1987年『サラダ記念日』で一世を風靡して以降、切ない恋心、複雑な大人の恋、子育て、社会批判──年代ごとに機が熟したテーマを「等身大の歌」にしてきた。“優等生”と言われ続けた歌人が、40代のとき未婚で出産を決意。東日本大震災直後、石垣島へ移住し180度転換した子育て方針とは? 女性として、母としての経験から生まれた「新境地」に迫る。
コロナ禍の不安や新たな日常を歌に詠む
《短歌は、1300年受け継がれてきた『五七五七七』の魔法の杖。リズムを得た言葉たちが生き生きと泳ぎだし、不思議な光を放つ。その瞬間が好き》
1987年、第一歌集『サラダ記念日』を出版して以降、歌人・俵万智(57)は、日々の心の揺れから生まれる歌を紡いできた。
東日本大震災後に、仙台から石垣島へ移り住み、息子の成長にあわせて宮崎県へ。歌人として、シングルマザーとして一生懸命に生きてきた。
しかし2020年、新型コロナウイルス感染拡大により、大切な日常が失われる。
「コロナ禍で、当たり前の日常が、当たり前ではなくなっていった。今までにない非日常の暮らし。それさえも続けば、また日常になってゆく。想定外の事態ではありましたが、大事にしている日常を逆のほうから照らされて、また見えてくるものがありました」
7年ぶりとなる第六歌集『未来のサイズ』の冒頭を飾るのは、コロナ禍の不安や新たな日常を詠んだ歌たち。
第二波の予感の中に暮らせどもサーフボードを持たぬ人類
こだわったのは歌の並べ方。順番を考えるのが何より好きな時間で、声をかけられても気づかないほどに熱中する。
「並べる順番で見え方が変わるんです。今回は、非日常の連続のようなコロナ禍の歌を置いた後に、コロナ前に石垣島や宮崎で経験した丁寧な暮らしの歌を並べたとき、愛おしさがより増したように感じた。その感覚を味わってもらいたいな、と」
歌集の編集に携わった角川書店・住谷はるさん(37)は万智の魅力をこう話す。
「コロナ禍の歌は亡くなった方もいるので、非難されることもあり歌いにくい。東日本大震災のとき、バッシングされた経験もあるのに“ライブ感”を大切にして、あえて歌集に入れる。そこが万智さんのすごいところです」
ともすれば悲観的になりがちなコロナ禍の日々。だが、突然訪れた非日常の新鮮さを軽やかに詠んだ歌も多い。
トランプの絵札のように集まって我ら画面に密を楽しむ
発芽したアボカド植える午後したかったことの一つと思う
希望を見いだしづらい今、万智の歌が読者の心を打ち、こんな感想も届いた。
「どんな時も未来を見据えて、希望を絶対に失わない歌人」「等身大の小さな幸せを掴んで読者に届けてくれる」
『サラダ記念日』で一世を風靡した万智は当時、「否定精神がない」と批判を受けたが、それでも変わらず貫いてきた姿勢がある。
「物事にいい面と悪い面があったなら、いいところを詠みたい。出会った人のいいところと悪いところがあったら、いいところを見たい。そして日常を大事に歌う。これはもう性格ですよね。私の生きる基本姿勢なんです」
青春時代の淡い恋や、複雑な事情も絡みあう大人の恋愛を詠み、やがて子育てと向き合う母心を詠むように──。その折々に短歌は生まれてきた。等身大の「今」を詠み続けてきた万智の歌、その背景には多くの“出会い”があった。
幼少期の速読ぶりを母は褒めずに叱った
1962年の大みそか、万智は大阪府門真市に暮らす父・好夫、母・智子(のりこ)の長女として生まれた。父は松下電器に勤める研究者。目を閉じると幼いころ、一心不乱に博士論文を書いていた父の後ろ姿が今も浮かぶ。
母は無類の本好き。本を読み耽(ふけ)るあまり、夕飯の支度を忘れそうになったこともしばしば。そんな母に似たのか、万智も絵本の虜(とりこ)になる。
「まだ文字も読めないのに3歳のとき、母に何度も読んでもらったノルウェーの昔話の絵本『三びきのやぎのがらがらどん』を1冊、丸暗記。ひとりで絵本を読むまねをしたりして遊んでいました」
小学校に上がると、子どもたちに家を開放していた近所のハイカラなお宅に上がり込み、『長くつ下のピッピ』といった童話から世界文学全集まで1日に2、3冊を読破。その速読ぶりを母は褒めずに叱った。
「母からは“本には書いた人がいる。雑に読んだらどう思うかな”と言われたんです。本に作者がいることを意識して、丁寧に言葉を追いかけるようになりました」
