死別、シングルマザー、親の介護、大病、家族共倒れ……思いがけず人生の困難に直面するたび、同じ苦労を抱える人々の実態を調べ、「社会の問題点」を鋭く見抜いてきた評論家。80代となり自身も老いのつらさを痛感する今、人生100年時代に誰もが安心して老いることのできる社会を模索している。健康寿命を超え、ヨタヨタ・ヘロヘロ生きる70代~90代を『ヨタヘロ期』と命名。わが身をもって示す老後を明るく生きる秘訣とは―。
このままでは医療保険制度は破綻する
最初はチリチリとした軽い痛みだった。講演会などで全国を飛び回っていたある日、評論家の樋口恵子さん(88)は空港から帰る途中に下腹部が重だるく感じた。10日ほど様子を見たが、徐々に膨満感がひどくなる。
放射線診断医の娘が勤務する総合病院の夜間診療で診てもらうと、胸腹部大動脈瘤が4個も見つかった。しかも破裂する危険があり一刻を争うとの診断。そのまま救急車で専門病院に転院し、夜中に緊急手術を受けた。
「別に苦しくもなかったし、ビックリしちゃってねー。恐ろしいと感じる間もなく、ストレッチャーで運ばれながら病状説明を受けたんですよ。手術台の上で最後に考えたのは“脱がされたスリップどこ行ったかな”と(笑)。娘の勤め先に行くから、いい下着に着替えていったのに、もったいないことしたなーと(笑)」
当時、77歳の樋口さん。手術で動脈瘤3個を除去して人工血管に置換し、危機を脱した。だが、残り1個は取りにくい場所にあり、今でも爆弾を抱えている。
大変だったのは、手術後のリハビリだ。
「地獄でしたね。まだフラフラしているのに、“起きろ、立て、歩け”と言うんですよ。“冗談じゃない!”と思ったけど、尻を叩かれんばかりの勢いでした。手術後、リハビリに取り組まず、大事にされすぎて、足も頭も弱ってしまった高齢者を医師たちはたくさん見てきたそうなんです」
3週間後に退院した。胸から背中にかけてL字型に数十センチの手術創が残っており、術後2、3か月はときどき激烈な痛みが走る。娘とふたり暮らしだが昼間は仕事でいないので、樋口さんはひとり布団の上でこらえた。
「痛いよー。痛いよー」
泣きながら叫ぶと、愛猫が枕元に来て、樋口さんの手の甲をなめてくれたという。
「猫の舌はザラザラしているから長い間なめられると痛くて(笑)。でも、猫になぐさめられたことは忘れられませんね」
大病を経て、考えさせられたことがある。
難しい手術だったので保険診療でも相当額の支払いを覚悟していたが、実際に手術費用として請求されたのは13万円あまりだった。
「日本の医療保険制度はこんなにも患者に恩恵をもたらす制度なのか。そんな国に生まれた幸せを感じて、本当に涙が出てきました。その次に、寒気がしたんです。人生100年時代と言われ始めていましたから、このままでは高齢者の医療費で医療保険制度は破綻するだろうと……。
だから今、後期高齢者の医療費負担を原則2割に上げようという案が議論されていますが、私個人としては反対できません。低所得者は1割のまま据え置くのが条件ですが」
評論家としての樋口さんのキャリアは半世紀に及ぶ。東京家政大学で女性学を教える一方、NPO法人『高齢社会をよくする女性の会』を立ち上げ、女性の地位向上や高齢者福祉の拡充などに尽力してきた。これまで書いた著書は60冊以上にのぼる。
樋口さんとは旧知の仲で、主婦の投稿誌『わいふ』前編集長の田中喜美子さん(90)は、樋口さんの魅力をこう表現する。
「樋口さんは頭の中だけでいじくり回して評論するのではなく、具体的な自分の体験をもとにして、問題点がどこにあるのかパッとつかまえて、的確な言葉で表現するのが抜群にうまいんですよね。だから彼女の言葉に多くの人が心を動かされ、自分のこととして受け止められるんだと思いますよ」
特に大きな貢献をしたのが、2000年に施行された介護保険法だ。樋口さんは母親や夫を介護した経験から、社会で支え合う制度の必要性を痛感していた。ところが、法案の骨格を検討する政府の審議会に参加すると、各地方を代表する県議や市議などから反対意見が相次いだ。
「介護は家族がやればいい。嫁の役割だ」
樋口さんは保守的な反対派を“草の根封建親父連合”と名づけ、テレビなどマスコミを通じて世論に訴えた。
