今はネット番組やユーチューブばかり話題だけど、昔はみんなテレビにかじりついていた。お茶の間を沸かせたあの人気番組って、裏ではイロイロあったんじゃ!? 当時は語れなかった秘話を当事者たちに聞いてみた!!
『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』
『ボクシング予備校』飯田覚士
日本選手でボクシングの世界王者といえば、具志堅用高にガッツ石松、内藤大助を思い浮かべる人が多いだろう。今やバラエティー番組で活躍する彼らも、最初は無名なボクサーだった。が、人気絶頂からスタートしたボクサーもいる。元WBA世界スーパーフライ級チャンピオンの飯田覚士(51)だ。今は都内でボクシングジムを経営。子ども向けの運動教室も開いている。
'85年から放送されたバラエティー番組『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』(日本テレビ系)で、’90年に始まったコーナー『ボクシング予備校』に、プロテストを目指す練習生の1人として出演した飯田。当時大学3年生で、かわいらしく爽やかな雰囲気だったため、一躍人気に。まさに“アイドル”だった。
「当時は外に出れば、すぐ人だかりができていました。後の妻となる彼女とデートに出かければ囲まれて、お店の裏口から逃げ出したことも。飲食店でトイレに立てば、人がついてくるんです。小便器の両脇を挟まれながら、この後“飯田と便所に行ったんだぜ”って話題にされるんだろうなと思ってました。生活はしにくかったですね」
思い出しながら、ゆっくりと語る彼の髪には白髪がまじり、笑うとくっきりと皺が刻まれる。爽やかなアイドルボクサーだった青年も、今年で51歳になった。
「ボクシングは大学の部活からはじめました。そんな折に、久しぶりに見た『元テレ』で練習生を募集しているのを見て、応募したんです。当時は大学3年生で、夢はツアーコンダクターでした。大学の思い出作りになればいいなぐらいの気持ちで、出演が決まったときは“ヨッシャー!”って思いましたね。
でも、東京に着ていけるような服がなくて、おばあちゃんがくれた5000円を握りしめて近所の洋服店に買いに行きました (笑) 。当時はドキドキしながら東京の街を歩いていましたね。怖い人に絡まれたこともあって……いろいろと洗礼を受けました」
『ボクシング予備校』は、江ノ島に作られた練習場で元世界チャンピオンの指導を受ける練習生たちがプロを目指すというもの。だが、最初の収録は方向性が違っていたそう。
「ボクシング好きのビートたけしさんが“ボクシングで何かできない?”という言葉から企画がスタートしたようです。最初はボクシングジムを借りて収録が行われたのですが、映画『ロッキー』にあった生卵を飲むシーンにあやかって、生卵の早飲み競争などおちゃらけたバラエティー寄りの内容だったんです。
ただ、当時ディレクターだったテリー伊藤さんがその収録映像を見て“ふざけるな! ボクシングをナメるんじゃねぇ!!”と激怒して撮り直しになったんですよ」
プロボクサーを目指す同じような後継番組もあったが、ヤラセが発覚して終了したことも。『ボクシング予備校』はどうだったのか?
ヤラセはあったのか?
「江ノ島の練習場に毎日通っているという設定でしたが、練習生は全国から来ていましたから、さすがに毎日ではなく、収録のときだけ通っていました。なので江ノ島には10回ほどしか行っていません。ただ、そこでは普通に練習していましたし、ボクシングについてはヤラセはありませんでした。
ディレクターが撮影のために“ちょっとでいいので走って”という指示だったのに、指導してくれていた元世界チャンピオンの渡辺二郎さんや渡嘉敷勝男さんは“もっと走るんだ!”と言うので、15km走ったことも(笑)」
全国から対戦相手を募り、実戦形式の練習であるスパーリングも行われた。
「僕のライバルとして登場したのが、のちにプロのリングでもグローブを交えることになる松島二郎くん。登場シーンは高級外車で乗り付けていましたが、その外車はディレクターさんからの借りものでした。
そんな演出はありましたが、スパーリングは真剣そのもの。結果として僕は負けたのですが、1ラウンド3分のところ、最終ラウンドは4分あったそう。テレビ的には僕を勝たせたかったみたいで……(笑)」
飯田がプロ資格を獲得し、番組コーナーは半年ほどで終了したが、ドラマはここからはじまる。
世界チャンピオンへの登竜門とされるのが『全日本新人王決定戦』だ。東日本と西日本でトーナメントを勝ち抜いた代表同士が激突する。プロデビューし、順当に勝ち抜いた飯田は西日本代表に。そして、東日本代表は『ボクシング予備校』でライバルだった松島。番組終了から約2年後の‘92年2月のことだった。会場には約8000人が詰めかけ、満席状態。
「テレビに出たチャラチャラしたヤツってイメージが強かったでしょうから、何が何でも負けられませんでした。“やっぱり練習してないんだな”って言われるのは、絶対に嫌だったんです」
勝負は判定で飯田の勝利。番組内でのスパーリングでは飯田が負けていたため、プロのリングで雪辱を果たす形となった。さらには‘94年に行われた日本スーパーフライ級王者タイトルマッチでも、グローブを交えた。これも飯田の6回TKO勝ち。
「松島くんもプロで2連敗はできない、“絶対に勝つ”という思いをもって試合に臨んでいたそうです。試合が終わったあとは、スッキリした様子で“今までで一番練習しました”と話していました。彼も減量が厳しかったようで、僕との試合を最後にバンタム級に階級を上げたんです。その後、彼も日本チャンピオンになりました」
2度の再戦に勝利した飯田は勝ち続け、‘96年にはいよいよ世界戦に挑んだ。
「選んでもらえてよかった」
しかし、5回TKOでプロ初の黒星を喫してしまう。その後、番組では会うことがなかったビートたけしから、実はアドバイスをもらっていたと明かす。
「ちょうど映画『HANABI』の撮影をしている忙しいときに、たけしさんとお話しする機会をいただいたんです。そのときは開口一番“負けると思ってたよ”と言われちゃって(笑)。
でも、いろいろなお話をしてくださいました。その中でも“役者っていうのは、自分をいろいろなアングルから見られるもんなんだ。見なきゃいけないんだ。そういうことがやれねぇとなぁ”と言われてハッとしたんです。僕は自分を見ることばかり考えていて、後ろから見たら、相手から見たらってことを考えていなかったなって」
たけしからもらったヒントをもとに、練習に取り組んだ。そして’97年12月。3度目の挑戦の末に、世界王座へと輝いたのだった――。
「いいだせんせぇ~」
リングを走り回る子どもたちが声をあげる。
「今は子どもたちに向けて、たけしさんからヒントをもらったビジョントレーニングを教えています。『元テレ』がなかったら、ボクシングの試合でもあんなに頑張れなかったと思うんです。むしろボクシングをやっていない、全然違う人生だったかもしれません。そう考えると『ボクシング予備校』に選んでもらえてよかったなと思いますね」
飯田の人生を、たった1つの番組が大きく変えた。