『全盛期』
1999年にデビューした嵐の5人は、俳優、バラエティー、アート、キャスターとそれぞれの得意分野で輝き始めた。
2007年には、メンバー全員で映画『黄色い涙』に出演した。同作でカメラマンを務めた蔦井孝洋氏は、嵐の人気に驚かされたと話す。
「愛知県名古屋市の普段は閉まっているお店が多く、人通りの少ない商店街で撮影しました。夜中のシーンの撮影で深夜0時くらいに商店街に行ったところ、噂を聞きつけたファンの女の子たちがたくさん集まっていたんです。スタッフが乗っていたバスが入っていけないほどでした」
当時の5人は、かなり忙しそうに見えたという。
「昼間はそれぞれの仕事もあり、かなりハードスケジュールでした。疲労がたまったのか、二宮和也さんが38度近い熱を出したこともありました。でも、彼はまったくそんなそぶりを見せず、最初はスタッフの誰も気づかなかったほどです」(蔦井氏、以下同)
1人でいることが多かった大野
連日仕事に追われていたが、現場の雰囲気は和やかだった。
「大野智さんはひとりで黙ってポツンと座っていることが多かったのですが、それをほかのメンバーにツッコまれて、ニコニコ笑っていましたね。当時、レギュラーのバラエティー番組の仕事が大変だったみたいで、“川を走るロケで、全力で川底を走ったから足が痛いんだよね”とメンバー同士で笑いながら愚痴をこぼしていましたよ」
日常の5人は“普通の若者”に映ったというが、彼らを見てブレイクを予感したようだ。
「撮影の終盤に、僕はよく“嵐がこれから嵐を巻き起こすんじゃない?”と冗談まじりに言っていました。個々のキャラクターが立っていて、誰もがセンターを張れる逸材でしたから。人間的にもきちんとしていたので、これから間違いなく売れるだろうと思ったんです」
その予感は的中。2007年に放送されたドラマ『花より男子2』(TBS系)が嵐の人気に火をつけた。
『花男』シリーズで松潤がブレイク
「松本潤さんは主演の井上真央さんを一途に愛する道明寺司役を熱演。ジャニーズのグループのブレイクは人気のドラマと連動していることが多いですが、嵐はこのドラマでした。平均視聴率は21・6%を記録し、主題歌の『Love so sweet』は年間シングル4位に。一躍、グループの知名度を上げました」(テレビ局関係者)
その後、スターダムを駆け上がっていく。
「2008年からTBS系のバラエティー番組『ひみつの嵐ちゃん!』がスタート。プライムタイムで初の冠番組でした。『Happiness』や『One Love』などヒット曲を連発し、2009年に発売されたベストアルバムでは初のミリオンを達成。同じ年にはNHK紅白歌合戦に初出場を果たし、2019年まで11年連続出場を成し遂げました」(同・テレビ局関係者)
勢いに乗る嵐は、アイドル活動以外でも功績を残した。
「2010年に、国土交通省・観光庁の観光立国ナビゲーターに起用され、彼らを主役として企画した『ニッポンの嵐』を全国の小・中・高に学校図書として寄贈しました。子どもたちが勉強する題材になったんです」(芸能プロ関係者)
一時は、発売する曲がなかなか売れない“冬の時代”も経験した5人。なぜ、彼らはここまで人気になったのだろうか。『ジャニーズは努力が9割』(新潮社刊)の著書があり、ジャニーズ事情に詳しい霜田明寛氏は、SMAPに近い売れ方だと指摘する。
「デビューと同時にブレイクするグループが多い中、SMAPは時間がかかりました。嵐も、デビュー曲はヒットしましたが、ほかの曲は苦戦し、大規模なツアーもできませんでした。デビューからブレイクまで8年かかったのは異例ではないでしょうか」
5人全員のキャラクターが立っていることが強みになったという。
