3名の死者を出した「渋谷温泉施設爆発事故」に巻き込まれ脊髄を損傷、半身不随となった池田君江さん。自由に好きなところへ出かけられる当たり前の日常が一変しても、彼女はあきらめなかった。車椅子ユーザーに必要な情報と、店側に「歓迎する気持ち」があれば、壁は突破できると知ったから。当事者目線のサイトを作り、講演をこなし、目指すは「ココロのバリアフリー」。すべての人にやさしい社会をつくるため──。
車椅子ユーザーに“ウエルカム”の意思を伝える
「ココロのバリアフリー応援店検索サイト」というポータルサイトがあるのをご存じだろうか。
そこには、飲食、趣味、美容、ショッピング、生活、スクール、冠婚葬祭のカテゴリーに分けられた2600以上の店舗や施設が「ココロのバリアフリー応援店」として掲載されている。エリアやジャンルのみならず、入り口や店内の段差、階段やエレベーターの設置状況、トイレの段差や手すりの有無といった条件で絞り込むこともできる。
つまり車椅子ユーザーにとって、自分が入店できる店を検索できるサイトなのだ。
特筆すべきは、店名や営業時間、住所といった基本情報のほか、詳細な「バリアフリー情報」があること。段差の高さ、入り口の幅から近隣のトイレの場所にいたるまで、当事者目線で必要な情報が網羅されている。
これらの「ココロのバリアフリー応援店」にはステッカーが配布され、店頭に貼ることで、車椅子ユーザーに“ウエルカム”の意思を伝えられるという。
このサイトを運営しているのは、認定NPO法人「ココロのバリアフリー計画」。理事長を務める池田君江さんは、こう話す。
「車椅子ユーザーは、日ごろから自由に、気軽に外出することが難しい。でも、情報さえあれば行動範囲は広がります。重要なのは、バリアがあってもお店側が“お手伝いをしますから、どうぞ気軽に来てください”と宣言していることにあるんです」
実は君江さんは、13年前まではごく普通の専業主婦だった。しかしある日、予期せぬ事故に遭遇し、人生を激変させた。そして、奇跡的な出会いを経て現在の活動にたどり着いたのだった。
轟音と衝撃──爆発事故に見舞われた日
2007年6月19日、東京・渋谷──。君江さんは、その1週間ほど前から渋谷区松濤にある女性専用の温泉施設で、エステやネイルなどの施術をするスタッフとして働きだしていた。
施設には、温泉が備えられた本館のほかに別棟があり、そこには従業員の休憩室兼ロッカールームがあった。
その日の午後2時前。君江さんは親しくなった同僚のひとりとコンビニでお弁当を買ってきて、休憩室に入った。テーブル席には、まだ顔と名前の一致しない3人の女性が座って食事をしていた。
「奥で食べようか」
君江さんたちは、奥に並ぶロッカー前のスペースの床に座り、お弁当を開いた。そのときだった。
突然、轟音(ごうおん)とともに、ものすごい衝撃が襲いかかった。
“何? いったい”
気がつくと、君江さんは爆風で飛ばされ、ロッカーと壁に挟まれていた。身動きが取れない。一緒にいた同僚は、陥没した床から地下に落ちたようだった。
“これってここだけ? 東京全部? それとも日本?”
不思議と意識はハッキリしていた。屋根はなくなり空が見えている。両手でなんとかガレキをかき分け、自分の足を見つけたが、“あれ? 誰の足だろう”と思った。感覚がまったくなかったからだ。
やがて外から人の声が聞こえてきた。
「大丈夫か!? 今、助けを呼ぶから!」
そのとき、初めて彼女はこの施設の事故だったことに気づいた。足の感覚はなく、とにかく血だらけで、どこがどうなっているかわからない。
レスキュー隊が到着し、君江さんに声をかけた。返事をして「下にもう1人、いるんです」と伝えると、隊員たちは地下に下りて同僚の救助に向かった。
君江さんは、ぼんやりとその状況を見ているうちに、ふと学校に行っている中学1年の娘のことを思い出した。
“あの子は鍵を持っていないから、帰ってきたときに、うちに入れない!”
