プロの女子選手が、男子リーグに入って対等にプレーする―異例の選択が話題を集める永里優季。なでしこジャパンの一員として、2011年ワールドカップで日本を優勝へ導いたレジェンドは、国境も、男女の垣根も自由にマイペースに越えていく。チャレンジを惜しまず、伝えたいメッセージがあるから。
どんよりとした曇り空と初冬の肌寒さに見舞われた2020年11月22日の神奈川県・厚木市荻野運動公園陸上競技場。同市を本拠地とする神奈川県社会人サッカーリーグ2部の『はやぶさイレブン』がリーグ最終戦『VERDRERO港北』との一戦に挑んでいた。
1部昇格への挑戦権を得るための大一番でスタメン入りしたのが、フォワード(FW)の永里優季(33)。東日本大震災の起きた'11年に日本中を勇気づけた、女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会優勝メンバーのひとりである。
男性チームに入って活躍
女子選手が男子チームに加入するのは異例中の異例。しかし、ためらいはなかった。永里は昨年9月の入団会見で「ずっと昔から、いつか男子のリーグでプレーしたいという思いがあり、いかにそのレベルに近づけるかというのを目標にやってきました。'11年女子W杯決勝で対戦したミーガン・ラピノーが女性の地位向上を訴えていることも自分の背中を押しました。女性でも男性のチームに入って活躍できるんだとメッセージを伝えたい。サッカーをやっている女の子たちにもひとつの選択肢を作ってあげられれば」と、堂々と言い切ったのだ。
この日の試合で、彼女は兄・源気(35)とツートップを結成。試合開始から猛然とボールを追いかけ、ゴールに突き進む。「優季の技術の高さなら、このレベルでも十分にやれる」と、元・Jリーガーの阿部敏之監督(46)も信頼を寄せていたが、女子選手という事実を忘れそうなほどの存在感とオーラを放っていた。
最初の得点チャンスは前半19分。左からのボールをゴール前で受けた場面だ。みずから打てる状況だったが、より確率の高い位置にいた兄・源気にあえてラストパスを送った。次の瞬間、シュートは枠をはずす。2人はそろって悔しそうな表情を見せた。
「兄と公式戦でコンビを組むのは初めてでしたけど、お互いに考えていること、感じることが似ている。あのときは動き出しているのが見えたので、パスを出しました。決めてくれたら最高だったんですけどね(苦笑)。今回、男子チームに入るきっかけになったのは兄の存在。本当に感謝しています」
と、永里自身もきょうだいの絆を感じつつ、全身全霊を注いで63分間プレー。最終的に、はやぶさイレブンはこの一戦を2─1で勝利した。
「優季はこの3か月、ずっと自然体でサッカーをやっていました。男子のスピード感を経験して、女子サッカーのレベルを引き上げてくれると思います。下の妹・亜紗乃(31)も『はやぶさイレブン+F』でフットゴルフをやっていますし、きょうだいそろって地元・厚木のサッカー界に貢献できたのはうれしいですね」
そう話し、現在はクラブ運営にも携わっている源気は目を細めた。
家族や周囲の力強いサポートを受けながら、ジェンダーを越えたチャレンジに踏み切ったトップアスリート・永里優季。ユーチューブやツイッターなどによる発信、起業家、ドラマーと多彩な顔も持つ。そんな彼女が「人とは違う、自分らしい生き方」を選ぶまでには、どのような物語があったのだろうか。
「協調性がない」「負けず嫌い」な少女時代
永里3きょうだいの2番目・優季が生まれたのは、昭和の終盤である1987年。2つ上の源気、1学年下の亜紗乃とともに、にぎやかな環境で育った。幼少期からそろばんやピアノなどの習い事に通っていたが、いちばん熱中したのがサッカー。兄の影響で小学1年から地元の林サッカークラブに入り、本格的に取り組み始めた。
