現在、全国に100万人いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は昨年初めて、40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。(ノンフィクションライター・亀山早苗)
リュウさん(53)のケース
リュウさん(53)に出会ったのは、あるひきこもり当事者会でのことだ。細マッチョの体躯(たいく)、端正な顔立ちなのだが、いつも控えめに座っている。そして自分が話す順番がくると、非常に注意深く言葉を選択していくのが見てとれた。彼の言葉は、彼の身体の中から出てくるものだった。頭で得た知識ではなく、この人は何か得がたい経験をしているのではないか。何度か顔を合わせているうちについ話しかけた私に、リュウさんはこれまでの人生を語ってくれた。
ママの言うことを聞かなければ
彼は研究者の父と専業主婦の母との間に生まれた長男だ。姉と弟がいる。20代半ばから3年間ほど、がちこもりだった。初めて働いたのは40歳を過ぎてからだ。ここ1年以上、またもほぼ「がちこもり」状態だというが、少しだけ以前と考え方が変わってきている。
「うちは完全に機能不全な家族だったんです。窒息しそうなほど……」
見合い結婚した両親だが、「父はすぐ怒鳴る、母は太陽のように明るくふるまっているけど“自分”をもっていない人」だったという。
「ママを守らなきゃ、ママの言うことを聞かなければと強く心に刻み込んだのが、僕の人生最初の記憶だったように思います」
母は必死で「幸せ家族」であろうとし、子どもたちはそれを強く望まれた。特にリュウさんに対して、母は「明るくていい子のお兄ちゃん」を押しつけてきた。
「幼稚園のころ、すごく好きな先生がいたんですが、僕は自分の気持ちを抑え込んだ。なぜなら、あらゆる欲望は悪だと母に教え込まれていたから。友達がその先生に抱きついているのを見たとき、羨ましい反面、僕にはできないと思った。“何をしてもママには全部バレるんだからね”と毎日、言われていたんです。母は僕とふたりきりのときは、ずっと言葉でダメ出しや刷り込みをしていました。『あんたはダメなんだから。ママの言うことを聞いていればいいの。そうすれば将来、パパみたいにいい大学に行ける。大学に行ったら4年間、自由があるの』と」
何かしたいと思った瞬間、「ママにバレる」と自分を封じ込める癖がついた。だから何かに夢中になったことがなかった。母に褒められた記憶もない。
「幸せ家族」を信じて欲求に封をした子
母が巧みに支配したのはリュウさんだけだ。3人の子を全員、支配するのは無理だと思ったのか、感受性の強いリュウさんだけがターゲットになったのかは今となってはわからない。
「小学校の入学式当日、教室に入ると机にひらがなの名前の紙が貼ってあるんですが、僕の名前が間違っていたんです。同姓がいなかったから、そこに座ればいいのに座れない、しかも名前が間違っていることさえ言えない。間違っているのは自分のせいだとさえ思った。母が先生に言ってくれ、その場で薄い紙に書き直したものを上から貼ってくれましたが、自分はやはり軽く扱われる人間なんだと、ひどく傷つきました」
幼くして、彼は何かあると「すべて自分のせいだ」と思うようになっていた。母にいつも否定されていたから、名前を間違われたときも「やっぱり」と感じたという。そのうえ彼は「人にどう思われるか」を常に推察し、自分の欲求には完全に封をした。自分がしゃべったり反応したりすると、「幸せ家族」が台無しになると思わされていたから、寡黙(かもく)になっていく。
「そういうことを言語化できるようになったのは、ここ10年くらいです。自分がどうしてこんなに生きづらいのかわからなかった。子どものころから、何かがおかしいと思いながら、“幸せ家族”を僕自身も頭から信じ込んでいたんです」
友人と対等な関係は築けなかったので、誕生日に家に呼ぶ友人もいなかった。
このリュウさんの思いは、私も共感するところがある。私も理由なく不機嫌になって数か月も口をきかなくなる父に、甘えるフリをして家庭内の雰囲気を和らげるのが役目だと思っていたから。長じるにつれ、その役割は放棄したが、あのまま「いい子」で居続けたら、私自身が壊れていただろう。
だがリュウさんはずっと「母にとっていい子のお兄ちゃん」を演じ続けた。それが彼の優しさなのだと自分を顧みてしみじみ思う。
だが、彼も実は自分が母親を信用していないと思ったことがある。小学校高学年のとき、家のすぐ前で友人が転んで大ケガをした。
「ひざの皮が大きく裂けて血が噴き出して。思わず僕は隣の家のお母さんを呼んでと叫びました。家には母親がいるのに、この状況にとても対処できないと判断した。僕は母を“安心できる人”だと思っていなかった。後年、子どもが母親に頼れなかったのは悲惨なことだと主治医に言われました」
「何かをしなくては」と追いつめられる
リュウさんは「僕の人生がスタートすると母が約束してくれた自由な4年間」を求めて大学受験に取り組んだが、ことごとく不合格。3年間、浪人した。
「母は海外青年協力隊とか留学とか矢継ぎ早に並べるんですが、僕にはハードルが高すぎる。専門学校という妥協案を出し、兵庫県の写真学校に通いました」
首都圏にある自宅から関西へ。やっと家から離れられたとホッとしたものの、クラスメートとの付き合いに心をすり減らして退学。人の気持ちを先読みして過剰反応する毎日は、緊張の連続だった。
その後、彼は別の専門学校や、とある山奥での集団生活などを経て、ついに身動きできないほど疲弊して実家に戻る。「何かをしなくては」と追いつめられ、何か始めても続かず、さらに追いつめられることの繰り返しだった。
本すら読めないひきこもりもいる
そして、ついに25歳から自室にひきこもって昼夜逆転の生活を送るようになった。