そう心配した彼女は、レスキュー隊員に夫の携帯電話の番号を伝えた。隊員が電話をしているところまでは覚えている。しかし、そこで意識は途絶えた──。
事故当時、夫の克明さん(48)=当時(35)=は六本木のスタジオにいた。老舗の声優プロダクションに勤務する彼はゲームの収録作業中だった。突然、携帯電話が鳴った。
「こちらレスキュー隊ですが、渋谷で事故が発生して、奥様が事故に遭われました」
「一生寝たきり、よくて車椅子」の宣告
克明さんは、携帯電話を耳に当てたままロビーに飛び出した。空にはバタバタとヘリコプターが飛んでいる。
「何だ、これは?」と思い、テレビをつけると事故現場の映像が映し出されていた。その建物は原形をとどめておらず骨組みだけになっている。
「それで、妻はどんな状況ですか?」
「今、救急車で病院に搬送しています」
克明さんの頭の中をさまざまな想像がめぐっていた。
「とにかく詳しいことは病院についてからじゃないと言えません」と隊員が言う。
「今、意識はあるんですか?」
「ええ、意識はあります」
そして勇気を振り絞って聞いてみた。
「手足はついてますか?」
「ついてます。それ以上の詳しいことは病院で」
病院名を聞いてメモしようにも、手が震えて書けない。
これはのちに「渋谷温泉施設爆発事故」と呼ばれた悲惨な事故だった。温泉を汲み上げた際に噴出する天然ガスが地下にたまり、何らかの火が引火してガス爆発が起きたとされている。
君江さんたちがいた別棟は全壊、周辺の住宅やビルなども爆風や飛散したガレキで窓ガラスが割れ、屋根瓦が吹き飛んだりした。
休憩室でテーブルにいた3人は爆風で吹き飛ばされ、命を落とした。君江さんともう1人の同僚は、床に座っていたために吹き飛ばされず、重傷を負ったもののかろうじて生き残ったのだ。
「背骨の1か所を粉砕骨折して、それが脊髄神経に当たってしまい、そこから下の感覚がすべて麻痺しています。おそらく一生寝たきりか、よくて車椅子状態で、2度と歩くことはできないでしょう」
病院に駆けつけた克明さんに、医師はこう告げた。
脊髄損傷。骨折13か所以上。基本的に下半身はまったく動かず、痛みも感じない。
脊髄損傷とは、交通事故などで脊髄がダメージを受け、運動や感覚機能などに障害が生じる状態を指す。国内の患者数は10万人以上、さらに毎年、約5000人の患者が新たに発生している。現代の医学では、脊髄損傷による麻痺を元どおりには治せないというのが定説だ。
君江さんが言う。
「医師にさんざん、“命があっただけでも奇跡なんですよ”と言われました。今となったら、そうなのかなと思えるけど、当時はピンとこないのが正直なところでしたね」
2か月ほど入院し、そこからリハビリの専門病院に転院することになった。克明さんと君江さんの母が転院先を訪ね、医師に「どうにか立てるように、1歩か2歩だけでも歩けるようになりたい」と、希望を伝えてみた。だが、医師は鼻で笑うように「それは無理ですが、動かせる両手を鍛えて、みんなでバスケをできるくらいになればいいじゃないですか」と言うだけだった。
「行けないところなんてないですよ」
藁にもすがる思いで、君江さんは、別のリハビリ専門病院に入院した。その際、君江さんは夫に、ネットで調べものができるよう新しい携帯電話を買ってきてもらった。
「ずっとベッドの中で、その携帯電話を握りしめて、調べ続けていました。きっと誰か、海外でも国内でも、歩けるようにしてくれる名医がいるんじゃないかと思って。するとアメリカには、『プロジェクト・ウォーク』という脊髄損傷の患者のトレーニングを専門にしている施設があると知ったんです」
さらに見つけた情報に君江さんは目を輝かせた。なんと「プロジェクト・ウォーク」で資格を取得した日本人トレーナーが神奈川県厚木市でジムをオープンさせたというのだ。代表は渡辺淳さんという若い男性だった。
渡辺淳さんは、19歳のときにアメリカに留学。在学中、日本にいる親友が事故で脊髄損傷になってしまったことから、カリフォルニア州サンディエゴにある脊髄損傷者専門ジムの「プロジェクト・ウォーク」に出会う。