その一方でスポーツは大の苦手。かけっこは常にビリで、逆上がりはいまだにできないままだという。
そんな万智に恋の季節が訪れたのは、中学1年生のとき。恋の歌を詠ませたら天下一品と言われる俵万智に、“憧れの君”との出会いが待っていた。
背が高く優男のその相手は、韓流スター、キム・ヒョンビンのような顔立ちを西洋に寄せた超イケメン教師。バレー部顧問のスポーツマンで、流暢(りゅうちょう)に英語を操る森田準二先生の授業は、まるで青春ドラマのワンシーンを見るようだった。
もちろん、手をこまねいて見ているだけではなかった。
「中1の春休みにみな、英検4級を受けるんですけど、それでは目立たないと思って、私はいきなり英検3級にチャレンジして合格。英語係に選ばれて、カセットデッキを持って授業の準備を手伝うときなど、もうルンルンでした」
中学2年生のとき、福井県武生市(現・越前市)に転校。友達づくりに苦労したことで、言葉への関心が高まる。
「国語の授業で当てられると大阪弁が抜けきれず、クスクス笑われる。福井弁を覚えて使ったらみんな喜んでくれました。言葉って大事だなと思った最初の体験ですね」
やがて県内屈指の進学高・藤島高校に入学。そこで、初めて短歌と出会う。
「文学の香りのする田辺洋一先生に憧れ、先生が顧問を務める演劇部に入部して、さらに週1回行われる短歌クラブにも籍を置きました」
君を想いぼんやりいじる知恵の輪のするりと解けてため息をつく
歌人としての俵万智のスタイルはすでにこのころ、完成していたのかもしれない。
写実的な歌風を特徴とするアララギ派の田辺先生には「君に短歌は向いていない」と言われショックを受けたが、「友達の短歌を読み解く力は素晴らしい」と褒められた。
「絶対に失恋しない恋愛」
そんな万智が高校2年のとき、リアルな失恋を経験する。
「相手は、生徒会で知り合った1年先輩。チェッカーズの藤井フミヤ似のステキな人でした。相手から交際を申し込まれ付き合ったのもつかの間、私の修学旅行中に3年生の女子に奪われて。“いちばん好きな人じゃなくなったから、ごめん”と言われてしまい、ア然としました」
それでもいちばんを目指そうと、健気に手紙を書く万智。結果は火を見るよりも明らかだった。
「勉強は頑張ったぶん、目に見えて成績が上がる。でも恋愛は違う。人生には全然違う物差しがあることを、初めて思い知らされました」
そして先生への憧れと現実の恋は違うものだということも、このとき悟った。
「これまで先生への憧れをエネルギーに勉強に打ち込んできました。考えてみれば一生懸命な生徒をサポートするのは、先生として当たり前のこと。たとえるなら、2人の関係は絶対に失恋しない恋愛のようなもの。それに引き替え現実の恋愛は努力してもダメなものはダメだとわかりました」
失恋のショックで学年10番以内だった成績も急降下。
そんな恋の悩みを聞いてもらいたくて、田辺先生に相談の手紙を書いた。すると「君の手紙には、一文字も相手を責める言葉が出てこない」と感心された。この物事を肯定的にとらえる性格が後に、歌の中でも表現されていく。
『先生』との運命の出会い
失恋の痛手から抜け出せなかった万智は、受験勉強には身が入らず、指定校推薦で早稲田大学第一文学部に入学。言語学に興味を抱き、将来は辞典を作る仕事に就きたいと漠然と考えていた。
ところが大学2年生のときに受けた「日本文学概論」の授業で、衝撃を受ける。
「“寺山修司が亡くなったので今日はテキストを使わず寺山の話をします”と言って盟友でもあった歌人・劇作家の寺山修司を熱く語る姿がカッコよく、引き込まれました」
このとき、教鞭をとっていた人こそ、青年時代はラグビーやボクシングに熱中し、ダイナミックな肉体感覚を詠む歌人・佐佐木幸綱。
佐佐木先生の歌集を手に取りページをめくっていくうち、短歌の三十一文字の世界に改めて魅せられていく。
──私も短歌を作ってみたい。
その衝動を抑えきれず、話しかけることもできない万智は毎日、先生にファンレターを書き続ける。すると数週間後、「とにかく五七五七七の文章を書いて持っていらっしゃい」という返事が届く。
さっそく、30首の歌を持って行き、翌週も、その次の週も短歌を作っては佐佐木先生のもとを訪ねた。
その様子を先生は後にこう振り返っている。