「たまに母と顔を合わせると、“働きもしないのに食べるのは一人前ね”とイヤミを言われ、びくびくしながら生活していました。父にはきちんと謝らなくてはと思い、ある日ようやく話しかけたんです。“出ていけ”と言われるのを覚悟して。でも父はただひと言、“朝だけはちゃんと起きてこいよ”と。
翌朝から、新聞を読む父の横で僕はお茶を飲むようになりました。たった5分、ほとんど話もしないけど、僕にとっては重要な時間でした」
それから3年間、彼は自宅でひきこもっていた。出かけるのは家から9キロ離れた図書館だけ。とはいえ心が千々に乱れて、「読みたいのに本が読めない」状態だった。
彼は子どものころから、文字は読めても内容が入ってこなかったという。集中力以前の問題として、母からの圧迫でずっと心が落ち着かない状態だったのではないだろうか。
「知性があってきちんと自己主張できるひきこもりの方が目立ちますが、僕のように主体性も人格の基盤も奪われた人間は本を読むことすらできないんです。ほかにもきっとこういうひきこもりがいると思います」
ある日、自室に父が新聞記事を差し込んでくれた。社会的にひきこもった人の記事だった。このままではいけないと自分でも思っていたので、彼は記事に掲載されていた支援施設に電話をかけた。そこから精神科クリニックにつながり、29歳のとき、生活保護を受けながら都内でひとり暮らしを始めた。親と離れたほうがいいという主治医のすすめがあったからだ。
万引きで初めて欲望を全開に……
家から出ることが大事だと言われ、クリニックには毎日出かけた。そこで知り合ったのが、同世代の女性だ。あるとき彼女の具合が悪くなり、送って行って「居着いて」しまったのだという。
だが、この関係も決して対等ではなく、彼は彼女に精神的に引っ張られていく。
「彼女の好きな洋服の店に一緒に行ったんですが、結局、何も買わない。店を出てから彼女のバッグをふと見ると洋服が入っているんです。ドキドキしました」
彼女は万引きをしていた。その後、彼は彼女をサポートするようになる。自分が壁になったりタイミングを合図したり。そのうち、「自分ならもっとうまくできるかも」と思うようになった。
「なぜか心が動いてふっと盗ってしまったんです。最初はドッグフードか、鰻(うなぎ)だったか。その場で欲しいと思ったものを手にとった。そして外に出たとき、今まで感じたことのない達成感と解放感を覚えたんです」
私は思わず「よかったですね」と言ってしまった。自分の欲望を外に出したことのない彼が、生まれて初めて欲望を全開にして得た達成感だと思ったから。もちろん犯罪だからいいわけはないのだが、彼の精神には必要な行為だったのかもしれないと思ったのだ。
月に1度だった万引きがエスカレートしていった。スーパー、量販店、専門店。場所も時間も問わなかった。
「どこかでやめなくてはいけないとわかっていました。だからこれが最後と決めて、アウトレットモールへ彼女と行ったんです。車を荷物でいっぱいにしたら帰るつもりでした。何軒目かの店から出たとき警備員が立っていました。振り向くとパトカーが並んでいて」
家族思いを演じる母にうんざり
彼は逮捕され、4か月間も勾留された。一緒に捕まった彼女に後で怒られるのが怖くて黙秘したため、勾留期間が延びたのだ。
「母が面会に来ました。会うなり、“あのね、ここにくるときに道端にきれいな花が一輪、咲いていたの。それを見て思ったの。一からやり直そう、ねっ!”って。こちらが絶句するほどはしゃいでいて、自分がいかに家族思いの母親かをドラマのように演じてみせた。僕にではなく隣の警察官に聞かせているのは明らか。20分の面会を5分で打ち切りました。母はこの期に及んでも現実を把握していないとよくわかった」
父とはその後、手紙のやりとりをしていた。「勾留が長くなってつらいだろう」と書いてあるのを見て、冷たくて非人間的だと思っていた父に意外な思いやりがあることを知った。
ただ、彼にとって留置所にいるのは「実家にいるより精神的にはラクだった」という。余罪も出たものの、結局、執行猶予がついて釈放。彼女とは必然的に別れたが実家には戻らず、元いたアパートに帰った。
自分を責めてばかりいるのはやめよう
窃盗症というのは精神障害の一種だと言われている。緊張感と達成感がないまぜになり、やめられなくなる。彼はきっぱりとやめたのだが、その反動なのか、うつ症状や対人恐怖などさまざまな症状に苦しめられ、30代はクリニックへ通うだけの日々。そして40代になり、仕事をしようと決断する。
「働けるなら働いたほうがいい。そのほうが真っ当だとずっと思っていました」
就労支援でパソコンを覚え、ハローワークに通って某大学の研究室で書類の仕分けとファイリングをする職を得た。工夫をこらし、誰もがわかりやすいように書類を片づけていくのは気持ちがよかったという。10年近く仕事を続けたが1年前、「これを続けてどうなるのか」という思いが強くなって退職。
「仕事を辞めたらいろいろなことをしなければと思っていたけど、結局、何もできませんでした。筋トレと自炊だけを自分に課してきました。でも朝きちんと起きることもできず、自分を責めてばかり。ここへきて、ようやく自分を責めてばかりいるのはやめようと少し思えてきたところです」
彼の言葉が当事者会で光を放つ場面を、たびたび目にしてきた。抑圧されてきた子ども時代、一気に爆発した30代があり、仕事をした40代を経て、彼は今、ようやくフラットな場所に立っているようにも思える。専門家でもない私が言うのは僭越(せんえつ)だが、ここから彼が「自分」を生きていくことはできるのではないか。転換点にいるのではないか。そんな気がしてならない。
かめやま・さなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