16歳で迎えた父の死、「余命1か月」と宣告された姉の看取りを経て、在宅医療の道を切り拓いてきた秋山正子さん。そんな訪問看護のパイオニアが成し遂げたかったのは、がんと生きる人たち、その家族や友人までもが、安心して専門家に相談できる居場所づくり。病院でも自宅でもない、「第2のわが家」で、さまざまな声に今日も耳を傾ける。ひとりひとりの命と向き合い、共に考え、伴走するために。
同じ病名でも、症状や必要な治療はそれぞれ違う
東京・豊洲の、海に近いひらけた空間に、木々に囲まれた中庭のある小さな家が建っている。木の看板には、「maggie's」(マギーズ)の文字。中に入ると、庭を眺められるソファ、大きな木のテーブル、対面で話ができる椅子……。スタッフの女性が来て、「お好きなところにおかけください」と言い、飲み物を出すと、すっといなくなる。放っておかれる心地よさと、見守られているような温かさ──。
ここ、『マギーズ東京』は、がんの当事者やその家族、友人、遺族、医療者など、がんに影響を受けるすべての人が安心して看護師や心理士に相談できる場として存在している。
予約不要(当面は事前連絡が必要)で、お金もかからない。毎月500人~600人という来訪者からは、こんな声が聞こえてくる。
「迷いを聞いてもらえた。いくらでも迷いは出てくるけれど、少し楽になった」
「“そこに行けば話ができる”という安心感は、何ものにも代え難いと思います」
「治療中、マギーズの存在にとても助けられていました。唯一の心安らげる場所でした」
マギーズ東京の共同代表兼センター長を務めるのは、看護師の秋山正子さん。同じく共同代表として名を連ねる、元・日本テレビ記者の鈴木美穂さんは、マギーズを「秋山さんあっての場所」と話す。
「私は24歳のときに乳がんを患ったんですが、がんを経験した当事者として、今でも秋山さんに助けてもらうことがあります。がんで友人や大切な人が亡くなり起き上がれなくなったときに“生きていることが苦しい”と、ここに電話をしました。
秋山さんは“つらいね”“お母さんが作ったスープを用意して、まず、飲んで”と言ってくれて。冷静に、あなたは落ち込んでもおかしくない状態にあるのよ、と紐解いてもらうと、救われるんです」(鈴木さん)
がんは同じ病名がついていても、症状や、必要な治療が人それぞれ違う。患者会では悩みを分かち合える心地よさもあるけれど、専門的な知識を持った人に相談をしたいこともある。でも、専門知識を持った人に会えるのは診察の時間だけ。だから「マギーズのような場が大切だ」と、鈴木さんは実感を持って語る。
そんな当事者たちに寄り添い、小柄な身体ながら、大きな包容力を持つ秋山さん。その温かい言葉が多くの人を救ってきた。不安を持つ当事者やその家族が話を始めるまで待ち、何を話しても受け止め、否定しない。そして、話をした人は、自然に、人生を自分自身で歩いていく力を取り戻していく。
穏やかな人柄である一方で、思いを形にしていくパワフルさを持つ秋山さんに、たくさんの人たちが惹きつけられてきた。
そんな秋山さんがマギーズにたどり着くまでには、在宅ケアや訪問看護のパイオニアとして、多くの当事者とその家族に寄り添ってきた道のりがある。
看護師への道を決定づけた「父の死」
1950年7月、秋田県秋田市土崎港の小さな町で秋山さんは生まれた。9人きょうだいの末っ子。父は自宅で税理士として顧客を迎え、母はそれを手伝っていた。友達が遊びに来たり、泊まっていったり、「常に人がたくさんいる家」だった。
秋山さんが高校に入学した16歳の年に父は亡くなった。胃のポリープ手術をするために開腹したところ、がんが進行していたため、胃の5分の3を切除。まわりのがんは、触らずに蓋をしたようだった。その時点で、余命3か月、長くて半年と告げられていた。
当時は昭和40年、当人への告知も、抗がん剤治療もなかった。母と兄にだけ余命は告げられ、家族の中で、父の状態を知っている人と知らない人がいる中、退院後は母が介護を行った。秋山さんがそのころを振り返って言う。
「私は、父ががんだとは知らなかったんです。やわらかいものを食べていたことは知っていたんですが、吐いたりするわけでもなく、“いずれ元気になるんだろう”と思っていたんですね」
