'80年にデビューして40年。“ぶりっ子”アイドルからアーティストへ、芸能界を走り続けて常に注目を集めてきた松田聖子。音楽評論家・田家秀樹さんはそのきっかけは、『風立ちぬ』と『赤いスイートピー』ではないかと話す。さらに、聖子の楽曲について「リスナーを疑似体験に誘う“水先案内人”」と……。
音楽評論家から見た「聖子の音楽」
「特に『風立ちぬ』は、アルバム『ア・ロング・バケイション』が大ヒットしたばかりだった大瀧詠一さんが作曲。自分のメロディーがアイドルにどこまで通用するのか試したかったと本人も語る意欲作でした。アイドルの曲のタイトルに作家・堀辰雄の名作『風立ちぬ』をつける手法も斬新でしたね」(以下、音楽評論家・田家秀樹さん)
期せずして日本のロック創世記にその名を残す伝説のバンド『はっぴいえんど』の4人(細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂)が集結してアルバム『風立ちぬ』で松田聖子をサポートした意義は、とてつもなく大きい。
「聖子さんの声はアメリカンポップスのコニー・フランシスにも通じる、甘くてセンチメンタルで可愛くてキュート。彼らにとって聖子さんは、歌謡曲が主流だった当時の日本の音楽シーンに切り込むきっかけでした。特に歌謡曲の詞に対する概念を変えてやろうと意気込んでいた松本さんにとって、聖子さんの声は最大の武器でした」
さらに'80年には、ユーミンが時代を先取りするような画期的なアルバム『SURF&SNOW』をリリース。当時を田家さんはこう振り返る。
「ロックの挫折感、大学紛争の敗北感漂う'70年代とはまったく違う'80年代の幕開け。海外旅行もままならない時代に世界を舞台にした曲を歌い、自分ではできない恋愛をリスナーは擬似体験していく。その水先案内人が聖子さんというわけです」
聖子の役割はさながら、'60年代にサーフィンやスキー、エレキギターも弾けない若者たちの代わりに、スクリーンの中でそうした夢を叶えてくれた加山雄三演じる“若大将”のようだと田家さんは彼女の立ち位置をたとえる。しかし、これらの楽曲は20歳を越えたばかりの聖子にとっても未知の世界だった。
「松本さんは歌詞を書くときに“ちょっと先に石を投げる”という表現をよく使っていました。歌手としてアイドルとして、等身大の松田聖子として、今いる場所のちょっと先。つまり、それが音楽的な成長、人間的な成長につながるというわけです」
そうしたなか'85年、聖子は結婚。さらに出産を経験したことで大きな変化を遂げる。
「東日本大震災、コロナ禍の今も根強い人気を誇る『瑠璃色の地球』は、聖子さんが妊娠中に録音しているため母性にあふれる特別な曲といわれています。しかし、聖子さんが妊娠していることはレコーディングが終わるまで明かされることはありませんでした。ただ松本さんは録音中にツワリに気がついたと言っていました(笑)」
結婚・出産を挟んで、聖子の海外進出も本格化していく。
「'85年には世界的なプロデューサー、フィル・ラモーンによる全編英語のアルバム『SOUND OF MY HEART』をリリース。さらに'88年には世界的な大物アーティスト、デイヴィッド・フォスターが楽曲を手がけるアルバム『Citron』をリリース。実はこのアルバムが、'81年からコンビを組んできた松本さんとの最後のアルバムとなりました」
松本隆のもとを卒業した聖子は、ここからセルフプロデュースの道を選ぶ。そんな中、'96年には自らが手がけた楽曲『あなたに逢いたくて』がミリオンヒットを記録する。さらに全米向けにアルバム『WAS IT THE FUTURE』を発表し、シングルカットされた曲がビルボードのクラブチャートで上位に入るなどの活躍を見せるも、日本ではあまり報じられることはなかった。
「どんなアルバムで、レコーディングで何があったのか。日本とアメリカの音楽の違いをどう感じたかなどもっと語る機会があったら……。当時は日本の音楽シーンも閉鎖的で海外進出に対して冷たかったのも影響していたのかもしれませんね」
デビュー40周年を機会に、さらなるチャレンジに期待したい。