暴力団相手に体当たりの取材を重ねて約30年。監禁や襲撃などを経験してもなお、裏社会に斬り込み、誰もが忌避する世界のトビラを開け続けてきた。銃で撃たれたあの日から、「暴力」を追い続ける男を突き動かしてきたものとは──。
魚を食べたら密漁の共犯?
今年もサンマが高い。それでも、醤油(しょうゆ)を垂らした大根といただく脂の乗ったサンマは、この季節には欠かせない旬(しゅん)の味覚だ。しかし、誰もが口にする魚がヤクザの密漁で捕獲されたものだとしたら──?
暴力団による海産物の密漁や密流通が横行している。つまり、知らず知らずのうちに私たちは密漁品を食べ、暴力団の資金源を支えているかもしれないのだ。そんな食品業界のタブーを暴いたのは、ライターの鈴木智彦さん(54)。
「日本の漁業をちょっと取材すれば、密漁や産地偽装問題が噴出しますよ。漁業関係者にとっては周知の事実でも、今までその詳細が報道されることはなかった。誰も足を踏み入れてない“秘境”だったんです」
ヤクザ専門誌を経て、フリーの立場でおよそ30年、暴力団を追い、関連記事を寄稿し続けてきた鈴木さんにとって、“密漁ビジネス”の取材はまるで「アドベンチャーツアー」だったという。
取材を始めたのは2013年のこと。あるときはサンマにイワシ、サバといった大衆魚の中心地・銚子に赴いてヤクザの痕跡を調べ、“黒いダイヤ”と呼ばれるナマコの密漁に迫るべく北海道へ飛んだ。またあるときは、国際的なウナギ密輸シンジケートを追って、九州から台湾、香港まで飛んでいる。
足で稼いだ情報が詰まった体当たりのルポルタージュ『サカナとヤクザ』は、電子・紙を合わせて5万部に迫る勢い。ノンフィクションでこの数字は異例のヒットといえるが、「(取材費などの)収支を考えると微妙なところ」
と鈴木さんは笑う。
企画の発端は、2013年に大ブレイクした連続テレビ小説『あまちゃん』。三陸海岸沿いの架空の町にやってきた主人公が、祖母の姿を見て海女になり、地元のアイドルとして人気を得ていく人情コメディーだ。
「当時、編集者とネタ出しをしていて、『黒いあまちゃんがいたらおもしろいね』と盛り上がったんです。帰宅してすぐに知り合いの組長に電話をしたら、どうやら本当にいるらしいと」
周囲に話すと、普段はヤクザに興味を示さない普通の人が食いついてくる。知れば知るほど調べたくなる題材に、どっぷり向き合った。気がつけば、取材開始から5年の月日がたっていた。
「東京の人だったら『ちょっと、飲みませんか?』と何度も会って、なし崩し的に内部事情を話してもらったりできるんだけど、東北や北海道の人だと仲よくなるまでに時間がかかるんです。1度、アワビの密漁の取材中に、『1日に2万円出すから、(漁師や海上保安庁に見つからないよう)見張りをやらない?』と勧誘されたことがあって。
最終的には断りましたけど、そういう話が向こうから出たり、試したり試されたり、ケンカして、仲直りしてって、『金八先生』みたいな面倒くさい段階を踏まないと、人は心を開いてはくれませんから」
襲撃事件と銃弾の衝撃が原点
考えてみれば、手離れの悪い仕事だ。「密漁品のアワビが売買されている」というひと言を聞き出すために、築地で4か月間アルバイトをしたこともあった。
小学館の担当編集・酒井裕玄さん(39)は、当時を次のように振り返る。
「築地の話は1章分にしかなっていないわけですから、効率の悪さが尋常じゃない。でも、かけた熱量みたいなものって、絶対、読者に伝わるんですよね。見張りの話も鈴木さんから『どうしようか?』と連絡があったので規範的にNGを出しましたけど、『こんな話があったけど断っちゃいました』と先回りしないのが鈴木さん。
とはいえ、自分の中に倫理的なラインがきちんとあって、これを載せたら話してくれた人の立場がなくなるからと、ボツにしたネタもあるんです」