「審議会でも少子化のデータを見せて“時代は変わりました”と繰り返しました。でも伝統的な家父長制が好きな草の根封建親父連合は毎回、ああ言えばこう言うで、あまりの根強さに“えー、これ負けるかも”と思ったこともありましたよ」
ときおりユーモアを交えてよどみなく話す。にこやかな笑顔も相まって、とても元気そうに見えるが、身体は満身創痍だ。
『老〜い、どん!』を出版
子どものときに急性腎臓炎と結核を患い、娘を妊娠中は重症のつわりで半年間入院した。66歳で乳がんの手術を受け、胸腹部大動脈瘤の手術後は肺活量が同年代女性の6割まで減った。
変形性膝関節症で外出時は補助具をつけており、歩くスピードはゆっくりだ。80代に入ると、ひと息で300メートルも歩けなくなった。検査すると、ひどい貧血だった。食事作りが面倒になり栄養失調に陥っていたのだ。
そんなヨタヨタヘロヘロの状態を“ヨタヘロ期”と命名。自身のヨタヘロ体験をつづったエッセイ集『老~い、どん!』を昨年末に出版した。
「以前からヨタヘロのお年寄りを見かけてはいたけど、自分に襲いかかるまでわからなくて、ああ、こういうことだったの。気がつかなくて、ごめんなさいね~って(笑)」
厚生労働省の統計(2016年)によると、自立して生活できる健康寿命は男性72・14歳、女性74・79歳。平均寿命が男性80・98歳、女性87・14歳。この健康寿命から平均寿命までの間にあたるのがヨタヘロ期だ。男性が約9年、女性では約12年もある。
健康寿命を延ばし、ヨタヘロ期を少しでも快適に乗り切るためには、十分な食事、適度な運動、そして外に出て人と触れ合うことが大切だ。
だが、老いるとトイレは近くなるし、疲れやすくなる。樋口さんは自分が外出先でトイレやベンチを探し回った経験から、「清潔で安全なトイレが各所に欲しい」「休めるよう街角にベンチを」と訴える。
「『老~い、どん!』を読んだ方から、老いに対する心構えができたとか免疫力がついたと言われて、とってもうれしかったです。老いの哀しみやつらさがなくなるわけではないけれど、あんまり悲愴にならずメソメソしないで生きていく力になればいいなーと。人生100年時代の初代として、『ヨタヘロ期』を生きる今の70代以上は、気づいたことを指摘し、若い世代や社会に向けて問題提起をしていく責任があると思います」
本が話題になり講演の予定が多く入っていたが、コロナ禍でほぼキャンセルになった。シンポジウムや審議会はオンラインで開催されるようになり樋口さんも何度か参加したが、「雑談もできないし一方通行みたいで、なーんか面白くないのよ」と不満顔だ。
対面とオンラインを併用する場合、できる限り会場に足を運んでいる。雑誌の連載も抱えており、とても88歳とは思えない忙しい日々を過ごしている。
そのバイタリティーはどこから湧いてくるのかと聞くと、思わぬ返答が返ってきた。
「練馬の野育ちだからでしょう。お姫様じゃないもの、私。近所の子と家から離れた場所で遊んでいても、風に乗ってお前の声だけが聞こえてきてうるさいと、父にいつも怒られてましたから(笑)」
兄の無念と戦争体験
樋口さんは1932年生まれ。東京都練馬区で育った。先日、閉園したとしまえんのすぐそばで、当時は農地が広がっていた。小学校も分教場しかなく、豊島区の小学校に越境して電車で通った。
父の柴田常恵さんは考古学者で、慶応大学で教えていた。実母はがんで亡くなり、育ててくれたのは後添えの母だ。2歳上の兄と2人きょうだいだったが、よく「恵子はできが悪い」とバカにされた。
「兄は天才だ神童だと言われた時期もあり、父に偏愛されていました。でも、人付き合いが悪くて孤独でしたね。私は鼻ぺちゃで器量も悪かったけど、お友達とワイワイやりながら先頭に立って何かするのが大好き。楽しく生きていました。だから今にして思えば、兄が私をいじめたのは嫉妬もあったのかもね」
小学3年生のとき急性腎臓炎になった。突然、顔が2倍くらいに腫れあがり尿が出なくなって1か月半入院。退院後も厳しい食事制限が1年以上、続いた。
6年生になると空襲が激しくなり、長野県に集団疎開した。15歳だった兄が結核性脳膜炎で死亡したと疎開先に連絡が来て、ひとりで東京に戻った。