「あふれるように、という表現ではまどろっこしい。噴き出すように短歌ができるようであった」
手紙には愛あふれたりその愛は消印の日のそのときの愛
この歌は自分でも気に入り雑誌『短歌』に投稿。初めて活字になった俵万智のデビュー作である。
「もし佐佐木幸綱に会わなかったら。もし、佐佐木幸綱が歌人でなかったら。それに答える言葉を私は知りません。考えるのがこわい」
そのこわさを感じるとき、改めて“出会い”というものの重さを噛みしめる。
「先生は、『サラダ記念日』を出版した後も“君は心の中の音楽を聴ける人だから、何があっても大丈夫だよ”と言ってくださって。その言葉に、ずっと支えられていましたね」
国語学で卒業論文を書くつもりが短歌に出会い、気づけば研究や学問より作るほうが面白くなっていた。
国語教師と歌人、二足の草鞋
そして卒業後、創作活動を続けるために神奈川県立橋本高校に国語教師として赴任する。先生への憧れを生きる糧にしてきた万智にとって、やはり学校は特別な場所だった。
「生きている子どもたちが相手。1人として同じ子はいない。1日として同じ日はないからワクワクする。自分も先生との出会いで人生、節目節目で変わってきた。生徒たちとの時間から、歌が生まれることも多かったですね」
1986年『八月の朝』で角川短歌賞を受賞。歌壇デビューを果たすと翌年、第一歌集『サラダ記念日』がなんと、280万部を超えるベストセラーを記録。“与謝野晶子以来の天才歌人”と評され、時代の寵児(ちょうじ)となった万智は、歌壇にとどまらず世の中にセンセーショナルを巻き起こす。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
デビュー前から万智をよく知る共同通信社の編集委員・小山鉄郎さん(71)がヒット作の誕生秘話を明かす。
「俵さんは日常会話を巧みに切り取った親しみやすさで口語短歌の裾野を一気に広げました。
当初、版元は歌人向けの定価3000円、初版1500部くらいから検討をしていたようですが、社長の鶴の一声で980円、8000部に決定。もし当初の値段のままなら、ベストセラーにはならなかったでしょうね」
教師と売れっ子歌人の二足の草鞋(わらじ)をはいた忙しさは、想像を絶するものだった。
「連日、雑誌やテレビの取材が放課後6時から4本続き、意識も朦朧(もうろう)。土曜日の授業が終わると泊まりがけで地方の書店回りをしてサイン会。さらに週刊誌の連載まで抱え、あの忙しさは今もう1度やれと言われてもムリ」
そんな中、『週刊朝日』の対談連載は、今も忘れられない苦い思い出のひとつ。
「初回のゲストは、世界的な指揮者でもある岩城宏之さん。うまく話題を振ることのできない私を見て“インタビュアーは、聞かれるのを待ってちゃダメだからね”と心配される始末。
その後も大ファンの野田秀樹さん、作家の島田雅彦さん、言語学者の大野晋さん、TBSの石井ふく子プロデューサーと錚々(そうそう)たるメンバーがゲストに名を連ねていました。根がまじめな私は、徹底的に準備をしないとゲストに会えないと思って、早々に辞めさせてもらいました。連載はわずか5回。これは世界最速では……(笑)」
そんな多忙な毎日を送る中、学校で生徒に接する日常が唯一、平常心を保つ砦(とりで)となった。
「歌集を出して教師の仕事がおざなりになったら、本末転倒。生徒も見ている。それまで以上に授業の予習もしっかり準備して授業に臨みました」
一躍、時の人となった万智。修学旅行先で、道行く人からサインを頼まれ、「勤務中なので」と断ると「先生やるじゃん」と生徒から囃(はや)し立てられたことも、懐かしい思い出だ。
「校門のあたりをマスコミの人がうろうろしていると、ほかの先生たちが裏口から車で送ってくれたり、職場にも恵まれました。辞める際も会議の場を持っていただき、“本人が続けたいのに辞めるのは、僕たちのサポートが足りなかったのでは”と話し合ってくれて、いま思い出しても涙が出ます」
しかし、職場の先生たちに必要以上に迷惑をかけていることを痛感する日々。二足の草鞋で1年間踏ん張った後、4年間勤務した職場を離れる決断を下す。
「永遠に所有するとかありえない」
『サラダ記念日』で現代歌人協会賞を受賞。歌人として認められた万智は、4年後の1991年に第二歌集『かぜのてのひら』を出版。