納得のいくものを書いてほしいが、築地の章が入っている以上、豊洲の開場までに発売に漕ぎつけたい。原稿のデッドラインを定めた酒井さんは、ときに懇願し、ときに激ギレしながら原稿の催促を続けた。ようやく最後の原稿が届いたとき、豊洲開場は目前に迫っていた。
「酒井さんには『博士になるつもりですか!?』と言われました。もし、締め切りがなかったら、あと5冊書けるぐらい取材に時間をかけていたと思います」(鈴木さん)
いまや暴力団関連記事のオーソリティーとなった鈴木さんだが、端(はな)からライター志望だったわけではない。父が写真薬品などの製造販売を行う会社にいた関係で、周りにアマチュアカメラマンが多く、自身も子どものころから写真を撮るのが好きだった。
高校生のときにNHKの番組を見て、戦場カメラマン・沢田教一の存在を知る。それを機に、「将来は報道カメラマンになりたい」と日本大学芸術学部写真学科に入った。
1年生のときはウマの合う先生が写真基礎の担任だったこともあり、授業に出ていたが、徐々に学校から足が遠のいた。この当時から30年にわたって付き合いがあるのは、広告制作会社勤務の荒木孝一さん(55)だ。
「鈴木とは一緒のクラスだったんですけど、とにかく学校で見かけたことがなかった。ある夜、もうひとり同じクラスのやつとウチにやってきて、『一緒にクルマで九州に行こう』と言うんです。いきなりですよ? こっちからしたら『お前は誰だ?』って話ですよね(笑)。結局、九州には行きませんでしたけど」
学校よりアルバイトのほうが楽しくなった
学校に行かなくなった原因はアルバイトにもある。バブル最盛期の当時、海外の街並みやプールサイドで寝そべる美女など、景気のいい写真に需要があった。そういった写真のポジを貸し出すフォトストックのカメラマン事務所で助手をしていた鈴木さんは、写真を撮るため、1年の3分の2は世界を飛び回っていたのだ。
「いつの間にかアルバイトのほうが楽しくなったのと、写真で稼げることがわかったのとで大学はやめてしまいました。退学ではなく、除籍です」
ファッションカメラマンの藤田一浩さん(51)は、同じ事務所で働いていた後輩。姉妹に挟まれて育った藤田さんは、鈴木さんを「お兄ちゃんみたい」だと感じていた。
「僕は、大阪の大学を出て上京してきたんですけど、生まれは秋田なものですから、東京の地理が何もわからない。そのとき、鈴木さんが一緒に家を探してくれたんです。一応、写真学部だったんですけど、ロクに授業に出ていなかったので、『お前は本当に何も知らないな』としょっちゅう鈴木さんに呆(あき)れられていました。
それでもカメラを買うときについてきてくれて、使い方も教えてくれて。面倒見がいいんですよね。当時買ったカメラはニコンのF3っていうんですけど、今も使っています」
あるとき、鈴木さんに半年間のロサンゼルス撮影の話が舞い込んだ。必須条件は普通運転免許。無免許だったが、「持っています」と即答し、慌てて免許センターへ。しかし、出発日は差し迫っていた。
「非公認の自動車学校に2日通って、鮫洲で試験を受けて、落ちて、翌日は府中に行って、また落ちてを繰り返して、1週間ぐらいで免許を取ったんじゃなかったかな」
ロス暮らしが始まった。当時の住まいはダウンタウンとハリウッドの間にあるシルバーレイク。マンションのそばには3ドルでたらふく揚げ物が食べられる日本名のシーフードバーがあった。日本語に飢えていた鈴木さんは、次第に店主と言葉を交わすようになってゆく。
「当時、安部譲二の自伝的小説『塀の中の懲りない面々』が流行っていて、店主が『俺は安部譲二の舎弟だった』と言うわけ。そこから、その人と仲よくなりました。
