「身近なところで新しいことって、見つけられるものよね」
コロナ禍でも自宅の庭で好奇心の種を拾い集めて目を輝かせる。外の世界への興味や冒険心は10代のころから変わらない。子育て真っ盛りの時期にデビューし、作家生活50周年──その原点には、5歳で亡くした母親からの「贈り物」があった。
作家になるきっかけになった場所
「ブラジルの暮らしがなかったら、私は物語を書くという一生の喜びを知ることはなかったでしょう」
『魔女の宅急便』や、『アッチ・コッチ・ソッチの小さなおばけ』シリーズなど、児童文学作品200冊以上を生み出してきた、作家の角野栄子さん(85)。今年は、思い出の地・ブラジルに渡航をする予定だった。
「作家生活50周年ということもあって、サンパウロで、私の展覧会をする予定だったんです。私が若いころ2年間過ごし、作家になるきっかけになった場所ですから。ブラジルの人にも私の本の世界を見ていただきたいと思って企画していたんですが。コロナの被害が大きくて、展覧会が中止になってしまって……。残念ですね」
角野さんは80歳のとき、10年有効のパスポートを作った。
「最近の若い人たちは海外勤務を嫌がるんですってね。いろいろ事情はあるんでしょうけど、私としては、もったいないなぁと思います。知らない国で違う世界を見て、武者修行のようなことをやってみたらいいのに。私は85歳だけど、どこかに行って暮らしてみたい気持ちは今でもありますよ。
ただ、旅先で病気になって、パリでのたれ死にしちゃったりすると、娘に迷惑かけちゃうから、無理かなぁと思うけど(笑)」
船の片道切符だけを持ってブラジルへ
「ここではないどこかほかの世界を見たい」
角野さんが初めてブラジルに向かったのは61年前のこと。まだ自由に外国と行き来できる時代ではなかった。
角野さんは早稲田大学教育学部英語英文学科を卒業後、紀伊國屋書店に1年勤務して結婚。デザイナーの夫とともに、新しい首都ブラジリアを建設中のブラジルに行ってみたいと計画した。だが、普通の旅行としては許可が出ない。現地で働く自費移民という形をとって、やっと渡航が叶うこととなった。
1959年24歳の夏。船の片道切符だけを持って、横浜港を出発。太平洋から、インド洋を経て、アフリカ南端にある喜望峰をまわり、大西洋からブラジルに着くという、地球を半周する約2か月の行程だった。
「船の上では3食昼寝つきだったし、水平線を眺めながら、いい気持ちでいたんですけどね。現地に着いたとたんに“どうして、こんなところに来ちゃったんだろう。日本に帰りたい”と、思ってしまいました」
住むことになったサンパウロの下町で、知り合いもおらず、ポルトガル語もできないまま、生活をスタート。買い物ひとつままならず、困る日々が続いた。
そこで出会ったのが、同じアパートに住むルイジンニョ少年。彼がポルトガル語をはじめ、買い物の仕方や、サンバの踊りまで教えてくれた。彼の両親とも家族ぐるみで付き合うようになり、角野さんは少しずつブラジルにとけこんでいった。
「しばらくして、短波放送の営業の仕事を見つけ、働くようになりました。移民の国だから、仕事探しをしている人がいっぱいいて、門前払いなんかしないで会ってくれる。人に寛容な国なんです」
7年間ひとりで書き続けた童話
東京の歌を作って歌ってくれたルイジンニョのお母さん。正しい発音を教えてくれたコーヒー屋さん。片言の日本語で対応してくれた日系人の八百屋さん。お札が汚いと売ってくれない意地悪なハム屋さん。風邪をひいたときにペニシリンの注射を打ってくれた薬局の青年。そして、ケンカしてもカーニバルで一緒に踊ってくれたルイジンニョ。
世界中の人がまざりあって、仲よく暮らしている。そんなブラジルで2年過ごしたことが、角野さんは、「私の大きな原点になった」と言う。
実は、滞在中にルイジンニョ一家は突然引っ越し、以来、つながりがなくなってしまったのが、角野さんの心残りだった。20年後、娘と一緒にブラジルへ再訪したときも探したが、見つからなかった。
しかし、最近になって、担当編集者がフェイスブックを通じて、ルイジンニョを発見。
