今年5月。ひとりの若手女子レスラーが、ネットの誹謗中傷にさらされて亡くなった。一方、今とは比べものにならないほど熱狂的なブームの最中に、“悪役”を一身に背負っていたレスラーがいる。彼女はなぜ、いまだにリングから降りようとしないのか。彼女の原動力とは、一体なんだったのか―。“女”を描かせたら日本一の作家が、彼女の本質に挑む。時間無制限一本勝負のゴングが鳴った!彼女はなぜ、現役かつ悪役であろうとし続けるのか―。一大ブームの立役者に、気鋭の作家・岩井志麻子が迫った!

プロレスラーダンプ松本さん 撮影:森田晃博

あのダンプ松本が還暦

 令和2年8月9日。炎天下の、そして非常事態といっていい状況下での新木場の会場。

 女子プロレス界の現役にして伝説のダンプ松本が主催する、かつては仇敵、今は盟友の長与千種との、デビュー40周年記念大会が開催された。静かに、粛々と。

 新型肺炎感染の恐れがなければ、観客ももっとぎゅうぎゅう詰めで、飛び交う歓声も紙テープもすごかっただろう。けれどその、緊張感がありつつも落ち着いたのどかな雰囲気も、それはそれで始まる前から祝賀気分にはなれた。

「みなさんとこの日を迎えられて、うれしいです」

「本当に、来てくれてありがとうね」

 稀代の悪役レスラー、ダンプ松本。本人曰く、あの女子プロレスブームの中でも1人のファンもなく、日本中から嫌われた悪の権化。

 しかしダンプ松本のイベントに喜んで来る観客は、ダンプさ~ん、とはしゃいでいる。

 1度は引退したものの、またリングに戻った唯一無二の悪役ダンプ松本は、今日はあの恐ろしい毒々しい隈取りメイクもせず、トゲトゲのついたハードな革ジャンもまとわず、愛嬌ある童顔にみんなとそろいのTシャツでにこにこしながら受付に座っている。

 改めてこの催し物のチラシ、ポスターなどを見て、いろんな感慨に耽るのは当のダンプさんたちだけではない。ともに青春時代を過ごしたファンたちもだ。

 ダンプ松本としてリングでデビューし、実に40周年を迎える今年は、ダンプさんが還暦を迎える年でもあるのだ。何重にも、おめでたい。

 あのダンプ松本が還暦。60歳。何がすごいって、今も現役でリングに立つこともだが、今も日本一の悪役であり続けていることだ。ダンプ松本といえば、悪役。悪役といえば、ダンプ松本。これは40年間、不動なのだ。

 ここも重要だが、稀代のレスラーでありながら、「悪役レスラー」ではなく、「悪役」というだけでダンプ松本を指してしまえるなんて、他に類を見ない。

 正直、女子プロレスに熱狂したことはない。テレビでは見ていたが、ダンプさんと仕事の場で出会わなければ、会場に足を運んでリング脇で観戦することはなかっただろう。

 だから、女子プロレスのあの時代、ダンプ松本が暴れまわった時代はすごいのだ。たとえば本だって、普段は読書をしない層が買うからこそベストセラーとなるように。

 ダンプさんと同世代の女子ならば、特別に女子プロレスに興味がなかったのに女子プロレス人気を記憶し、人気レスラーたちは青春時代の彩りとなっているのだ。

 月日は流れ、こんな事態を誰も予想できなかった令和の世。今はどの会場も満員は避け、人と人との間を取り、唾液が飛ぶ行為は控えなければならない。

 だからプロレス会場にふさわしくない、自粛と遠慮の中で祭りは始まったが、贔屓のプロレス団体のおそろいのシャツを着たり、好きな選手の顔をプリントしたマスクや団扇を準備してきたファンたちの内心の熱気は、ソーシャル・ディスタンスを超えてきた。