当時の俺は、白人に負けたくないって気持ちが強くて、日本人らしいテーマの写真を撮りたいと考えていたんです。それを相談したら、彼が『ヤクザはどうだ?』とアドバイスしてくれて。確かに、ヤクザって被写体として魅力があるんですよ。刺青(いれずみ)は入っているし、指はないし、盃(さかずき)の儀式には荘厳さがある」
ある日、鈴木さんはハリウッドにつながる101号線の陸橋から夕暮れのビル群を撮影していた。ガスがかかるといい写真が撮れないため、そのスポットに通って何日目かのこと。夢中でシャッターを切っていると、ふいに衝撃が走った。暴漢に襲われたのだ。
「そのとき、暴力って怖いし、暴力って強いし、暴力って力の根源だな……と思ったんです」
結局、カメラも、撮影ずみのフィルムも、スニーカーも奪われていた。
ヤクザに拉致されても、怖くはない
「実況見分してくれたのが不良刑事で、友達みたいになったんです。その人に『俺たちはタダで撃てるから』と連れて行ってもらったポリス・アカデミーの射撃場で、『お前、防弾チョッキ着て撃たれたことないだろ』と言われて。なぜか防弾チョッキを着て、至近距離から銃で撃たれたんです。一瞬で人生観が変わるぐらいの衝撃でした」
こうした出来事が重なり、帰国した鈴木さんは暴力を取材テーマにしたいと考えた。
そして、ヤクザ専門誌『実話時代』編集部の扉を叩く。
「編集部に連絡したら、カメラマンは募集していないというので、とりあえず編集部員として入りました。すぐ辞めようと思っていたのですが、2か月ぐらいで『実話時代BULL』って雑誌の編集長にさせられて。編集長といっても要はクレーム担当で、若いやつにやらせるわけです。そこからずるずる今に至ります」
仕事内容は急変したが、少しずつヤクザの流儀を覚えていった。例えば、名前や組織の間違いなら、人間なら誰でもあるケアレスミスなので、謝れば許してもらえる。一方で、間違えられないのがケンカの勝ち負けだ。
「彼らはいかにケンカが強いかという表看板をしょっているから“負けた”はタブーだし、匂わせてもダメ。間違えたら訂正文を出すしかないんですけど、ヤクザは前例より大きい訂正文を出させたがるんです。1回やるとキリがないので、いかに小さなスペースに収めるかが勝負でした」
携帯電話がまだ普及していない時代。編集部に呼び出しの電話がかかってくることもあった。とはいえ、恐怖心はなかった。会って話せば仲よくなって人脈を広げられるし、根性を見せておかないと、「お前、あのとき来なかったよな」と、なめられるからだ。わかる気もするが、さらりと、「拉致されたこともあります」と聞いたときは耳を疑った。
「彼らはプロだから、殺人に見合うだけの利益がなければ殺さない。こちらも書いてはいけないラインがわかっているから、拉致されても怖くはないんです」
ほどなくしてフリーライターに転向し、精力的に暴力団関連の取材を続けた。そのころ、こんなアドバイスを送ってくれたヤクザがいた。
「『フリーになった以上、数年に1度はヤクザに襲撃されるようなことを書かないと、お前の名前が高まっていかないぞ』と言われたんです。それも一理あるなと、山口組があまり東京に進出していなかったころに、彼らが嫌がるようなことを10個ぐらいまとめて書いたんです。クレームもあったけど、無視しました」
自宅がバレるのを懸念した鈴木さんは、歌舞伎町に事務所を借りていた。ある朝5時ごろ、そのドアを叩く音がする。ハッと思うや室内に目出し帽をかぶった男が5人ほどなだれ込んできて、パソコンや備品を破壊された。
「顔を絨毯(じゅうたん)に押しつけられて引きずられたので、擦過傷みたいなものもできました。でも、痛いのなんて一瞬で、渦中にいる間は何も感じないんです。ギャングに襲撃されたときも同じで、恐怖は後からやってくる。ある程度、落ち着いて、庭の暗闇とかを見ているときに、今ここにヤクザが潜んでいたらどうしようと怖くなるんです」
信頼できる親分との親子以上の絆