「父が“ひとつのことを極めてトップレベルになってほしい”という考えだったんで、とにかく上を目指すしかなかったですね。母はかばってくれましたけど、ホントにやめてしまったら家から追い出されそうな雰囲気もあったんで」
と、彼女は苦笑する。眼前に立ちはだかる厳格な父親。盾になってくれたのは、妹思いの兄だった。
「“そんなんだったらやめちまえ”みたいな理不尽なことを父親が言うんで、“ちょっと言いすぎでしょ”と口を出したことが何度かありました。孫に当たる僕の子どもにも同じように厳しく接しようとするんで“いいおじいちゃんになってよ”と、口を酸っぱくして言ったくらいです」
と、源気は冗談まじりに話す。そんな厳しい愛情を通して「何事も自分で考えて決断し、筋の通った生き方をする」という哲学は3きょうだいに刻み込まれた。
父の教えのもと、貪欲にボールを蹴った永里もグングン成長。地元女子チームの『FC厚木レディース』を経て、中学から名門クラブ『日テレ・メニーナ』へと進む。同クラブはJリーグ『東京ヴェルディ』(東京V)の女子チームである『日テレ・ベレーザ』の下部組織。東京・稲城市の練習場に片道1時間半かけて通うことになった。
「中学が終わったら母が車で迎えに来てくれて、移動中にご飯を食べ、着替えて、最寄り駅まで送ってもらって、電車を乗り継いで練習場に行く形でした。1学年下の妹も翌年からメニーナに入ってきたので、一緒に行くようになりました」
12歳から超多忙な生活を送ることになったが、日本女子サッカー界最高峰チームでの毎日は刺激的だった。1つ上には'11年女子W杯優勝メンバーの岩清水梓がいたし、同じグラウンドで練習していたベレーザには、澤穂希、大野忍といった偉大な先輩がズラリと並んでいたからだ。
逸材の指導に当たったのは、寺谷真弓監督(現・東京Vアカデミーダイレクター)。
「優季は最初に見た小6のころから165センチくらいあって、頭ひとつ抜けた存在感を誇っていました。中1から試合に出て、中3でU─18(18歳以下)全日本選手権MVPを獲得するなど活躍していました。ただ、常に年上の選手とプレーすることが多かった分、自分のことを考えるだけで精いっぱいだったんでしょうね。“もう少し周りのことを考えて行動し、チーム一丸となってやってほしい”と思うところはありました」
そんなある日、永里は寺谷監督から衝撃的なひと言を突きつけられる。
「おまえには“協調性”がないんだよ」
本人は当時の胸中をこう述懐する。
「思春期真っ盛りの中3だったので戸惑ったし、“協調性って何だろう”って真剣に考えました。私はたぶん、昔から人と同じことをやるのが苦手だったのかな。“人との違いを見せることで上に行ける”という自負もあって、少し尖った行動をしていた気がします」
没個性化と言われる昨今、彼女のように中学生のころから「自分らしくありたい」と考え、行動できる人間というのは非常に頼もしい。けれども、サッカーは集団競技。しかも20年前の日本では「強すぎる個性はいかがなものか」「もっと和を大事にすべき」という意識が根強く、永里のようなタイプは周囲から浮きがちだった。そんな実情を踏まえ、寺谷監督は警告を発したのかもしれない。
こうした壁にぶつかったうえ、中学卒業直前の'03年1月に右ひざ前十字靱帯を断裂。実は中2の春にも左ひざ前十字靱帯損傷の重傷を負って長期離脱していただけに、本人には大きすぎるショックだった。それでも幸いにしてベレーザ昇格は決定。地元の進学校である厚木東高校にも合格し、好きな勉強をしながらリハビリに専念できた。
ベレーザ時代の永里を指導した松田岳夫監督(現『マイナビベガルタ仙台レディース』監督)は「彼女は根っからの負けず嫌い」と話す。
「ベレーザに上がってきたころはケガを治しながらプレー感覚を取り戻すことに集中していました。もともと人見知りで寡黙な子だけど、泣き虫な一面もありましたよ。試合に負けると本当にすぐ泣く(笑)。そうやって感情をストレートに出すのがいいところだと僕は感じていました」