ただ、無口で眼光鋭い明治生まれの父が手術後は人が変わったように、母の後ろをついて回り、ひとり言を言うようになった。あとになってわかったことだが認知症を発症していたのだ。
ぶつぶつ何かをつぶやきながら玄関の外に出ていく父に、「どうしてこんな状態に?」と不思議に思い、バカにしたこともある。そんな父を母は当たり前のように介護しつつ、秋山さんには「父親がどんな状態でも、尊敬しなさい」と諭した。
父が亡くなったのは、月曜日。その前日に布団でヒゲを剃っていた父が、翌日に死ぬとは思っていなかった。亡くなる日の朝、母は秋山さんに「道草せず、まっすぐ帰ってきなさい」と言った。もともと、道草をするタイプではない。何かあるのかな、と思いつつ「はい」とだけ答え、家を出た。
「帰宅すると、母が夕飯の支度をしていたんですが、その日は魚だったんですね。母は“魚はしばらく食べられないから、食べておきなさい”と言いました。今にも亡くなりそうな父を察知しながら、しばらく仏事の精進料理のみで魚が食べられない私たちのことを、気にかけていたんでしょうね」
早めに帰宅した家族や近所の医者が、父の枕元に集まった。兄が、何かを知っているかのように泣く。父はゆっくりと息を吸って、吐いて、それを何度か繰り返した後、次の呼吸が途絶えた。
「え、これが、人が死ぬっていうことなの?」
と、秋山さんは思った。まるで何かの儀式のようだった。看護師の義姉が父の身体をきれいにするのを手伝いながら、突然の死を前に、16歳の秋山さんは戸惑っていた。
「四十九日を迎えたころ、母が私に“お父さんは、がんだったのよ”と言いました。“余命3か月と言われたのに1年半かけて世話をしたから、悔いはない”と。でも私は“知っていたら、ていねいに接したし、もっと手伝ったのに”と思ったんです」
父の葬儀にはたくさんの人が参列した。当時の平均寿命は69歳。70歳で亡くなった父は、家族に看取られ、多くの人に見送られ、幸せな最期だった。
命を奪ったのは、人々が恐れているがん。秋山さんは16歳にして、末期がん、認知症、高齢家族介護、家族の看取りのすべてを見ていた。その父の死がきっかけで、秋山さんは看護師を目指すことになる。
子育てをしながら働く看護教員に
東京の聖路加看護大学に進学した秋山さんは、寮生活を始めた。1学年40人で、全学生が150人くらいの小さな大学だったが、実習がたくさんあり、充実したカリキュラムだった。
当時は第2次ベビーブームのころで出産も多く、周産期看護にも憧れ、看護師、助産師、保健師すべての資格を取得した。
大学卒業の前年に、京都で働いていた先輩から声をかけられ、インターンシップとして京都にあるキリスト教系病院の産婦人科で働いた。患者中心を貫いている病院の方針に惹かれ、秋山さんは卒業後もそのまま働くことにした。
4年間、忙しい日々を過ごし、病棟の副看護婦長も務めたが、大阪大学の先生から「看護教育に関わらないか」と誘われ、3年制の医療技術短期大学部の臨床実習の助手として、京都から大阪に通うことに。
学校で講義をするよりも、病院に出向き、内科・外科など4か所を回るような実践的な教育の現場。この当時の学生とは、今でも付き合いがある、と秋山さんは言う。
また私生活では、京都大学で建築の勉強をしている大学院生と結婚。旅行で秋田に来たときに、秋山さんのクラスメートと知り合い、実家に泊まったことのある人だった。年齢がひとつ年下だったからか、夫の親戚には反対されたが、母は「近くにいてほしい」という思いも持ちつつも、賛成してくれた。
その後、京都から大阪大学に通う生活が大変であったこともあり、もともと勤めていた病院付属の看護専門学校でのポストも空いたため、京都で教員になった。
秋山さんは不妊に悩み、子宮筋腫が見つかり手術を受けた時期もあったが、幸いなことに1983年に1人目の子どもを授かり、勤め先で出産。その4年後にも2人目を出産した。
妊娠中は、学生たちにお腹を触らせ、自分のお腹の胎児の心音を聞かせることもあった。産前6週間、産後8週間だけ休み、学校の横にある保育園に入れながら教員を務めた。
子育てに追われながら、公私ともにあわただしい日々を送っている最中、秋山さんに大きな転機が訪れる。
余命1か月の姉に行った在宅ケア
昭和から平成に元号が切り替わった1989年のある日、電話が鳴った。神奈川県に住む、いちばん仲のいい2歳上の姉の夫からだった。姉の夏バテが元に戻らず、病院に行ったら、肝臓が腫れていて、そのまま入院。CT検査で肝臓がんが見つかり、手をつけられない状態で、余命1か月だという。