「さっそくメッセージを送りました。当時可愛い少年でしたけど、60年たってますから、今は素敵なおじいちゃんになってましたよ。あんなやんちゃ坊主だったのが、大学教授になったらしくて、私が“お・ど・ろ・き”ってメールを送ったら、“自分でも、お・ど・ろ・き!!”って返事が返ってきたわ」
海を越え、60年を経て、懐かしく新たな交流が始まった。
角野さんは、ブラジルに2年間滞在した後、ヨーロッパやアメリカを旅して、帰国。旅行記を書くつもりもなく、普通の主婦として生活を送っていた。
31歳で長女を出産し、育児をしていたときに、早稲田大学の恩師から「ブラジルのことを書いてみないか?」と誘われたことが、大きな転機となる。
「最初はお断りしたんです。本を読むのは好きだけど、書くなんてできないと思ってたから」
そんなときに思い浮かんだのが、ルイジンニョ少年が踊るように歩いている姿だった。「彼のことなら」と、とにかく書き始めることにした。
「最初からうまく書けるわけがないですよね。毎日書いては直し、書いては直ししているうちに、書くことが面白くなっちゃって。6度ぐらい書き直したころには、私は一生書き続けたいと思うようになったんです」
35歳のときに1年あまりかかって書き上げた『ルイジンニョ少年 ブラジルをたずねて』を出版。これがデビュー作となった。
「それから原稿を依頼されたわけじゃないのに、ひとりで童話を書くようになったんです。人に見せて、とやかく言われるのはイヤだったから、誰にも見せず、毎日毎日、書き続けて。それで、自分がこれはいいなと思えたら、出版社に持っていこうと決めてたんだけど、7年もかかっちゃいましたね」
机に積み上がるほど原稿を書いて、やっと自分が納得できる作品がふたつできた。ひとつは出版社に持ち込み、もうひとつは子どもの雑誌に投稿し、どちらも本になった。それが42歳のとき。
その2年後《スパゲッティが食べたいよう》で始まった『小さなおばけ』シリーズが大人気となり、作家としての地位を確立することになる。
娘の絵から発想した『魔女の宅急便』
『魔女の宅急便』を発表したのは50歳のとき。初めて書いた長編だった。
「娘のリオが、ラジオをホウキにぶらさげて、音楽を聴きながら飛ぶ魔女の絵を描いたのを見て思いついたんです。娘のような、現代っ子の魔女を書いてみようって」
飛ぶ魔法しか使えない新米魔女のキキが、家を出て独立し、黒猫のジジと一緒に新しい町に住み、たくさんの人と出会い、成長していく物語ができあがった。
出版の4年後、『魔女の宅急便』は宮崎駿監督の手でアニメーション映画となった。
「私の要望は描いた世界観とキキの名前は変えないでほしい、ということだけでした。それから、キキが旅立ちのときに、お母さんが木にぶらさげていた鈴に触れて鳴るシーンは作ってほしいとは申し上げたかな」
映画は大人気となり、読者も一気に増えた。
「『魔女の宅急便』は1巻で終わるはずだったのよ。だけど、キキがコリコの町へ帰るところで1巻が終わっているので、“この後どうなるんですか?”って手紙がいっぱい来て。それで2巻を描き始めたんです」
それから24年間かけて、シリーズ6巻を書き上げた。1巻では少女だった主人公キキが、恋をし、結婚をして、男女双子のお母さんとなる姿まで描かれている。
「キキが男の子を産んだら、どんなふうになるんだろうと思ったの。女の子は魔女になれるけど、男の子はなれないという設定だったから、魔女になれない世界も描いてみたかった」
そこには、なりたい自分になれないで悩む子どもたちや、思春期の子どもを前に戸惑う母の姿も描かれている。飛べなくても姿を消せなくても、“誰でも魔法をひとつ持っている”という思いを託した作品。世界中の人たちに愛され、今も長い手紙が来る。
「『キキズ デリバリー サービス』というタイトルで、多くの国で翻訳されています。これだけ世界が広がったのは、宮崎さんの映画のおかげね」
べそべそ泣いてばかりの子でした
「どんぶらこっこぅ、すっこっこぅ」
2018年、「小さなノーベル文学賞」と言われる国際アンデルセン賞作家賞を受賞した角野さん。ギリシャのアテネで行われた受賞講演で、のどかでユーモラスな、『桃太郎』に出てくる音の表現を紹介した。それは、幼い日々に、父が歌うように昔話を聞かせてくれた音だった。