'45年春に旧制高等女学校に入学してすぐ、樋口さんも結核を発病して休学。1年半、自宅で療養している間に、戦争が終わった。
「仲のいい友人たちから1学年遅れるのが悔しくて、悔しくて。でも、フワフワ、パーパーした軽佻浮薄な女の子だった私が、後に評論家になれたのは、その1年半のおかげだと思います」
古本屋巡りが好きだった兄は、哲学書、外国文学、戯曲、日本文学など膨大な蔵書を残した。それらを布団の中で繰り返し読んだことが、土台となったのだ。
「兄は小学校高学年のころ、戦争反対と口にできる年齢ではなかったけれど、明らかに軍国調の日々がつらそうでした。“思想がおかしい”と軍国主義の担任教師にひどく迫害され、行きたい中学にも進学できませんでした。集団疎開でお腹がすいたのもつらい体験でしたが、わずか12、13歳の少年も排除していく同調圧力の中で、思想の自由がどんなに大事か考えさせられました。それが私の戦争体験の中でいちばん大きいことです」
高等女学校に復学すると、自由な空気がみなぎっていた。同級生の加納美佐子さん(87)に聞くと、樋口さんは抜きんでた秀才だったという。
「すごく頭の回転が速くて、憧れの人でした。あのころは学校で演劇が非常に流行っていて、お恵さん(樋口さんの愛称)は小説『小公女』をもとに台本を書いたんです。配役も的確ですごいなーと。1年遅れて入ってきたけど、みんなに一目も二目も置かれる存在でしたね」
東大新聞部で女性初の編集長
お茶の水女子大学附属高校を経て、'52年に東京大学文学部に入学した。戦後、GHQの命令により女性も参政権を獲得。それまで差別されていた高等教育への進学も可能になった。東大は'46年に初めて女子19人の入学を認めたが、樋口さんが入った年も女子は全体の3%で15人ほど。
樋口さんは「何か伝えることがしたい」と新聞部に入った。当時は大学内で自由に弁当を広げられる施設もなく、雨が降ったら行き場がない。新しい憲法で保障された最低限度の生活の場所すらないと感じて、学生新聞に『学園に生活はあるか』という長文の記事を書いた。
「今でも私が言いそうなことでしょう(笑)。男の子はバンカラだから、そういう生活上のことは気がつかないの。上級生の編集長にほめられたけど、“お恵ちゃん、やっぱり女だよな”と言われてイヤだったのが半分。やっぱり男ばかりの社会は偏ると思ったのが半分。女子寮や食堂、女性のトイレを増やしてほしいとか、ちょくちょく書かせてもらいましたよ」
その後、女性初の編集長に就任。3年からは学内の教育施設である新聞研究所にも合格、卒業後はジャーナリストを目指した。だが、そもそも女性が受けられる新聞社は少なく、意気消沈。唯一、受かった時事通信社に就職した。
最初は雑用をこなしながら、配属先の決定を待つ。男性の新入社員は次々決まっていくのに、樋口さんだけお呼びがかからない。
「もう、毎朝会社に行く足取りが重くてねー。最後に私ひとり残ったときには石神井川に身を投げたいと思ったくらいつらかったですね」
その後、欠員が出た活版通信部に配属された。金融と財政を担当する部署で、樋口さんは助手として日銀総裁交替の記者会見にも先輩と同行した。だが、夢見た記者生活とは、ほど遠い日々……。
「人間の出来がお粗末なので簡単に絶望し、自棄のヤンパチになって、お見合い結婚しちゃいました。ダメ女ですね(笑)。大学でも社会学を専攻すればよかったと後悔したし、私の人生なんて悔いだらけですよ」
入社から1年あまりで結婚退職した。5歳年上の夫は東大工学部出身のエンジニア。工場のある山口県の社宅に住み専業主婦になった。
妊娠すると、重いつわりで苦しんだ。子どものころ患った腎臓炎が再発する危険性もあり、半年間、入院して点滴で命をつなぎ、26歳で娘を出産した。
まもなく夫の東京への転勤が決まる。父は樋口さんが大学卒業前に亡くなっており、母がひとりで住んでいた実家に、一家で移り住んだ。
東京に戻ったのを機に、樋口さんは働くことにした。きっかけは新婚時代に夫にかけられた言葉だった。
「僕たちは国民の税金で大学を出たんですよ。あなたもせっかく大学に行ったのだから、税金を払ってくれた人のために、何か役立つことができるよう勉強したらどうですか?」