なでしこジャパンで痛感した「世界の壁」
飽くなき向上心と闘争心を関係者も高く評価。'03年10月には'04年アテネ五輪を目指していた女子日本代表(なでしこジャパン)の候補にも初招集される。「なんで私が?」と本人は驚き半分だったが、女子基準をはるかに超えたパワーとスピードを兼ね備えたフォワードが16歳でお呼びがかかるのは、ごくごく自然の成りゆきだった。
そして翌'04年4月のアジア最終予選・タイ戦で、なでしこデビュー。同時に日本は8年ぶりの五輪切符を獲得する。「7月の本大会にも永里は選出されるだろう」と誰もが確信していたが、まさかの落選。初の五輪参戦は夢と消えた。この悔しさを糧に、高2のストライカーとしての自分自身に磨きをかけた。
松田監督はこのころの様子を思い浮かべ、こう語る。
「永里には“力強さだけじゃ通用しない”とよく言っていました。彼女も自分なりに考えてシュート練習を毎日欠かさずやっていた。技術や駆け引き、状況判断力を向上させようと目の色を変えて取り組んでいました。サッカーに関して絶対に妥協しないのが永里。その姿勢は本当に凄まじかったですね」
地道な努力の積み重ねもあり、'05年からはなでしこジャパンに定着。高校卒業後は東海大学に進み、夜にベレーザの練習へ参加する生活に。とはいえ、サッカー以外の時間も大事にしていた。外食チェーン『やよい軒』でアルバイトをしたり、学校の友達と語り合ったりするなど、限られた時間を有効活用しつつ人間としての幅を広げていった。
そして迎えた'08年。なでしこジャパンの中核選手に上り詰めていた永里は、ようやく五輪の大舞台を引き寄せる。
'08年北京大会だ。佐々木則夫監督(現『日本サッカー協会』理事)率いるチームは1次リーグを順当に勝ち上がり、ベスト8に進出。準々決勝では中国相手に永里もゴールを奪って勝利。アテネ超えを果たした。しかし、準決勝・アメリカ戦で敗れ、ドイツとの3位決定戦も落とし、あと一歩のところでメダルを逃してしまう。
佐々木監督は「思いのほか、永里が点を取れなかった」と振り返ったが、その事実を誰よりも強く噛みしめたのは本人だった。
「私にとっては世界の壁をいちばん強く感じた大会でした。チームとしてはステップアップしたとは思うんですけど、準決勝、3位決定戦では本当に力の差を見せつけられた。そこが自分にとって大きなショックでしたし、海外を意識するきっかけになりました」
この時点で先輩・澤は、すでにアメリカでのプレーを経験。なでしこの司令塔・宮間あやも翌'09年にロサンゼルスへ赴いたが、日本の女子選手が海外クラブに所属するのはまだまだハードルが高かった。それでも「高いレベルでやりたい」という永里の思いは強く、国内外の遠征時の移動途中に英語の勉強を地道にコツコツ続けるなど、準備に余念がなかった。
そんな永里の願いが叶ったのは'10年1月。ドイツ女子リーグ1部のトゥルビネ・ポツダム移籍が決まったのだ。当時、男子では長谷部誠(フランクフルト)らがドイツで活躍していたが、女子選手の挑戦はまったくの初めて。「オリジナルな生き方」を求める彼女にとっては理想的な新天地だった。
「点取り屋」が背負う宿命と葛藤
「旧東ドイツ側なので街並みもそこまで明るくないし、ひっそりした感じの、すごく静かな町でしたね」
永里がこう評したのが、最初に暮らした海外の地・ポツダムだ。ベルリンから26キロ南西に行った人口18万の町は、第2次世界大戦時に日本への降伏要求「ポツダム宣言」が出された歴史的な土地でもある。
到着後、すぐ練習に参加したが、ドイツ語はまったくわからない。ほかの選手がやっていることを細かく観察して、実践することからスタートした。英語を操る選手も少ないため、全員とは意思疎通ができない。それでも家から練習場まで送り迎えしてくれる仲間ができ、サポートを受けられるようになった。
