《もう一回、病院に通い始めたころからやり直したい》
2014年12月。鹿児島県の倉岡美紀さん(仮名・享年27)はそうメールに記し、自ら命を絶った。送信先は通院先の精神科クリニックの男性医師のY(当時・40代前半)。
Yは医師としての立場を利用し治療と称し、向精神薬を悪用。美紀さんの心身を深く傷つけ、死に追いやった。
遺族は性暴力事件としてYの裁きを望んだが被害届は受理されなかった。
特に精神科を受診している場合や、精神、知的障がい者は性被害を訴えても、諦めるように促されたり、取り合ってもらえないこともある。そこで障がいの特性を踏まえた刑法改正や相談支援態勢の必要などを訴える声も高まる。
美紀さんの両親は実名を公表し、Yの医師免許剥奪、性暴力で罰するための法整備などを求めて訴えを続ける。
意味のない投薬で精神を不安定に
「美紀はおしゃれとアリアナ・グランデが大好きな女の子でした……」
そう話すのは母親の祐子さん。美紀さんは穏やかな性格で家族や友人とも仲よく生活していた、ごく普通の女性。
同年3月、Yのクリニックを受診したことで一変する。
当時の美紀さんは、昼は市役所の臨時職員、夜はそば屋でアルバイトをしていた。人間関係に悩みを抱えており、「元気になって頑張って働きたい」と精神科クリニックでの治療を決めた。
適応障害と診断され、大量の薬を処方された。実はターゲットにされていたのだ。
「医師は診察で患者の生育歴や家族、友人との関係も全部聞けます。その中でYは根がまじめで平和主義な女性を中心に自分の話術で騙せそうかを見極め、手を出していった」(祐子さん)
服用を始めて2週間。美紀さんの具合はみるみる悪化していった。昼夜逆転した生活、食事も満足にとれない。仕事に行けなくなり、いつもボーッとしていて、寝ているか起きているか、わからないような状態に。家族は心配してYに相談すると、
「“大丈夫です。治療は進んでいます”と言われました。私たち夫婦も娘の病気を理解するためにカウンセリングを受けたい、とお願いすると“僕と美紀さんがもっと仲よくなったらね”と……」(同)
「すごい先生だ」と洗脳されていく
服用から1か月。心身がますます不安定になった美紀さんのリストカットが始まった。
「娘は抗うつ剤、抗精神病薬、睡眠薬を飲んでいました。でも私たちは薬の意味もわからなくて……。薬を飲んでいるのにリストカットをする。だから薬を飲まなかったらもっと悪くなっていたのかな、と思い、“ちゃんと薬飲んでるの?”と娘に尋ねることもありました……精神医療に無知な私が馬鹿だったんです」
後悔を口にする祐子さん。これが手口だった。
関係者によるとYは患者に当たり障りのない病名をつけ、治療にもならない薬を処方していたという。だが、違法薬物ではない。“治療”と言って処方されれば患者は疑わずに服用する。そこが医師による加害の恐ろしいところなのだ。
Yは投薬でリストカットするほどに精神を落とし、次に“飴”を与え、気分を高めさせた。精神状態が不安定な状況を患者に作り出していた。
「気分が落ち込んでいたら気分が上がる薬を出す。そうすれば体調はよくなる。ハイテンションが続けば落ち着く薬を出す。先生の言ったとおりに薬を飲むと治った、と思うわけですよ」(同)
父親の久明さんも、
「テンションが高いとき、夜中にカラオケに行こう、とせがまれたこともあります」
塞ぎ込んでいた美紀さんが活動的になれば当然、家族は「元気になってきた」と思う。そんな状況が繰り返され、「Yはすごい先生だ」と美紀さんは洗脳されていく。
次にYは自分に依存させるように仕向けていった。
「とにかく口がうまい。“嫌われている”“医師を辞めようと思う”と言って同情を引き、女性たちの心に入り込んで懐柔していく」(祐子さん)
そして家族と対立させ、親子関係を崩壊させた。Yは美紀さんに「体調が悪くなったのは母親が悪い」「父親はこんなことを言った」などあることないことを吹き込んだ。
「娘と妻、妻と私の喧嘩が絶えませんでした」(久明さん)
さらには個人的なメールのやりとりが始まったことで状況は一気に悪化する。Yは性的な内容のメールを送り、関係を迫るようにもなった。
『合意』を取りつけ、性的関係を持つ
'14年7月。過剰な投薬で正常な判断ができなくなり、家族にも不信感を持っていた美紀さん。「治療するには家族と100キロ離れないとダメ」とYに言われるがまま、実家から遠く離れた鹿児島市内でひとり暮らしを始めた。
家族とも離れさせることに成功したYは『合意』を取りつけ、性的関係を持った。
だが、Yには妻子がいた。不倫が判明すると、傷ついた美紀さんの症状はさらに悪化。ショックで自殺未遂をした。幸いなことに一命を取り留めたがYは謝罪するでもなく、侮辱するメールを送ってきたのだ。
後日、既婚者だったことを黙っていたことをとがめるとYは投薬を強制的に中断した。それは殺人にも等しい非常に危険で恐ろしい行為。医師が知らぬはずはない。
精神医療現場で起きている人権侵害問題に詳しい『市民の人権擁護の会 日本支部』の米田倫康さんが説明する。
「離脱症状、禁断症状といわれる身体的、精神的な苦痛を伴う症状が現れ、ときには死に至らしめます」
美紀さんも離脱症状に苦しんだ。遺品の中にあったメモには《最悪の時間を過ごす。禁断症状との戦い》という言葉や心身の不調、薬を渇望するさまが書き残されていた。