当時の国立大学は授業料が非常に安く、多くが税金でまかなわれていた。
「普通の男と結婚したと思っていたのに、えらい男と結婚しちゃったと思ってねー(笑)。あれは、生涯を決めた大きな言葉でしたね」
夫と死別「2人前働く」日々
2歳になった娘の面倒を母にみてもらい、新聞の求人広告を見て仕事を探した。ときは1960年。4年後の東京オリンピック開催が決まり、世の中は高度経済成長に沸いていた。だが、女性は結婚したら退職するのが当たり前の時代で、職探しは難航。書いた履歴書は100枚に上る。
ようやくアジア経済研究所に機関誌の編集助手として採用されたが、既婚女性は正社員になれないとわかり数か月で辞めた。
育児雑誌の編集者を募集していた学研に応募すると、面接で「女性は妊娠4か月で退職する内規がある」と言われ、思わず反論した。
「母親向けの雑誌を作ろうとしているのに、母親の目を阻害していいのですか?」
最後は、女性が働くことに理解があった社長の判断で入社が決まった。
編集の仕事を覚えて楽しく働いていたが、31歳のとき、樋口さんを思いもよらない不幸が襲う─。
夫が糖尿病性昏睡により倒れ、わずか5日で亡くなってしまったのだ。
「夫婦仲もよかったし、夫は仕事も順調で、やりたいこともいっぱいあっただろうし、かわいそうで、かわいそうで。私は泣いて、泣いて、よくこんなに涙が枯れないと思うくらい……」
女学校、高校の友人が次々見舞いに来てくれた。そのうちのひとりにこう言われて、ハッとしたという。
「あなたは仕事があるから泣いていられるのよ。子どもを抱えて明日からどうやって食べていこうかと思ったら、泣いている暇はないわよ」
前出の同級生の加納さんも心配でたまらず、何度も様子を見に行ったそうだ。
「家族ぐるみでよく旅行に行ったりしていて、本当に温厚で素敵なご主人だったから、ビックリしましたね。すぐ駆けつけたら放心状態で、お恵さんまで死んじゃうんじゃないかと思ったくらいです。ただ、嘆きようも激しかったけど、そこからの立ち上がりも早かったですよ。仕事があったからというより、昔からウジウジ、グジグジしていなくて、行動力があるんです」
当時、夫が勤めていたキヤノンには若くして社員が亡くなった場合、残された妻を雇う慣習があり、樋口さんは広報宣伝部で働かせてもらった。学研は辞めたが、ライターとしての仕事は続けた。
「夫が死んで悲愴になっていたから2人前働こうと思って。働いたなー、あの時期は。徹夜で原稿を書いて、朝そのままキヤノンに行って働いていると、椅子から立ち上がるだけで空気が重いの。若いからできたのね」
働くひとり親の過酷な介護体験
ライフワークとなった女性問題に関わりを持ち始めたのは、学研で編集者をしていたときだ。'62年に新聞で『婦人問題懇話会』という民間の研究団体設立の記事を読み、自分から足を運んだ。
「筆まめという人がいますが、私は足まめです。興味を持って行ってみたら、労働省(現・厚生労働省)や都庁の女性問題の担当者など、大勢の先輩女性がいて、私にとっては大学院みたいな場所でした。
本を出版しようという話になって私も書き手の1人に選ばれて。まだ珍しかった共働き夫婦の家事労働分担について夫たちに連続インタビューしたら、NHKがラジオ番組で取り上げてくれたんです。初めて出演したときは手も声も震えましたよ。それが私の評論家デビューです」
やがてキヤノンを辞めて評論家として独立した。
'83年には自らが中心になり『高齢社会をよくする女性の会』を立ち上げた。その裏には母を看取るまで、1年8か月続いた過酷な介護体験があった。
母は腎臓の病気があり、徐々に抑うつ状態に。夜中に起きて変なことを口走ったり幻覚を見たりもした。
かつて樋口さんが夫を亡くして働き詰めだったとき、娘の面倒を見てくれたのは母だ。そんな負い目がどこかにあったのかと聞くと、樋口さんは即答した。
「いやあ、母がいなかったら今日の私はありませんよ。ハッキリ言って、私は母の人生後半を食いつぶしたと思っています。昔の人だから一切、文句も言わずに娘をかわいがってくれましたよ。でも、もうちょっとやりたいこともあっただろうにと……」
母が亡くなったのは'75年。まだ老人医療が確立される前で、入院先を見つけるのも大変だった。
