午後の情報番組や夕方のニュース番組ですっかりおなじみ。野菜高騰、軽減税率、レジ袋廃止、コロナ禍―生活に直結するニュースを消費者目線のコメントで発信し続けるスーパーの社長だ。高校時代のアルバイトで青果界に飛び込み、その才能を見込まれるも、独立後に数々の苦労を経験……。閉店寸前から起死回生を遂げた逆転人生に迫る。
テレビ局が取材の行列
「らっしゃい! らっしゃい! 安いよ、安いよ!」
東京・練馬区のスーパー『アキダイ』関町本店。
にんじん1袋100円、豆苗75円、春菊98円──。
激安価格を太字で描いたポップが並ぶ店先で、威勢よく呼び込みをしているのは、社長の秋葉弘道さん(52)だ。
「奥さん、白菜安いよ! 持ってって!」
人なつっこいキャラクターに独特のしゃがれ声──。
名前は知らなくても、この顔と声にピンとくる人は多いのではないか。
秋葉さんは、朝夕の情報番組などで、野菜の高騰やレジ袋の有料化など、スーパー関係の特集があるたび、必ずと言っていいほどテレビや雑誌などのメディアから取材を受ける日本一顔が売れたスーパーの社長なのだ。
「初めての取材がいつだったかは覚えてないけど、一気に増えたのは、東日本大震災のときですね。野菜の流通や、福島の風評被害について話してほしいって、テレビ局が行列を作るほどでした」
手にしたスマホには、各テレビ局の番組名がぎっしり並ぶ。ディレクターから、「夕方のニュースに間に合わせたい」と電話が入れば、「じゃあ、1時間半後に」と、その場で取材を引き受ける。
対応の早さに加え、経営者でありながら、仕入れや販売も担当する秋葉さんは、現場の声をリアルに伝えられる。気づけば引っ張りだこになり、ここ5~6年の取材件数は、平均して年間250本にも及ぶという。
ちなみに、すべてノーギャラで出演している。
「俺、出たがりっていうのもあるけど、困ってる人がいたら放っておけない性分なんです。道を聞かれたら、教えてあげるでしょ。そんとき、お金なんかとらないですよね。俺にとってテレビの取材は、それと一緒です」
取材に限らず、店でお年寄りの具合が悪くなれば、おぶって家まで送り届けることも。いまどき珍しいほど、人のために労を惜しまない。
「これね、人のためより、自分のためなの。困ってる人を放っといたら、あの人、どうなったかって気になるのが嫌なだけ。あとね、俺、ブーメランの法則って呼んでるんだけど、いいことをしたら、いつか自分に返ってくるような気がするんだよね」
屈託なく話すと、「あとね」と、取材を受け続けるもうひとつの理由を口にする。
「俺、小学校のとき、お世話になった女の先生がいてね。テレビに出てたら、いつか先生が俺に気づいてくれるかもって、期待してたんです」
願いがかなったのは、昨年のこと。朝の情報番組『あさチャン!』(TBS系)のスタッフが、秋葉さんから恩師の話を聞き、探し出したという。
「いつもの取材だっていうんで、カメラの前で話してたら、ポンポンって後ろから肩をたたかれて。振り向いたら、『秋葉君、わかる?』って、先生が立ってらしたんです。もう驚いたのなんのって。40年ぶりの再会でした!」
興奮ぎみに早口で話し、「そんときの映像見ます?」と、iPadを操作する。
そこには、「秋葉君、立派になったね。ずっと見てましたよ」と話しかける恩師の手を、目を潤ませて握りしめている秋葉さんの姿があった。
「もうね、うれしくって、何しゃべっていいかわかんなかった。俺が死ぬとき、真っ先に思い出す、人生最高のシーンでした!」
激安価格の秘密は信頼関係
秋葉さんの1日は、早朝5時半の起床から始まる。
「昔は3時半に起きて市場に行ってたけど、今は前の晩に、支店の注文も全部まとめてオンラインで買いつけます。一括で購入したほうが割安だし、食品ロスも減らせるので」
7時前には市場に到着。前日に注文した青果を搬入し、その足で場内を見て回る。
「この時間だとほとんど取引は終わってるけど、逆にそれが狙い目なんです」
売れ残った商品を自分の目と舌で確認し、納得すると、価格を交渉して即決、購入。新鮮なうちに店に並べる。
大根1本10円、キャベツ1玉50円など、驚きの値段が実現するのも、商機を逃さないからだ。
しかし、交渉上手な一方、「人の足元を見るような値段交渉はしない」と、卸売市場で10年近い付き合いがある、東京多摩青果・田嶋一志さん(49)は話す。