「その彼女はドイツ育ちの外国人。ドイツ語はネイティブで英語もしゃべれたんで、“今日車で送れる? っていうドイツ語はこう言うんだよ”“誰かを探して必ず言いなよ”と教えてくれて、ホントに助かりましたね。
ドイツ語の学校にも週2回通って1日4時間、勉強しました。すべてドイツ語で授業をするんで、最初は何を言っているのか理解できなかったけど、3か月くらいたったら、なんとなくわかってきた。その状態でインタビューも受けるというムチャぶりもあった。なんとかやりとげましたね」
と、懐かしそうに笑う。
それから1年余りが過ぎた
'11年3月11日、東日本大震災が発生した。「1000年に1度の災害」に見舞われ、福島第一原発事故も起きるなど、日本中が絶望感に襲われた。'11年女子W杯が開幕したのは、その3か月後。ドイツ暮らしの永里は「第2のホーム」とも言うべき場所での世界舞台ですべてを出し切り、母国を勇気づけようと奮起した。
日本はニュージーランド戦からスタート。最初のゴールを奪ったのが永里だった。2─1で勝利し、幸先のいい一歩を踏み出すと、次のメキシコ戦も4─0で勝利。3戦目のイングランド戦は0─2で敗れたが、背番号17をつける最前線のキーマンはここまで全試合にフル出場していた。
ところが、北京で敗れた宿敵・ドイツと準々決勝。リベンジに燃えていた永里は前半のみで丸山桂里奈との交代を強いられる。
その理由を佐々木監督はこう説明した。
「ドイツ移籍から1年以上がたった優季をなでしこの合宿に呼んだとき、“攻守の切り替えが遅い”と感じたんです。本人に聞くと“ポツダムでは点を取るのが仕事。ゴール重視でやってます”と言う。でも、なでしこのサッカーは切り替えが生命線。気がかりに感じていたときに、イングランド戦で失点した。優季の動きも一因になっていました。
それをドイツ戦の前に、再び優季に話すと“ノリさん(佐々木監督)の言うことはわかりますし、自分の役割も理解していますけど、私は点を取ってチームに貢献したい”と強い意思を示した。私も悩みましたが、チームバランスを考えて別のFWを使うことにしたんです」
「勝てば官軍、負ければ賊軍」FWの宿命
ドイツ戦は丸山が延長後半に値千金の決勝弾を決め、日本は準決勝に駒を進めた。そのスウェーデン戦は3─1で勝ったが、永里は控え。ファイナルのアメリカ戦も後半途中出場となった。日本中を熱狂させたこの歴史的大熱戦は、延長終了間際に澤がミラクル同点弾を挙げ、PK戦に突入。最終的に日本が史上初の世界一に輝いた。が、歓喜の輪の中で23歳の若きFWは一抹の寂しさを感じていたのではないか。
「自分の中ではやれることをやり尽くしたと思っています。一方で、FWとしての考え方を変えるきっかけにはなりました。世間はFWに対して得点という結果を求めるのに、(チームプレーより得点を狙うことを優先する)エゴイストは非難される。ホントに“どっちやねん”と言いたかった。葛藤の中で、自分はもっとチームメートを生かすプレーをしていこうと気持ちが固まったんです」
彼女は苦渋の表情を浮かべたが、これはFWを主戦場とする者なら、誰もがぶち当たる壁かもしれない。
「ストライカー=点取り屋」と世間一般ではとらえているが、佐々木監督が求めたように最前線から敵を追ったり、プレスをかけたりと守備の仕事も担っている。ボールを奪ったら即座にゴールに向かうハードワークも不可欠だ。攻めているときは自分が点を取るだけでなく、味方のためにスペースを作ったり、ラストパスを送ったりと多彩な役割をこなさなければいけない。しかし、そうやってチーム第1に考え、献身的に働いていても、数字がついてこなければ「ダメなFW」と酷評される……。非常に皮肉な宿命を背負っているのだ。