角野さんは1935年(昭和10年)生まれ。5歳のときに病気で母が亡くなり、大きな哀しみを背負うことになってしまった。
「小さいころはべそべそ泣いてばかりの子でした。父や姉や弟が突然死んでいなくなっちゃったら、どうしようという怯えがずっと消えないのね。集団生活もうまくできなくて、ウソついて授業の途中で帰って、先生を困らせたりしてました」
そんなときは、よく父が本を読んで慰めてくれた。
「『かちかち山』で始まったのに、途中で違う作り話になったりしてね。父は落語や講談、浪花節にも詳しくて、いろんな口まねをして、おもしろかったんです。私は夜また涙が出てきてしまうと、枕を持って父の布団の中にもぐりこんでいました」
父の話とともに角野さんが熱中したのは、ひとり空想して遊ぶこと。
「そういう子って見えない世界に憧れる。特に昔は、月命日やお盆の行事があり、見えない世界を想像するきっかけがいっぱいあったから」
寂しさから生まれた想像力
泣いても誰もかまってくれないとき、家出する物語を想像した。家を出て親切な人に出会い、クレヨンとカステラを買ってもらうという展開を考えると、少しハッピーになれたという。
「物語って家出の話なのよ。現実から離れて、向こうに行って楽しんで帰ってくるというのが、物語。心を家出させることができるのが、物語の力なんだと思う。そうやっていろいろ想像してるうちに、見えない世界を実際に見てみたいという好奇心も強くなった。寂しさがあるから、もっと好奇心は強くなった気もするわ。
ここではないどこかに行きたいという気持ちはいつもあって、だから、ブラジルまで行っちゃった。だから、キキが旅立つ物語を書きたかった」
子どものころ描いた想像の世界は、角野さんの作品につながっている。
「本当の意味では、母が亡くなったときから感じている怯えは、今でも私の中から消えてない。大人になって上手に隠す方法は覚えてきたけど。私の書く作品は明るく見えても、どこかに怯えて泣いている私が隠れていると思います。
母が亡くなったことは、作家としての私の原点。父から豊かな感性をもらうことができたし、寂しさから生まれる想像力を育てることもできた。母は亡くなっても、大きな贈り物を私に残してくれたんですね」
子育て中も画板を首にかけて
角野さんは、ひとり娘を育てながら仕事するワーキングマザーでもあった。
「娘が小さかったころ、日本は高度成長期で、主人は忙しく、子育てを手伝える状態ではなかった。当時はほとんどの家庭がそうだったと思います。毎日毎日、小さい子と付き合わなきゃいけない生活。母親というのは、やっぱり孤独ですよね。
今は状況も変わってきてるでしょうけど、それでも子育ての大変さをすべて理解してもらえるわけではないから、孤独を感じるお母さんは多いと思います。子どもは本当に可愛いのよ。可愛いんだけど、そればかりじゃないからね」
角野さんが乗り切れたのは、書く楽しみがあったから。
「子どもが小さいうちはごちゃごちゃ動いて追いかけないといけないから、首から画板をかけて、そこに紙をのせて書いたりしてました。後は寝静まった後に書いたり。時間をつくるのは大変でしたけど。
仕事というよりも、趣味みたいな感じで始めたから、むしろ書くことは楽しみだったの。編み物を好きな人が暇を見つけては編んでる感覚に近いかな」
旅好きの角野さんは、娘が小さいころから旅行に連れていくことも多かった。
「娘が4つのとき、“ヨーロッパに連れて行ってあげる”って言ったら、“ヨーロッパより原っぱがいい”って言ったんですけど(笑)、連れて行っちゃった。
娘は楽しんだかどうかわからない。でも、向こうで公園に行ったら、現地の子と楽しそうに遊んでましたよ。子どものコミュニケーション力というのはすごいものがあるわね」
娘が小さいころ、外から帰ってきて、「あっちへ行って、こっちへ行って、そっちへ行った」という報告するのを聞いて、「アッチ・コッチ・ソッチ」というキャラクターの名前ができたり、子育てをしているからこそ、発想できた作品も多い。
母の作品をあえて読まない娘
しかし、思春期の娘と心が通じずに悩むこともあった。