「どうしたらいいだろう……」と言う義兄。秋山さんは、急きょ休みをもらい、姉のもとへ向かった。まず、病院で姉のCT画像を確認。撮影された画像のすべてにがんがあった。この散らばり方なら手術はできないし、抗がん剤もつらいだろう。
当時、秋山さんには緩和ケアの知識はあったものの、日本には全国2か所しかホスピスがなかった。姉には中学2年生と小学5年生の子どもがいた。子どものそばに少しでも長くいさせてあげたいと思った秋山さんは、「連れて帰ります」と病院に申し出た。
24時間態勢の往診や訪問看護の仕組みはなく、在宅ケアも浸透していなかった時代。ところが、偶然読んだ「家庭で看取るがん患者」という新聞記事に、「ライフケアシステム」という東京・市谷にある組織が、在宅医療・看護のバックアップをしてくれると紹介されていた。神奈川県にもないかと探したが、近くにはひとつもなかった。
ライフケアシステムに電話をして相談すると、「行きますよ」。秋山さんは、姉の在宅ケアのためのチームを作った。必死の思いでつないだ仕組みだった。そこから毎週末、新幹線で京都と神奈川県を往復する日々が始まった。
いちばん仲のいい、余命1か月の、具合の悪い姉のところに行くんだ……。京都から向かう新幹線の中で、そう気持ちを切り替えた。平日は、テレビ電話で義兄とやりとりをしながら「姉が家にいるかけがえのない日々」をつくる努力をした。
「医療者である専門職と、家族や近隣の人というチームで行う在宅ホスピス・ケアでした。大切なのは、チームの真ん中にいる患者を侵食しないこと。そう、姉のことを通じて教えてもらいました」
しばらくして、姉の病状が重くなり、病院に入院。意識がなくなって10日ほどたち、穏やかな顔で姉は旅立った。最後まで家にいられたわけではなかったが、家族と自宅で5か月過ごすことができ、安らかな死に、これでよかったのだと秋山さんは思った。
自転車操業で切り拓いた訪問看護の道
義兄は、姉の看病のために有休を使いきり、ペナルティー覚悟で仕事を欠勤していたが、看護による欠勤を職場は認め、当時は珍しい「介護休暇制度」を会社に取り入れることになった。
秋山さんもまた、「こういった在宅ケアが必要な人がいる」と姉の死をきっかけに強く思い、10年勤めた看護教員をやめ、訪問看護を学ぶことにした。
姉の死後、秋山さんは東淀川区の病院の訪問看護室に研修費を払い通い始めた。そこで訪問看護のプロである保健師の高沢洋子さんに出会う。
淀川堤を自転車で風を切って移動する高沢さんに「いちばん使えないのが学校の先生よね」と、最初に言われてしまった元看護教員の秋山さん。それでも、勉強したくて必死について回ると、2週間後には「もうお金(授業料)は払わなくていいわよ」と言われた。訪問看護師として認められた第1歩だった。それでも「鍛え直す」という意識で1年間、学び続けた。
その後、1992年に、夫の転勤で東京・市谷に引っ越しをした。秋山さんは、姉の在宅ケアでお世話になった市谷の「ライフケアシステム」へ働きたいとお願いに出向くと、ちょうど老人訪問看護ステーションを立ち上げようとするところだった。
秋山さんは無事採用され、1日に4件ほど回る訪問ケアをスタート。まだ訪問介護ステーションは数が少なく、市谷から東京郊外の三鷹市、千葉県市川市など、遠方にまで出向くこともあった。そのため、午前中に1件だけ、という日もあった。
2000年になり、介護保険制度が導入された。それ以前は公益法人格を持っていないと医療事業はできなかったことから、白十字診療所とライフケアシステムが組み、白十字訪問看護ステーションが運営されていた。
しかし、介護保険制度ができたことにより、ライフケアの会員でなくても、介護保険を使えば訪問看護が利用可能に。そのため門戸は広がり、地域でのニーズが高まり、近くの医師から紹介された人にもケアを届けられるようになっていった。
しかし、これからというときに突然、医療法人の理事長が倒れた。白十字診療所を閉じなくてはならなくなってしまった。母体法人がないと、訪問看護はできない。丸ごと白十字訪問看護ステーションを買い上げてくれるところを探したが、そんなところもない。どこかの病院にくっつくにしても、その病院の方針に従うしかなくなる。
