デビューから63年、日本が誇る大女優・岩下志麻。出演した映画は120本以上、テレビドラマにいたっては数え切れないという。忘れられない映画3本を、とお願いしたのだが、どの作品にも思い入れがあり、3本にはとても絞りきれないと彼女は頭を抱えた。
「それでも、いろいろな意味でいちばん思い出深く、演じることができてよかったと思うのは『はなれ瞽女おりん』(1977年・篠田正浩監督)。当時、私は“子どもがいるのに女優を続けていいのだろうか”と、ものすごく悩んでいたんです。まだ4歳ほどで、可愛い盛りの娘を人任せにするのが切なくて……。うちの子は、私のことを“出かける人”だとわかっているから、家を出るときもベビーシッターさんに抱かれたまま、後追いすらしてこなかった。“あー、行っちゃうんだー”という感じで見ているだけ。それが、かえってつらかったですね。
今の女優さんは、出産後しばらく子育てしたら復帰するのが当たり前ですけれど、私のころはいったん家庭に入ったら、それはもう“引退”とみなされてしまう時代。だけど、真冬に裸足で臨むなど半年間の過酷な撮影を経て、できあがった映画で日本アカデミー賞の最優秀女優賞をいただいて。受けてよかったですし、あの映画をやったことですべての垣根を乗り越えて、地に足がついた。“女優としてやっていこう”と心から思えるようになった作品です」
盲目の世界を知るために実体験を重ねた
水上勉原作のこの映画は、瞽女(ごぜ)と呼ばれる盲目の女性芸人(三味線を弾きながら歌い、門付け巡業をしていた旅芸人)おりんの生涯を描いている。
「役作りをするとき、私は外側からその人間に入っていくんです。おりんは盲目ですが、私は実は暗闇恐怖症で、大人になってからも豆電球を2つつけていないと眠れなかったくらい。でも目が見えない世界を知らないと、おりんにはなれない。そこで、この役をやると決めてから、お化粧するときも食事や着替えのときも、目をつぶって生活するようにしていました」
当時、新潟で3人の瞽女さんが共同生活をしていると聞き、会いに行った。
「夜8時ごろに伺ったら、真っ暗で急な木造階段を、彼女たちがものすごい勢いでダダダッと下りてきたんです。それで、パチッと電気をつけた。“ああ、目が見えないってこういうことなんだ”とわかりましたね。電気は私たちのためにつけてくれた。彼女たちには必要ないんですよね。それから笠のかぶり方、草履のはき方などを教わりました。私が怖くてしかたのない暗闇の世界を生きているのに、彼女たちは本当に明るくてたくましかった。頭が下がりましたね」
その貴重な体験すべてを、岩下は心と身体でしっかりと受け止めた。また、盲学校へも足を運び、目の見えない人たちがどういう動きをするのかも記憶に焼きつけた。
「盲学校の校長先生が“実体験をしてみますか”とおっしゃるので、目隠しをして杖(つえ)をつき、広い講堂を歩いてみたんです。何度かやってみたけれど、私は必ず左へ左へと寄っていって、最後は講堂の左隅にたどり着いてしまう。先生が“目が悪いと耳をすますので、よく聞こえる耳のほうへ向かってしまうんです”と。私は左耳のほうがいいんでしょうね。この体験をもとに劇中では、誰かが何か言うと、“え?”と左耳を前に出すような仕草を心がけました」
映画での彼女は、岩下志麻という女優ではなく、まさに「おりん」そのものだった。
出演作の切符を自ら売って回る日々
岩下と篠田氏は'67年に結婚し、同年、『表現社』という独立プロダクションを立ち上げた。その第2作目として'69年に公開されたのが『心中天網島』(しんじゅうてんのあみじま)だ。近松門左衛門の人形浄瑠璃を映画化した作品で、スクリーンには黒子(くろご)も登場する。人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を色濃く表現した画期的な演出が胸を打ち、公開年のキネマ旬報ベストテンの1位にもランクインしている。
「独立プロは採算がとれなくて、結局うまくいかない例を見てきましたから、この映画がヒットしたのは本当に運がよかったと思います。最初は“近松門左衛門の映画を見に来る人がいるのかしら”とか、“そもそも、タイトルを読めない人もいるかも……”なんて思っていたんですが、初日から大行列で。この映画がヒットしなかったら、どうなっていたかわかりません」
女優人生で初めて切符売りもした。知人たちにあいさつに回って、300枚、500枚とチケットを買ってもらったのだ。
「居間に売り上げ一覧表を貼って、“はい、今日は100枚、300枚って書き込んでグラフを作って。全部で1万5000枚くらい売ったかな。営業ウーマンですよね」
この映画で、岩下は中村吉右衛門が演じる紙屋治兵衛の正妻・おさんと愛人・遊女小春の2役を演じている。
「おさんは子どもを産んでいるから、綿入れのじゅばんを着て身体つきを少し丸くしました。小春は、声を高めにか細くして。化粧や動きも違いますしね。役になるときは細かいところまで作りあげていきます。“この人だったらこういう感じになるだろうな”と」
その作業はときに苦しい。だが「結果としては楽しい」と岩下は笑う。
彼女が役にのめり込み、なかなか抜けられないということは、本人も以前から語っている。ときには1か月くらい「役のまま」で過ごしてしまうこともあるらしい。
