デビューしてから50年あまり。描いたページは約10万ページ。日本独自の文化であるレディースコミックの旗手は、まさにレディコミのような人生経験の持ち主だった! 漫画に堆肥をかけられた少女時代。売れっ子になるも借金癖のDV夫に悩まされた子育て時代。初期の作品がGUCCIのデザインに──。人間の深層を描かせたら日本一の作家・岩井志麻子が、彼女の素顔をさらけ出す!
“女王”の気さくな素顔
コロナ禍にはあっても、一見すると平穏で美しい京都の町。ここに、伝説にして現役のレディースコミック女王の井出智香恵(72)はいる。
気さくに取材者を最寄り駅まで迎えに来てくれ、自宅に招き入れ、仕事部屋も描きかけの漫画も見せてくれ、
「いい店があるの。しょっちゅう娘とも行ってる」
と、近所の行きつけの場所まで楽しそうに案内してくれる。
その途中、ベルを鳴らさない若い男の自転車が勢いよく後ろから来て抜き去っていき、
「ちりんちりん、鳴らそうよ!」
女王は怒っているのではないが、威厳がありつつやっぱり気さくな態度で叫んだ。
若い男も素直に、はーいと返していた。あっ、このお方は本当に漫画以外でも女王になってしまう方なのだと、心の中で平伏する秋の古都。
「この町が、すごく好き。故郷の長野を出てから、東京も含めていろんな所に住んだけど、1日1日を過ごすうちにどんどん好きになるのは、ここが初めて」
確かに居心地よさそうな町だ。近隣の大都市にはすべて近い交通の便の良さ、駅前にだけでなくマンションの周囲にもあらゆる店がそろっていて、なのに緑豊かで空の広さも道路の抜け感も大らかだ。
どこにでもすぐ行けるのに、動きたくなくなる居場所。女王の居場所にふさわしい。
「まぁ、長男も長女も家庭を持って独立して責任ある仕事を任されて、ちゃんとやっているし。長女も漫画家になったの」
ご本人の人生が、レディコミそのもの。波瀾万丈だけれど地に足の着いた生き方、激動に満ち満ちているのに安定した心構え、というのは数多のインタビュー記事でも知られているが、女王はついに安住の地を見つけたのだ。
「いま一緒に住んでいる次女も、好きな絵を描きながら仕事して、そうね、次女はわりと高齢で産んだのもあって、いつまでも可愛い子どもよ」
新幹線が走るのを見たい、という人もやってくる、という見晴らしのいいベランダがついたリビングには、今は亡きご両親の立派な仏壇がある。
その脇に、誰もが知るヒット作から、あっ、これも井出作品だったかと改めて驚く昔の少女漫画本が詰まった本棚。
食卓に出してくれたのは、地元の名店のお弁当。取材者を心配しつつ、お土産としても用意してくれていたマスクにフェイスシールド。
「ご先祖様は拝まなきゃ。両親も、私を産んで育てて見守ってくれているんだから」
漫画家になってからは娘を応援し自慢にしていたご両親だが、娘がまだ何者でもない子どもで、漫画に夢中になったり漫画家を目指していたころは、大反対していたという。
「殴られたりはしなかったけど、そりゃもう犯罪扱いというくらい、漫画を読むことも描くことも阻止されてた。でも、やめなかったから今の私がある」
漫画本に堆肥をかけられて……
1948年、長野県の静かな町に生まれ育った智香恵は、すでに5歳くらいから周りの子のそれとは違う絵を描き始めていた。
小学生のころ、アガサ・クリスティーの『オリエント急行殺人事件』を読んだのがきっかけで、まずはミステリー小説に夢中になる。
「図書館のミステリーは、クリスティーだけじゃなくほぼ読んでしまったの」
研究熱心、のめり込む、それは幼少期からだった。
「そこから自然と話の作り方を学んだというか、私なりに研究、分析していった」
学んだこと経験したことを、いいこともつらいこともあまさず自身の中に強く取り込んでしまえることも、そのころからだ。
「たいていの本は、こういう展開になるな、きっとこいつが犯人だな、と最初のほうでわかってしまうようになったし」
後に、こちらもミステリーの帝王たる存在となる森村誠一に気に入られ、森村作品すべての漫画化を許可されるようにもなるのだった。
「森村作品だけは、先が読めないことがあったわ」