白十字訪問看護ステーションをなくさないため、秋山さんは代表取締役として'01年、訪問看護・ヘルパーステーション事業を行う「ケアーズ」という会社を立ち上げた。現場での「実践」が好きだったが、そうも言っていられない。
立ち上げ資金は借金でまかなうしかなかった。「無担保で実績なしで、女性であるあなたがお金を借りるのは難しい」と言われたが、ふと横を見ると、大学教授であり、男性である夫は「ばっちり」。秋山さんは夫に「この1回だけ」と頭を下げ、銀行に面接に行ってもらい、立ち上げ資金を確保した。
医療保険も介護保険も、報酬は利用時から2か月ほど遅れて入る仕組み。ケアーズの立ち上げに一緒に関わった看護師たちは、全員が経営者の気持ちで、自転車操業のペダルを必死で漕ぎ続けた。
浦口醇二さんは、このころ秋山さんと出会っている。白十字訪問看護ステーションを利用し、母親を在宅で看取ったのだ。
「おふくろは、センシティブな人でね。“この人なら大丈夫”と紹介してもらったのが秋山さんでした」(浦口さん)
浦口さんの母親はソプラノ歌手だった。それを意に介さず、ある日、秋山さんは浦口さんの母親を励ますために、賛美歌を歌った。
「秋山さんは相手にとっていいと思ったら、やるんだよ。温かい心と強い意思というのかな、その両方を見た。歌手の母からしたらさ、“私の前で歌うの!?”っていう感じだったかもしれないけどさ」
と、浦口さんは微笑む。その縁が続き、都市計画が専門だった浦口さんはのちに、秋山さんの事業の建築の設計に関わっていくことになる。
身体に触れ、言葉がふっと入ってくるケア
また同じころ、白十字訪問看護ステーションで秋山さんと出会った看護師の服部絵美さんは、現在、白十字訪問看護ステーションの所長を務めている。
「2003年、私は看護大学の4年生で。地域で働きたいと担当の先生に伝えたら、白十字訪問看護ステーションを紹介されたことがきっかけでした」(服部さん)
面接に行くと、その日のうちに「訪問看護に同行しない?」と、秋山さんに声をかけられた。大学病院で働いていると、医師の指示に従って決められたとおりに動くのが看護師の仕事。しかし秋山さんは、看護師としての判断を医師に伝え、同意をとり、そのケアを施す。よりよいケアを追求する姿に、服部さんは刺激を受けた。
秋山さんは、手を使ったケアがとても上手だという。
「秋山さんは、患者さんに触れながらお話をするんですが、言葉がふっと身体に入っていくように見えるんです。職人のよう。当時20代だった私にはできないな、と思いました。その技術を盗ませていただくには、どうしたらいいだろう、と考えながら同行していました」(服部さん)
服部さんには、印象に残る秋山さんのケアがある。訪問看護をし始めたばかりで、102歳の高齢の女性を受け持っていた服部さんは、在宅の看取りの経験もなかった。女性は、老衰で食事もできず、熱で苦しんでいた。
病院だと、血圧が低くなってしまったら解熱剤は使わない。しかし、亡くなる間際に、秋山さんはさっと来て、高熱で苦しむ女性と、看取る家族のつらそうな面持ちを見ると、すぐに医師に連絡をとり、座薬の解熱剤を使った。
「最期は、その解熱剤のおかげで、穏やかに亡くなられたんです。ご家族も、“老衰で大往生だよね”と。ご本人の最期の迎え方、ご家族がどう思うか、ということを秋山さんは大切にしていました。
その経験が、次の家族へとつながっていく。家での看取りを希望すれば、かなえられる地域にしていく、ということを大切にされているんです」
その一方、「看護業界で秋山さんはカリスマ的存在だけど、ちょっと抜けているところもあって、人間味あふれているから、惹きつけられる」と、服部さんは微笑む。
もうひとり、服部さんと同じころに秋山さんと知り合ったのが、看護師の秦実千代さんだ。出会いのきっかけは、秋山さんの講演会だった。
講演後、感銘を受けた秦さんは、秋山さんのもとへ話をしに行った。「何をやっているの?」と尋ねられ、当時、非常勤の看護教員をしていた秦さんはそう告げ、連絡先を渡した。1週間後、秋山さんから直接電話があった。
「難病の方が、毎日訪問が必要で、1日だけでもいいから、勉強にもなるから、やってみませんか?」と。そこから秦さんは、秋山さんと一緒に訪問看護の現場へ入っていった。