身の危険を感じた鈴木さんは、大阪に逃げた。そのとき、何も言わずとも間に入り、話をつけてくれたのが西成に本部を置く東組の本部長(※当時)で、実話誌時代からお世話になっていた赤松國廣さんだ。「もう睡眠薬に頼らんでええで。そのかわり、被害届だけは取り下げや」。この言葉に安堵(あんど)した鈴木さんは、どのラインを越えたら危険が及ぶのかを身をもって知った。
「赤松さんは心の底から信頼できるヤクザでした。10年ほど前に病気で亡くなったのですが、その1か月ほど前に東京に出てこられて、後楽園ホールのバーで飲んだのが最後です」
愛妻家だった赤松さんは、さまざまな席に夫人の久美子さん(68)を伴った。そんな縁もあり、赤松家と鈴木さんの付き合いは今も続いている。
「鈴木くんと初めて会うてから25年ぐらいやな。お父さん(夫)と気が合うのか、親子以上の感じでした。お父さんは男の人は絶対に自宅に入れへんのやけど、死ぬ前に自宅の1室を改装したんですわ。『これ、鈴木君の部屋にしたってや』って。お父さんが亡くなってからもよう気にかけてくれはります。この間は、雑誌がコンビニに置かれへんようになってきたみたいな話になったから、『小説でも書きーな』言うてんけど」
そう語る久美子さんの隣で、「もっと、ええエピソードあげーや」と、つっこみを入れるのは、長女の久栄さん(48)だ。
「うちの父親は引退したら小説家になりたいぐらい物書くのが好きやったから、逆にうれしかったんやと思う。鈴木くんがまだペーペーやったころ、2人してひと晩中、『こうやって書いたらええ』なんてやっててね。鈴木くんも、自分が物書きで食べられるようになったのは親分のおかげやっていつもゆうてくれて、今でもこっち来たら、ウチの家族ごとご飯に連れて行ってくれてやるわ。ほんま、義理堅いで」
人間くさくて感情が極端に出る存在
今まで、総勢500人以上の暴力団関係者を取材してきた。暴力について書こうと思った日から今日までの数十年の間に、鈴木さんがヤクザに抱くイメージも、彼らのあり方もその都度、変化している。
「実は、ヤクザの暴力をあまり体験していません。彼らは仲間にはとても優しいんです。考えてみれば、こっちは取材する側で、向こうはよく書いてほしいわけですから当然ですよね。それもあって、最初はヤクザに酔うんです。けど、長い年月がたつと、やはりヤクザは信じきれないということがわかってくる。
ですから、すぐにのめり込んで、『この人好き!』となってしまうタイプの人はまずい。ハイハイ言っていると、使い走りにされてしまうし、ヤクザを褒めまくるライターが書くことなんて信用できないですよね?」
取材が一段落着くと、上げ膳据え膳の接待が待っているのがヤクザの世界。それを受け入れる書き手もいるが、鈴木さんは「付き合いが悪い」と言われても断って帰る。一線を引くことが大切だというポリシーがあるからだ。一方で、書く側に軸がないと、たやすくからめとられてしまうほど、ヤクザはある種、魅力的な存在でもあるのだろう。
「実話誌時代に取材をさせてもらった親分は戦中派で、敗戦がなければヤクザにはなっていなかったであろうインテリも多かった。ですから、それなりにヤクザ関連本を読み漁って話を聞きにいくわけですけど、思い上がりをコテンパンに打ち砕かれることも多かったですね。
ヤクザって、いい意味でも、悪い意味でも人間くさいんですよ。彼らは嫉妬に狂うし、憎いと思ったら殺してしまうし、これは人の道に反しますってときはわれ先に頷(うなず)く素直さもある。人間の感情が極端に出るんです」
運命は、自分の性格が呼び寄せる
ヤクザに限らず、極端な感情の発露が暴力に形を変えることもある。例えば、「好きだからこそ」と暴力をふるうDVや、弱みにつけ込んでの脅し。この手の暴力をふるう人間が身近にいた場合、対処法はあるのだろうか?