その尊敬と信頼は、あちら側も同じくらい抱いたのだ。一流は一流を知る。
しかし親というものは、井出家に限らず子どもには普通の子でいてほしいものだ。可能性や将来を、すべて先回りして見抜いたり用意したりはできない。
漫画は趣味にとどめておけ、勉強の合間の楽しみとして、と穏やかに忠告や心配をするのではなく、かなり強硬に実力行使の妨害までするのだ。
親としては、特に娘に冒険などしてほしくはない。だから智香恵は漫画を描いていると勉強しろと怒られ、何度も宝物の漫画本を隠され捨てられ、ついには穴を掘って捨てられ、その上に堆肥をかけられたりもしたという。
ウンコですか。そこで、不覚にも笑ってしまいそうになるが。
「そこまでしないと、私が掘り出してしまうからね」
ひどい、といってしまうこともできるが、それは昭和30年代、40年代の地方に住む堅気の親としては、ごく普通のことだった。
夢を追うことがもてはやされ、個性を大事に、多様性を認めよう、といった教育や思想はまだ一般的でなく、人並みであること、堅実であることが大事だった。
女性も一生の仕事を、ではなく、それなりに勤めたらいいとこに嫁いで平穏な家庭を築いてほしい。それを旧弊な価値観の押しつけ、子どもの夢を摘み取る、理解がない、と決めつけるのも絶対的に正しくはない。
好きなように生きろ。好きなように生きてはだめ。どちらも、親心には違いない。
GUCCIも認めた斬新な作画
ともあれ漫画と漫画家への夢はあきらめきれない、いや、頑として持ち続けた智香恵だが、基本はしっかりした親御さんに育てられた真っ当なお嬢さんだ。これは今現在も、女王の根底を成している。
親のいうことを聞くふりだけでなく、ちゃんと期待にも応えるように高校を卒業すると、2020年夏に閉園した遊園地のとしまえんを運営していた株式会社豊島園の広告部に就職した。
今と違って、漫画家を目指すならやはり東京にいたほうが圧倒的に有利、チャンスは広がった。
堂々と上京し、東京に住んで堅実に仕事もしながら、真夜中に漫画を描いた。本格的に投稿を始め、実に6か月で結果を出す。才能、努力もさることながら、なんといっても意志の強さは筋金入りだ。
66年、集英社の漫画雑誌でデビューを飾る。『ヤッコのシンドバット』は王道の少女漫画、明朗なコメディータッチで、後にレディコミ女王と呼ばれ、ドロドロの愛憎劇で人気を博す井出智香恵の片鱗すら見当たらない。
その後、こちらも王道のスポ根漫画、『ビバ!バレーボール』を集英社の人気漫画雑誌『りぼん』に連載。かなり恵まれた、漫画家人生のスタートだ。
当時は少女漫画といえば、バレーとバレエ。東洋の魔女と称えられた、バレーボールの日本選手が活躍した東京オリンピック。その余波もあり、大ヒットした。
りぼんマスコットコミックスの第1号としても、漫画史に残る。しかしその絵柄もストーリーも正統派すぎる少女漫画を初めて目にした人は、現在のレディコミ女王の作品とは信じられないかもしれない。
後にその可愛らしい絵柄を日本文化、クールジャパンと認められ、2018年にはGUCCIとコラボレーションした商品までできるのだ。
「うれしいけど、自分でこの時代の絵はすごく下手と劣等感を持っていたから。ほら、典型的な巨大な瞳に星がキラキラ、まつ毛バサバサでしょ」
本人は卑下するが、そこにGUCCIのデザイナーは“ビバ!”と衝撃を受けたわけだ。
現代の少女漫画はさまざまな絵柄があり、あそこまで強調された瞳は古臭いとなっているようだが、やはり往時の漫画を知るかつての少女としては、瞳にはこのように星と虹が輝いていてほしい。背景にも、花が咲き乱れていてほしい。
ともあれここら辺から、たいていの日本に住む女性の中には井出智香恵がすみつくことになる。ざっくりと同世代なら、『ビバ!バレーボール』という正統派の少女漫画で愛と恋と夢と希望、友情に努力といった物語に引き込まれるし。
その後は双葉社のレディコミ誌『JOUR』などで、もっと大人になった女たちの愛と恋、そして性を描く世界に心奪われた。
井出智香恵が、描く場や作風やジャンルを変え、レディースコミックの女王へ進化していくにつれ、同世代でない女性たちにも愛読者は広がっていく。