「働くひとり親が病人を抱えたらどんなことになるか、よくわかりました。そのころから日本中のいろいろな地域に講演に行くと、介護のために仕事を辞めざるをえなかったお嫁さんたちの悲鳴が聞こえてくるようになったんです。まだ介護という言葉は一般的でなく、看病とか世話をすると言っていましたが」
同会には多いときで1500人以上の個人会員がいた。介護保険法をめぐって論争が続いていた'90年代後半は、イベントを開くたびに入会希望者が押し寄せた。介護に携わる専門職のほか、自分や親の老後を心配する主婦も多かった。
事務局長の新井倭久子さん(81)は長年にわたって間近で見てきた樋口さんの素顔をこう話す。
「設立当初、約30人いる理事の中には先輩もおられたそうですが、まだ50歳だった樋口恵子が代表になって、その後、ずーっとこの会を引っ張っています。もう、ブルドーザーといおうか(笑)、大黒柱といおうか。
樋口は自分の思っていることはハッキリと主張しますが、異論に耳を傾け、相手を立てるところがあります。長所を生かす。運動は1人ではできないことをよく知っていますね。だから、樋口に多少無理を言われても、みんなめげない(笑)。この会がこんなに長続きしたのは、樋口恵子が代表だからだと思います」
'05年にNPO法人の認証を受けた。かつて40~50代が主力だった会員も、今は65歳~75歳が中心だ。高齢になり辞める人もいて会員数は半減したが、活動は精力的に続けている。
3年前、高齢者の薬の飲みすぎが問題視されたときは、同会でも会員の協力を得て服薬の実態調査を開始。5000人分以上のデータを集めて厚生労働省に届けた。コロナ禍で高齢者のICT(情報通信技術)弱者ぶりが報じられると、実態調査を始めた。
乳がんで家族共倒れの危機
評論家として頭角を現した40代初めに、2度目の結婚。約30年の人生後半をともにした。事実婚で、相手は共同通信に長年勤務した後、いくつかの大学の教授を務めたジャーナリストだ。
樋口さんが建てた家で同居を始めたとき、娘は中学3年生になっていた。
「彼の領域を作って、若干の家賃を払ってもらい独立性を保ちました。娘は思春期だったからうれしくなかったと思いますよ。でも、私には私の生き方があると思うから、決して引け目には感じませんでしたね」
夫は東大の新聞研究所の先輩で、教えてもらうことが多かったそうだ。
「褒め上手でしたね。“この原稿は実によく考えて書いてある”とか、折に触れて褒めてくれました。私が絶対にかなわないなと思ったのは、いい先生であるということ。学生をすごくかわいがってよく育てました。彼が病に倒れると卒業生や教え子たちが見舞いに来てくれて、枕元が常ににぎやかでした」
66歳のときに夫は重度の脳梗塞で寝たきりになり、3年3か月の闘病後、'99年に69歳で亡くなった。話すことはできなかったが、まばたきと右手親指を立てて意思表示ができた。
不運はそれだけではない。夫が入院中に、今度は樋口さんが乳がんになった。風呂上がりに身体を乾かしていて、しこりを見つけたのだ。
幸い、樋口さんのがんは転移しないタイプで、部分切除をすれば大丈夫だと医師に言われた。
「1週間入院してくる。必ず生きて帰ってくるから心配しないで」
黙って行くと逆に心配すると思い、寝たきりの夫にそう伝えると、涙ぐんでうなずいたという。
「一時的とはいえ、文字どおり家族共倒れですよ。彼のことは私の友人や卒業生の中に頼める人がいたからいいけど、これからの介護は大変な人手不足の中でやらなければならない。ちょうど介護保険の論争をしていたころで、介護離職だけはしなくてすむようにしなければと改めて思いましたね」
手術後、放射線治療で通院しているとき、同時期に乳がんの手術を受けた60代の女性が亡くなったと聞いた。姑の介護に追われて手遅れになったと知り、「介護保険ができていれば死ななくてすんだのに……」と心が痛んだ。その悔しさが、さらに背中を押してくれたそうだ。
「私は大きな病気をするたびに、なんだか天から勇気づけられるというか(笑)。すぐへこたれそうになるけれど、この人のためにもうちょっとがんばろうと思う人に出会うんですよ」
女性も高齢者も見捨てない社会へ