「秋葉さんは、男気があるんです。うちが在庫を抱えて困ってると、店で売れ残るのを覚悟で買っていってくれる。その気持ちがうれしくて、俺もいい野菜が入るといちばんに秋葉さんに知らせるし、喜んでもらいたいと力を尽くします。目先の損得じゃなく、相手を大事にする商売をする人です」
男同士で飲みに行くこともある。田嶋さんが続ける。
「この商売、朝が早いんで深酒はしないけど、秋葉さんは明るい酒です。酔うと高校時代にやんちゃだった話をしたりね。うちの若い衆も、“焼き肉行くか”って連れてってもらったりしてます」
長年築いてきた信頼関係を武器に、なじみの市場を回って新鮮な青果を買いつける。その額、本店、支店を合わせて1日700万円。4トントラック8台分にのぼる。
店に戻ると、開店準備にとりかかる。エプロン姿で率先して荷物を運ぶのは、ほかでもない秋葉さんだ。
関町本店は、青果を中心に肉や調味料など6000種類もの品ぞろえがあり、来店客は多い日で、2000人を超えるという。
「家から少し遠いけど、ここは安くて新鮮だから、つい来ちゃうわ」(70代・女性)
「B級品ていうの? ちょっと傷がついた野菜がすごく安く買えるから、家計が助かってます」(40代・女性)
客もよく知っている。
1992年に1号店の関町本店を開店して以来、30年あまり。直営の支店3店舗のほか、関連スーパー2店舗に青果コーナーを出店。パン屋、居酒屋も経営するなど、事業を拡大してきた。
今期の年商は、コロナ禍で自炊が増えた影響もあり、前期2割増の35億円にのぼる。
しかし、その道のりは順風満帆ではなかった。
「あんまり人に言うことじゃないけど、つらいこと、いっぱいありました。嫌になっちゃうことや、それこそ死んだほうがマシって追い込まれたことも。だけど、そういう経験ほど、振り返るといい思い出になってますね」
しゃべれない少年を支えた恩師
1968年、埼玉県富士見市で生まれ、2歳から、入間郡三芳町に移り住んだ。
父親は伯父とともに伝票専門の製本所を営み、母親はパートで働き家計を支えていた。2つ下と8つ下に、妹が2人いる。
「うちは貧しかったですね。着るものも、全部いとこのおさがりだったし、運動靴も破けちゃって、晴れの日も長靴で学校に行ってました。だけど子どもだから、貧乏とか気にしなかったな」
ざっくばらんに話す姿からは想像できないが、幼少期は極度の口下手だったという。
「とにかくしゃべれない子でね。言葉が出ないから、ちょっかい出されると、すぐに手が出ちゃう。そんで、取っ組み合いのケンカになっちゃう。小学校に入ってからは、毎日のように怒られて、廊下に立たされてました」
そんな秋葉少年が、唯一の理解者と出会ったのは小学2年生のとき。
それが、テレビ番組で再会した吉野雅美先生だった。
「授業中に当てられても『うんとね』しか言えない俺を、先生は気長に待ってくれて。『秋葉君が言いたいのは、こういうことかな』って言葉にしてくれました。4年生まで3年間、吉野先生が担任で、俺、救われたんです」
高学年になっても、ケンカっ早いのは相変わらずだったが、それも小学校卒業を境におさまった。
「卒業式で吉野先生に涙ながらに言われたんです。『秋葉君、もうケンカしちゃダメだよ』って。だから俺、先生との約束を守ってきました」
地元の公立中学校に入学後は、野球部に入部。ケンカのエネルギーを部活に注いだ。また、3年生の体育祭では応援団の団長まで務め上げた。
高校は、「手に職をつけろ」という父親のすすめで、電気工事士資格の合格率が高い県立狭山工業高校に入学。高校3年生のときには生徒会長に立候補し、見事に当選した。
「そのときの公約が、俺が生徒会長になったら、パンしか買えない購買部で弁当を買えるようにするってこと。当時は男子校で、食べ盛りの男ばっかでしたからね、みんな盛り上がってくれました。もちろん、当選後は学校と掛け合って、公約を実現しました」
このころには“口下手の秋葉君”はどこへやら。『弁当会長』と呼ばれ、級友や後輩から頼られる存在になっていた。
もっとも、「優等生なんかじゃなかった」と笑う。
「俺が通ってたのは、当時、埼玉県で“三大ワル高校”って言われるほど、不良が多い学校でね。やんちゃしてるやつもいっぱいいました。俺も髪を茶色く染めてパーマなんかかけて、見た目はチャラかったですね。バイクが好きで、よく走らせてました。あ、でも暴走族とかじゃないですよ!」
ちょっぴりやんちゃな青年は、のびのびと青春を謳歌した。
そして、この高校時代に今の原点となる仕事に出会う。
高校生で桃1日130箱完売!