「ネットの普及で、すごく若い子や海外の人たちまでが、私の漫画を読んでくれているみたいね。思いがけない世代や国の人たちに、ファンだといわれて驚くわ」
バブル期と重なるように、レディコミの大ブームがあった。井出智香恵は1か月に400ページ以上を描くこともあったという。
ギネス級の作品量と独自の作風
とにかく、井出伝説にはものすごい数字が出てくる。
50年以上も現役で活躍もさることながら、作品タイトルは1000くらい、総ページ数はそろそろ10万ページになるのでは、といわれている。
「女性漫画家として世界最多だと、ギネスに申請しようとしたんだけど、ものすごく複雑で面倒な調査やあれこれがあって、ちょっとあきらめてしまったところ」
勝手に海外で複製されているのも、どうにもならなくて今は放置してあるともため息をつく。成人女性のための愛と官能のレディコミは、他国にはないジャンルのようで、海外の読者にとってもレディコミ女王なのだった。
「ウェブで、世界中に読まれる時代が来るとは思わなかったわ」
ちなみに、本邦初、もとい世界初のレディコミ誌は、講談社から'79年に創刊された『BE・LOVE』だといわれている。それがよく売れたので集英社から『YOU』も発刊され、続々とレディコミ誌が生まれていく。
「私の漫画って、ときにやりすぎ、過激、といわれるほど喜怒哀楽や山場や見せ場が鮮明。だから、なんたってわかりやすいんでしょうね」
創成期は、少女漫画誌の読者の年齢層がちょっと上がったくらいの、恋愛ものが中心だった。それが次第に、性描写のページが増えていく。
成人誌に載るくらいの過激な官能シーンが売り物の雑誌も出てきて、玉石混交、群雄割拠、といった活況を呈していく。井出智香恵だけでなく、少女漫画で人気だった漫画家も続々と参入し、レベルは引き上げられた。
「元はメジャーな少女漫画誌で描いていたのに、とかいわれもしたけど。それ以外のものだって、描きたかったわ。とにかく、私は漫画を描くのが好きなんだから」
そんな井出智香恵は、レディコミにおける漫画家の三大女王、四天王、と名前を挙げられるときは、絶対に真っ先に加えられるようになるのだ。
「そのころはまだ、官能描写はさほどでもなかったの。『JOUR』で森村誠一先生原作のミステリーを描かせてもらったら、人気になったのね」
なにもレディコミ読者は、官能的な場面だけを求めているのではない。とにかく、おもしろい物語も読みたいのだ。井出作品は、物語性も圧倒的だった。
「他の出版社や他誌でもたくさん描かせてもらったんだけど、激しい性描写が売りの雑誌からは、“凝ったストーリーやきれいな恋愛はいらないから、とにかくエロエロな場面を中心に”“男女が重なってりゃいい”みたいなこともいわれたわ」
失礼な、とこちらが憤慨したくもなるが、井出智香恵は徹底したプロなのだ。意識、姿勢もだが、女のプロともいえる。
「漫画を描くことは、私にとっては何よりも大事な仕事ですから。まぁ、なんだかんだ腹立つことをいってくる男性漫画家や、なんであんなもの描くの? と本気で心配してくれる友達の女性漫画家もいたけど」
飽きさせないジャンルの豊富さ
井出作品の読者からすれば夢も見たいけど夢物語ではなく、現実に自分や身の回りの人たちにあり得る話。それが漫画として、自身に重ねつつ第三者の目でも見られる。
女というものの本質、正体、本性。自分のそれを見たくない、目をそらしたいと思う反面、つい覗き込んで突ついてもしまうもの。
「私にもある」「私にはないわ」「こうしたい」「これはしたくない」「こんな男に愛されたい」「こんな男に翻弄されたい」レディコミは、大人の少女漫画だ。
「20年近く前、ぶんか社から『ザ・離婚』なる漫画誌を出してたんですが。それには井出さんの人気作品を、再掲載してたんですよね」
井出智香恵作品を早くから読み、仕事をしたいと願っていた編集者の一人に、ぶんか社の後迫直樹さんがいる。
「でも僕が立ち上げた漫画誌『本当にあった主婦の体験』には、念願の書き下ろしをいただきました。当時の井出さんは本当にレディコミ女王で、巻頭カラーしか描かなかったんですよ。表紙に井出さんの名前があれば、売れたんです」
