今はネット番組やユーチューブばかり話題だけど、昔はみんなテレビにかじりついていた。お茶の間を沸かせたあの人気番組って、裏ではイロイロあったんじゃ!? 当時は語れなかった秘話を当事者たちに聞いてみた!!
『欽ちゃんのどこまでやるの!』
わらべ三女・たまえ役の高橋真美
「当時はお父さん(萩本欽一)の番組の視聴率が30%を下回ると、スタッフがざわつくんです。子ども心に現場の雰囲気が引き締まっていくのを感じていましたね。でも30%ですよ? 今じゃとても考えられませんよね」
'80年代初めは欽ちゃん人気が絶頂に達し、“視聴率100%男”などと呼ばれていた時期。高橋真美(53)が3姉妹の末っ子、たまえ役で出演した『欽ちゃんのどこまでやるの!』(テレビ朝日系)は、『欽ドン!』(フジテレビ系)、『欽ちゃんの週刊欽曜日』(TBS系)と並ぶ高視聴率番組のひとつだった。番組で家族を演じた高橋は、今も萩本を“父”と呼ぶ。
「3姉妹の長女、のぞみ役は子役で活躍していた高部(知子)さんがもう決まっていて、次女のかなえ役は『週刊欽曜日』で小西博之さんの妹役だった倉沢(淳美)さんが『欽どこ』に移ってきたかたちで役が決まっていたんです。
私のたまえ役は、はじめは『欽ドン!』の気仙沼ちゃんのように一般の人から探していたそうなんですが、めぼしい人が見つからなくて、子役を集めてオーディションをすることになったそうなんです。当時、中学3年生だった私も参加することになりました」
高橋は10人ほどまで絞られた中に残る。初めて萩本が参加した最終審査は、あっけなく終わってしまった。
「セリフを読んだり、演技をしてみたりというのは全然なくて。2時間くらい待たされたところにお父さんが来て女の子たちをパーッと見たんです。そうしたら、“はい、OK。もう帰っていいよ”って言って、1分もたたずに帰っちゃったんですよ(笑)」
全員落ちたと思っていたら、選ばれたのは高橋だった。
「本当にびっくりしましたね。後で理由を聞いたら、ズラリと並んでいる端っこに、なんだか丸っこくて色の白いのが座っているなって思って、その印象だけで決めたって言われました。絶妙な太り具合だったらしくて(笑)」
現在はスリムなスタイルの高橋だが、当時は確かにふっくら体型。ただ、高橋自身は、選ばれた理由はほかにもあると思っている。
萩本欽一の好みだった?
「本当の理由はお父さんが私みたいな子がタイプだったからだと思います。キャンディーズのスーちゃん(田中好子)みたいな、丸顔で色白の子がけっこう好きなんですよ(笑)。何年か後に“絶対、私のこと好きだったでしょ?”って聞いたら、とぼけられましたけど」
3姉妹は、それぞれに違う役割が与えられていた。
「私はちょっと変なことをしてみたりするオチの位置だったんですよ。テレビの前のおじいちゃんおばあちゃんたちは、それを見てかわいいって言ってくれる。孫のような感じなんでしょうね」
愛されキャラではあるものの、思春期真っただ中だった高橋は複雑な心境だった。
「当時の放送を見返すと、確かに太ってるなって思うんです。でも私は当時、自分が松田聖子になれると思って生きてましたから! 日本中の女の子誰もが“聖子ちゃんになりたい”って思っていた時代なんですよ。私はたまえになってから、ちょっと人生が変わったなって思いますね」
ほんわかしたゆるふわタイプの役柄だが、その裏には厳しい稽古があったという。
「昼過ぎから稽古を始めて、終わるのは午後9時過ぎ。それで翌日に本番です。本当に小さい、細かいネタを何時間も延々と収録するんですよ。毎回4時間以上かかっていました。