「あまり詮索するのはよくないと思いながら、親はどうしても知りたくなっちゃうのよね。私は“どうして、どうして?”って、つい聞いちゃうから、かえって話してくれなくなって。その点で、私は利口な母親ではなかったと思うわ」
娘のリオさんに、子どもの目から見た角野さんを語ってもらった。まずはリオデジャネイロからとったという名前について。
「小さいころ、リオって名前はイヤでしょうがなかったです。昭和40年代生まれの私たち世代はカタカナの名前は少なくて、目立っちゃうし。せめて漢字にしてほしかった。
ただ、私は未熟児で生まれて、高度治療の設備がある大きな病院に運ばれたぐらい、危なかったらしいんですよ。それで、名前のないまま死んだらかわいそうだと、漢字を考える暇もないままつけた名前なのかなぁと、納得するようにしてました」
働く母が、そんなに忙しくしていたイメージはなく、褒めポイントとしていちばんにあげたのは「料理上手」。
「ミートソースやフレンチドレッシングも手作りして、家に来た友達にもよくふるまってくれました。当時の家庭料理としては珍しい洋食のごちそうですから、みんな争うように食べて、ドレッシングは飲み干してたぐらい。いま思うと、母は仕事をしながら、ちゃんと家事もしてたんですよね。子どものころは気がつかなかったけど」
母娘で「バトルはしょっちゅう」。中学生のとき一緒にブラジルに行った際もぶつかった。
「本を読むのが好きだったので、母が外の世界を興味津々で見てるときも、私は持っていった『ガリバー旅行記』から目を上げない。母から“もっと興味を持って社会を見なさい”と、ずっとうるさく言われましたね。興味のものさしが違うだけだと思うんですけど」
この旅行の様子を記したエッセイ本は母が文章を、絵を描くのが好きな娘のリオさんが挿絵を担当。今年10月、『わたしのもう一つの国 ブラジル、娘とふたり旅』として、新たにあとがきも加えられ、再出版された。
「母に“美人に描け”とか言われながら描きました(笑)。いま見ると、未熟な絵ですけど、あのときにしか描けない絵を本にしてもらえ、よかったなって思っています」
リオさんのイラストが、『魔女の宅急便』を書くきっかけになったエピソードも、角野さんとはちがう視点で話してくれた。
「私が魔女の絵を描いたのは、12、13歳のころ。子ども心に気に入ってて、画板にはさんで大事にとってあったんですけど、ある日突然、消えてたんです。10年後ぐらいに映画化されたとき、私の絵がきっかけになったということを初めて知りました。きっと母は勝手に持ち出して、保管してたんでしょう。
本や展覧会で、私の絵が公開されてますが、“私の版権はどこにいったの?”って感じ。母には“これのおかげで、あなたの学費が出たのよ”とごまかされ続けています(笑)」
実はリオさん、その『魔女の宅急便』を読んでいない。
「ほとんど母の本は読んでないんです。母がバリバリ作家として仕事をし始めたころ、私は高校生で、もう児童書を読む年齢ではなかったというのもあるし、反抗期で“母が書いたものを読めるか”っていう気持ちもありました。
母は『トムは真夜中の庭で』を書いたフィリパ・ピアスさんと“娘って本を読んでくれないのよね”って話し合ったみたいですから。娘は母親に対して、カラいですよね」
リオさんは結婚し、パートナーの仕事の関係で長く外国で暮らした。そこで身近に日本語の本がない生活で、読むものがほしくなり、自分で本を書くようになる。人の言葉が話せる黒猫が活躍する『ブンダバー』シリーズを、くぼしまりお名義で発表。
「母の影響で書き始めたわけじゃないと自分では思ってますけど、読者の中には“お母さんとそっくり”という人もいます。言葉のつかいまわしが、似てるんですかね」
その後も、母の本はあえて読んでいないという。
「読もうかなと一瞬、思ったこともあるんですけど。ひとりっこの私が将来、父も母もいなくなったときに、読んだことのない母の本が、たくさんあったら、寂しくないかなぁと思って。だから、『魔女の宅急便』はまっさらのままとってあります」
飼い犬もおびえた母娘バトルを超えて
ここ数年、リオさんは、角野さんが着る洋服のコーディネートを担当するようになったという。