レディコミといえばまずは、女のエロとエゴが渦巻くドロドロの世界、と定義する人もいる。現に嫁姑問題、ご近所トラブルといった煽り文句が表紙には並んでいる。
恋愛だってレディコミでは、泥沼の不倫や性欲むき出しの浮気の方が正統派となる。
正直、稚拙な絵柄とストーリーのそれも多い中、井出作品は物語の骨子もしっかりしていて、いそうでいない、いなさそうでいる、絶妙な人物造形も際立つ。そのうえ、絵柄はメジャーな少女漫画誌に載っているような華麗なものだ。
なおかつ性描写も生々しいのだから、トップになるのは当然ともいえる。
今現在もレディコミ誌を作る後迫さんは、このように解説してくれた。
「レディコミって、日本独自の文化というか。つまりガラパゴス化しているんです。漫画家も読者も入れ替わりがなく、そのまま持ち上がっていく。
読者は20代のころに自身を重ねる不倫や三角関係などを読んでいて、40代になっても読むのをやめず、嫁姑問題や夫の浮気などに興味をシフトさせていく。
レディコミを専門とする漫画家にとっても、安定した世界なんです。メジャーな漫画雑誌での生存競争は大変だけど、レディコミ漫画家はその世界の中で生きていけるんです。
井出先生の得意なミステリーもですが、レディコミ世界でホラーだの歴史ものだの、性愛メインでないジャンルも開拓されていきました」
井出智香恵も後迫さんも、レディコミのブームは終わったというが、終わったというより落ち着いた、ということなのだと解釈もできる。
現に、コンビニに行けば雑誌売り場の一角に、専門のコーナーみたいなものもある。本棚に飾らず読み捨てるものともいわれるが、ときにすごい掘り出し物、井出作品に迫るほどの傑作だって発見できるのだ。
『羅刹の家』で女王として君臨
いずれにせよ、まだ電話とファックスしかない時代。ブームのときも落ち着いたときも女王という敬称と地位を保っているのだから、気難しくて近寄りがたい人だったら怖いな、と後迫さんは緊張しながら会いに行ったら、
「いい意味で、期待を裏切られたというか。井出先生はとにかく気さくで、さっぱりしてポジティブ。ご苦労なさっていても、大らかで優しい人柄ですよ」
となった。後迫さんは女王がまだ滋賀県にいるころに会ったが、地元で有名なフレンチに連れて行ってくれたり、とにかく作品と同様サービス精神が旺盛だったそうだ。
それは井出智香恵に会った人は、皆が感じることだ。描くものと同じで華やか、そしてとにかくこちらを楽しませようと努めてくれる気さくな女王、と。
「今はレディコミ誌も次々に休刊になったりね、私の雑誌連載も以前に比べれば減ったけど、時代に合わせてウェブでも描いているし。なんたって生涯現役よ。いずれ、『羅刹の家』の第3部も描きたいし」
レディコミでの『女監察医』『SEXセラピスト氷川京介』などの代表作と並び、いや、知名度ではそれらを超える代表作となれば、『羅刹の家』だ。
ドラマ化もされたこの作品は、井出智香恵漫画は読んだことがない、という人でも知っている。1989年に『週刊女性』で連載が始まったこの漫画は、普遍の関係にして問題である嫁姑の闘いを中心に描かれている。
嫁姑問題だけでなく、夫婦の葛藤や女同士の競争、妊娠出産に育児、道ならぬ恋に純な性愛、とにかくたいていの女性が持つ喜怒哀楽に苦悩に欲望がこれでもかと詰まっていて、娯楽の殿堂にして、折に触れ開かねばならぬバイブルともなっている。
この漫画によって、それまでもレディコミ女王の候補として名が挙がっていた井出智香恵は、決定的に女王として戴冠するのだ。
メインは嫁姑問題だが、根底に流れる家族というものの恐ろしさ、大切さ、その主題は本人の経験に深く根差している。そのままを描いているのでない、にしても。
夫のDV、浮気……壮絶な実生活
本人と作品が重なることをまた語るとなれば、元夫の存在を抜きにはできない。本人もいろいろな媒体で語っているが、壮絶なDVと離婚を経ているのだ。
自称“ものすごい面食い”の井出智香恵は、新幹線の中で出会った長身の美男にひと目惚れし、そこから結婚まで一直線となってしまう。