もう20年前だが、「貴重な経験だった」と秦さん。今で言う「退院調整」(入院中の状況を訪問看護で生かすため、入院先を訪れて医師や看護師から話を聞くこと)もすでに行っており「一緒に、病院に利用者さんのことを聞きにいこう」と誘われたこともある。
また当時、秋山さんは短パンとTシャツ姿でケアに入ることもあった。
「秋山さんは、入浴介助も、小さな自分の身体を上手に使ってやるんです。本当に心のこもったきれいなケア。がんの方の家での看取りも、緊張している方の身体にふっと触れて、ほぐす感じ。それに秋山さんの言葉って、内側からあふれ出てくるようで、いつも感動するんです」
マギーズとの出会いから、暮らしの保健室へ
2008年、秋山さんは運命的な出会いをする。『国際がん看護セミナー』にプレゼンテーターとして参加した際、イギリスの『マギーズ・キャンサー・ケアリングセンター』(以下、マギーズセンター)のセンター長と一緒に登壇したのだ。
マギーズセンターは1996年にイギリスで創設された無料相談支援の場で、がんに影響を受けるすべての人に開かれた「第2のわが家」だった。マギーズセンターのような居場所が日本にもあれば、多くの人が救われる。
「旧来のがん治療が変化して、外来中心になってきました。そうやって治療してきた患者さんが訪問看護に切り替えるときには、もう次の手立てがなかったりする。すぐに亡くなってしまう方も多い。もっと早い段階から、訪問看護の情報が届いていたら……と思っていました。
病院では治療の相談はできますが、生活や仕事、家族という“暮らしの相談”が欠けてしまうんです。どうしたらいいんだろうと考えていたときに、マギーズセンターに出会い、必要なのはこれだ! と思ったんです」
以来、秋山さんは、マギーズのような場所を日本で作りたいと、いたるところでつぶやくようになった。'09年春には、実際にイギリスのマギーズセンターを仲間と視察。
感銘を受けた秋山さんは、前出の浦口さんにも「イギリスのマギーズセンターに行ってみて!」と勧め、浦口さんは同年9月に訪英している。さらに'10年2月には、イギリスからマギーズセンターの最高責任者を日本に呼び、話をしてもらった。
マギーズセンターでは、医師は後ろに控えて、看護師を信頼していた。がんの当事者が気軽に訪れ、安心して話をしたり、必要なサポートを受けたりするなかで、自分の力を取り戻すことを目指していたのだ。
どうしたらこのような施設を日本に作れるだろう、と試行錯誤をする中、秋山さんは、「暮らし慣れた新宿で最期を」というシンポジウムで在宅の看取りの講演をした。
すると、東京・新宿区の民生委員をしている人から「本屋をやっているところを安く貸すから、中を改装して、あなた方の目指す社会貢献できるものを作ってみませんか?」と、声をかけられたのだ。
こうして都営団地・新宿戸山ハイツの一角に誕生したのが、'11年7月にオープンした『暮らしの保健室』。地域住民の暮らしや健康、医療、介護の総合的な相談施設として、大切な居場所になっている。
この「暮らしの保健室」は、'17年のグッドデザイン賞を受賞している。室内がひと目で見渡せる入りやすい玄関、オープンキッチンに大きなセンターテーブルも、ひとりになれる空間もある。窓からは街路樹の緑が見える。家庭的な雰囲気は、イギリスのマギーズセンターを意識したもの。ここは浦口さんが設計した。
「人の心をほぐすのは人の力だと思っていたけれど“その力は、建築や造園にもあるんだ”と、イギリスのマギーズであらためて思いました」
と、浦口さん。秋山さんが続ける。
「マギーズを日本に作りたいという思いは、形にして見せないと信用してもらえないだろうと考えていました。実際に見て、暮らしの保健室のスタイルはいいね、と知ってもらいたいと思ったんです」
暮らしの保健室で毎週、ボランティアをしている吉川厚子さんは、自身も妹を在宅で看取った利用者のひとりだ。
「暮らしの保健室では、秋山さんにお世話になった人が“お手伝いしたい”と集まるんです」(吉川さん)
25年前、吉川さんの妹は乳がんが転移し、抗がん剤治療を自分の意思でやめて、自宅で半年過ごしたのちに亡くなった。当時、妹の息子は中学1年生。余命3か月と言われたが、半年以上、静かに家族と過ごすことができた。
昨日まで元気だったのに……というほど、あっけなく亡くなったが、ホスピス・ケアがうまくいくと苦しまずにストンと逝ってしまうものだという。
