掃除機をかけたり、炊事洗濯をマメにするようになったのだが、メイほどではないが、仕事に追われているときほど、部屋が汚くなり、精神的にも荒れていることが、改めてよくわかるようになった。
ナギサさんは、掃除や料理はもちろんのこと悩みの相談にも乗ってくれて、その姿は、まさに「お母さん」。
そんなナギサさんを大森南朋というおじさん俳優が演じることで、掃除や料理は女の役割という既成概念を撹乱してくれることが本作の面白さだろう。ナギサさんは家事の仕事に誇りを持っており、彼の姿をみていると改めて、家事の重要さに気づかされる。
一方、メイは母の美登里(草刈民代)から「お母さん」になりたいという夢を否定され「男の子なんかに負けない」「仕事ができる女性になるの」と言われたことが“呪い”となっており、(母親に似て)家事が苦手なこともコンプレックスとなっているのだが、“呪い”と聞いて、真っ先に思い浮かべるのは『逃げ恥』終盤。
セリフの中にある社会批判性
みくりの伯母の土屋百合(石田ゆり子)は、女性の加齢をネガティブなこととして内面化している女性に対し《私たちの周りには、たくさんの呪いがあるの。貴女が感じているのも、そのひとつ》《自分に呪いをかけないで。そんな恐ろしい呪いからは、さっさと逃げてしまいなさい》(『逃げるは恥だが役に立つ シナリオブック』(講談社)原作:海野つなみ、脚本:野木亜紀子)と言う。
『逃げ恥』には周囲の価値観の押し付けにうんざりしている人が多数登場し、そんな世間からは「逃げたい」と思っている。ここで「戦う」のではなく「逃げる」ことを肯定的に描いていたことが本作の新しさで、それ以前の女性の活躍を応援する作品との大きな違いだろう。これは作者の海野つなみが持つ先見性だが、脚色した野木亜紀子の力も大きい。
近年では『MIU404』(TBS系)を筆頭とするオリジナル作品を手掛ける野木だが、元々、彼女は原作モノの名手で、漫画や小説の中にあるエッセンスを抽出して、作品のテーマを明確にする批評的な視点が突出していた。
中でも秀逸だったのが、『逃げ恥』第9話での終盤のやりとり。
雇用契約を破棄して結婚しようと言う平匡に対し《結婚すれば給料を払わずに私をタダで使えるから、合理的。そういうことですよね?》(前掲書)とみくりは言う。
平匡は《僕のことが好きではないということですか?》と尋ねるが《それは、好きの搾取です!》《好きならば、愛があるなら何だってできるだろうって、そんなことでいいんでしょうか?》(前掲書)と、みくりは反論する。
漫画終盤の展開を一気に圧縮して描いた名場面だが、ここで登場した「好きの搾取」という言葉には、恋愛や結婚に私たちが感じる矛盾と違和感が内包されている。
この「呪い」と「好きの搾取」という言葉によって『逃げ恥』は現代的な作品となった。
『逃げ恥』と『わたナギ』に通ずるもの
『逃げ恥』がヒットしたのは楽しいラブコメだったからだが、結婚を会社に、夫婦を雇用主と従業員というビジネスパートナーに見立てて、恋人ではない男女が契約結婚をするという思考実験こそ、核にあるいちばんのおもしろさだった。
しかし、2人が恋愛関係になってしまうと、思考実験の面白さが後退してしまう。それが歯がゆく、恋人にならずに2人が生きていく姿も見たかったなぁと思った。
みくりと平匡が契約内容を何度も見直し、議論しながら、お互いにとっての理想の関係を積み上げていく。この結末も悪くはないのだが、「結局、ラブかよ」と思ってしまう。
『逃げ恥』の影響が強い『わたナギ』も、(別の部署に移動するため)仕事を終了するナギサさんに対し、メイが勢いで「結婚しませんか」と言ってしまう。これは「好きの搾取」では? と思った『逃げ恥』視聴者は、多かったのではないかと思う。
最終回。メイはナギサさんに、まずはトライアルで4日間の結婚生活を過ごそうと提案し同居をはじめる。しかし、3日でナギサさんはメイの前からいなくなってしまう。落ち込むメイだったが、実はナギサさんは年齢差を気にしており、先に死ぬ確率が高い自分と結婚したら、介護や世話でメイの未来を潰してしまうかもしれないと、恐ろしくなって逃げたのだ。
そんなナギサさんにメイは「お互いに話し合ってその場その場で変化に対応していけばいいじゃないですか」と提案。最終的に2人は相思相愛となり結婚する。
『わたナギ』も、『逃げ恥』のように“その都度、相談しながら理想の関係を2人で目指していこう”という結論になる。最適解だと思う一方で、結局、『わたナギ』も恋愛ドラマになっちゃったなぁ、という淋しさがあった。
また、別の意味でモヤモヤするのは、メイがナギサさんに求めているものが恋愛でも恋人でもないように見えることだ。
モヤモヤが残る2人の関係性
結局、メイはナギサさんを、便利な「お母さん」としか見てないのでは? と思ってしまう。その気持ちを恋愛感情にすり替えてタダで使おうとするのは、やはり「好きの搾取」ではないだろうか。
本来、2人は恋愛以外の感情でつながる関係を目指すべきで、そこで家族や恋人といった既存の価値観に回収してしまったことに、現代社会における「呪い」の根深さを感じてしまった。
おそらくメイとナギサさんの関係にいちばん近いのは、藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』(小学館)の、のび太とドラえもんではないかと思う。
「ナギサさんがいない生活なんて考えられない」と駄々をこねるメイは、ネコ型ロボットのドラえもんに甘えるのび太のようで、多部ちゃんと大森南朋なら微笑ましく見られたけど、生身のおじさんに、ドラえもんを求めるのは酷のような……。
『逃げ恥』も恋愛関係にならない2人が見たかったと最後に思ったが、『わたナギ』にも同じことを感じた。ラブコメと社会批評性の両立は、なかなか難しいものである。