「母が年をとってきたので、私が家のことを手伝うようになったんですけど。掃除や料理については、“それ捨てちゃダメ”とか母がいちいち口出しするから、いつもバトルになってしまう。あまりにも険悪なムードだったのか、ペットの犬がストレスで吐いちゃって(笑)。
これはマズいと、それから、家事については、私は手をひくことにしました。元気なうちは自分でやってもらったほうがいいとも思いましたしね。洋服を選んでるときは喜んでくれるので、私はそれだけに集中することにしたんです」
角野さん行きつけの鎌倉のセレクトショップ『リミィニ』の経営者で、角野さん親子をよく知る広田とも子さんは言う。
「リオちゃんはとてもお母さんのことを気遣ってらっしゃいますよ。栄子ちゃんも、“リオの許可がないと、服が買えないのよ”と、欲しい服があると、写真を撮ってリオさんに送って相談してます。“却下”が多いみたいですけど(笑)。愚痴を言いながら、お互いを思いやってる、いい関係だと思います」
国際アンデルセン賞の授賞式のとき、角野さんが身につけた、白いワンピースに赤いネックレスというキュートなファションを準備したのもリオさん。
「ネックレスがいつも買うものより少し高かったんです。母は安くすませろって主義なんですが。でも、授賞式でつけるものだし、とても素敵な色だったので、母に2度も電話して、許可をとってから購入しました」
リオさんはアテネでの授賞式にはついていかず、お父さんと留守番だった。
「レセプションや取材などもあり、滞在5日間の服をコーディネートして、個別にパッキングして、送り出したときは、もうへとへと。父も母の受賞を喜んでたと思うんですけど、疲れてそんな話をする余裕もなかった(笑)」
受賞後、角野さんは取材や講演がさらに増え、リオさんがサポートする機会も急増。
「私が今、母に言いたいのは、“とりあえず、ころぶな”ってことですかね。元気には見えますが、85歳ですから気をつけてもらわないと。
3年後に江戸川区の角野栄子児童文学館(仮称)がオープンするのを母はとても楽しみにしているので。それまでは石に齧(かじ)りついてでも元気でいてもらいたい。なにがなんでもテープカットをさせてあげたいんです。その後のことは、もう知りません(笑)」
子どもはいちばん正直な読者
角野さんは子どもたちと直接触れ合う機会も大切にしている。家の近くの鎌倉文学館で、定期的に自分の作品を読み聞かせる会を開催。
「子どもたちの反応がすぐにわかって、楽しいの。読み終わって“どうだった?”と聞くと、“退屈だったぁ”なんてからかうように言ったりする子もいて。可愛いでしょ。だって、85歳の作家に対して、そんなこと言ってくれる人います? 思ってたって言いませんよ。
退屈って言う子は、本当はちゃんと最後まで聞いて反応してくれてるんです。だから、私も言ってやるのよ、“退屈って言いながら、あなた毎回来るじゃない?”って(笑)」
子どもはいちばん正直な読者だから、書くときも真剣勝負。「どう? これ面白いでしょ」と、子どもに真っ向から挑戦する気持ちで書くという。
「子どもの本だからって舐めちゃいけません。大人より、もっとわかってますからね。子どもが生まれて初めて読んだ本がつまらなかったら、本が嫌いになっちゃうでしょ? 子どもの本は、大切な橋なんです。その橋を楽しく渡って、本を好きになってほしい。だから、私はもっと面白い物語を書きたいんです」
山口県下関市で『こどもの広場』という児童書専門店を経営している横山眞佐子さんは、角野さんと30年来の付き合い。
「講演をお願いしたら、角野さんは快く引き受けてくださって、それ以来、何度も下関まで足を運んでくれています。私は42年前、子ども2人を連れて離婚し、新しい仕事を始めようと、下関で店をオープンしたんです。
でも、児童書の専門店なんて、ほとんどない時代でしたから、“おんな子ども”扱いされたり、風当たりは強くてね。角野さんのように協力してくださる方がいなければ、続けられなかったと思います」
本には人を豊かにする力がある
横山さんは、学校に大量の本を持っていき、子どもたち自身に、図書室に入れる本を選んでもらう“選書会”という催しを行っている。そこでも、角野作品は大人気。特に料理上手なおばけのアッチシリーズは知らない子はいないほど。