「以前、ヤクザに『いじめをなくすには、どうすればいいか?』と聞いたことがあるんです。返ってきた答えは、『反撃すること』。彼らのメンタリティーでは、いじめられっぱなしのやつは、いじめてもいいという発想があるらしい。でも、そこには圧倒的な男女の差や年齢差があるわけで。反発できないときは、一刻も早くそこから逃げるべきだと思います」
現役のヤクザも、はじめから暴力に明け暮れていたわけではない。居場所がなかったり、いじめられていた過去があったりするケースも多いという。
「本当に強い人はあっさりしてて話もわかってくれるので、武闘派からのクレームは処理しやすいです。だけど、いじめられていた人がヤクザになると、社会に復讐を始める。だから、その暴力には限度がないんです」
2011年3月11日、未曽有の被害をもたらした東日本大震災に付随して起きた福島第一原子力発電所事故。断片的な情報はアナウンスされるものの、なかで何が起きているのか伝わってこない──。
そのとき作業員として1Fに潜入し、誰よりも早く情報を発信したのも鈴木さんだ。その取材をもとに、ヤクザと原発との密接な関係を描いた『ヤクザと原発 福島第一潜入記』のなかで鈴木さんは、「暴力団と1Fは誰もが嫌がる危険な取材先で、だったら自分に向いている」と書いている。
「青くさいんだけど、昔からみんなが嫌がっているところに飛び込んでいくのが好きで、どこまで捨て身になれるかだったら負けないというのがあるんです。考えてみれば、中学生のころからそういうところがあったかもしれません」
男女交際にうるさい中学校だったにもかかわらず、毎日、彼女と一緒に登校した。冷やかしで雪玉を投げられ、教師には咎(とが)められ、学校中で問題になっても、一緒に登校し続けた。
「運命って自分の性格が呼び寄せているんじゃないかと思うことがあるんです。ヤクザの取材を続けているのも、最初は絵になるからと思っていたけど、みんながイヤがるからなんですよね。それでどんどんハマっていって、新聞社でさえ取れない情報を実話誌出身の俺が取ってくる。何なら優秀な記者に頭を下げられたりするワケじゃないですか。
自分は能力も低いし、ほかじゃ目立たないけど、『ヤクザといえば、鈴木智彦』と言ってくれる人がいる。それを聞くと、喜びで打ち震えるんです。ありがとうございます……! って気持ちになるんです」
鈴木さんは全く締め切りを守らないタイプ
どれだけ危険な場所に潜入しても動じない鈴木さんだが、昨年、驚くほど動揺する出来事があった。それは、ピアノの発表会での演奏中(!)に起きた。
ピアノを習い始めたのは一昨年前。『サカナとヤクザ』脱稿明けのスーパーハイな状態のままシネコンで見た、『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』がきっかけだった。全編にABBAのヒット曲が流れる映画の最中、『ダンシング・クイーン』が流れた瞬間、滂沱(ぼうだ)の涙が止まらない。音楽そのものが、直接感情を揺さぶったのだ。
「けっこう自信があったんですよ。自分はさんざんヤクザの事務所に乗り込んで話も聞いてきたし、もはや緊張することなんてないって。ところが、演奏の途中から本当に頭の中が真っ白になって、曲が1小節パンと飛んでしまったんです」
この顛末(てんまつ)は『ヤクザときどきピアノ』のタイトルで1冊にまとまっている。今でもピアノのレッスンは続けているが、ほかにもやりたいことはたくさんある。
「いま、54歳なんですけど、飛行機でたとえるなら降下前にポーンとベルトサインが鳴った状態。もう時間がないから、やりたいことは何でもやると決めているんです。コロナが落ち着いたらまず習字。やりたいことを見つけたいというより、不得手な部分を何とかして挽回したいというのが強いですね。字が汚いのがコンプレックスなので。
