最近、話題に上がる「AID」(非配偶者間人工授精)。夫以外の第三者から提供された精子を用いた人工授精のことを指しますが、実際にAIDで生まれてきた人たちは、どんな思いを抱えているのでしょうか。前回の記事『<AID>精子提供で生まれた60代女性、31歳まで明かされず「嘘の中で、大きな不信感」』に続き、ノンフィクションライター・大塚玲子さんからのレポートをお届けします。
「AID」は不妊治療のひとつで、第三者提供の精子を用いる人工授精のこと。このAIDで生まれたことを隠されて育った人が、大人になってから事実を知って苦しんだり戸惑ったりするケースが少なからずあります。
そのため最近は、精子・卵子提供によって生まれた子どもの「出自を知る権利」をきちんと保障する国や地域が多いのですが、日本ではこういった法律や仕組みがまだ何も整備されていません。
いま開かれている臨時国会で、提供精子・卵子で生まれた子どもと親の関係を明確にする法案が出されており、会期中に成立すると見られていますが、ただし同法案において「出自を知る権利」は、「2年を目途」に検討するとされています。これについて、AIDで生まれた立場の人たちからは、自分たちの声をよく聞いて法整備を進めてほしいと声が上がっています。
提供精子・卵子による不妊治療の一番の当事者は、生まれてくる子どもです。筆者は先週、AIDで生まれた立場の2名の方に話を聞かせてもらいました。今回は2人目、沙世さん(仮名・40代)の話をお伝えします。なお、沙世さんは筆者が以前書いた記事を読んで、自ら連絡をくれた方です。
あやふやなまま
両親が他界
沙世さんが自身の出自に疑問を抱いた最初のきっかけは、母親の緊急入院でした。5年ほど前、母親が脳卒中で倒れ病院に運ばれたとき、自分と両親の血液型の組み合わせが合わないことがわかったのです。
「『えっ?』と思ったけど、母がもう危篤の状態でそれどころじゃない、というので、そのときは流されちゃった感じでした。看護師さんにもう一度確認したけれど、『間違いない』と。『えーー…』という感じで」
母親は、そのままこの世を去ってしまいました。翌年、今度は父親が病気で入院します。このとき沙世さんは勇気を出し、なぜ自分と両親の血液型のつじつまが合わないのか尋ねてみましたが、父親は「血液を総とっかえしたと言ってたな」など、あいまいな返事をするのみ。とても納得できる答えではありませんでしたが、その3日後には、父親も亡くなってしまいました。
私って、誰なんだろう
事実を確信したのは、それから間もなくのことでした。AIDで生まれた男性のインタビュー記事を、たまたま新聞で読んだのです。その男性も親と血液型が合わないことから疑問を抱き、母親に尋ねたところ、慶応病院でAIDを受けて生まれた事実を知らされたということでした。
「すべてのパズルのパーツがつながったというか、『ああ、こういうことだったんだ』みたいな感じです。父の血液交換の話では全然腑に落ちなかったんですけれど、その男性の記事を読んで、すごく腑に落ちた。『あ、これ私なんだ』って。勘というかなんというか、すとんと心に落ちてくるものがあったんですよね。たぶんこういうことなんだろうな、と」
納得できたのには、複数の理由がありました。沙世さんは母親と顔がそっくりなのに、父親とはほとんど似ていなかったこと(ただし、父親は沙世さんをとてもかわいがっていたようです)。母親は沙世さんを産む前、何度も流産を繰り返し、慶応病院へ「治療」に通っていたのを聞いていたこと、などです。
「そうするとやっぱり、AIDという答えが私には腑に落ちます。でも、父も母も亡くなっているので、事実を知っている人はもう誰もいない。『私は何だろう』というのをずっと抱えたまま、やっていかなきゃいけない感じですね」
なお話を聞く限り、沙世さんは親や病院に対し、負の感情はあまり抱いていないようです。ずっと騙されていたことに対して、怒りの感情はないのか? と尋ねると、彼女はこう答えました。
「怒りようがないんですよね、母も父も死んじゃってるから。40年間、母として、父として育ててくれたので、それに対しての恩はあるし。教えてくれなかったことに関して『なんで?』というのはありますけど、それをぶつけようがない。怒れない、というのが私の場合、一番正しいかも。だからどうしようもないけど、『私って、誰なんだろう』という気持ちがずっと残るっていう」