ところが夫となった人は見てくれがいいだけで、ろくに働かず妻のお金で浪費と放蕩をするようになる。さらに子どもが三人生まれ、妻はものすごい量の漫画を描きながら子育てをし、夫の世話もしなければならない。
「レディコミ全盛期だったのが、幸いしたのか災いしたのか。私が稼いだ金、みんな遊びに使っちゃうんだから。あんな外車ばっかり何台もあって、どうしようっての。
私としては、育ち盛りの子ども三人を食べさせるために必死だったけど、元夫の借金のために馬車馬のごとく、となってたようなところもあるわ」
聞けば聞くほど、とんでもない男である。家の中に怖いものがいる、それはなんという恐怖だろうか。家とは安らぎの場、守られる城であるはずだ。まさに、羅刹の家。
「殴る理由なんて、ないっていうか。ううん、何でもいいの。殴りたいから殴る。そんだけ。床に顔を押しつけられて、汗で顔が埃まみれになったのは、今もはっきり覚えてる。私がへこたれないから、ますますいきり立つ」
妻の稼ぎが目当てというより、それがなければ生きていけなかった夫は、頑として離婚には応じない。この場合、妻には子は宝物だが、夫には人質だった。
だったらよき夫、よき父になれよと周りはいうだろうが、改心などするわけがない。本人は、自分は間違っていないと信じているのだから。
「田舎なのにランボルギーニとか買って、浮気もやりたい放題。容色だけはまだ保っていたから、惚れる女もいたわけよ。愛人で、夫の婚外子まで産んじゃったのいますよ。みんな、もう縁は切れているようだけどね」
怒りと子どもの成長が原動力に
レディコミ全盛期は、妻がすべての尻拭いをできた。しかし何事もブームは落ち着きを見せる。いつしか、収入をはるかに上回る借金が押し寄せてきた。
「離婚してといったら、子どもを殺すとか脅すし。口だけじゃなく、子どもを叩いたりするようになったから、さすがにもう限界が来たと本気出したわ。
人って私に限らず、殴られ続けると逃げる気力もなくなったりするもんなの。でも子どもに手を上げられて、覚悟も決心もできたわ。
あなたのすべての借金を私が払うし、離婚してもあなたの生活は私が見るから、どうぞ形式的に離婚して、とだましたの。
なんだかんだで正式離婚まで10年かかったけど、その後は一切会ってない。寂しい、わびしい、ひとりぼっちだという噂はたまに聞こえてくるけどね」
さすがの元夫も体力、気力ともに衰えて、つきまとうだの怒鳴り込むだのはしないようだが、彼も燃え尽きたのだろうか。
「わりと最近まで、夫の借金を返済させられてたのよ。最も忙しいときは十人くらいいたアシスタントも、先生は儲けているのにどうしていつもボロい格好してるんですか、と陰で心配してたらしいし」
まったくもって、第三者としても元夫をかばう気になどなれないが。井出智香恵に猛烈に量産させ、恐ろしい体力気力で傑作を生産させた、その原動力にもなっていたのだというのはまったくの見当違い、間違いではなかろう。
「読者は自分と関係ない他人の不幸は、かわいそうだと同情しながらも、読み物になっていればエンタメとしておもしろがれるの」
夫婦、嫁姑問題だって、「いやなら別居すれば」というのは簡単だ。しかし多くの夫婦、嫁姑はそうはいかないのだ。まだ学校や会社の、「いやなら辞める」のほうが簡単だ。いったん身内となった人たちとの関係を切るのは損得や計算抜きの感情も絡む。
みんな頭では、理屈では解決法はわかる。だが、実行するのは困難だ。だったら、もうしばらくは現状を受け入れよう、ともなる。新しい世界に踏み出す方が怖い、という人もいる。耐え忍ぶことを、美徳とする考えもある。
ただし井出智香恵の場合、耐え忍ぶことより戦うことを選ぶほうが多かったようだ。
「そんなぐちゃぐちゃな葛藤を私が整理して描くことで、皆さん何か解決法を見つけられるし、ひとときの憂さ晴らしにもなる」
再度、元夫をどうしてもかばうことはできないが、レディコミ女王をこのような心境に至らしめ、それによって救われる読者がいる現実を見れば、よき夫でよき父でなかったこともまったく無駄ではなかったかとまで思えてくる。