「デビューシングルこそ松本さんがセンターでしたが、その後は曲によってセンターが代わっています。平野紫耀さんをセンターで固定しているKing & Princeとは対照的です。グループで飛び抜けた人がいないことで人気が出るのに時間がかかったのかもしれませんが、ブレイクしてからは逆にそれがプラスに働いたと思います」(霜田氏、以下同)
日本中が嵐を求めた日
世代を超えて支持されているのには、こんな理由が。
「メンバーが30代に突入しても、世間は彼らにアラサーのイメージを持ちませんでした。20代後半になっても、二宮さんと櫻井翔さんはTBS系のドラマ『山田太郎ものがたり』で高校生役を演じていましたからね。嵐のメンバーが年をとっていく感覚がなかったので、小学生も“ちょっと年上のお兄ちゃん”と親しみを持ったのでしょう。
また、2005年からフジ系で放送されたレギュラー番組『まごまご嵐』では、おじいちゃんやおばあちゃんと触れ合う姿を見せ、高齢者にも名前が浸透していきました」
嵐は、9年前の“あの日”を境に国民的アイドルになった。
「2011年3月11日の東日本大震災以降、しばらくの間、日本中にどこか暗い雰囲気が漂っていました。日本を元気づけることが求められる中、仲がよく、和やかな雰囲気の嵐が合っていたのでしょう」
実際、彼らはたくさんの人を元気づけてきた。
「同年に東日本大震災のチャリティーイベントとして、嵐のワクワク学校を開催。イベントで得た収益は東北の被災地に寄付しました。それ以降も、何か大きな災害が起こると、現地で炊き出しをしたり、被災地でライブを行っています。老若男女問わず、多くの人を笑顔にしてきましたよ」(前出・芸能プロ関係者)
大ブレイクを果たした5人は、やがて日本の危機も救っていく─。
『ワクワク学校』
大ブレイクを果たし、国民的アイドルになった嵐は、日本の危機に立ち上がった。
「'11年の東日本大震災のチャリティーイベントとして、『嵐のワクワク学校』を開催しました。6月に行われる予定だった東京ドーム公演を、電力不足を考慮してチャリティーイベントに変更して実施。収益金の約2億円は東北の被災地に寄付されました」(スポーツ紙記者)
'12年2月に放送された『音楽のちから』(日本テレビ系)の企画では、宮城県の『七ヶ浜国際村』に被災地から500人を招待して大規模なライブを開催した。ライブの前にはメンバーがサプライズで仮設住宅を訪れていたのだが、彼らの訪問を受けた佐藤智子さんは驚いたという。
「事前にライブに応募したところ、テレビ局から“芸能人が来る”とは聞いていたのですが、まさか嵐が来るなんて思いませんでした。5人は私ともう1軒の家のふた手に分かれていました。私のところには、大野智さんと松本潤さんが来てくれました。2人は、私がいちご狩りに行った帰りに被災した話をすごく真剣に聞いていましたね」
当時3歳だった佐藤さんの息子に、松本はこんな“胸熱”メッセージを送っていた。
「2人が帰るときに、息子がアメを渡していました。その後、私たちはライブに行き、握手会にも参加したのですが、松本さんは息子に“ちゃんとアメ食べたよ。ありがとう”と言ってくれたんです」(佐藤さん)
生徒全員ぶんのツアーTシャツ
ライブのスタッフだった男性は、ステージ裏の5人に感動したと話す。
「みんなすごく人柄がよく、裏表がいっさいないんです。部外者の私だけでなく、ジャニーズ事務所のマネージャーさんに対しても礼儀正しく振る舞っていました。そういう姿を見て、彼らが人気になった理由がわかりましたね」
直接、現地に足を運べないときも陰ながら被災地をサポートした。岩手県では'12年にワクワク学校の開催を計画していたが、実現できなかった。すると、5人は事務所を通じて、沿岸の小・中学校に文房具を寄贈したのだ。
岩手県教育委員会 学校調整課の復興教育担当者に経緯を聞いた。