古い話だが、1997年に行われた'98年フランスW杯のアジア最終予選で、ケガを抱え満身創痍の状態で戦い、ゴールを取れなかったカズ(三浦知良=横浜FC)は狂信的サポーターからイスを投げつけられた。その本大会で、エースに指名されながら結果を出せなかった城彰二は帰国時に成田空港で水をかけられた。「勝てば官軍、負ければ賊軍」となるのがFWの宿命。その苦しさを永里は嫌というほど味わったに違いない。
それでも彼女は逃げなかった。パートナーという心強い味方を得たことも大きかっただろう。24歳になったばかりの2011年7月、永里はメンタルトレーニングのコンサルティング会社経営の大儀見浩介氏と結婚。登録名を「大儀見優季」に変え、海外挑戦を続けた。
'13年にはイギリス・ロンドンに本拠を置くチェルシーへ移籍。'15年1月に再びドイツに戻ってフォルクスワーゲンの本社所在地として知られるヴォルフスブルクへ。さらに同年夏にはフランクフルトへ赴いたのだ。
“おまえは自分の人生から逃げている”
その間にも'12年ロンドン五輪銀メダル、'15年女子W杯・カナダ大会準優勝など、なでしこでの活動もあった。長い別居生活で夫との時間はほとんど持てなかったが、「好きなサッカーを突き詰めたい」という気持ちは何よりも勝っていた。
「彼とはそれなりに楽しいこともたくさんありましたし、いろんなことも学べた。知らない人と会う機会も多くて、人見知りの部分も免疫がつきましたね。でも正直、結婚という感じでもなかったのかな……。生活をともにしなかったし、ただの遠距離恋愛みたいなものだったのかもしれません。それでも、離れているストレスは特に感じなかった。やりたいサッカーがあれば、それ以外のことは特に気にならなかったから。家庭とサッカーの間で揺れ動くこともなかったですね」
淡々とこう語る永里は'16年4月に離婚。登録名を永里に戻し、なでしこジャパンから距離をおくという決断もした。長年、苦楽をともにしてきた澤や宮間の引退、チームの若返りといった環境の変化に加え、「自分が追い求めるFW像」と「他人に求められるFW像」の乖離も年々大きくなっていった。「これでは大好きなサッカーを楽しめない」と感じたのは、まぎれもない事実だろう。
'15年まで一緒に戦った佐々木監督は「優季は'11年時点の課題だった攻守の切り替えがロンドン五輪のときにはしっかりと改善されていたし、パーソナルコーチの中西哲生さんとトレーニングにも取り組んだ。アスリートとして常人をはるかに超えた領域を目指したからこそ、代表138試合出場、58得点という目覚ましい実績を残せたんだと思います」と、最大級の賛辞を送っている。だが、それでも永里は代表続行を選ばなかった。「戦場に行くような壮絶な重圧から自分を解き放ちたい」というのが本音に違いない。
「'16年夏に高倉(麻子)さんに監督が代わってから“クラブでのプレーに専念させてください”と自分からお願いしました。あのときの私はすごくモヤモヤしたものがあって中途半端だった。自分がどういう生き方をしたいのか、何のためにサッカーをやっているのかをしっかり考え直したかったんです」
永里の決断の背景には、生き方のヒントを与えてくれるいくつかの出会いがあった。そのひとりが、26歳でフランス・ミシュランガイド1つ星を獲得したシェフの松嶋啓介さん。同じ海外というフィールドで勝負してきた10歳上の人物から厳しい指摘を受けた。
「“おまえは自分の人生から逃げている”“目を背けている”という言葉を投げかけられました。痛いところを突かれたし、グサッときましたね。でも、似たような人生を送ってきた人の発言だからこそ共感を持てたし、深く考えられました。周囲の評価に関係なく、自分らしく永里優季というFW像を築いていければそれでいい。シンプルにそう思えたのは大きかったです」
そう話すと、彼女は柔らかな笑みを浮かべた。