 思いがけない、最前列の席。両脇にいるのは、かなりの格闘技、プロレスファンの編集者Yさんと、女子プロレスの追っかけから、ついに熱く女子プロレスを書く人となってしまったライターの伊藤雅奈子さん。

「えっ、今日が初めての観戦ですか。ちょっと物足りない入り口かもしれないですね」

 熱い人たちにそんなふうに言われたが、若手の人気レスラーの試合、合間の芸人のショー、そして満を持してのダンプ松本と長与千種、彼女らと同じ時代のリングを生きた選手たちの試合が始まると、身の内が次第に熱くなってきた。

長与千種との戦い、蘇る1980年代

不敵な笑みをたたえながら、盟友・長与千種を容赦なく痛めつける 撮影:森田晃博

 娘よりも若い現役レスラーのはち切れそうな身体が、勢いよくロープにぶつかり、轟音を立ててマットに叩きつけられる。十分に、手に汗握れる。

 ダンプ松本率いる極悪同盟と死闘を繰り広げた、クラッシュ・ギャルズのひとり、かつて最高のベビーフェイス、正統派の可愛かっこいい長与選手もすっかり貫禄がつき、ダンプさんと敵対側ではなく同盟側にいるような雰囲気になっていたが、2人が登場すれば、あの熱狂の1980年代がまざまざと蘇る。

 リングに上がったダンプさんはあの時代のような強烈なメイクをし、竹刀を持ってはいたものの、記憶にある挑発的な叫び、恐ろしい威嚇はなく、なんだかステージの破壊神ではなく、まさに守護神の存在感を放っていた。

「みんな、今日は来てくれてありがとう」

 若手レスラーの華麗なる技も見せられ人気レスラーの迫力あるぶつかり合いも見せてはもらったが、あのころのような流血の惨事や本気の場外乱闘、負けた側を丸刈りにするなんて壮絶な罪と罰もない。

 戦いの合間に、可愛い若手の発言のおバカさ、ベテランレスラーの口下手さをいじったり、会場は和気藹々とした雰囲気に包まれていた。

 そうしてラストは同期であり同志であり、仇敵でもあった長与さんとのトークショーだ。語り合う2人の後ろに流れるのは、ジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアが歌い踊り大ヒットさせた『かけめぐる青春』だ。

 これは不意打ちで、涙が出た。レコードなど買ってないし、カラオケで歌った覚えもないのに、すべての歌詞を覚えていることに、今さらながらに気づく。

 台本があるのかないのか、中空に向けてOGのひとりが叫ぶ。

「今日は、ジャッキー佐藤さんの命日ですよ」 

 ダンプさんはじめ、リング上のレスラーたちも観客も、みんな辺りを見回した。

「きっとジャッキーさん、この会場のどこかにいるよ」

「いるいる、ジャッキーさん、かっこよかったーっ」

 みんな、確信した。ダンプさんもだが、会場にいる女子はダンプ松本と長与千種ファンであるだけでなく、みなビューティ・ペア・チルドレン、といっていいんじゃないか。

昔のVTRを見て照れ笑い

 初めてダンプ松本さんにお会いしたのは、日本テレビ系列のバラエティー番組『有吉反省会』のスタジオだった。この番組はその名のとおり、ゲストが公開でいろんな反省をする。

 ダンプさんと長与さんは、「ずっと敵対関係にありましたが、今は仲よしです」と反省しに来られた。はっきりいいはしないものの、ダンプさんは本当はいい人、といった反省しなくてもいい反省も含まれていた。

 平成生まれの若い芸能人たちはぴんと来ないようだったが、同世代の人たちはなんともいえない気持ちになった。やっぱりな、というのはがっかりでもあり、うれしさでもあった。