「8月にジャニーズ事務所側から、『ワクワク学校』が中止になってしまったので、制作したグッズを寄贈したいという連絡がありました。寄贈先を検討した結果、9月に沿岸の市町村の小・中学校に文房具を寄付することに。小学校には鉛筆とノート1万2603セット、中学校にはノートとレターセット7542セットが配布されました」
その後も、嵐は何か災害が起きると、被災地を元気づけてきた。'16年4月の熊本地震のときは、3か月後に5人で益城町にある益城中学校を訪れた。
「学校は夏休みに入っていたので、事前に生徒には“芸能事務所から復興支援イベントがあるので、できるだけ参加してほしい”と、誰が来るかは伝えずに呼びかけていました。当時の全校生徒約700人のうち、400人~500人くらいが出席しましたね。5人が体育館に現れると生徒たちは絶叫していました。“大変ですが、頑張ってください”と励ましてくれたのが記憶に残っています。当時、ツアーの最中だったので、全校生徒分のツアーTシャツと図書カードもいただきました」(中学校職員)
「嵐が愛される理由がわかった」
'18年7月に、広島県や岡山県などを西日本豪雨が襲ったときは、松本が広島県庁を訪れて、義援金5000万円を寄付した。当日の対応にあたっていた、元広島県健康福祉総務課長の熊谷聡一郎さんに話を聞いた。
「彼は災害の2週間後に来られたのですが、実は、この時期は、被災者が精神的にいちばん大変なときなんです。災害が起きた直後はまだ復旧作業が立て込んでいますが、2週間たつとそうした作業が落ち着いて、これからの生活をどうするか考えるタイミング。家屋が全壊してどこで生活したらいいか困っている人が多かったので、そんな時期に来てくださったのはありがたかったですね」
その後、避難所となっていた広島市内の小学校を訪れた。小学校職員によると、松本の滞在時間は長かったようだ。
「午後1時前に来られました。当初は30分ほどの予定でしたが、1時間以上いてくれたんです。避難所の人たちに“頑張ってくださいね”と声をかけサインにも応じていました。地方にいる私たちにとって芸能人はテレビで見るだけの人なので、来てくれるだけで元気をもらえましたね」
嵐はボランティア活動に精力的に取り組んでいるが、その中でも松本は人一倍、被災地のために汗を流してきた。
「『ワクワク学校』の企画やアイデアは、彼のほうから積極的に提案していたそうです。ほかのメンバーに比べて、現地に足を運ぶ回数は松本さんがいちばん多いですし、働きぶりに驚いたスタッフも多かったようです」(芸能プロ関係者)
'18年の西日本豪雨では二宮和也も岡山県庁を訪問した。二宮と対談した伊原木隆太知事は元気づけられたと話す。
「スーツ姿でお越しになり、神妙な面持ちでお話しされる姿や言葉から、被災地を応援したいという優しい気持ちが伝わってきました。報道カメラがない場所でも、“協力を惜しまない”と話されていて、嵐があれだけ愛されている理由がわかりました」
その後も、二宮とは交流があったようで─。
「昨年の秋ごろに伊原木知事から感謝の意を伝える手紙を送ったところ、二宮さんからお礼のお手紙をいただきました。手書きで、“ありがとうございます。僕も頑張ります”と律義にお返事してくださりました」(岡山県庁職員)
苦しいときに日本を支えてきた嵐は、やがて世界で輝く存在になっていく─。
『ハワイ公演』
日本での知名度を上げる中、嵐は海外にも進出していった。'06年の9月から11月には、グループ初のアジアツアーを開催した。
「台北とソウルの2か所で行いました。韓国で単独公演を行ったのはジャニーズで初めて。'08年には、東京、台北、ソウル、上海で2度目のツアーを行い、アジア圏での知名度を上げました」(スポーツ紙記者)