そもそも岩下はクセが強かったり、薄幸だったりする女性を演じることが多い。例えば、37歳で出演した『鬼畜』('78年)。亭主の愛人が3人の子どもを置いて消えてしまい、自分が子を産めないコンプレックスもあって子どもたちをヒステリックにいじめ、あげくの果てに亭主に子捨てと子殺しをそそのかす女。『鬼龍院花子の生涯』('82年)では、極道の夫に仕え、最後には病死する女を演じた。また、よく知られたところでは『極道の妻たち』シリーズ('86〜'98年)の波乱万丈な半生を送る姐さん役。彼女が演じる「女」はどんなに非道でも、どこかそこはかとない哀しさが漂う。
「今まででいちばん役が抜けなかったのは、産後3か月目で台本が届いた『卑弥呼』('74年・篠田正浩監督)ですね。このときは静岡県の霊媒師さんのところに行って、実際に卑弥呼の霊を降ろしてもらおうとしたんです。そうしたら私には降りなかったのに、一緒に行った事務所の2人がその場で畳をかきむしって、のたうち回ってしまった。私は薄目を開けてその様子をじっと観察していました。その光景にヒントを得て、呻(うめ)きながら砂利をかくシーンを演じたんです」
撮影が始まると岩下は眉を剃(そ)り落とし、卑弥呼になりきった。当時、娘は生まれてからまだ数か月。いつもなら遅くに帰っても、娘を抱きしめて「愛してる」と伝えるのが日課なのだが、卑弥呼の撮影中は近づくと泣き叫ばれるので、それが一度もできなかったのだという。
「娘は眉を剃った顔が怖かっただけではなくて、私から何か霊気のような、不思議なものを感じ取っていたのかしら、と思いますね。神の声を聞いて政(まつりごと)をするのが卑弥呼ですから。この時期は娘に近寄れなくて、本当に寂しかった」
1か月ほど卑弥呼の役をひきずったあとは、虚脱状態にも陥ったという。
「いつもそうなんですが、このときはひどくて“私から女優をとったら何もない、ただの能なし女だわ”なんて思ってしまって……。本当に空っぽになるんですね。でも、しばらくして次の役がくると、また少しずつ自分の中が満たされていく。“極妻”のときなんて、撮影の間じゅう、家に帰ってからも威勢がいいんですよ。口調や性格まで変わってしまうらしいの。夫に何か言われて“はい”と答えるのも、あのときはドスを効かせて“なんや?”という感じ(笑)。篠田はわかっているから“おお、怖い怖い”と笑っていましたけどね。彼が映画監督じゃなかったら、絶対に逃げられてますよね」
女優の“なれの果て”を演じてみたい
岩下は中学生のころから、精神科医を目指して勉学に励んでいた。近所に精神を病んだ方がいて「どうして人は精神を病むのか分析したい、そして治してあげたい」と思ったそうだ。ところが猛勉強をしたあげく、高校時代に身体を壊して留年してしまう。落ち込んでいた彼女に「ドラマに出ないか」とすすめたのが、新劇俳優だった父・野々村潔だった。
「考えてみれば役柄をもらって、その人間を分析していくのは精神科医につながるものがあるのかもしれません。女優はさらに、自分ではない別の人になるという意味で、化ける楽しみがある。すごいエゴイストの役をやったりすると、“私の中にもそういう面があるのかも”と思ったりしますしね。ありとあらゆる人間になれるのが、役者の快感でしょうね」
学生時代を「ガリ勉のつまらない子だった」と岩下は振り返るが、その「もっと深く知りたい」という欲求が、深い役作りに今も大きく反映しているのだろう。
あらゆる人間を演じてきた岩下が、これからやってみたいのが、グロリア・スワンソンが主演した60年代のアメリカ映画『サンセット大通り』の日本版だという。この映画は、落ちぶれた女優が今も人気があると勘違いして、だんだんと狂気の世界に入っていき、最後には殺人を犯してしまうというストーリー。
「数年前に見返したら一段とやりたくなりました。この映画の日本版でね、“女優のなれの果て”みたいな感じを演じられたらいいなと思うんです。私は昔から、“狂気”を演じることには非常に興味がありますね」
女として、女優としての痛々しいまでの矜恃(きょうじ)を、岩下ならどう演じるのだろう。すぐにでも見たくなる。
「今まで、50代も60代も70代も、その年代なりに“生き生きと輝いていたい”と思ってきたんです。でも、80代は“老い”と“死”に向き合うしかないわけで、もちろん不安はありますよ、このコロナ禍も含めて。だけど、不安を抱え込んでいてもしかたがないので、できる限り穏やかに平和に、楽しいことにふれてニコニコと笑顔を忘れずに生きていきたい。最近、特に強くそう思いますね」
カッときてもニコッと笑う。「笑顔は大事よ」と、岩下志麻はとびきりの笑みを見せて華麗に去っていった。ふわりとした、温かい雰囲気を残して。
(取材・文/亀山早苗)
【PROFILE】
岩下志麻(いわした・しま) ◎1941年1月3日、東京都生まれ。両親がともに新劇俳優の家庭で育ち、17歳のとき、NHKドラマ『バス通り裏』で女優デビュー。'60年、成城大学入学と同時に松竹に入社。さまざまな映画作品に出演し活躍の場を広げる中、'67年に篠田正浩監督と結婚し、同年、2人で独立プロ『表現社』を設立。これまでの出演作は120本を超え、『はなれ瞽女おりん』で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞、『五辨の椿』ではブリーリボン賞主演女優賞を受賞。趣味は陶芸やプロ野球観戦など。
【筆者】
亀山早苗(かめやま・さなえ) ◎1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震、ひきこもり問題など、ノンフィクションを幅広く執筆するほか、インタビュー記事も多数手がける。著書に『人はなぜ不倫をするのか』(ソフトバンク新書)、『不倫の恋で苦しむ男たち』(新潮文庫)などがある。