日本にマギーズが絶対に必要な理由
その後、吉川さんは秋山さんのもとで在宅看護の手伝いを始めた。
「秋山さんは、末期がんの患者さんを、大事な人のお葬式へ連れていったことがあるんです」
両脇にペットボトルをあて、熱を冷ましながら患者に同行し、悔いが残らないよう望みを叶えた。「今なら、この患者さんにはできる」という、看護師としての見極めに吉川さんは感嘆した。
「すごい人なのに、“私は地域のおばさんでありたい”って秋山さんは言う。私もそうありたいなと思うんです」(吉川さん)
'15年には東京・四谷に、訪問看護や介護サービスの拠点『坂町ミモザの家』をオープン。母親と叔母を在宅で看取った利用者さんから、「1階と2階を使ってください」と申し出のあった家だ。
このミモザの家も、やはり浦口さんが設計した。ショートステイ機能のある施設として、現在、前出の看護師・秦さんが管理者を務め、地域の人々にとって重要な役割を果たしている。
「ミモザの家は、体調を整えるために利用する方もいれば、在宅中心で過ごしてきた方が、集団に慣れてホームに入る練習に利用することもあります。どの施設も、ご縁が向こうからやってきて“じゃあ、やりましょう”という感じなんです」(秋山さん)
そして秋山さんは、もうひとつの大きな出会いを果たす。マギーズへ熱い思いを抱く人物が現れたのだ。当時、日本テレビで記者として働いていた鈴木美穂さんだった。
'08年、24歳のときに乳がんを患った鈴木さんは、8か月の闘病生活を経て職場復帰した。記者としてがんに関する情報を発信しながら、若者のがん患者団体を立ち上げ、'14年にイギリスの「マギーズセンター」のことを知る。鈴木さんは、がんを経験した当事者として、「この施設は日本にも絶対に必要だ」と強く感じたという。
「“マギーズセンター”でネット検索をかけると、日本語では4件しかヒットしなくて、そのすべてに“秋山正子”の文字があったんです。キーパーソンは、この方だ! と思い連絡先を調べ、思い切って電話をかけてみたんです」(鈴木さん)
記者としてのフットワークの軽さを生かし、鈴木さんは「暮らしの保健室」で秋山さんと対面する。
「さすがは傾聴のプロで、秋山さんは私のやりたいことを2時間くらい、ひたすら聞いてくださったんです。初対面なのに、“何が課題で日本にマギーズができていないんですか?”なんて質問もして。
そうしたら、土地、広報、お金など、課題を教えてくれました。その部分は私が何かできるかもしれない、とピンときたんです。“一緒にやりませんか”と、その日に伝えました(笑)」
鈴木さんの友人の伝手(つて)で、東京の豊洲エリアにあった有休地を有効活用する企画の募集を知り、破格の条件で土地を貸してもらえることに。そして、インターネット上で資金を募るクラウドファンディングを開始。積極的に広報活動をした結果、目標額の700万円を超えて最終的には2200万円を調達できた。
現在のマギーズ東京の建築物、家財は、寄付で賄われているものが多い。2棟の建物が、中庭を挟んで一対になるように、全体の監修をボランティアで請け負ってくれる建築家に依頼した。テーブル、ランプシェードも寄贈によるものだ。
多くの人たちの思いがつまったマギーズ東京。現在までに、がんと生きる約2万4000人もの当事者、その家族らが、この場所を訪れている。
「秋山さんは、誰に対しても変わらない。行動に伴う実績をお持ちなのに、それをひけらかさないんです」
と、鈴木さん。前出の浦口さんは「温かくて人間味があるのに、リアリスト。看護師として必要なものだよね」と、秋山さんを語る。
'19年、秋山さんは赤十字国際委員会から、第47回フローレンス・ナイチンゲール記章を受章した。マギーズ東京を維持するために、著書を記したり、講演活動を行ったり、忙しい日々だ。
「あなたなりのペースで、ゆっくりと進んでいきましょう」
そんな秋山さんのひと言で、がんという困難に立ち向かう多くの人たちが、今日も「自分らしさ」を取り戻している。
取材・文/吉田千亜(よしだ・ちあ) フリーライター。1977年生まれ。福島第一原発事故で引き起こされたさまざまな問題や、その被害者を精力的に取材している。『孤塁 双葉郡消防士たちの3・11』(岩波書店)で講談社ノンフィクション賞を受賞