二宮和也は俳優業で評価を高めていった。‘03年に公開された映画『青の炎』では、主演を務めた。
「義理の父親を殺害し、完全犯罪に挑む高校生という難しい役柄を熱演。演劇界の巨匠・蜷川幸雄さんが監督を務めたことでも話題になりました」(スポーツ紙記者)
二宮の母親役で共演した秋吉久美子に当時の話を聞いた。
「非常に頭のいい方だと思いました。一緒に記者会見をしたときに、短い時間で映画の内容を説明しながら自分の意見も述べていました。演技力も高かった。撮影のセットのテーブルに座った瞬間にセンサーが動くタイプで、役に自然に入り込んでいましたね。頭で理解して、感受性も強く、見る人の皮膚に伝えるような芝居ができる方でしたよ」
10代で主演を務めたが、緊張した様子はなかったという。
「撮影の合間にカードを使った手品を見せてくれたり、冗談を言うなど、余裕がありましたね。相葉くんのことをすごく愛していたのを覚えています(笑)。よく彼の話をうれしそうにしていましたからね。相葉くんがお父さんと一緒に、ふんどし一丁でお祭りにみこしを担ぎに行った話をして、“相葉っておもしろい奴なんですよ”と笑っていましたね」(秋吉)
蜷川幸雄も絶賛
この作品で撮影を担当したカメラマンの藤石修氏は、二宮のこだわりに驚いたと話す。
「学校の職員室で先生と口論するシーンでカメラを入れてテストを2回やったのですが、二宮さんは同じところでセリフをつっかえてしまいました。私は台本を渡そうとしましたが、彼は受け取らず、歩きながら下のほうを見て何度もぶつぶつセリフを言っていた。3回目の撮影では、まったく問題なく言えてOKが出ました。
私が冗談交じりに“ずっと間違えなかったのに、どうしたの?”と聞いたところ、セリフを覚えていなかったわけではなかった。最後の4~5行のセリフを一気に言いたかったのに、途中で息が詰まってひと息で言えなかったんだそうです。蜷川さんの指示があったのではなく、主人公になり切ってたたみかけるように言うための工夫だったみたいですよ」
撮影現場では、指示されたとおりに芝居をするのではなく、自分で考えながらやっていたようで、
「妹役の鈴木杏さんとベッドの脇に座って一緒に頭から毛布を被るシーンや、二宮さんがコンビニの入り口で身体をSの字のように曲げて立つシーンは、彼の判断でやったんですよ。蜷川さんはさまざまな演技をする彼を見て、“それ、おもしろいね”と絶賛していましたね」(藤石氏)
撮影の合間には、“二宮らしい”ことも。
「よくゲームボーイのような携帯ゲームをやっていましたね。現場に台本は持って来なかったのですが、ゲームは持ってきていました(笑)。ギターを持ってきて弾いたことも。まだ始めたばかりだったので腕前は発展途上でしたが、当時から自分の曲を作っていましたよ」(藤石氏)
‘05年には、ドラマ『優しい時間』(フジテレビ系)に出演。
「寺尾聰さんと二宮さんのW主演で親子を演じました。絶縁していた2人が長い時間をかけて和解していく物語です。脚本は倉本聰さんで、北海道の富良野市で撮影されました」(前出・スポーツ紙記者)
陶芸職人として修行する二宮の師匠役を演じた麿赤兒は、当時のことを懐かしむ。
「バスで移動していて彼が前の席で、僕が後ろに座っていたときに話しかけると、背もたれを乗り越えて一生懸命聞いていました。つい親近感を抱かせる不思議な魅力がありましたね。二宮さんと一緒のシーンがないときは寂しく思ったことも(笑)」
二宮の父親代わりの役だったこともあって、すぐに打ち解けたという。
「陶芸家の役なので粘土の練り方を勉強してから陶器を作ったのですが、なかなかうまくできませんでした。でも、彼はソツなくできていました。 “少しだけ練習したんです”と言っていましたが、すごく手先が器用でしたね。師匠のはずの僕が、“これどうやるの?”と聞いていましたからね(笑)」(麿)
クリント・イーストウッドのひと言
同じく倉本が脚本を手がけた‘07年のドラマ『拝啓、父上様』(フジテレビ系)では、料理人の見習い役で主演を務めた。ロケ地となった東京・神楽坂の毘沙門天善國寺の住職・嶋田堯嗣(ぎょうじ)さんは、忘れられないことがあったようだ。
「神楽坂のホテルで打ち上げをした際に私も呼んでいただきました。会が始まる前に、二宮さんは私のところにやってきて、“長い間、撮影に使わせていただいてありがとうございました。お世話になりました”とお礼を言ってくれたんです。タレントの方がわざわざ挨拶に来るなんて、すごくしっかりされている方だと思いましたね」
同じ年には、クリント・イーストウッドが監督した映画『硫黄島からの手紙』に出演し、ハリウッド進出を果たした。
「硫黄島でアメリカ軍と死闘を繰り広げた日本軍将兵と祖国に残された家族の思いを描いた作品です。主演は渡辺謙さんで、二宮さんは戦闘の中で彼と親交を深めていく役を演じました」(映画ライター)
上官役として出演した坂東工は、現場では非常に高いレベルを求められたと話す。
「クリントは現場で撮影の開始、終了についてはっきり言わず、1テイクだけでした。セリフを噛もうが、間違えようが、続けるんです。僕は、前日に必死になって覚えたのに、セリフが飛んでしまったこともありました。でも、二宮さんは1~2回台本を読んですべて頭に入っていたというので、驚きましたね」
撮影中は、出演者全員が同じホテルに泊まっていたため、誰かの部屋に集まることが多かったという。
「僕らが“二宮くんも後でおいでよ”と誘うと、“行きます”と言うのに絶対来なかった(笑)。でも、彼が来なかったのは、雑誌の取材など、日本での仕事をずっと現地でこなしていたからなんだそうです。日本時間とアメリカの時間は違うので、いつ眠るのかと思っていました。ホテルに戻ってからも別の仕事をしていたのに、現場に来れば完璧にセリフを覚えているんですよ」(坂東)
撮影の初日に、最初と最後のシーンを撮ったのだが、二宮の演技は世界をうならせていたようで――。
「物語の最後に、アメリカ兵士に囲まれてスコップを振り回し、気を失って運ばれるシーンがあったのですが、撮り終えた後、クリントが二宮さんを見て“彼でよかった”と言ったんです。クリントはあまりそういうことを言わない人なので、みんな驚いていましたよ。
渡辺さんが亡くなって二宮さんが涙を流すシーンでは、あまりにも自然に泣いていたので、“この人はすごいな”と心から思いました。悲しさや感情が高ぶって泣いたというよりも、感情を超えた何かによって出た涙だったと思います」(坂東)
俳優として海外でも評価された二宮だが、“意外な分野”で活躍するメンバーも現れて――。