 過去のVTRが、スタジオに流れる。激しく長与さんを挑発し、リング上で攻め立てるダンプさんにどよめき、やや大仰なパフォーマンスに笑いも起きる。

 ダンプさんが、毛をむしった丸のままの鶏肉を叩きつけ、これは千種だよ、と吠えている場面は、記憶の中にちゃんとあった。

長与ら同期のレスラーたちとトークショー。昔の話で盛り上がる 撮影:森田晃博

 スタジオにいるダンプさんは、あのころは絶対に見せなかった照れ笑いをする。長与さんも笑顔だ。ふたりが仲よしであることに複雑な思いを持つ同世代の女子は、ビューティ・ペアの『かけめぐる青春』を頭の中で流しながら、 VTRにはない回想シーンも見る。

 大きな女子プロレスブームは、2度ばかりあった。2度目のブームを作ったレスラーのほとんどが、1度目のブームのスター選手に憧れてその世界を目指していた。

「いま現在の若手レスラーは諸先輩たちをYouTubeで見て憧れた人が多いです」

 後からライターの伊藤さんに聞かされ、それも時代だなぁとしみじみした。

 ともあれ1度目のブームの立役者は、なんといってもジャッキー佐藤とマキ上田のビューティ・ペアだ。闘う宝塚、当時は必ずそういわれた。

 リングで華麗なコスチュームの人気レスラーが歌い、踊る。客席の女の子たちがカラーテープを投げ、レスラーの名前を叫ぶ。

 ダンプ松本も、ジャッキー佐藤に憧れて女子プロレスの門を叩いた。そのほかにもさまざまな理由、事情があったのは後述するが、とにかくジャッキーさん人気はすさまじかった。

 ビューティ・ペアの前に、マッハ文朱という人気レスラーもいた。整った顔立ちにすらっとした長身、初のアイドル扱いをされたレスラーだ。

ジャッキー佐藤さんへの憧れ

 ダンプさんも中学2年生のとき全日本女子プロレス中継で見て、最初の衝撃を受けた。

「試合に負けた後のリングで、泣きながら歌っていた。そのきらびやかな世界と、はかないばかりの美しさが、14歳の私の心を打ち抜いてしまった」

 と、スポーツ紙のインタビューで語っている。しかしマッハ文朱は、3年もしないうちに引退する。

 そしてダンプ松本でなかったダンプさんが高校1年生の1976年、ビューティ・ペアが空前の女子プロレスブームを巻き起こした。ダンプさんは特にジャッキー佐藤さんに憧れて、親衛隊として追っかけまくったという。

入門したてのころ

 4つ下の長与さんはそこまでビューティ・ペアのファンではなかったというが、同時期にデビューした2人はビューティ・ペアのいなくなったリング上で不倶戴天の敵、因縁の仇敵、として死闘を繰り広げた。

 ライオネス飛鳥さんと組んだクラッシュ・ギャルズは、ビューティの再来ともいわれたアイドル系の善玉、老若男女問わず人気のベビーフェイス。

 そんな彼女らをダンプ松本の極悪同盟は卑怯な反則技で責め苛み、不公正なレフェリーによって勝ちをもぎ取っていく。熱烈ファンは、本当にクラッシュと極悪は仲が悪く、リングを降りても闘っていると信じた。それほどまでに、レスラーたちも観客も真剣だった。

『有吉反省会』放映から1年。春の終わりころ、将来を嘱望されていた若い女子レスラーがみずから命を絶った。

 彼女はリアリティーショーと呼ばれる、創作ドラマではなく台本なしのドキュメンタリーを謳う人気番組に出演し、わがままで気の強い役柄を望まれた。

 まじめで素直な彼女は、必死に応えようとした。かつてのような盛り上がりは今ひとつの女子プロレス界を、再びメジャーにしたい、盛り上げたいと使命感も帯びていた。

 しかしあまりにも演技が真に迫っていたため、視聴者の反感をあおった。役柄と本人が同一視された。彼女はネットで激しく誹謗中傷され、SNSも攻撃にさらされた。

 いろいろな、タイミングの悪さも重なった。新型肺炎によってもたらされた活動自粛により、彼女はリングで発散することも本業に打ち込んでネットの悪口雑言を忘れることもできず、金銭的な不安をも抱えるようになったのだ。