『台湾ジャニーズファン研究』(青弓社刊)の著書があり、アジア圏のジャニーズ事情に詳しい日本大学国際関係学部国際教養学科助教の陳怡禎氏は、嵐の人気は日本と連動していると指摘する。
「日本では、'05年にTBS系で放送されたドラマ『花より男子』で人気に火がつきましたが、このドラマは台湾や中国、香港でも放送されて現地でも反響が大きかった。ちょうどそのころ、アジアツアーを開催したことで、さらに人気が爆発しました。嵐が大ブレイクした時期はメンバーの誰かしらが毎年のようにドラマに出ていたので、根強い人気が続いたのでしょう」
現地の反響はすさまじく
アジア圏でも人気を獲得したのには、5人の“武器”が功を奏したようで─。
「現地のファンは、ジャニーズグループの仲のよさを大切にします。“グループの誰と誰が仲よし”というエピソードを非常に喜ぶんです。その点、嵐はメンバー間の仲のよさを全面に出しているので、ファンの心をつかんだのかもしれません」(陳氏)
海外での知名度を上げていった5人は、デビュー15周年となる'14年に、ハワイで『ARASHI BLAST in Hawaii』を開催した。
「9月20日と21日に行われ、日本でも全国209の映画館でライブビューイングされました」(前出・スポーツ紙記者)
ハワイ在住の日本人に話を聞くと、当時の大フィーバーが記憶に残っていると話す。
「ライブ会場はコオリナという場所で、ワイキキから1時間以上かけてバスで送迎していました。送迎の車がたびたび走っていたため、道路が渋滞していましたね。私の友達のミーハーな家族は、会場の隣のホテルに泊まって、部屋の中からライブを見るなど、現地でも反響が大きかったんですよ」
街は、まさに嵐一色だったという。
喋れなくなるほど泣いた大野
「日本から訪れる人が多かったからか、取材に訪れた報道陣は税関検査のスタッフに“あなたも嵐(を見にきたの)?”と聞かれたそうです(笑)。ショッピングモールには、アラフェスの旗が掲げられ、ラッピングバスが走るなど、街は嵐の看板だらけだったみたい」(テレビ局関係者)
大舞台だったが、5人は取材対応でもサービス精神を忘れなかった。
「デビュー会見のときに乗っていたクルーザー船で囲み取材をしました。報道陣は船には乗らず堤防から取材したので、距離があって声が届きにくかったのですが、メンバーたちがICレコーダーを受け取って録音ボタンを押してくれたそうです。報道陣は彼らの気遣いに感動したみたいですよ」(同・テレビ局関係者)
ハワイ公演を見たファンの女性は、ライブ以外でも5人の気遣いを感じたという。
「ワイキキにある大型施設で、コンサート前後の数日間、ツアーに参加した人だけが見られる特別映像が放映されていました。メンバーが嵐にまつわるクイズを出題して、ほかのメンバーが回答して嵐にいちばん詳しい人を決める企画でした。大野智クンが最下位になって、ほかの4人からいじられていました。ハワイでも5人らしい仲のよさが見られたのは、うれしかったですね」
コンサート当日は、サプライズの連続だった。
「まず初めに5人が上空からヘリで降りてきたんです。サングラスをはずして颯爽と会場に降り立つ姿は、まさにスターでした。みんな度肝を抜かれて歓声が上がっていましたね。ライブは『A・RA・SHI』などのデビュー当時の曲からスタートし、激しいダンスが特徴の『PIKA☆NCHI』も披露。デビュー当時の荒々しい雰囲気を残しつつも絶妙な色気が加わり、5人がここまで成長したのだと胸が熱くなりました」(同・ファンの女性)
コンサートを終えた後の挨拶では、メンバーも感極まっていた。
「大野クンがしゃべれなくなるほど大泣き。松本潤クンや相葉雅紀クンもつられて泣いていましたね。デビューからなかなか売れず、苦しかったときの思いを語りながら、 “嵐で本当によかった”“5人だからここまでやってこれた”と、チーム愛を強調し、嵐を誇りに思っていると言ってくれたのがすごくうれしかった。彼らの挨拶を聞いて、涙を流す人も多かったですよ」(同・ファンの女性)