四万十に光の粒をまきながら川面をなでる風の手のひら
「目には見えないけど心には映っているものを詠むのが短歌。佐佐木先生のアドバイスもあり、この歌集では意識的に技巧を模索、集中して書くことも心がけました」
短歌以外にコラムや紀行文の仕事なども精力的にこなすようになっていた。『週刊朝日』のグラビア連載「ちいさい旅みーつけた」では月に1度、全国各地へ旅に出た。同行した元・朝日新聞記者・奥村晶さんは、こんな場面が印象に残っているという。
「地方の商店街や市場の取材でも飾らない性格の万智さんは、地元に溶け込むのが早かった。若くして教科書に載っていたので、取材先で実際の万智さんを見て“まだ生きてらっしゃったんですか?”と驚かれる人もいました」
焼き肉とグラタンが好きという少女よ私はあなたのお父さんが好き
デビューから10年。やがて30代を迎えた万智に転機が訪れる。1997年には、意欲作『チョコレート革命』を上梓。恋愛相手の子どもとの対面を予感させる歌をはじめ、関係性が複雑になる大人の恋愛の気づきを詠み、同年代の女性のモヤモヤした気持ちに見事、風穴をあけた。
「母の世代は結婚して子どもを産むのが幸せとされた。でも私が20代30代のときは、人生の選択肢を少しずつ手にしていった時代と重なります。結婚を絶対しなきゃいけないプレッシャーはなかった。結婚で相手との関係がよりよくなるなら、してもいい」
そんな吹っ切れた思いは、30代後半で一層強くなる。
新宿ゴールデン街のバー『クラクラ』で時給1300円のバイトを始めたのも、このころだ。
「30代後半になったときは、すごい解放感があって。“大人だから”ではなく、“大人なのに”って言われることをやりたいと思っていました。大人なのにバイト。カウンターで料理を作ったりして、すごく楽しかった。焼きうどんを作るのがうまくなりましたね」
優等生と呼ばれて長き年月をかっとばしたき一球がくる
そしてママ業を楽しんでいた歌人・俵万智にも、そんな一球がくる。
時折、飲みながら話す機会もあった前出の小山さんがある日、彼女の異変に気づいた。
「一緒に芝居を見た後、食事に近くの店へ入ったら、お酒好きの俵さんに“今日は飲まない”と言われてね、びっくりした。その後、バイト先の『クラクラ』でゆったりした服を着ていたものだから“俵さん、妊娠しているの?”と聞いたら“暑いから”と笑ってごまかされてしまった」
それから少しして《母になります》という親しい友人あての知らせとともに「事前に出産を当てたのは、小山さんだけです」とショートメールが届く。
まじめで勉強好きの優等生がかっ飛ばした渾身のホームラン。
「チャンスがあれば子どもは産んでみたいという思いがありました。母からも“子育ては面白いわよ”と言われていました。40歳のラストチャンス。迷いはありませんでした」
2003年11月、40代で男児を出産。相手には負担をかけたくないため、父親の名前すら公表せず、シングルマザーになる道を選んだ。そこには独特の恋愛観がある。
「嫉妬心とは無縁で、所有欲もない。だって無理でしょ。所有することが目的じゃないし、永遠に所有するとかありえない。その人と豊かな時間を過ごせればいいと思う」
つまらない相手を所有するくらいなら、むしろ素晴らしい人をシェアするほうが断然いいとすら思っている。そこに歌人・俵万智の矜持がある。
「私はいいところを見つけるのが得意だから惚れっぽい。相手のいいところを見つけて好きになれば、相手もいいところをこっちに見せてくれる。
別れちゃった人とも、もっと長く付き合っていたらどうなっていたか。あったかもしれない人生があるって悪くないよね」
母となった万智。子どもを得た歓びを2005年に出版した第四歌集『プーさんの鼻』で、高らかに歌う。
バンザイの姿勢で眠りいる吾子よ そうだバンザイ生まれてバンザイ
妊娠、出産、子育ての不安など微塵も感じられない渾身の一首。この歌集には、わが子の行動をまねて本をかじってみせる微笑ましい万智の姿も詠まれ、おかしみすら覚える。
「愚かな母と言うならば言え」
しかし、睡眠もまともに取れない育児に悪戦苦闘。現実の子育ては思いどおりにいかないことも多かった。