楽器なんて何も弾けなかったけど、楽器ができる人ってみんな幸せそうだし、セッションなんて最高に楽しいんだと思う。それを見て、『いいですね。いつかやりたいです』って言うのに飽きちゃって」
自転車にバイク、クルマといった乗り物にも目がない。クルマの運転をしたことがない人が習練するうちに脳内に回路ができて、意識しなくてもクラッチ操作ができるようになる──。そんな世界に焦点が合っていくような瞬間が楽しくてたまらない。それが如実に表れたエピソードを教えてくれたのは、大洋図書の担当編集・早川和樹さん(43)。
「鈴木さんは全く締め切りを守らないタイプで、締め切り日に連絡をすると、『何か頼まれていたっけ?』みたいなことを言うんです。それから、1、2日後に原稿があがってくるのがいつものパターン。原稿は最高に面白いし、それ自体は問題ないんですけど、あるとき、鈴木さんが所有しているバイクを撮影させていただいて、『何文字ぐらいで』と原稿も依頼したんです。そのときだけは、1時間後に原稿があがってきました」
週刊女性取材班が撮影をお願いした日も、ヤマハのTW200で颯爽(さっそう)と現れた鈴木さん。何せ、高精度な機械が好きなのだという。
「だって、よくできた機械には理由のない部品がひとつもないんですよ? よく見るとネジが中空になっていたりして、『軽くするため、そこまでやるか!』と楽しくなるし、そうやって組まれたものに乗ると『いま俺は緻密な機械に乗っている!』とハイになる。すべての部品にそうなっている理由があり背後にドラマがある。それを読み解いていくのがたまらないんです」
その言葉を聞いて、1冊のルポルタージュを書くために、取材に5年かけた理由が少しわかった気がした。
死ぬまで題材には困らない
すべての部品に存在理由がある精密機械に魅力を感じる一方で、鈴木さんが追い続けているヤクザという存在は、ひと言で説明がつくものではない。
「覚せい剤密売団のボスに『カネが貯まったら何をしたいですか?』と聞くと、発展途上国に病院を造りたいとか言うわけ。人間は悪にまみれていても善を希求したりするわけで、それが人間のダイナミックさなんですよね。暴力団を取材すると、たびたびそういう矛盾に遭遇します。自分のなかにも矛盾はたくさんあるし、一生かけてもその矛盾が解決することはないんでしょうね」
鈴木さんが尊敬するノンフィクション作家に溝口敦さんがいる。食肉の世界で暗躍した人物に肉迫した『食肉の帝王』などで知られる人物だ。
溝口さんから、「道窮まりて、王道に至る」と書かれた色紙をもらった鈴木さんは、それを仕事部屋に飾っている。
「要するに、山はどこから登っても頂上につくということなんです。で、昔のヤクザはしのぎ(収入を得るための手段)がはっきりしていたけど、表立ってしのぎができにくくなっているいま、密漁をやっているのもいれば、街で売春の斡旋(あっせん)をやっているのも、スニーカーを売っているヤクザもいる。多いのは投資ですね。ほんと、ヤクザは社会のあらゆるところとつながっています。
みんなはヤクザと聞くと後ずさるけれど、俺は暴力団取材をしてきたから、経験を活(い)かしてほかの世界に切り込んでいけば死ぬまで題材には困らない。『ヤクザ』というどこでもドアがあって、俺だけがそのドアを開けられると思ったりします」
わからないことをわかりたくて、長い時間を取材に費やしてきた。
「それでも、俺が子どものころから知りたいと思っていたことは、ひとつもわかっていないんです。例えば、死んだらどうなるか、とかね。ほかにもわからないことがたくさんあって、大半の人はわからないことをわかったふりをしてるだけということもわかってきた。でも、わからないことを考え続けなければならないということも、最近わかってきて」
この“知りたい欲”が衰えない限り、鈴木さんは現地に足を運び、見て、聞いて、自分にしかつかめない情報を追い続ける。
(取材・文/山脇麻生)