日本歌謡界の大作曲家、筒美京平さんが10月7日、誤嚥性肺炎のため自宅で亡くなった。
ジュディ・オング『魅せられて』、近藤真彦『スニーカーぶる~す』をはじめ、アニメ『サザエさん』主題歌など、1960年代から現代まで数々のヒット曲を世に送り出してきた。作曲者としての総売り上げは7560万枚と、堂々の歴代1位。数々の記録を残してきた巨星だが、表舞台に出ることを嫌っていた。そんな筒美さんの素顔とは─。
「有名になってもテレビや雑誌の取材には極力、応じませんでした。ただし、“家でじっとしている謎の人”と紹介されることもありますが、それは違っていますね」
そう語るのは、筒美さんの楽曲を管理する『日音』元会長で、筒美さんと長年、仕事をしてきた恒川光昭さんだ。
「京平さんは趣味が多彩で、アクティブな人。ジムに毎日通い、テニスもうまかった。旅行も好きで、急に1人でモルディブに行き、作詞家の松本隆さんとはアマゾンへ、売野雅勇さんとはケニアに行っていました。
グルメでもあり、国内はもとより海外の店も知っている。私もハワイやグアムに連れていってもらい、おいしい料理をごちそうになりました。ワインのこだわりもソムリエ級。店員でもわからないことを、教えている姿もたびたび目撃しましたよ。おしゃれにもそうとう気を遣っていて、スーツはいつでもオーダーメード。花も趣味で、自宅でたくさん栽培していました。とにかく何をやってもプロ級でした」
筒美さんがいちばんうれしかったことに挙げていたのは、
「C-C-Bが売れたことだと言っていました。最初は“見た目がブサイクだし、どうやったら売れるんだろう?”って悩んでいました。でも、“チェッカーズに負けない人気バンドにする”と言ってくれて、解散までの4年間、ずっと売れ続けました」(恒川さん、以下同)
ジャニー喜多川さんも全幅の信頼
小学校から青山学院に通い、学内では“神童”と呼ばれ、礼拝堂でよくピアノを弾いていたという。大学時代にはジャズ・ピアニストとして学内でバンドを組んでいたとも。
「仕事はとにかくすごい。歌手の声を聴いただけで音のイメージができていた。1度も会わずに曲を書くこともしばしば。平山みきさんの声を聴いても、私はどこがいいのかわからなかった。でも京平さんは“あの声、いいね”と言っていた。それで1971年に『真夏の出来事』という曲でヒットさせたんです」
ジャニーズにも大きな影響を与えた。筒美さんと交流の深い音楽プロデューサーの川原伸司さんが言う。
「ジャニーさん、メリーさんともに京平さんを最大限に信頼していました。ジャニーズとしては1970年代のフォーリーブスからの付き合い。何かのときに常に頼りにしているのが京平さんでした。よく3人で食事もしていましたね」
川原さんが田原俊彦のエピソードを紹介してくれた。
「トシちゃんが低迷していた1988年、メリーさんが“どうしても挽回したい”と京平さんに“神頼み”をして、イギリス人歌手トム・ジョーンズの『ラブ・ミー・トゥナイト』みたいな大人の曲を作ってほしいとリクエストしました。トシちゃんをアダルトな雰囲気に変えたかったんでしょう。京平さんは見事、期待に応えて『抱きしめてTONIGHT』を作り、トシちゃんの人気がそれで復活した。メリーさんはとても喜んでいました」
そんなジャニーズの間でも、筒美さんの取り合いはすさまじかった。『ジャニーズ・エンタテインメント』の代表取締役も務めていた小杉理宇造さんが裏話を披露する。
「1981年の新人賞はマッチがとることは間違いなかったんですが、当時のライバルは前年に新人賞だった田原俊彦。受賞曲『ハッとして!Good』以上の曲が欲しかった。実は、マッチにすでに曲が決まっていたんですが、それでは勝てそうにないということで、私が『ギンギラギンにさりげなく』というタイトルだけを考えておき、海外から帰国した筒美先生を成田空港まで迎えに行ったんです。
私の姿を見た筒美先生はビックリして“あなた何があったの? 目的があるんでしょ?”と言われて、用件を伝えると“よかった、事件じゃなくて”と笑いながら“わかった、書き直せばいいのね”と。それで曲ができたら、メリーさんから“これは100万枚売れる”とお墨つきをもらいました」
中森明菜のライブに大興奮
前出の川原さんが当時プロデュースしていた中森明菜のコンサートに突然、筒美さんが“行きたい”と言い出したこともあった。
「明菜のステージが終わったら、あんな“絶望”や“退廃”みたいな重いテーマを歌えるポピュラー歌手は初めて見た! と、京平さんにしては珍しく興奮ぎみでした。こんな曲は美輪明宏さんのようなシャンソン歌手しか歌えないと思っていたと、しきりに感心していましたね」
しかし、筒美さんは明菜にも松田聖子にも曲を提供していない。その理由を川原さんが説明する。
「キャンディーズ、ピンク・レディー、おニャン子クラブも同じく。やるからには最初から自分で育てたい気持ちと、人の“陣地”を邪魔しちゃいけないという、京平さんなりの美学があったんです。あくまでもデビューから、キッチリ育てていくのが筒美流」
誰も注目しない逸材を発見する才が卓越していたと繰り返すのは、前出の恒川さん。
「今井美樹さんがまだブレイクする前、彼女は歌では成功しないだろうって、私が仕事の依頼を断ったんです。それを京平さんに伝えたら“バカだねアンタ、あれはすごくいいよ”って怒られました」
名作曲家のお気に入りアーティスト
そんな筒美さんお気に入りのアーティストを紹介しよう。
「岩崎宏美さんは、特にお気に入り。高音が魅力だと思っていた彼女の、中低音のよさを見抜いていました。
南沙織さんもお気に入り。沖縄から出てきてレッスンでピアノを弾きながら好きな曲を歌うように言ったら、英語がいいと。そこで『ローズ・ガーデン』というカントリーの曲を歌ったら、すごくよかった。その曲にそっくりの『17才』が生まれたんです。
太田裕美さんもお気に入り。特に歌がうまいわけではないけど、声の特徴を見抜いたようで、1975年に『木綿のハンカチーフ』が生まれた。
本田美奈子.さんは歌の実力もマドンナみたいに目立ちたい欲求も理解していましたから、5曲目の『1986年のマリリン』でドカーン! となりましたね。ほかにも尾崎紀世彦さん、野口五郎さんなど提供曲が多い人は、京平さんのお気に入りでした」(前出・恒川さん)
生き馬の目を抜く芸能界で、ひたすらヒット曲を追い求めて金字塔を打ち立てた巨星に悪評は皆無だ。
かつて筒美さんは自らの仕事を“はやり歌作家の良心”と評したこともある。前出の小杉さんが振り返る。
「まったく嫌味がないし人の悪口を言っているのを聞いたこともない。インテリでカッコいいし奥ゆかしい。そんな男になりたいと憧れました」
裏方に徹した歌謡曲への“良心”が築いた偉業は忘れられることはない。