「もしかしてレズビアン?」「ゲイなんだろう?」飲み会などでの何気ない一言。実際にそうであろうがなかろうが、その“他人からセクシャリティを勝手に断定される”ことに「気持ち悪さ」を感じている人たちがいる。その名もなき“モヤモヤ”の正体はいったいーー。自らの体験&思いを、フリーライターでジャーナリストの吉川ばんびさんがレポートする。
主に仕事関連の飲み会で、目上の男性たちからなんの脈絡もなく「吉川さんって、もしかしてレズ?」と聞かれたことがこれまでに数回ある。
(女性同性愛者であるレズビアンを「レズ」と呼ぶのは本来適切ではないが、ここではニュアンスを正確に伝えるため彼らの発言を一言一句変えず、そのまま書くことを了承いただきたい)
はじめは特別気に留めず流していたが、その会社を離れたのちに転職した先でも、独立して環境が変わってからも、男性たちから飲みの席で「レズビアンかどうか」を何度も聞かれるうち、次第に彼らの質問に対して強い抵抗を感じるようになった。
この問題を考えるにあたって、私のセクシャリティや性的指向自体は重要ではないので特に言及しないけれど、彼らが私を「レズビアンなのではないか」と思うに至ったであろう理由は、少なくとも2つある。
ひとつは、私が「恋愛の話」にあまり興味がない性格であるため、そういった話を自分から誰かに振ることもなければ、好んで会話に参加するわけでもないこと。別に職場の人との交流を避けているわけでもないが、なるべく公私を切り分けたいタイプなので、仕事関係の人たちとプライベートな話を共有するのがもともと得意ではない、ただそれだけのことだ。
もうひとつは、私が職場の男性からアプローチを受けたときに毎度、社内で関係性が悪くならないよう気を配りながら好意をかわしたり、相手にそれとなく「恋愛感情はない」ことを察してもらえるような行動をとったりするためだ。おそらく、男性たちが私のことを「レズビアンかもしれない」と考えた最大の理由はこれなのだと思う。
職場の男性と特別な関係に
なりたくなかったワケ
彼らはきっと、「自分たちが期待する振る舞いをしない女性は、異性愛者ではない」と他人の性的指向を勝手に断定して、その「おもしろくなさ」を無理やり腹落ちさせようとしているのだろう。
私が職場の男性と“特別”な関係を築きたくないのは、「公私を混同したくない」という理由以外にも、これまでに「男性から向けられた好意にこたえられなかった」ことで、散々な目に遭ってきた経験が背景にある。
想いを告げられた相手に対して「申し訳ない」と断れば、同じコミュニティ内で根も葉もない悪い噂を流されてきた。さらには「思わせぶりな態度を取った」、「性格が悪い」などと非難もされた。「結婚して自分の子を産んでほしい」と迫ってきた男性にいたっては、私が彼のモノにならないとわかるやいなや「お前みたいな機能不全家族育ちのクズは一生子どもを産むな、子どもが可哀想だ」と私を罵った。
学生のころから今にいたるまで、こういった経験を重ねてきたためか、私にとって他人から好意をもたれることはトラブルの原因でしかなく、私は「自分の恋愛対象外」の男性から特別な感情を抱かれることがだんだん嫌になった。
だから面倒ごとを増やさないように職場で振舞っていたのに、今度は「レズビアンかどうか」を詮索されることになってしまったのだ。
その「ひと言」で
傷つく人たちがいる
こうした体験を先日Twitterに投稿したところ、主に女性から「自分も似たような経験をしたことがある」といった共感の声が多く寄せられた。
一部の男性から、人間としてではなく「女」としてしか扱われないこと。仕事上の知人男性に既婚者であることを告げた途端、相手があからさまに態度を豹変させ、自分を無下に扱うようになったこと。ナンパを断っただけで、去り際に罵声を浴びせられたこと。
そんな経験を積み重ねてきた女性が「自分に性的な興味を持つ男性」を避けて身を守ろうとすると、さらなる攻撃を受けてしまう。そんな声がいくつも上がった。
全員が全員そう考えるとは全く思わないが、少なくとも私は「この煩わしさから解放されるなら、いっそのこと“女性性”を捨ててしまいたい」と考えたことが何度かある。
今では気に入っているが、髪を短くし始めたのも、身体のラインが出にくいメンズの服を好んで着るのも、気が強く見えるようなメイクをしているのも、元々はすべて、自分を守るための「武装」だ。
他人の性的指向やセクシャリティを「自分に都合のいいように」解釈したり詮索したりする行為の暴力性について怒りを覚えた一方で、自分自身の過去の言動をひとつひとつ振り返ってみると、残念ながら「自分がこうした類の暴力に加担したことがない」と胸を張って言い切ることはできなかった。
学生のころ、私と同じように恋愛や“女性関係”の話題に乗らなかった知人男性が、コミュニティ内で「早く『ゲイだ』って認めろよ」と囃し立てられているのを、ただ何もせず見過ごしてしまったことがある。
また5年ほど前には、理不尽なアウティング(第三者が本人の了解を得ずに、公にしていない性的指向や性同一性等の秘密を暴露する行動)の場に居合わせたとき、私は被害に遭った彼の代わりに暴露を制止することも、その場で抗議することもできなかった。
どちらのケースでも、当時の私は「いま目の前で、何が起きているのか」をすぐに認識することができなかったのだと思う。直接誰かを傷つけることはなかったかもしれないが、私はあのとき、自分が何もできなかったことを今でも後悔している。
だから今は、無自覚に誰かを傷つけないよう、理不尽な暴力に加担してしまわないよう、ジェンダーやセクシャルマイノリティにまつわる(それだけではないが)差別のあらゆるケースについて積極的に情報を集めたり、学んだりしつづけている。
幸い、学問として大学でジェンダーを学んでいた友人や、いわゆる「マイノリティ」とされる当事者の友人が近くにいるおかげで、物事を考えるうえでいろいろな視点からアドバイスをもらえることがありがたい。
誰も傷つかない世界などないかもしれないけれど、知識さえあれば、他人を傷つけなくても済むことがこの世にはたくさんあると思う。そうした意識を少しずつでも、例えばこの文章を読んでいる人のなかのたった一人とだけでも、共有して広げられないかと期待している。
吉川ばんび(よしかわ・ばんび)
'91年、兵庫県神戸市生まれ。自らの体験をもとに、貧困、格差問題、児童福祉やブラック企業など、数多くの社会問題について取材、執筆を行う。『文春オンライン』『東洋経済オンライン』『日刊SPA!』などでコラムも連載中。初の著者『年収100万円で生きる ー格差都市・東京の肉声ー』(扶桑社新書)が話題。