 そして彼女は死の少し前、悪口雑言が書き込まれる自身のSNSに、「愛されたかった人生でした」という文を綴る。

 彼女の衝撃的な死によって、SNSの暴走する書き込みの規制を厳しくしようという声も上がり、テレビのやらせ問題も再燃する。

 正直、私は彼女の死の報道によって初めて、彼女を知った。後の報道で、彼女がリングでも悪役を演じていたのを知る。そのとき、今どきの女子プロレスはこんなスタイルのいい可愛らしい子が悪役なんだとびっくりもした。

 ダンプ松本さん率いた極悪同盟と、あまりにかけ離れているじゃないか。あのころの悪役は歌舞伎の悪役、ヘヴィメタのメンバーみたいな毒々しい隈取りメイクをし、常人離れした厳つくゴツい巨体に、これまたthe悪党な黒いレザーにトゲトゲした鋲やチェーンがついていたコスチュームが主流だった。

日本で一番殺したい人間と言われて

 極悪同盟にはブル中野さん、クレーン・ユウさんらもいたが、なんといってもダンプさんだ。後のメンバーは、もしかして実はいい人かもと思わせる空気や余地を垣間見せてくれたが、ダンプ極悪大魔王にそんな慈悲や甘えを乞う隙はいっさいなし。

 ともあれ、『有吉反省会』は出演者も多く収録時間もそんな長くはなく、ダンプさんと同じ空間にいただけで、直接のやりとりはできないままに終わってしまった。でも伝説の人に会えた、青春時代を彩ったスターを目の当たりにできたと、満足していた。

 それから少したって、親しい編集のYさんに、ダンプ松本さんについて書きませんかといわれたのだ。資料もいろいろもらって読み、なつかしい時代がよみがえった。

 実際は2度目でも、これが初対面といっていいインタビューの場は主婦と生活社の会議室で、ダンプさんはまったく悪役ではなかった。

 どう見てもいい人なので、あの悲しすぎる死を遂げた若手レスラーのように、現役時代は悪役であることに葛藤があったと思ったのに。

左から 長与、ダンプ、ライオネス飛鳥(当時は北村智子)

「いいえ、全日本女子プロレスの門を叩いたときから、徹底的に悪役になってやろうと決めてましたから。罵声を浴びれば浴びるほど奮い立ち、大嫌いといわれればいわれるほど高ぶりました」

 ふと、みずから命を絶ったあの純な若いレスラーにも、この強さがあればと泣けた。もう、どうしようもない。強靭な肉体、恵まれた体力を持つ人は、中身も同じようにタフだと勘違いされる。もちろんタフであるが、生身の身体と心は柔らかくもあるのだ。

「本当はいい人なんて、絶対に思われたくなかった。だからファンサービスなんか、いっさいなし。クレーンはそれをやりたがったんで、辞めてもらったくらいです」

 ダンプさんはそんなだから、実家に石を投げられたり車を傷つけられたり、街なかでも罵声を浴びせられ、服を買いに入った店の人に、来ないでといわれたりした。

「当時、日本で一番殺したい人間と言われてました」

 そんなことを言われてもなお悪役を貫ける人なんて、やっぱりダンプ松本以外はいない。今後も強烈な存在感を放つ悪役は出てくるとしても、本気で殺したい、とプロレスファンに思わせることはできないだろう。

 ネットなき時代にも直接的な嫌がらせや、嫌がらせを超えて犯罪といっていいこともなされてたわけだ。もちろんダンプさんは、それらに関してはとても悔しかったという。

「車に傷つけられた後の試合では、さらに千種をボコボコにしました」

 しかしつくづく、ダンプさんは稀有な人だ。あのころはそんなこと思ってもみなかったが、内面を見てほしいだの、真の自分を知ってほしいだの、確かにダンプさんはみじんも感じさせず、表すこともなかった。