「本当に大変で、仙台に住む母や名古屋に住む叔母に交代で来てもらったこともありました。使えるものはなんでも使う。“助けてー”の勇気は子どもが教えてくれました」
幼子を連れて東京を離れる決心をしたのは、幼稚園入園を控えた2006年のこと。
「見に行った都内の幼稚園にはどこにも土の庭がない。息子を土の園庭で思いっきり遊ばせたいと思いました。
自分が東京にいる理由はお芝居を見ることと、お酒を飲みに行くことしかない。だけどこの2つ、子育てしていたら、そもそもできない」
そんな思いから両親が終の住み処とする仙台に引っ越そうと決心。
5年後、新天地での生活にも慣れてきた2011年に東日本大震災が親子を襲う。
東京の新聞社で会議に出ていたら、「仙台で震度7の号外が出ます!」という情報に接し身体が震えた。
幸い、家族は無事だったものの、交通機関はすべてストップ。5日後に飛行機とバスを乗り継ぎ、やっとの思いで仙台にたどり着いた。
家族との再会もつかの間、東京電力福島第一原発事故のニュースと余震のおそれを知り、着の身着のままで仙台を離れる決心をする。
──とにかく、西へ。
山形空港から、たまたま空いていた那覇便に飛び乗り、息子を連れて沖縄へ。そのときの心境をこう詠んでいる。
子を連れて西へ西へと逃げてゆく愚かな母と言うならば言え
情報が錯綜する中、最悪の情報を信じて行動に移した。この歌を見て「逃げ出すのか」「自分だけよければいいのか」と批判する声がツイッターにも上がり、万智の心も揺れた。
──言いたい人は、言えばいい。
そうは思うものの、直接言葉を投げつけられれば、やはり落ち込む。
ニュースでは「直ちには影響がない」という言葉が繰り返されていた。だが、信じることなどとうていできない。10年後に影響があったらどうしてくれる。
まだ恋も知らぬ我が子と思うとき「直ちには」とは意味なき言葉
そんな母の素直な気持ちを込めた歌にやがて共感の輪が広がっていく。しかし、たどり着いた沖縄も決して安息の地ではなかった。
「ホテルの一室でテレビを見ていたら、余震の続く被災地や原発の状態も悪化の一途をたどっている。津波の映像を見ていた息子が不安から指をしゃぶりだし赤ちゃん返りを始める。どうしたらいいのか、わからなくなりました」
滞在2週間。精神的に追い詰められていた。そんな折、歌人の松村由利子さんが石垣島にいることを思い出す。
「連絡を取ると“荷物をまとめていらっしゃい”と言われ2、3日気晴らしでもさせてもらえたら……そんな思いで松村さんのもとを訪ね、2階に居候させてもらいました。
ところが海で近所の子どもたちにまじって遊んでいるうちに息子が見違えるほど元気になっていく姿を見て、この島で暮らそうと決心しました」
石垣島の市街からも離れた2人が暮らす崎枝の集落は、全校生徒・小中学校合わせても、わずか13人。しかしそこには、圧倒的に豊かな自然、子ども同士が存分に遊べる環境、そして何よりも地域社会が子どもを育てる素晴らしいコミュニティーがあった。
「近所の家同士がまるで家族のよう。息子は集落のすべての家に泊まりに行って、雑魚寝。息子にとって“おとう”のような大人の男性もたくさんいた。シングルマザーの私にとって子育てしていて足りなかったものが全部、石垣島のこの集落にはありました」
SNSとリアルな人間関係は違う
「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ
2013年に発表される第五歌集『オレがマリオ』に収められたこの短歌のように、さとうきび畑で鬼ごっこ、川でエビを捕まえ、滝壺に飛び込むわが子の姿は、マリオそのもの。
「偶然訪れた石垣島は私たち親子にとって、まさに天国。浦島太郎のように帰りそびれた。それまでインドア派だった私も、息子に連れられカヤックに乗ったり洞窟探検やシュノーケリングをするなど貴重な体験もしました。そんなことを私にさせるなんて子どものエネルギーって恐ろしい」
人の子を呼び捨てにしてかわいがる島の緑に注ぐスコール
島で逞しくなったのは息子だけではなかった。
市街地から30分はかかる崎枝の集落には商店街はおろかコンビニすら1軒もない。すると、免許を持っていなかった万智に、「街に行くけど買ってくるものはある?」と集落の人たちは気軽に声をかけ、乗せていってもくれた。