'03年3月、17年間勤めた東京家政大学を70歳で定年退職し、名誉教授になった。その翌月、樋口さんはなんと東京都知事選挙に出馬する。
「唐突なんですけどね。女性グループから推されて、ここで断ったら女の世界で生きていかれないかもと(笑)。ちょうど大学が定年になったので」
背景には女性グループの危機感があった。当時、樋口さんたちの悲願である男女共同参画条例を作ろうとする動きが東京都をはじめ全国の自治体で活発化していた。日本でも女子差別撤廃条約を'85年に批准。その後の国際的な流れに沿った動きだったが、条例に反対し妨害しようとする勢力が都庁内にもあった。そこで女性グループは現職の石原慎太郎知事の女性蔑視発言などに抗議し、樋口さんを擁立したのだ。
選挙の結果、石原氏が308万票で当選。樋口さんは81万票で2位だった。大差で敗れたとはいえ、それだけ多くの人が支持したということは、樋口さんが長年活動してきたことが高く評価された賜物だろう。
評論家としての樋口さんの強みはどこにあるのか。社会情報大学院大学客員教授で季刊『オピニオン・プラス』編集長の渡邉嘉子さん(74)はこう語る。
「私は簡単に人を尊敬しないタイプの人間ですが、何度も取材を重ねた樋口さんのことはとても尊敬しています。というのも彼女はフィールドワークをしっかりしているんですね。全国を歩いて農家の主婦たちとか、草の根の女性たちの実態を観察して、話をいろいろ聞く。そのうえで自分の意見をまとめて世の中に発信して、政治に届けようとする。普通の女性たちの悲しみや苦しみをちゃんと吸い上げないと、代弁はできないと思われているんです。そこまでやる女性評論家って、ほとんど見当たらなくないですか?」
確かに、自分の足で歩き回るぶん、人一倍、忙しそうだが、むしろ楽しんで難題に取り組んでいる感じがする。
その点、樋口さん自身はどう思っているのだろうか。
「いろいろな人に出会うたびに、幸運って言ったらおかしいんですけど、課題を与えていただいてありがたいと思っています。これがすんだら次はこれ、と。だから、おかげさまで死ぬまで退屈しそうにございません。アハハハ」
だが、樋口さんたちの努力があっても、諸外国と比べると、日本の女性の地位は驚くほど低いままだ。いまだに女性の議員や管理職は少なく、派遣やパートなど非正規雇用でギリギリの生活をしている女性はたくさんいる。
めげたりイヤになったりしたことはないのかと聞くと、「私だって腹が立ったりムシャクシャすることはありますよ」とあっさり言う。
そんなとき樋口さんを励まし、力をくれたのは先輩の言葉だ。評論家の秋山ちえ子さんは生前、こう言ってなぐさめてくれたという。
「20年、30年単位で見るから悔しいのよ。50年単位で見てごらんなさい。やっぱり女性の地位は変わっていますよ。その人が本当に変えようと思っている限り、進んでいきますよ」
現在、樋口さんが懸念しているのは、女性の貧困層の増加だ。
高齢化が急速に進む日本では、年齢が上がるほど女性の比率が高くなり、80歳以上では男女の比率は4対6。百歳を越えると9割が女性だ。十分な遺族年金をもらえる人は別として、低賃金で働いてきた女性は年金も少ない。
「BBと私が呼ぶ“貧乏ばあさん”が増えていくと、嫌でも貧困社会になり、何十年後かに日本はつぶれかねません。それを防ぐためには、女性が平等に働ける社会にすること。私は女性だから女性の利害のためにも発言していますが、結果として日本が生き残る道は、女性の地位向上しかないと思っています」
コロナ禍が続き、新たな心配も出てきた。家に閉じこもらざるをえなくなり、認知症が進んでしまった高齢者がたくさんいる。まさに、ヨタヘロの危機だ。
樋口さんはコロナの感染対策をしたうえで、どんどん外に出ようと呼びかける。
「少年よ大志を抱け、ヨタヘロよ大地を歩け。ヨタヨタ歩けば人に出会う。人と話せば元気になります」
わが身をもって示す樋口さんの言葉は、多くの人の心に届くに違いない。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95 年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。