現役時代から、竹刀がトレードマークだった

 とことん悪役であり、誤解を恐れずにいわせてもらえれば見世物に徹していた。自分自身にも、甘さを許せなかった潔癖な人なのだ。

落ちこぼれだった

 資料でも読んでいたが、ダンプさんは真に苦労人なのだった。

 決まっていた就職も蹴って背水の陣でオーディションに臨んだのに、落ち続ける。1979年4月1日、ついに合格。夢見た全日本女子プロレスに入門を果たしたものの、実にデビュー戦まで1年半も待つことになるのだ。

「そこからさらに、極悪同盟の悪役ダンプ松本が誕生するまで、4年かかるんですよ」

 1980年組は長与千種、ライオネス飛鳥、大森ゆかりなど、女子プロレスを知らないといい切る人まで知っている歴史に残る華麗なるメンバーたちだが、

「私と千種は、まったく期待されてなかった。完全に、落ちこぼれってやつでした」

 とも言い切った。女子プロレスの大ブームを担った2大スターが、元は落ちこぼれ。それは、物語の始まりとしてはできすぎだ。

「私ら強くないうえに、これといった個性がなかったんだよね」

 それも、驚きだ。あんな個性的な2人が、個性がないといわれていた。ますます、ドラマ性を増してくる。生まれついてのスターもいるが、個性は与えられるものではなく、みずから創り出していくものでもあるのだ。

「でも千種は、負けっぷりがとにかくよかった。負けてかっこいい、負け方に美学があった。潔い負け、堂々たる負け、記憶に残る負け」

 なるほど、負け方にも個性と魅力があるか。長与さん本人も稀有の才能だが、ちゃんと見ていて評価できるダンプさんの眼力もすごい。

 そして1980年5月、最初から将来を嘱望されていたライオネス飛鳥がデビューする。

 その間、ダンプ松本と長与千種は「辞めてしまえ」などと罵倒されていたものの、8月8日に東京の田園コロシアムで、ようやくデビュー戦を飾れた。

 そこから瞬く間にふたりはスター選手になっていた、のではない。

「デビューから2年くらいは、私と長与千種はいじめの標的にされてましたよ」

 資料によると、当時は年間300試合。1、2か月、自宅に戻れないなんて当たり前だったようだ。いじめを正当化してはいけないが、ほとんど毎日が巡業、限られた空間での規制の厳しい団体行動、そりゃ何か攻撃的にいじめてストレス発散もしたくなるだろう。

「巡業先で脱走して、でも、お金なくてのこのこ戻ってくる子もいれば、そのまま逃げ切る子もいましたね。私は逃げ場がなかったからな」

 女子プロレスが三禁、男と酒とタバコは禁止、というのはよく知られているが。酒とタバコをたしなんでもプロレスは辞めないが、男ができると辞めちゃうとのことだ。

 ダンプさんに聞いた話で妙に心に残ったのが、全女の松永高司社長(当時)の観察眼と鑑別法だ。

「試合や練習で、それまで平気でガバッと足を開いていた子が、変に恥じらって股を閉じるようになる。それを見ると、あっ、こいつ男を知ったな、とわかった」

 ちょっと考えてみれば、逆のような気もするのだが。全女の社長のいうことなのだから、そっちが正しいのだろう。

「でも、いじめたやつもひどいけど、すぐ逃げた子が“私は元・全日本女子プロレスにいた”というのはちょっと許せないな」

 そんなくすぶっていたダンプさんが、押しも押されもせぬダンプ松本になるのは、1982年の冬だ。デビル雅美率いる、デビル軍団の一員となったのだ。

長与千種を血まみれにした
伝説の髪切りマッチ

 そこから、ヒールと呼ばれる悪役に徹する強烈なプロレス人生が始まる。しかし、脇目もふらずの暴走ではなく、まだダンプさんにも迷いや悩みはあった。

「弱気なところもあって、マミ熊野さんとデビルさんが仲間割れなんか始めると、止めることもできず、ただおろおろするばかりだったり」

 そうこうするうちに、宿命のライバルである長与千種も脱皮を始めていた。翌年の8月、劇的にライオネス飛鳥とクラッシュ・ギャルズを結成。

 8月にジャンボ堀、大森ゆかりのダイナマイト・ギャルズと激闘を繰り広げ、そこで大きく弾けた。あっという間に、クラッシュ・ギャルズは大ブレイク。かつてのビューティ・ペアのようにリングで歌い踊り、大きな会場を連日満杯にした。