『ジャニーズは努力が9割』(新潮社刊)の著書があり、ジャニーズ事情に詳しい霜田明寛氏は、嵐のハワイ公演は、グループにとって転機になったと話す。
「'99年にデビューした場所であるハワイでライブを行うという原点回帰だったと思います。ブレイクを果たし、15周年にデビューの地に戻ってきたのは大きいです。初期から応援していたファンにとっては、感動的だったと思います」
ハワイ公演以降も、海外での活動に力を入れている。
「ブルーノ・マーズに楽曲提供してもらったり、この1年間で洋楽のような曲を多数出すなど、今年で活動を休止するグループとは思えないほど世界を意識しています。実績を残し後輩たちへの道を作ろうとしているのかもしれません。もともと、昨年亡くなった事務所社長のジャニー喜多川さんにとって海外進出は悲願だったので、5人が彼の遺志を継ごうと思いを強くしているのでは」(霜田氏)
“世界のアイドル”になった5人だが、20周年には世間を激震させて──。
『活動休止』
日本でも、海外でも輝かしい功績を残した嵐。だが、デビュー20周年を迎えた'19年には、世間に衝撃を与えた。
「'20年末をもってグループでの活動を休止することを発表。'17年ごろから何度もメンバーで話し合いを重ねた末に出した結論でした。夕方にファンクラブで発表し、夜には都内で会見を開きました」(スポーツ紙記者)
ほのぼのとした5人と活動休止という言葉が結びつかなかったため、多くの人たちから驚きの声があがった。ただ長年、彼らを見守っていたファンは少し前から“違和感”を感じていたという。
「'18年12月下旬に行われた東京ドーム公演で『5×20』の歌い方がいつもと微妙に違っていたり、最後のメンバーからの挨拶が少し寂しい感じがしたんです。一緒にライブに行った友達と“なんか雰囲気違ってたけど、大丈夫かな?”と話したのを覚えています。いま思えば、休止を決めているのに、ファンの前に立つことに後ろめたさを感じていたのかもしれません」(嵐ファンの女性)
会見の当日、現場に行っていた元日本テレビアナウンサーの青木源太は、終始和やかな雰囲気だったと話す。
「私たち報道陣に向けてというよりも、カメラの向こうのファンに対して、ていねいに誠実に説明している印象を受けました。また、5人とも記者に質問されてから答えるまでのスピードが速く、ほとんどよどみなく答えていました。全員で長い時間をかけて話し合い、みんなが納得して導き出した結論なのだと素直に思いました」
会見が重苦しい空気にならなかったのは、5人の表情や服装も関係していたようだ。
「全員ジャケットを着ていましたが、ピンクやベージュなどの明るい色が多く、ネクタイは締めていませんでした。“堅苦しく見えないようにしよう”というコンセプトがあったようですね。会場に入る直前もメンバー同士で冗談を言い合い、笑顔で握手していたそうです。ジャニーズ事務所のスタッフでさえ、これから重大発表をするとは思えなかったといいます」(テレビ局関係者)
当日は、メンバーにとってもバタバタなスケジュールとなった。
「お昼過ぎにファンクラブに向けて配信する動画を撮影しました。大野さんは普段あまりミスをしないのですが、このときは何度も言い間違えてしまったそうです。活動休止は、彼が休みたいと思ったことに端を発しました。自分の口からそのことをファンに説明して、理解してもらえるのかという“最後の不安”があったのではないでしょうか」(同・テレビ局関係者)
活動休止後を見据えた歩み
夕方には、事務所のスタッフを集めて緊急ミーティングが開かれたという。