サッカーが人生のすべてではない理由
そこからの永里はやりたいこと、興味のあることを貪欲に突き詰めるようになった。1つ目は自身の会社『ライデンシャフト』の設立だ。
本田圭佑のサッカースクール経営やアメフト・前田眞郷(オービックシーガルズ)のコミュニティーサービス事業など、近年はアスリートの起業は珍しくなくなった。だが、女子サッカー選手で具体的に動き出したのは彼女が初めてだろう。
「自分からアクションを起こしやすいハブがあったらいいなと思って設立しました。メンバーは、まだきょうだいだけ。事業も兄のボール遊び教室くらいなんですけど、いずれは雇用を生み出せるようにしたいです」
こう語る永里だが、すでに松嶋氏やなでしこの先輩・川澄奈穂美とのオンラインイベントのほか、Zoomを利用して1時間、永里と自由に話すことのできる「対話」も展開している。
兄・源気は「社長の優季が“日本と外国との懸け橋になりたい”と考えているので、そういう存在になれればいい。僕もできるだけ力になれるように頑張ります」と目を輝かせる。第2子妊娠中の妹・亜紗乃も含め、いずれは「世のため人のためになる活動」をしていきたいというのが3きょうだいの願いだ。
「もともと、わが家では家族にいろんなことを相談しません。結婚や離婚のことも事後報告でした」
と、あっけらかんとしている永里ではあるが、きょうだいとの絆は強い。合計5人いる甥っこや姪っこたちには「ベストフレンド」と言うほどの愛情を注ぎ、一緒にダンスをしたり、公園で遊んだりしている。「いつか再婚したいし、子どもが欲しいな」と考えながらも、今は公私ともに支えてくれる家族の存在を力にして、前に進んでいる。
やりたくて叶えたことは、ほかにもある。アメリカでの新生活だ。足かけ7年過ごした欧州を離れ、'17年5月にアメリカ女子プロリーグ(NWSL)の『シカゴ・レッドスターズ』へ移籍した。これが彼女にとって海外5つ目のクラブ。身体能力の高い大型選手との激しいバトルにつれて、FWとしての引き出しも増え、プレーヤーとしての意欲もレベルも確実に高まった。
グローバル化が進むアメリカでは、人種や国籍に関係なく多種多様な人々が入り交じっている。スポーツ界も“人種のるつぼ”と言っていい状況だ。多彩な人々と接することで、永里は確実にオープンマインドになっていった。
さらに言うと、前出のラピノーのように同性婚を選び、カミングアウトする人も身近にいた。1人1人が自由に生きる姿を目の当たりにして、固定観念に縛られていた自分自身が大きく変化するきっかけを得たのは、確かだろう。
本人もしみじみこう語る。
「アメリカに行って、サッカーがすべてではなく“生活の一部”と考えられるようになった。それは大きかったですね。いろんなことに興味を持てましたし、精神的にすごく楽になれた。自分の内面にあるものを大切に生きていくことが、いちばんの幸せなんだと心底、思った。その重要性に気づいたんです」
30代になって大きく心境が変化した永里。異国の地ではバンド活動も始めた。もともとピアノは、小・中学校時代は人前で演奏できるくらいの腕前だったが、ドラムを本格的に習い始め、ライブハウスに観客を入れてコンサートを開催するくらい熱を注いだ。
「優季はアーティストになりたいって言ってます」と兄・源気は笑うが、一方で「なでしこをやっていたころみたいに肩に力が入った状態じゃなくなった。人間味も出たと思うし、兄としてホッとしました」と、安堵感も吐露する。
永里はなでしこジャパンという重い責任の伴う場所から距離をおいたことで、「自然体の自分」を取り戻した。それは彼女にとっては日本のエースに君臨することよりも意味あることだったと言っていい。
境界を越えて女子へ届けたいメッセージ