「ようやく離婚が成立したときは、本当に晴れ晴れ、さっぱりすっきりしたけど。今もこれからも、死ぬまで元夫は一生許せない。
ずっと憎み続けるし、あれ以上に憎いやつも出てこないと思う。でも確かに、この経験と感情は、私が漫画を描くときは役に立っている」
夫には恵まれなかったかわりに、子どもにはいろんな意味で恵まれたと笑う。
「夫は顔で選んで失敗したけど、子どもたちは美しくなったし。あんなことがあっても3人とも、素直ないい子に育ってくれたし」
次女は可愛いリボンをつけていって、いじめっ子に盗られたり捨てられたりした。それをまったく強がったり落ち込んだりせず、次の日はもっと可愛いリボンをつけていく、といったことを挑発でも意地でもなく、天然でやってしまえたのだという。
「弱い相手に平気で暴力をふるうような人に、甘い期待をしてはいけないわ。ときにはずる賢く、立ち回らなきゃ」
井出智香恵は、自身の過酷な経験をまったく無駄にしていないどころか、読者のためにも大いに生かしている。
対抗するためのアドバイス、対処のためのヒントが、必ず作中にあるのだ。DV夫を欺く方法も、手を変え品を変え描いてあると。
そして井出智香恵は、必ず希望や救いのある終わり方にするのを貫いている。子どもだけは、不幸にしないとも。
「私の漫画は娯楽だけじゃなく、参考や救いにもなってほしいから」
といって、井出智香恵は女はすべてか弱い、とは思っていない。
「たいていの女は、まずは自分が悪者になること、傷つくことを恐れている。それを避けて、幸せになりたい。だけど、そうもいかないから」
驚愕の年下の“彼氏”の存在が……
それにしても、撮影のためにマンション近くの公園で朗らかにブランコを漕ぎ、
「嫌いなやつの名前を、ひどい目に遭う登場人物につけちゃう」
と笑うレディコミ女王は、若い。創作意欲から何から、まったくもって生涯現役という言葉がぴったりだ。
「年齢は、どうしようもない数字。心が若けりゃ、いいじゃない」
なるほど、確かに井出智香恵が平成などに生まれていれば、親は物わかりよくなければならず、漫画家を目指すといえば応援し、投稿や持ち込みなどしなくてもネットを駆使して、たちまち自宅に居ながらにして人気を博していたかもしれない。
そういうデビューをする漫画家、そんな存在の漫画家は現にいるし、それはそれで職業として成り立ち、よい作品も生み出しているが。
はたして、そのような道をたどった後に、レディコミ女王の井出智香恵は今このような存在であっただろうか。『羅刹の家』は、生まれていただろうか。
しかしレディコミ女王はちゃっかり、娘たちに勧められてハマったネットゲームで知り合った男性とバーチャルな出会いと恋愛も楽しみ、現に今は彼氏といっていい子どもたちくらいの年代の男性がいるという。
女王の居心地よさげな仕事部屋には、大ファンだという氷川きよしのグッズが目につくところに飾られている。
簡単に回転できる椅子は、女王が座ったままくるっと半回転するだけで、一瞬のうちに仕事机とパソコン机を入れ替えられる。
「娘たちがゲームにハマってて怒ったら、お母さんもやってみなよと引きずり込まれたの。今じゃ、私のほうが夢中」
くるくると仕事とゲームを入れ替え、しかし椅子は一つで位置はぶれない。
「すごーい年の差があるのね、今の彼氏は。しかも、ゲームの世界では“夫婦”役」
その経験を作品化するかどうかは聞きそびれたが、そのままでなくても作品に生かすことは間違いない。
そしてなんと。次号からはこの『週刊女性』で実に32年ぶりに連載を再開する。女王の再降臨だ。令和に毎週、井出智香恵の作品が読めるとは期待感しかない。
まったくもって、何もかもが生涯現役のレディコミ女王。
しかしその目のキラキラさは、レディコミではなく少女漫画なのだった。
◆特別寄稿 作家・岩井志麻子
いわい・しまこ 1964年、岡山県生まれ。少女小説家としてデビュー後、『ぼっけえ、きょうてえ』で'99年に日本ホラー小説大賞、翌年には山本周五郎賞を受賞。2002年『チャイ・コイ』で婦人公論文芸賞、『自由戀愛』で島清恋愛文学賞を受賞。著書に『現代百物語』シリーズなど。最新刊に『業苦 忌まわ昔(弐) 』(角川ホラー文庫)がある。