「ジャニー喜多川さんをはじめとする上層部と嵐を管轄するマネージメント部のトップ、チーフマネージャーだけで話を進めており、現場のマネージャーは知らなかったそうです。そのため、嵐のメンバーも同席して説明が行われました。この日は日曜日だったので、彼らは“お休みの日にすいません”“突然の発表になってしまいました”とお詫びしていたといいます」(同・テレビ局関係者)
休止発表後も、5月には『NHK東京2020オリンピック・パラリンピック放送スペシャルナビゲーター』に就任したり、8月に『24時間テレビ』のメインパーソナリティーを務めるなど、5人は精力的に活動をこなしていった。『24時間テレビ』では、“功績”を残したメンバーが。
「相葉雅紀さんがサプライズでメンバーに向けた手紙を読みました。彼が手紙を読むのは、初めて5人でメインパーソナリティーを務めた'04年以来、15年ぶり。当時は感極まって泣いてしまい、うまく話せなかったのですが、今回は“活動休止と書いてパワーアップと読む”と語り、近い将来、活動を再開させようとメンバーに呼びかけました。頼もしくなった彼の姿に驚いたスタッフも多かったんですよ」(制作会社関係者)
デビュー日である11月3日には、ファンを喜ばせるサプライズが!
「フェイスブック、ツイッター、インスタグラム、Tik Tok、Weiboの5つのSNSを開設しました。ネット上で、嵐が見られるようになったことに対する反響は大きかったですよ」(前出・スポーツ紙記者)
『株式会社ROC』の代表取締役でITジャーナリストの坂本翔氏は、SNSによってファンとの距離が縮まったと話す。
「インスタライブの配信には、視聴者がコメントを寄せる機能があるのですが、嵐はコメントをきちんと読み上げるんです。ほかのアーティストのライブ配信は、あまり視聴者のコメントを読み上げることはありません。
しかし、今後はほかのアーティストも“トップアイドルの嵐がやっているなら、自分たちもやらないとダメじゃないか”と考える人が出てきてもおかしくないですよ」
『ジャニーズは努力が9割』(新潮社刊)の著者があり、ジャニーズ事情に詳しい霜田明寛氏は、SNSの開設は活動休止後のことまで考えていたのではないかと指摘する。
「ほとんどの楽曲がサブスクで聴けるようになりました。来年以降、いつでも嵐の曲を聴けるようにして、活動再開を待つファンが寂しい思いをしないようにという配慮だったのかもしれません」
活動休止を発表して以降の5人からは、挑戦する姿勢が伝わってきたという。
「ほんとうに来年休止するグループなのかと疑うほど、精力的に活動しています。最近は英語の歌詞が多い楽曲を歌うなど、世界を意識しています。これほど挑戦的なグループであれば“絶対、復活してくれる”と思ってしまいますよ」(霜田氏)
デビュー以来、光と闇を見ながら21年間歩き続けてきた嵐。1度立ち止まっても、いつの日かまた5人で走り出してくれるはず!
'19年5月……『NHK東京2020オリンピック・パラリンピック放送スペシャルナビゲーター』に就任
6月……20周年記念アルバム『5×20 All the BEST!! 1999-2019』をリリース。グループ初のダブルミリオンを達成
10月……公式ユーチューブチャンネルを開設し、5曲の定額制ストリーミング配信を開始
11月……デビュー20周年を記念し、Facebook、Twitter、インスタグラム、TikTok、Weiboの5つのSNSを開設。ジャカルタ、シンガポール、バンコク、台北の4都市を巡り、20年間の感謝を伝える緊急記者会見『JET STORM』を開く
'20年5月……『嵐のワクワク学校』を開催。新型コロナウイルスの感染拡大のため、有料オンラインでの配信となった
11月……無観客公演『ARASHI アラフェス 2020 at NATIONAL STADIUM』を有料配信