地元の大型青果店でアルバイトを始めたのは、高校1年が終わる春休み。時給のよさが決め手だった。
「高校生アルバイトの時給が540円だった当時、その八百屋は1日10時間働いて日給6000円。これだ! って飛びつきました」
お金目当てで働きだしたものの、店に立つとメキメキと頭角を現した。
「バイトは朝9時からだけど、30分前には行って、搬入された商品を売りやすいように並べておくの。早く行っても時給は出ないけど、自分も働きやすいし、社長や社員さんがほめてくれるのもうれしくて」
社長やベテラン社員を見習いながら、接客も工夫した。
「買ってもらうには、コツがあるんです。知りたい?」
いたずらっぽくそう言うと、臨場感たっぷりに手の内を明かす。
「単に、大声で呼び込みしてもダメなの。それより、お客さんが来たら、わざと小声で“お母さん、お母さん”て声をかけるの。まだ高校生だから『奥さん』じゃなくて『お母さん』(笑)。そんで、“この桃、めっちゃ甘いですよ。いろいろ(箱を)開けたら、これがいちばん甘かった”ってそっと教えるの。そうすると“ひと箱ちょうだい”って、たいてい持ってってくれる」
人なつっこい茶髪の高校生にそう言われたら、買いたくなるのが人情だろう。
商品は面白いほど売れ、1日で130箱の桃を完売させたこともあった。
「早めに売り切れちゃうと、社長に“明日は150箱仕入れてください”って頼んでね。売れ残ったら悔しくて、駅まで桃を担いで売りに行ったこともあります。じきに社長から“原価を教えるから、好きな値段で売ってみろ”って、売値も自分で決めさせてもらえるようになりました」
市場では、『天才桃売り少年』と評判になり、八百屋の社員たちも、当時のホームランバッター、清原和博にちなんで、
「秋葉は青果界の清原! スーパールーキーだ」
と絶賛した。
「もう楽しくて、楽しくて、のめり込んでました。この業界独自の数え方で符牒ってのがあるんだけど、ピン、ニマル、ゲタって、学校のトイレで必死に覚えるほどでした」
そんな充実したアルバイト生活が終わったのは、高校卒業のとき。新たな進路が決まったからだ。
「俺、数学の成績がよかったんで、進路指導の先生には東京電機大学に推薦できるって言われたんです。だけど、親に大学行かせてくれなんて言えなかった。当時、おやじの製本所は伝票の電子化が進んで、にっちもさっちもいかなくなってたから。人より4年早く社会に出て働こうって決めたんです」
就職先は一部上場の電機メーカー・大崎電機に内定した。息子が大手企業に就職できたことに、両親も大喜びだったという。
ところが、1年後──。
「らっしゃい、らっしゃい!」
秋葉さんの姿は、再び八百屋の店先にあった。
大手企業を辞め、青果の道へ
「俺が改造車で通勤しても、“元気のいい高卒が入ってきた”って上司が言ってくれる、いい会社でした。でも、俺自身が、勤め人に向いてなかったんです」
入社後は検査部に配属された。1日中、屋内で検査に明け暮れながら、思い出すのは八百屋のことばかりだった。
「身体使って、声だして、自分の力で売っていく。俺にはそっちが合ってると。どうしても気持ちを曲げられなかったんです」
1年足らずで退職し、青果店に戻ってからは、正社員として、がむしゃらに働いた。
「会社を辞めるとき、おふくろは“もったいない”って反対したけど、おやじは“好きなようにやらせてやれ”って言ってくれました。親や会社の上司の期待を裏切ったぶん、腹をくくって働こうと」
正社員になってからは、早朝の仕入れから1日が始まった。いちばん下っ端の秋葉さんは、先輩社員が買いつけた青果をトラックに運ぶのが仕事だった。
ただし、それだけに甘んじてはいなかった。
「トラックを往復して、荷物を積み終わったら、そっからが俺のゴールデンタイム!」
先輩たちが食堂で朝食をとる間に、ひとりで市場を見て回った。仲卸から野菜の目利きを教わるためだ。