「車の中でおしゃべりをして、短期間でみなさんと仲よくなれた。運転できなくてむしろよかった」と万智は笑う。
島で出会った人々と交流を深めるうち、気づけばネット上の批判的な意見に心をかき乱されることもなくなっていた。その変化を間近で見ていた松村さんも感じていた。
「震災の後、万智さんはバッシングを受け不安な心を抱えていました。でもこの島に来て濃密な人間関係のなかで、SNSとリアルな人間関係は違うと切り離して考えるようになったのではないかと思います。この島で人を信じられるようになったというか、自分のメッセージがまっすぐに伝わる人たちが必ずいることを確信したようでした」
それまで息子には「人に迷惑をかけない自立した人間になってほしい」と思っていた。
だが、自身が石垣で多くの人の手を借りながら暮らすうち、考え方が変わっていた。
「人間生きていたら絶対に迷惑をかける。ならばいっそのこと、“こいつだったら迷惑をかけられても仕方がない”。そう思ってもらえる人間になってほしいと思うようになっていました」
いざというとき、助け合える関係を築けることが人間の生きる力。そんなことを教えられた石垣島の5年間だった。
息子の未来を思い、新境地を詠む
折に触れ、息子のことも繰り返し詠んできた万智。集落の中学は全校生徒が3、4人と少なく、息子の中学進学に伴い、再び移住を決めた。選んだのは、「牧水・短歌甲子園」の審査員などをして年に数回通っていた宮崎県。
今年17歳になった息子は母の歌集のゲラを読み、自らも短歌を作るという。寮生活も始め、巣立ちに向けてどんどん成長していく。その姿を見守るうち、やがて息子が生きる「未来」への関心が高まっていた。
制服は未来のサイズ入学のどの子もどの子も未来着ている
入学式ならではの晴れがましくもちょっと滑稽でもある光景。7年ぶりに発表した第六歌集『未来のサイズ』では、明るい未来への希望だけでなく、社会への不安や怒りがにじむ歌も多数並んでいる。
「世界を全肯定する歌を詠みたい」と語ってきた万智の新境地ともいえる。
「息子も10代になると社会性を帯びてきて、私も自然と子どもを通して社会への関心が大きくなっていきました。
例えば、新聞記事を読んでいると無関係なことがない。物事のいいところを見たい気持ちは変わらずあるのですが、一方で、子どもの未来を考えたときに、きれいごとではすまされない物事が具体的に見えてきた」
韓国の修学旅行中の高校生を含む300人以上の命を奪った2014年の大型客船セウォル号沈没事故にも心震わせる。
あの世には持っていけない金のため未来を汚す未来を殺す
「未来を汚す」と題された連作では、そんな心境が生々しく明かされている。
「ここ数年でいちばんショックな事件。私自身も親でありかつては教師の身。関心を持って調べるうち、人災に近いこともわかり、怒りを覚えました。未来は大きくもあるし、今の私たちが汚すこともできる脆いもの。自分が死んで終わりではなく、子どもが育っていく未来が豊かなものであってほしい」
デビュー当時、いちばんの興味は恋愛だった。それを思いっきり歌っていた万智。「否定精神がない」と言われても、そのスタイルを変えることはなかった。だが今は、子どもを通して社会への関心が大きくなった。
「自分のなかで機が熟すのが大事だと思うんです」
常に「今の自分が見つめる先」を偽らず、まっすぐ歌にしてきた万智。その年代にしか詠めない歌があるからだ。
「短歌はそのときの自分の思いをパッケージしておける素敵な器。短歌はいちばん身近な相棒。出会えてよかった」
別れ来し男たちとの人生の「もし」どれもよし我が「ラ・ラ・ランド」
『未来のサイズ』の最後を締めくくる恋の歌。別れてきた男たちをどれもよしとする『サラダ記念日』のころからのファンにとってはたまらない、万智らしい歌。
10年後、どこに住んでどんな歌を詠んでいるのか。わからないのもまた素敵な人生だ。
「歌を詠むとは、日常を丁寧に生きること。失恋しても短歌ができたらプラスになる。いいことを歌で詠めば、歓びも2倍になる。
子どもの手が離れて、自分を見つめ直すときにどんな歌が生まれるのか。老いも近づきどんな歌が生まれるのか。考えただけでワクワクする。できれば、60歳、70歳になっても恋の歌を詠んでいたいな」
そう言って万智はうれしそうに微笑んだ。
(取材・文/島右近)