そこで日本の常識ではあきらめざるをえない患者が、明るく楽しくトレーニングに励み、まったく希望を失っていない姿に衝撃を受けた。親友を救いたい一心で卒業後、迷わず「プロジェクト・ウォーク」の門をたたき、外国人で初めて入社を許された。
そこで多くの当事者に触れ、神経組織の回復・再生のノウハウを身につけた淳さんは日本での開業を許され、'07年3月に晴れて日本初の脊髄損傷専門トレーニングジム「ジェイ・ワークアウト」を設立した。くしくも、君江さんが爆発事故に遭遇した同じ年だった。
'07年9月、君江さんたちは「ジェイ・ワークアウト」へ初めて見学に行った。大柄でがっしりとしたレスラーみたいな淳さんが迎えてくれ、笑顔でこう言った。
「脊髄損傷は治ります。回復しますよ。回復に限界はない。もちろん麻痺の具合は個人差があるし、事故によっても違う。ただ(トレーニングを)やった分の回復は見込めるし、それで日常生活に復帰できるかどうかは別として、必ず回復します」
最初は週1回、そのうち週2~3回と、君江さんは叔母の運転で世田谷から厚木のジムまでトレーニングに通うようになった。
あまりの外出の頻度に、入院していたリハビリ病院からクレームが入り、無理やり退院を強行。'07年12月、事故から半年が過ぎていた。
「ジェイ・ワークアウト」で得たことは、トレーニングの技術だけではなかった。トイレでの車椅子から便座への移り方、車椅子から車の運転席へ移り、さらに車椅子を車の中に入れる作業のコツも教わった。
「症状的には私より重い人がひょいひょいとやってみせるんですね。その人に教えてもらって5分くらいでできるようになった。それからは、手動装置を操って自分で運転して、トレーニングにも1人で通えるようになりました」
年に1回、毎年10月には「プロジェクト・ウォーク」のイベントに参加するため、ジムの仲間数人が渡米した。君江さんと克明さんも2回、参加している。
淳さんは利用者とのコミュニケーションも大事にし、よく飲みにも行った。
「それもバリアフリーの店なんかじゃなくて、段差があったり、トイレも入れないようなところ。それでも淳さんは“全然、大丈夫だよ。段差があったら僕が担ぐし、壁があったら壊すし”と、笑顔で言うんです。“行けないところなんてないですよ”と、私にいつも言ってくれました」
車椅子の入店を断られ、引きこもりがちに
「ジェイ・ワークアウト」でのトレーニングは、歩行器につかまり、トレーナーが3人ついて、少しずつ立って歩くという内容だった。そのうちトレーナーが2人でもどうにか歩みを進められるようになり、距離も2mから5mへと、徐々に伸ばしていけるようになった。
克明さんが当時を振り返る。
「微々たる成果でも“寝たきり、よくて車椅子”と言われたときからすれば、まったく違う。目標に向かう毎日が彼女の支えになっていたんですね。だから、そんなトライをさせてもらって、頑張っている妻の姿に僕ら家族もすごく勇気づけられました」
君江さんはいつも笑顔が絶えない。明るく気さくな性格はどうやって養われたのだろうか。
君江さんは1975年、大阪生まれ。5歳上の兄と両親の4人家族。父は会社経営者だった。高校時代の同級生で親友の大桐知子さん(46)は、君江さんを「とにかく前向きな子だった」と言う。
「明るくて向上心がすごくあって、昔から弱音を吐くのを聞いたこともないくらい、前向きな子です。大学受験のときも、遊びもそこそこやりながら、しっかりと受験勉強もやっていくという、すごい意志がしっかりしてる子だなと思っていました」
結婚を機に上京。子育てに追われながらも、エステやネイルサロンに行ったり、旅行や買い物など、外に出かけたりするのが大好きな、活発な女性だった。
ところが、車椅子ユーザーになった途端、世界は一変する。好きなときに好きな店に入るという当たり前のことが叶わなくなってしまったのだ。克明さんは、外出のたびにショックを受ける妻が不憫でならなかった。
「車椅子になった当初は、引きこもっていたんですよ。店に行って断られることが続いたようなんですね。そんな嫌な思いをするのがつらくて、ネットショッピングばかりしていたようです」
しかし、淳さんのジムに行くようになってから、君江さんはちょっとずつ前向きに考えられるようになった。