大好きな街・シカゴで足かけ4年を過ごして迎えた'20年。世界は新型コロナウイルスによる混乱に見舞われた。NWSLもリーグが中断。変則的な短期大会も設けられたが、永里はケガの影響もあって2試合出場にとどまっていた。そんな自分を変えるべく、9月に大胆なアクションを起こす。それが冒頭の男子チームへの加入だった。
そもそも男子と女子のサッカーには大きな実力差がある。小学生までは男女ともに同じチームで練習するケースが多いが、思春期の中学校からは別々になり、身体の大きさや体力などフィジカルの差も相まって、その差は広がっていく。なでしこジャパンもしばしば強豪高校のBチームと試合をするが、それでも勝てないのが現実。永里のチャレンジを「無謀」と見る向きもあっただろう。
それでも、はやぶさイレブンの仲間は彼女をリスペクトして受け入れた。元・日本代表の永井雄一郎(41)は「優季は本当にサッカーが好きで貪欲にうまくなろうとしている。ボールを止める・蹴るの技術も普通の社会人選手より高いですよね」と感心していた。その反面、「やっぱり女子だから身体の強さでは劣る部分がある。パスを出す側としては少し心配になります」と課題も口にしていた。
現実を受け止めながらも、それを自分なりに消化し、どこまでも突き進むのが永里優季という人物。それは、なでしこ時代の佐々木監督も太鼓判を押している点だ。
「優季の男子チームの挑戦は後進の女子への力強いメッセージだと感じます。彼女は男子選手も顔負けの“戦士”。そう痛感したのは、ポツダムの試合を視察に行ったときでした。真冬の零下でグラウンドがカチカチに凍っている中、彼女はストッキングが破れるまで思い切ってスライディングにいっていた。ドイツ人の女子選手はそんなことしませんし、男子選手だってグダグダ文句を言うと思った。
そんな勇敢さを目の当たりにして、当時、男子の日本代表監督だった岡田武史さん(現『FC今治』代表)も“日本人でいちばんほしいFWは永里だ”と話したくらい。優季なら、もっともっと上へ行けると思います」
日本女子サッカー界で唯一無二と言うべき存在だけに、
'21年に延期された東京五輪での「なでしこ復帰待望論」も高まってくるかもしれない。永里自身は重圧に苦しんだ過去の経験もあって「今はまったく考えていません」とコメントしていたが、恩師・寺谷監督は「最前線は今の高倉さんのチームにいちばん足りないところ。永里がいれば助かるでしょうね」と話す。松田監督も「高倉も必要なら遠慮せずに声をかければいいし、永里が表現者として割り切れるなら行けばいい。いずれにしても、彼女は澤や宮間みたいに基準が高い選手。現状に満足せず、貪欲に自分自身を追求していく姿を多くの仲間に示せると思います」と期待を込めて語る。
だがその前に、永里は男子チーム挑戦で得た貴重な経験を新天地で生かさなければならない。'21年1月からNWSLの新興チーム『レーシング・ルイビル』への移籍が決定。現在はアメリカに戻り、新たなスタートを切っている。
「サッカー選手は1年1年が勝負。いつ引退しても納得できるような生活を送っていきたいです。その中で見えてくることも、新たに感じることもある。これまでにないアイデアも出てくるでしょう。それらを組み合わせて形にしていくような、チャレンジングな人生を歩みたい。好きなことをやって、その延長線上で社会へのメッセージも発信できるといいですね」
そう語り、すがすがしい表情で前を見据えた永里。男女の境界やアスリートらしさなどの決まりきったイメージを取り払い、既成概念を打ち破る。その力強い生きざまは、多くの女性たちに勇気や希望を伝え続けるだろう。
撮影/高梨俊浩、吉岡竜紀
取材・文/元川悦子(もとかわ・えつこ)スポーツジャーナリスト。長野県松本市生まれ。業界紙、夕刊紙記者を経てフリー。サッカーを中心に執筆、日本代表から海外まで精緻な取材に定評がある。『僕らがサッカーボーイズだった頃』(カンゼン)ほか著書多数