これほどの仕打ちを受けながらもYから離れられなかった美紀さん。自分が悪いと思い込まされ、拒絶に脅し。一方でやさしくもされる。性的な関係と大量の薬による精神の錯乱。依存と後悔、孤独。
美紀さんはYに冒頭のメールを送って自ら命を絶った。
被害女性は30人超、2人が命を絶った
警察は事件性はないと判断したが、祐子さんは「おかしい」と訴えた。遺品のメールやメモなどから医師のYが己の立場を悪用し、患者を性的に搾取、自殺に追い込んだことがわかったからだ。だが、判断は変わらなかった。
祐子さんは独自で事件の調査を続けた。するとYの被害者が次々に名乗り出た。
患者、付き添いの家族、クリニックのスタッフ、高齢者施設の看護師……。Yは気に入った女性には片っ端から声をかけ、美紀さん同様、薬漬けにし、巧妙な話術で依存させ、性的な関係を迫った。
美紀さん含め2人が自殺。30人以上の女性が性的被害を受けていたことがわかった。
診察室でキスや胸を触られたり、性行為をさせられた女性。“拒否したら治療は続けない”“通院している家族に迷惑がかかる”と脅され、関係を持たされた女性もいた。
Yは美紀さんの死まで利用。「患者が亡くなり、つらい」と涙ながらに訴え、女性の気を引こうとしていたのだ。
何十人もの人生が狂い、命を奪われ、家族が壊れた。
関係者によるとYは県内のクリニックを閉じ、妻子と別れ関西に移り住んだ。そこでも同様の手口で加害を繰り返していたという。
悪質な医師が野放しにされている
だが、現状では処罰する手段はない。服薬や性行為に『合意』があるとみなされれば、罪には問えないからだ。
「私たちは精神科医が地位や関係性を利用していることを問題視しています」
前出の米田さんは訴える。治療中の主治医と患者が恋愛関係になることは本来、医師の倫理的にありえないことだという。特に精神科や心療内科など、弱ったときに心のうちを打ち明ける分野は危うい。
患者が医師に恋愛感情のような気持ちを抱くことがあるからだ。これを『陽性転移』といい、誰でも起こりうる。精神科医はその前提で患者に接しないといけない。
もうひとつの問題はそれにつけ込む一部の悪質な医師が野放しにされていること。
「治療を装った体(てい)のいい性の搾取、Yのようなケースはかなりあると見られます。しかし、日本の行政はよほどの健康被害がない限り、医療行為の内容に口出しできる権限がない。逸脱するような診察をしていても行政や法律では取り締まれない」(米田さん)
本来、悪質な医師たちも医師法では処分することができるはずだ。
「医師法の第7条では、罰金以上の刑が確定した場合だけでなく医師としての品位を損なう行為をしたときには医師免許の取り消しなどの行政処分の対象となることが示されています」(同)
■医師法第7条
医師が第4条各号のいずれかに該当し、又は医師としての品位を損するような行為のあつたときは、厚生労働大臣は、次に掲げる処分をすることができる。
一 戒告
二 3年以内の医業の停止
三 免許の取消し
患者への不適切な行為が品位を損なう行為でなければ何が品位を損なう行為なのか。
結局Yを裁いたのは向精神薬を不正に譲渡した麻薬取締法違反('18年1月逮捕・不起訴)。虚偽の診療報酬明細を提出した不正請求・詐欺罪(共に再逮捕)だった。
鹿児島地裁は'19年3月、詐欺罪で懲役2年、執行猶予4年を言い渡した。Yは控訴したが棄却。最高裁に上告するも裁判所はそれを退け、昨年2月、有罪が確定した。
Yは被害者たちに何を思うのか。入手した電話番号にかけたがつながらなかった。
被害を訴えても周囲に信じてもらえない
実は精神障がいに限らず、障がいのある人は性暴力の被害を受けやすい。
障がい児・者への性暴力撲滅を目指すNPO法人『しあわせなみだ』理事長の中野宏美さんは現状を訴える。
「医師や支援者ら顔見知りによる犯行も多い。ただ、被害者は加害者の接近が性行為を目的としていることや、その行為は性暴力だと気づけないこともある。何より、被害に気づいて訴えても周囲に信じてもらえない、障がいゆえの妄想だととらえられてしまうことも多い」
加害者は極めて計画的に犯行に及ぶ。狙うのは周囲に訴えなさそうな、おとなしそうなタイプ。恋愛関係と思わせ、性行為をするための信頼関係を構築する。
美紀さんのように転居させ周囲から切り離すこともある。証拠が残らない、目撃されないような状況に持っていく。身体障がい者はケアの中で、本来不要な身体接触の被害を受けることもある。
「障がいによっては誘導されやすく、司法が求める“証言の信ぴょう性”の担保が難しい場合もあります」(中野さん)
性暴力被害を法廷で証言することはただでさえつらい。精神的に不調だった女性には耐えられない。だから立件を躊躇してしまう被害者も多い。
前出の久明さんは訴える。
「Yの報復を恐れ、泣き寝入りを強いられている被害者は少なくありません!」
祐子さんも声を震わせ、
「私たちが本当に望むのはYが性犯罪者として裁かれることです。もう娘はいません。でも、新たな被害者を出さないためにもYを精神医療現場へ復帰させるわけにはいかない。そして治療という手段で性暴力を働いた医師が2度と医療現場に戻ることができないように法整備がされることを願い、声を上げ続けます」