「ネットを使っていろいろ調べ始めました。ネイルだったら“ネイル 世田谷”で検索して、1軒ずつ電話して行けるところを探したり。“歯医者”も(検索結果に出てきた)上から順番に電話して、車椅子で入れるところを聞いて回っていました」
と、君江さん。飲食店も同じで、まずは車椅子が入れるかどうかを確認しなければならなかった。
「よくあるのが、“車椅子でも入れます”と書いてあるので“大丈夫ですよね”と確認すると、“え? そんなこと書いてあります?”“車椅子はお断りしてるんです”と言い出すパターン。大手の居酒屋でも、“うちは無理ですから”と、すごい断り方をされたこともありました」
ただ「バリアフリーではない」と言われただけでは、どの程度のバリアがあるのか、具体的にはわからない。段差はどれぐらいか、スロープはあるのかどうか。
「だから、店側に問い合わせて、“大丈夫です”と言ってくれるところしか行けなかったんです」
君江さんは、海外に渡航した際の経験から、そもそも日本では街で車椅子ユーザーを見かけること自体が少ないと感じている。
「お店で断られたり、タクシーの乗車拒否は当たり前。電車に乗れば舌打ちされて、お店にいても“狭くなる”と苦情を言われたり……。そうして嫌な思いをすることが続くうちに、外出する勇気がなくなっていく。ましてや、車椅子で行けるところもわからない状況では、外に出なくなるのが普通なんですね」
バリアだらけでも歓迎してくれた「串カツ田中」
事故から1年半が過ぎた'09年2月のある夜。君江さんは夫と娘を伴い、前から気になっていた、自宅近所にオープンした店に出かけてみた。
「串カツ田中 世田谷店」。手作り感満載の小さな居酒屋。店の前を通るといつも混んでいて、にぎやかだった。
「私は大阪出身なんで“ああ、串カツ食べに行きたいな”と、いつも思ってました」
最悪、入店を断られたら、店外にあるドラム缶テーブルでもいいや。そう思い出かけてみたのだ。
店で対応してくれたのは、メガネに口髭、そして大阪弁のオーナー店長だった。「大丈夫ですよ。でも、今まで車椅子のお客さんが1人もいなかったんだけど、どうやったらいい? どう手伝ったらいい?」と、フランクに聞いてきた。
君江さんは「そう聞いてくれた時点で“あ、入れてくれるんだ”と思って、うれしくなりました」と振り返る。
店長はアルバイトに声をかけ、自動ドアをとめ、2、3段の段差があるところを、4人がかりで車椅子を持ち上げてくれた。こうして中に入れたものの、店内はものすごく狭いうえにお客さんで混み合ってた。君江さんが困惑していると、店長は6人がけのテーブルのお客さんに向かって何のためらいもなく言った。
「すいません。ちょっと車椅子を通したいんで、1回立ってもらっていいですか?」
すると、座っていたお客さんが、ビール片手、串カツ片手に立ってくれた。テーブルを動かし、君江さんの車椅子はギリギリ入ることができたのだ。
そして君江さんは店内のトイレを確認した。手すりはなかったが、ドアは外開き。便座に移れさえすれば何とか入れる。店長が言った。
「え? 車椅子の人ってトイレ行くの?」
「ハハハ。そりゃ行きますよ」
「そっか。そんなこと考えたこともなかった」
そんな会話をしながら、君江さんと店長は笑い合った。君江さんと克明さん、そして娘の美憂さんは串カツに舌つづみを打ちながら楽しいひとときを過ごしたのだった。
「帰り際も、(車椅子を通すために)やはり立ってくれたお客さんが“あれ? 車椅子って飲酒運転にならないの?”みたいな声をかけてくれて(笑)。やさしいお店のお客さんって、みんなやさしいんだなって思いましたね。帰りも段差があるところを、アルバイトの子たちが車椅子を抱えて運んでくれたんですが、店長が“こんなんでいいんだったら、また来て”と言ってくれたんですね」
この言葉は、君江さんの心に深く響いた。
「“また来てくださいね”って言われたことが、すごくうれしくって。そう言ってくれるお店って車椅子になってからあまりなかったんで、感動しました。それからは結構な頻度で行くようになって。週3くらいのペースで通ってましたね(笑)」
そうするうちにアルバイトたちも要領をつかみ、君江さんが1人で出かけても対応できるようになっていった。
こうして君江さんは気づいたことがある。