「荒れてる中学校に、角野さんと一緒に乱入するような形で話をしにいったことがあるんですけど。アッチの人形を見た瞬間に、問題児らしき生徒が“知ってる!”と前の席に来て聞いてくれたんです。
そこで、角野さんは、『魔女の宅急便 2』で書かれた、しっぽをなくしたカバが自分の中心を見失って病気になってしまう話をされて。『だから、みんなも自分にとってのしっぽ、真ん中を見つけなきゃね』というようなことをおっしゃった。後で、生徒たちが“角野先生にお手紙を書きたい”と言い出して、本当に書いたみたいですよ」
長年担当編集を務めるポプラ社の松永緑さんも角野作品の影響力を目の当たりにしている。
「6歳のときにアッチの本を読んでハンバーグを作ったことがきっかけでフレンチのシェフになられたという方からお手紙をいただいたんです。それで、シリーズ40周年を祝うお食事会をその方のお店で開きました。
とても感激なさって、素晴らしいお料理を出してくださいました。角野先生の本が人生の夢と喜びをつくったんだと、うれしくなりました」
今年はコロナ禍の中、読書会などは中断。外出を自粛することも多くなったが、書くことをやめることは決してなかった。
「書き続けるのには、ボディ力が必要ですけど、幸いにして、私、丈夫なの。ただ、80歳を過ぎてからは、調子がよくない日がちょっとありますけどね。でも、好奇心は大丈夫。コロナでしばらく、散歩ができないのはつらかったけど。
それでも、うちの狭い庭でダンゴムシや蜘蛛を発見してうれしくなったり。身近なところで新しいことって見つけられるものよね」
ポプラ社の松永さんは、例年どおり新作の編集に関わった。
「そろそろ次の話をと、お願いすると、角野先生は“えー、もう書くことないわよ”なんてちょっとダダっ子みたいにおっしゃるんですけどね。いつも打ち合わせをしてるうちに、アイデアが広がって、こちらの期待を超えた作品を書いてくださるんです。
私が以前コロッケを作って大失敗したことをお話ししたら、じゃあそれをキャラクターにしましょうと決まって、『おばけのアッチとコロッケとうさん』というシリーズ43巻目を書き上げてくだいました。まさかおこりんぼのおじさんコロッケを登場させるとは、想像もできなかったですね」
2023年開館予定の、江戸川区角野栄子児童文学館(仮称)の創設にも自ら関わっている。
「外側は真っ白で、内側はいちご色にしました。子どもたちを驚かせようと思ってね。真っ赤でびっくりして、その驚きから想像力が生まれますから」
子どもたちに本を読む楽しさをもっと知ってほしいという思いは強い。
「今はゲームやアニメ、たくさん楽しいことあるわよね。本はページをめくって、なじむのにちょっと我慢が必要だけど。物語を読むと、わくわくするでしょ。心が動くでしょ。
ゆっくり味わうことも、さっと読み進めることもできる自由さがあるのも本ならでは。本を読みながら想像したり考えたりするうちに、やがて本は読んでいる人の物語になる。それがその人の力になっていく。本は勉強の役に立つとは言わないけど、人の一生を豊かにすると思います」
『魔女の宅急便』で主人公キキが旅出つとき、「贈り物の箱をあけるときのようにわくわくしているわ」というセリフがある。角野さんは同じような気持ちで24歳のときブラジルに向かった。
それから60年たった今も、「今日はどんなに面白いことに出会えるかしら?」と思いながら目覚めるという。
母を失い、泣き虫だった少女は、冒険の海に出て、書くという魔法を得た。
つらいときも寂しいときも、本の扉を開ければ、わくわくする世界が広がる。ブラジルの海がある。アッチの作った料理がある。「いいこと、ありそな」とつぶやいて空を飛ぶキキがいる。
「死ぬまで書き続けたい」
85歳の書く魔女は、わくわくを紡ぎ続ける。
取材・文/伊藤愛子(いとう・あいこ)人物インタビューを中心に活動するライター。著作に『ダウンタウンの理由。』『視聴率の戦士』『40代からの「私」の生き方』などがある。理学部物理学科卒業の元リケジョだが、人の話を聞き、その人ならではの物語を文章にするという仕事にハマって、現在に至る