これは筆者の想像ですが、沙世さんは両親が亡くなった後で事実を知ったので、両親がAIDを隠そうとしたり、恥ずかしく思っていたりする様子を一切見ないですんだため、怒りがあまりないのかもしれません。
筆者が取材したり、手記(*1)を読ませてもらったりした他の当事者たちは、ほぼみんな、告知後の親の不誠実な態度に深く傷ついており(そもそもは病院が子どもに事実を隠すよう親に指示していたためですが)、そのために怒りが強くなっているように感じられました。
負の感情はあまりないとはいえ、沙世さんもやはり提供精子・卵子による不妊治療については思うところはあるとのこと。まず、今後こういった精子や卵子提供による不妊治療をさらに広げていくのであれば、ルールをきちんと整えてほしいといいます。
「以前ある女性が、ネットで知り合った精子ボランティアの人を高学歴の男性と信じてAIDで妊娠して、でも学歴は嘘だったという話がニュースになりましたけど、そういう悪意のドナーもいるわけですよね。そういうドナー情報の確認はしっかりしてほしいというのはあります」
“見えない病気”が怖い
「遺伝的な情報」だけは知りたい
もうひとつ、沙世さんが最も心配するのは、ドナーが遺伝性の病気をもっていないか、という点です。
「私が一番こわいのは、見えない病気です。ドナーになるなら遺伝子の検査はしっかり受けて、そのうえで初めてドナーに登録してほしい、というのはあります。その遺伝性の病気を知らないうちに、私も子どもにわたしてしまっているかもだし。
精子提供をした後で、遺伝上の病気があるとわかるときもありますよね。そういう場合も、もしドナーバンクみたいなものがあったらそこに連絡がいくようにして、私や子どもにわかるようにしてもらわないと、ある意味不安で仕方ないです。
いまはそういう仕組みがないので私に連絡は来ないですよね。そこは、ほんと不安は感じます。だからドナーの遺伝的な情報は残しておいてもらって、子どもが見られるようにしてほしいし、AIDで生まれたことを子どもは絶対に知らされるべきだと思います」
なお、沙世さんはドナーに会いたいという気持ちはあまりなく(ドナーやその家族への遠慮もあるようでした)、見た目や性格にも強い関心はないといいます。このあたりは人によるのでしょう。
筆者はこれまで、AIDで生まれた人のほか、特別養子縁組、産院での取り違えなどで血縁上の親を知らない人を複数取材してきましたが、「絶対に血縁の親に会いたい」という人もいれば、「職業だけは知りたい」という人もいたり、関心の度合いや方向性には個人差があるようでした。
沙世さんは、とにかく「遺伝的な情報」を知りたいというのですが、これはおそらく、多くの当事者が共有する思いでしょう。
「どうしても子どもがほしい、産みたい、という人はいると思うので、AIDという選択肢を残しておくことは必要というか……。止めたところで、やる人は海外に行ってもやるでしょう。それならしっかり制度化して国内でやればいいんじゃないかな、と思います。その代わり、子どもがドナーの情報を知りたいというときに、納得できる落としどころを作っておいてほしいなとは思いますね。
やっぱり、そこ(ドナー情報の保管や、子どもがその情報にアクセスできる仕組みの整備)はしっかりやってもらった状態じゃないと、困るんじゃないですか。でないと、親が子どもをほしくてやったことのツケを、子どもが払うわけじゃないですか。それは一番ダメだと思うので。それだけは絶対はずさないでほしいです」
なお、筆者が沙世さんの話を聞いて印象に残ったのは、彼女が途中何度か口にした「漠然とした不安」という言葉でした。
「私の半分って、何でできていたんだろう、という漠然とした不安というか。片足立ちをしている、みたいな。着地点が欲しいのかもしれないです」
彼女が抱く「漠然とした不安」は、ドナーの遺伝情報を知るだけで解消するのでしょうか? 不安を解消するには、何が必要なのか? 沙世さんにも、筆者にも、疑問が残っています。
大塚玲子(おおつか・れいこ)
「いろんな家族の形」や「PTA」などの保護者組織を多く取材・執筆。出版社、編集プロダクションを経て、現在はノンフィクションライターとして活動。そのほか、講演、TV・ラジオ等メディア出演も。多様な家族の形を見つめる著書『ルポ 定形外家族 わたしの家は「ふつう」じゃない』(SB新書)、『PTAをけっこうラクにたのしくする本』『オトナ婚です、わたしたち』(ともに太郎次郎社エディタス)など多数出版。定形外かぞく(家族のダイバーシティ)代表。