 負けじとダンプさんも、1983年3月にクレーン・ユウさんと「極悪同盟」を結成。デビル軍団の一員から、極悪同盟を率いる首領になり、ダンプ松本も弾ける。

極悪同盟時代

「1985年8月の、大阪城ホール、伝説の髪切りマッチ。あれで千種を血まみれの丸刈りにしたときは、試合後にうちらのバスを500人以上の殺気に満ちたクラッシュファンが、殺してやるーっと取り囲んだんですよ」

 その試合、覚えている。今もYouTubeで、ものすごい再生回数だ。

「がっしゃがっしゃバスを揺すりながら、ダンプ出てこい! 殺す! なんて罵声を浴びせられたら、さすがに怖かったですよ」

 負けっぷりがいいとダンプ松本にほめられる長与千種は、確かにその負け方でファンを燃え立たせた。

「それより頭にきたのは、リングを降りて楽屋に向かう途中、暴れようとするファンを抑える役目の警備員がどさくさにまぎれて私を殴ったんですよ」

 そりゃないわと憤慨するし、職務上も普通の男としても許されないことではあるが、警備員まで本気にさせた凄まじい試合、といっていいかもしれない。

 実際、あのころの女子プロレスは日本を巻き込んでいた。資料によれば、1985年には関東地方でテレビ中継が月曜の夜、土曜と日曜が隔週で夕方から放送されていた。視聴率も、20%超えだったという。今、こんなスポーツがあるか。

 さらに年間300を超える試合が各地で催され、日本中どこでも超満員だったというのだ。いま現在も女子プロレスは根強い人気を保ち、続々と魅力的な新人も誕生しているが、もはやマニアのものであるのは否めない。

 ずっと女子プロレスを追いかけ続ける伊藤さんも、冷静に分析する。

「あのころはなかったネットに、さまざまなコンテンツ。すべてが細分化もされている。ここまで娯楽の選択肢が多様な世界になってしまうと、女子プロレスに限らず何かの分野での一極集中、国民的大ブームは、もうないでしょう」

 ダンプ松本は、そんな時代を生き切って逃げ切った。

本当は生きた鶏の首をハサミで…

メイクをしていないと、朗らかな表情が多いダンブ松本 撮影:森田晃博

 それにしても、職業が悪役。というのは、改めてすごい。昔の悪役は徹底的に悪役だったが、今のヒール、悪役を割り当てられたレスラーは一見あまり悪役に見えないどころか、あの彼女のような可愛い顔で小柄だったりもする。

 ファンは、あの悪役のあの華麗なキメ技が見たい、悪役のちょっと生意気な、でもそこが魅力のパフォーマンスを見たいと願い、ベビーフェイスと同じ声援を送る。だったら、本人も愛されたいと願うだろう。いや、彼女は弱くない。ダンプ松本が強すぎるのだ。

 ちなみに、『有吉反省会』では悲鳴と同時になんだか笑いも起きてしまった、丸ごとの鶏肉を叩きつける場面。あれを改めてご本人に伺うと、

「本当は生きた鶏を持ってきて、報道陣の目の前でハサミで首をちょん切るつもりだったんです。でも、生きた鶏が手に入らなくて」

 そう答えられ、なんだかもう、ダンプさんのサービス精神の旺盛さと悪役に徹する一途さには、何度も圧倒されるしかないのだった。

 さてピークは過ぎたものの、十分にまだ女子プロレスが人気だった1987年の冬。積もり積もった不満、もつれにもつれた人間関係に悩まされたダンプさんは、所属する会社までが嫌になっていく。

