“世紀の婚約”と世間を驚かせた宮沢りえと貴乃花(当時・貴花田)が“世紀の破局”を迎えたのは、わずか2か月後のことだった。1993年1月、単独で会見を開いたりえは「人生最高のパートナーにはなれなかった」「もっと話し合う時間があれば」として、
「悲劇のヒロインにはなりたくない」
と、発言。一方、貴乃花も単独会見で「自分の愛情がなくなりました」と語った。りえの引退を前提としていた花田家側と、それを拒んだ宮沢サイドという、双方のズレが真相とはいえ、りえが棄てられたかのような構図だ。
破局会見からの宮沢りえ
それゆえ、彼女は誰の目にも「悲劇のヒロイン」に映ったが、そう見られることを自ら否定してみせた。しかし、そう言いつつも、その後「悲劇のヒロイン」を地で行くような姿を世に示してしまう。
中村勘三郎(当時・勘九郎)との不倫疑惑と自殺未遂騒動、激やせからの仕事の降板、そして休養。なかでも、
'95年10月、ゴルフイベントで見せた憔悴ぶりは衝撃をもたらした。
筆者はその日、テレビ朝日で梨元勝氏のインタビューを受けていたので、なおさら思い出深い。ちょうど摂食障害に関する本を出したばかりで、りえの激やせについての分析を求められたのだ。
なお、りえに対してはその7年前、彼女が15歳のときに取材したが、印象はあまりよくなかった。りえママこと宮沢光子マネージャーに操られる人形みたいだという、のちに広まるイメージに近い姿を目の当たりにしたからだ。
とはいえ、人形みたいだからこそ、アイドルとして成功できたのだろう。ふんどしカレンダーやヌード写真集が売れたのも、母が狙い、世間が期待した新時代のセックスシンボルという役割を彼女が一生懸命、演じたからにほかならない。
愛に飢えた子ども時代
また、筆者と同じ時期に取材した知人からはこんな話を聞かされた。「地球が滅亡するとしたら、最後の日をどう過ごしたいか」という質問に、彼女はこう答えたという。
「お母さんと一緒にいる。一緒にいて、サンドウィッチを食べたい」
親の離婚で父とすぐに生き別れ、母とも10歳まで別々に住んでいたというりえ。そう、彼女は愛に飢えた子どもであり、哀しみという感情を持った人形だった。そこを秘めつつ、明るく振る舞ったところに、アイドルとしての魅力があったわけだ。
が、破局とその後の迷走は彼女が実は無理をしていたことを浮き彫りにした。そして、その身の上に同情したり、悲劇性に欲情したりする人が現れる。例えば、倉本聰や山田洋次は彼女に薄倖な役を与え、新たな魅力を引き出した。
正直なところ、破局したころの彼女は女優としての評価がいまひとつだったものだ。当時のメディアは「代表作がなかったりえにとって、この会見が代表作になるだろう」などと書いた。
そこを変えたのが「悲劇のヒロインにはなりたくない」というやせ我慢発言である。これにより、彼女の明るさが一種の強がりで、心の奥底では悲劇のヒロインになりたがっていたのでは、と気づく人が出てきたのだ。彼女自身、役の上でなら自分の哀しみを表現できるようになった。それは破局後の彼女に世間が抱いたイメージとも見事にハマり、女優開眼がもたらされるわけだ。
いわば、ひとつの名言が女優・宮沢りえを作ったのである。