「店がどれだけバリアだらけでも、そこで働く人の心がバリアフリーだったら、行ける場所は広がるし、居心地がいい場所になるんです」
新たな夢と、トレーナーの若すぎる死
この「串カツ田中 世田谷店」は全国に280店舗を展開させ、'16年には東証マザーズに上場した外食チェーン「串カツ田中」の第1号店だった。そして君江さんたちに対応した気さくな店長は、串カツ田中ホールディングスの代表取締役社長、貫啓二さんだったのだ。
貫さんも当時のことをよく覚えていた。
「娘さんもおられて、普通に和気あいあいとされていましたね。特に君ちゃん(君江さん)はお酒もガンガン飲まれるし、すごく元気で生き生きしているし、足が動かないというだけで、いたって普通に見えた。
僕も車椅子の人に触れることが初めてだったので、ある意味、普通であることが新鮮にも感じました。ちょっと構えていたことが何だったんだろう、と思えるくらい自然な家族の光景でしたね」
以来、君江さんと貫さんは「ヌッキー」「君ちゃん」と呼び合う友人となる。そしてこの出会いが、君江さんの活動の大きな契機となるのだ。
貫さんとの出会いのあとも「ジェイ・ワークアウト」でのトレーニングは続いていた。ジムは厚木から東京・豊洲に移り、淳さんはトレーニングだけでなく、利用者の夢を叶えようと月に1回、それぞれのメンバーと話し合う時間を作るようになっていた。
淳さんに「何をやりたい?」と聞かれた君江さんは、「障害のある人でも行きやすいカフェを作りたい」と言った。
何度も車椅子での入店を断られ、嫌な思いをした、彼女ならではの夢──。それを叶えるべく、淳さんと君江さんで「理想のカフェ」のオープンに向けたミーティングをするようになっていた。
しかし一方で、君江さんは「串カツ田中」との出会いから、「理想のカフェ」とは別の思いも強く抱くようになっていた。それは「串カツ田中」のようにやさしい店を増やしていくという構想だった。「ココロのバリアフリー」、そんなネーミングも君江さんの中に生まれていた。
「田中に通いだしてから“自分の理想のお店を1軒作るよりも、今あるやさしいお店をもっと広めたほうが、みんなが出かけやすい社会につながるんじゃないか”と思うようになって。自分のお店はやろうと思えばいつでもできるし、そこから今の活動にフォーカスしていったんです」
'10年11月のある日。君江さんは、いつものように淳さんのトレーニングを受け、次のミーティングの話をした。
「あとひとつ相談したいことがあるから、また今度、話をさせて」
君江さんは「ココロのバリアフリー」活動の構想を、淳さんに打ち明けるつもりでいたのだ。
この日の翌日、淳さんはハーフマラソンに出場すると言っていた。
「明日、頑張ってね」
「応援に来てくださいよ」
「朝早いからダメだよ」
それが最後の会話だった。
淳さんはマラソンの途中で倒れ、帰らぬ人となってしまったのだ。まだ29歳という早すぎる死だった。
創立者を失った「ジェイ・ワークアウト」だったが、淳さんがトレーニングに挑戦するきっかけになった親友が代表に就任。現在では東京・大阪・福岡にジムを展開し、淳さんの遺志を継ぎ、利用者に希望を与えている。
君江さんは、淳さんが生きていたら「ココロのバリアフリー」の活動を自分のことのように喜び、心から応援してくれると確信している。
やさしいココロがあればバリアは跳ね返せる
そして君江さんは、「ココロのバリアフリー計画」に本気で取り組むようになった。克明さんはこう話す。
「それまで彼女は、自分で頑張って一歩でも二歩でも歩いていく姿が周りに勇気を与えると信じて、2年間、トレーニングを頑張ってきました。でも、貫さんとの出会いからバリアフリーへの期待が高まっていることに気がついて、“私はそっちもやるべきなんだ”と思ったそうです。それでリハビリを続けながら、『ココロのバリアフリー』の活動にも力を入れるようになったんです」
貫さんは、君江さんの存在が多くのことを教えてくれたと言う。
「うちの会社でも君ちゃんにセミナーをやってもらっています。すると、社員やスタッフの社会性が上がる。僕を含めてみんな、電車で車椅子の人を手助けしたり、目の不自由な方を援助したりできるようになった。それはなぜか。