 そうして会社に無断で1988年1月4日、後楽園大会の終了後、記者を前に衝撃的な引退表明に持ち込む。同志たる大森ゆかりも、その10日後に引退を発表した。

 関係者を驚かせ怒らせながらも、2月25日、そろっての引退記念の大会が行われた。川崎市体育館のリングを最後に、いったん悪役ダンプ松本は現役を退くこととなる。

 1988年3月から芸能界入りし、大森ゆかりと「桃色豚隊(ピンクトントン)」というユニットでCDも出した。なんと、作詞はあの芸能界随一のヒットメーカー、秋元康さんだ。大ヒットにはならなかったが、タレント・ダンプ松本は定着する。

 個人的には、女囚さそりシリーズで看守役を務めたダンプ松本が女優としてはいちばん好きだ。一途な凶暴さの中に、なんともいえない悲しみがあった。

「プロレスラーの引退宣言は新たな序章にすぎない」と、プロレスファンの間ではいわれているというが、ダンプ松本もその例外ではなかった。

長年殺したかった父親の最期

 2003年、再び悪役として現場復帰する。横浜アリーナにおける低迷した全日本女子プロレス人気を少しでも盛り上げたいという思いだったという。

 この話もよく知られているが、ダンプさんがレスラーを志した理由の中には、苦労したお母さんを楽にしてあげたい、という気持ちがあった。

 どんなにつらい目に遭っても、辞めない理由のひとつにもなっていた。そしてダンプさんは本当に、お母さんに家を建ててあげたのだ。だから、いったん引退もできた。

「お父さんが乱暴者で浮気者で、ぶっ殺してやりたいと、いつも思っていました」

 お父さんへの殺意と、お母さんへの愛。自分がひたすら突き進む、本物の悪ではないが悪と呼ばれる道。なんだかもう、一途に悪役になるしかない気もする。

 お父さんとはしかし、晩年に和解した。

「なんかもう、朦朧としているお父さんを見舞いに行ったんですよ。この人は誰だかわかる、と看護師さんに私を指されて、ダンプ松本、って答えたんですよ」

 娘だ。子どもだ。ではなく。ダンプ松本。きっとお父さんは、テレビで娘を見ていたのだ。そしてひそかに応援し、誇りに思っていたのだ。

「去年の8月7日。父は安らかな顔のまま、87歳で大往生を遂げました」

タレントとして活躍し始めたころ

 あの新木場の会場を、思い出す。あの中にはもしかしたら、ダンプ松本を殺したいと叫び、ぶっ殺すとバスを揺さぶったり家に石を投げたりした往年のファンも交ざっていたかもしれない。彼ら彼女らは何食わぬ顔で、ダンプさんに声援を送っていたか。

 殺気だったファンなど見当たらず、ひたすらダンプさんの還暦と40周年を祝い、ともに青春時代を思い出していた。 

 あの新木場の会場には、ジャッキー佐藤だけでなく、お父さんも見に来ていたのだろう。

 やっぱりリングに戻ってきた、ダンプ松本。やっぱり、極悪。

 とうにジャッキー先輩のお歳は越えてしまったが、お父様の年齢を越えても、現役の唯一無二の悪役として活躍していただきたいものだ。


 

特別寄稿 作家 岩井志麻子(いわい・しまこ) 1964年、岡山県生まれ。少女小説家としてデビュー後、『ぼっけえ、きょうてえ』で'99年に日本ホラー小説大賞、翌年には山本周五郎賞を受賞。2002年『チャイ・コイ』で婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で島清恋愛文学賞を受賞。著書に『現代百物語』シリーズなど。最新刊に『業苦 忌まわ昔(弐)』(角川ホラー文庫)がある。