私は黙って座ってることが多かったんですけど、どう座るか、座りながら何をするか、誰を見るか、っていうのも全部お父さんが指示したお芝居なんですよ。所作のすべてが笑いを追求して計算されていました。最初のころは“ただいま”っていうセリフと障子を開ける動作だけで、何時間も稽古したことがあります」
特に“お兄ちゃん”の見栄晴と高橋はオチを担当することが多く、笑いが長く続く場面での芝居だったため、芝居の間を変えないように “動いてはいけない”と指示されることも。
「できるまで何度も繰り返すので、リテイクの耐性はすごいつきました(笑)。リハーサルも撮り直しも、何回やっても大丈夫。その部分はすごく鍛えられましたね。別の番組で、自分から“あと3回くらいやりましょうか?”なんて言ったこともあります(笑)」
のぞみ・かなえ・たまえの人気が沸騰し、3人での歌手デビューも経験。ただ、思っていたものとはちょっと違っていた。
「『めだかの兄妹』って、童謡みたいなタイトルじゃないですか。しかもグループ名は“わらべ”。正直、3人で“えっ?”ってなったんです(笑)。アイドル全盛の時代に歌を出すって聞いたから、アイドルグループを作ってカッコいい曲を歌うのかなと思っていたんですけどね。
私たちはピンと来てなかったんですけど、お父さんは“これはすごいことになっちゃうよ”って。もう予言ですよね(笑)。全然信じられなくて“ホントかな?”なんて思ってたんですけど、お父さんの言うとおりでした」
シングルレコードが88万枚を超える大ヒットになり、『ザ・ベストテン』(TBS系)などの歌番組にも出演した。
萩本「ありきたりな答えをするんじゃないよ」
「でも、衣装はパジャマ(笑)。寝る前に歌うって設定でしたからね。キラキラしてる衣装を着ているアイドルのみなさんがうらやましいなって思いましたね。当時は歌番組でシブがき隊とか少年隊の横にキョンキョンとか明菜ちゃんとか座ってるとすごいブーイングが起こるんです。
でもわらべが座っていてもそんなことはなくて(笑)。ほっこりした気持ちで、本当に自分の娘とか孫とか、そういう感じで見ていてくれた人が多かったんじゃないかと思います」
勢いを受けて出すことになった2枚目のレコード『もしも明日が…。』は、前作を上回る売れ行きを記録。
「お兄ちゃんとか関根(勤)さんのコーラスがバックに入るんですけど、お兄ちゃんの歌が下手すぎて、私たちは1日でレコーディングしたのに、お兄ちゃんは2日間かかった、なんてこともありましたね(笑)。
このときも、お父さんが“この曲はすごい。めだか抜いちゃうね”なんて、ひとりだけ自信満々だったんです。正直なところ、曲調がちょっと暗い感じですし、 “そこまでかなぁ~?”なんて思っていました。でもこれもお父さんの予言が大当たり。その年のオリコンチャート年間1位を獲得したんです」
歌番組に出るとき、歌の練習より優先したことがある。
「司会者の人との掛け合いを徹底的に練習していました。もちろん、お父さんの指示です(笑)。当時、アイドルは“ハイ、ハイ”って頷いていればかわいいっていう時代だったのに、“ありきたりな答えをするんじゃないよ”って言われてトークの稽古。いつだったか、お父さんに“たまえは笑われてるんじゃない、笑わせてるんだよ”って言われました。その言葉で前向きになれた気がします」
高橋は“萩本と過ごした時間が今も活きている”と、こう話す。
「お父さんで育っているから、谷啓さんとか伊東四朗さんとか、お父さんと近い世代の人とお仕事をさせてもらうとき、はじめから信用していただけているんです。芸の基礎はちゃんと仕込まれているだろうって。柴田理恵さんにも、“あんたなら大丈夫!”って太鼓判を押されました(笑)」
欽ちゃんから、今も強く信頼されているようだ。