当事者に触れているからなんですよ。怖くない。もし断られても“気をつけて行ってくださいね”と言える。車椅子に触れる機会が増えたおかげで、車椅子の方が危ない状況にあったら助けることもできるようになったんです」
バリアフリーという言葉は浸透しつつあるが、設備面のバリア以上に、気持ちのバリアは強固なまま。車椅子の人が来るとなったら、入り口は段差をなくしてスロープをつけなきゃならない、店内もトイレも広くしなきゃならない──、そんな思い込みが店側には根強くある。
君江さんが言う。
「車椅子ユーザーは多種多様だし、症状も、困りごとも、それぞれ違います。そのひとつひとつに店側が対応できなくても、ウエルカムな気持ちと詳しい情報さえあれば、あとは自分で判断できますよね。
例えば、この段差であれば私の車椅子なら行けるなとか、階段があるならマッチョな友達を誘っておんぶしてもらおうとか(笑)。障害のある人にやさしいお店は、すべてのお客さんにとってもやさしいはずです」
君江さんには現在、飲食業やサービス業といった企業からの講演依頼が相次ぐ。パラリンピックに向けてバリアフリーに関する講演や相談も多いほか、自治体のセミナー講師を引き受けることもある。
そんな君江さんの活動を、貫さんは最初から見てきた。
「最初は、人前で話すときも声が震えて手が震えて“大丈夫かいな”という感じでしたよ。活動も小さくて、講演も数十人を相手に話していたのが、いまやうちの総会などでは1000人、2000人の前で話をすることもある。そういうシーンがどんどん増えて、堂々としゃべれるようになっていますね。
君ちゃんにしてみても、『串カツ田中』を1店舗目から知っているので、僕が社長として成長していく姿を見て楽しかっただろうし、僕も君ちゃんの成長していく姿を見ていて、すごく楽しかったんです。お互いに協力しながらやってきましたし、これからもそうしていきたいですね」
活動の原動力は「娘への、母としての思い」
プライベートでも君江さんは明るく活発だ。友人たちとおいしいお店で食事を囲み、ショッピングも楽しむ。タップダンサーである娘の美憂さんがニューヨークの舞台に出るとなれば、応援に駆けつける。同級生の大桐さんとの友情は続き、今も家族ぐるみで旅行に出かける仲だ。
「2年前には、君江ちゃん夫婦と娘さん、そして私たち夫婦の5人で台湾に行ってきました。君江ちゃんは海外経験が豊富ですからね。旅行先では事前にいろいろ調べてくれていて、本当に何も支障がないくらいスムーズに過ごせました。主人同士も仲よくさせてもらっていて、ありがたいです」(大桐さん)
爆発事故に遭い、車椅子生活になって6年がたった'13年11月17日。東京・田町のダイニングバー「ガーディアン」でNPOの発足パーティーを開催した。
貫さんをはじめ、企業の代表や、NPOの発足前から応援してくれている人たちなど大勢が参列する中、娘の美憂さんは司会を務める克明さんに促され、最後にステージに上がり、こんな挨拶をした。
「ママが車椅子になったことは残念だったし、ショックだった。でも、車椅子にならなかったら、こんなにたくさんの人たちに出会うこともなかったし、こんなにたくさんの人がママを応援してくれることもなかった。ママ──、車椅子になってよかったね」
会場にいた事務局の丸山順二さんが言う。
「美憂ちゃんも泣いていました。会場を見回すと、参列者全員が泣いていました」
君江さんの活動が広がりを見せる中、克明さんはよく周りから、「旦那さんのサポートがあったからでしょう」と言われるらしい。
「僕はそうじゃないと言います。やっぱり君江が強いから。人間的な強さというか、母としての力、娘だけには心配させたくないし、悲しい思いはさせないという一心が根本にあるんですね。それがトレーニングだったり、ココロのバリアフリーの活動だったりにつながっている。いちばんの原動力は、母としての強さなんじゃないかな……」
事故から13年の月日が流れ、被害者だった君江さんは、半身不随というハンディキャップを原動力に成長を重ねた。多くのことを経験し、どんどん人を巻き込み、その渦の中心にいる──。
神様はときに、こんなシナリオを用意することもあるのだ。
(取材・文/小泉カツミ)