「先輩たちが戻ってきたら車に乗って、俺は運転しながら、おふくろが作ったおにぎりを食べる。それが朝食です。1日の小遣いは、缶コーヒー代の100円だけ。いつか自分の店を持つために、貯金したかったんで」
持ち前のバイタリティーで、早朝から夜遅くまで、身を粉にして働いた。
人の何倍も努力して、青果の知識を身につけ、市場と信頼関係も築いていった。
3年後、22歳で店長に昇格。市場の関係者に「数十年にひとりの逸材!」と言われるまでになった。
ところが、太鼓判を押された矢先、秋葉さんはふらりと転職しているのだ。
「まだ若かったから、別の仕事をやって、確かめたかったんです。自分が一生をかけて八百屋をやりたいのか。独立したら、もう後戻りできないですから」
そう話したあと、ぽつりと言葉を足す。
「働きづめで、カミサンとも新婚らしい生活ができてなかったんで」
そう、秋葉さん、21歳の若さで結婚していたのだ。
運命の出会いは、高校1年の夏。千葉の海だった。
「男ばっかで出かけていって、人生初のナンパをしたんです。その相手が、カミサン!」
ベンチに座っていたかわいい女の子にひと目惚れした秋葉さん。そっと横に座って、勇気を出して話しかけた。
「茶髪でチャラそうな男が突然話しかけてきたんで、彼女、警戒してたみたいです。でも、同い年ってわかって、夜にみんなで花火やろうって約束したんです。でね、話がまとまって立ち上がるとき、今でも覚えてるけど、俺、こう言ったの。“先に言っとくね。座ってるときはわかんないけど、俺、ちっちゃいから。驚かないでね!”って」
身長160センチちょい。
短所を笑いにかえて立ち去った秋葉さんに、彼女は警戒心をゆるめたのだろう。夏の終わりに交際が始まった。
秋葉さんの双子の娘、遠峰由加里さん(26)が話す。
「母に聞くと、デートはいつも父の好きな車屋さんで、おしゃれな雰囲気にはほど遠かったみたいです。それでも父を選んだのは、グイグイ引っ張っていくところがよかったと。決断力があるぶん、父は1度言い出したら人の話を聞きません。夫婦仲がいいのは、母が一歩下がってついていっているからですね」
こうして、4年の交際を実らせて結婚したが、青果店で働くようになった秋葉さんは、家に寝に帰るだけ。夫婦の時間がまったくとれない。
「俺の両親と同居だったんで、カミサンと両親の3人家族みたいになっちゃって」
そこで、時間の融通がきく配送の仕事に転職した。
八百屋から離れたことで、夫婦の時間だけではなく、青果への情熱も再確認できたという。
「トラックを走らせながらも、目につくのは八百屋ばかり。店の雰囲気や、お客さんの入りをチェックして、『テナント募集』の貼り紙があると気になって見に行っちゃう。転職して半年で覚悟を決めました。俺には八百屋しかない。店を出そう! と」
プライドを捨てた呼び込み作戦
独立に向けて動きだして思い知ったのは、世間の厳しさだった。
「まずね、八百屋の元社員で23歳の若造に、テナントを貸してくれる大家さんがいなかったんです」
候補の物件を見つけても、片っ端から断られ、ようやく借りられたのが、ここ関町本店の物件だった。
「大家さんがいい人で、俺が娘さんと同い年って知ると、自分の息子みたいな子が頑張るなら応援するよって」
しかし、ホッとしたのもつかの間。今度は、当てにしていた金融機関から、「開業資金は貸せない」と断りが入った。
「融資担当者が事前に下見したら夕方のかき入れどきでも人通りがない。ここで商売は無理だと判断されたんです」
物件は最寄駅から徒歩6分。確かに立地は悪かった。
それでも、自己資金200万円に、親戚からかき集めた借金を足して、開店に踏み切った。それが、1992年3月のこと。
「どんなに条件が悪くても、俺ならできる!」、八百屋なら誰にも負けない自信があったからだ。
ところが、金融機関の予想は的中してしまう。
「開店から2日間は、特売のチラシを持ってお客さんが来てくれたけど、3日目からはパタッと客足が止まって。店を手伝ってたカミサンが“ひろくん、大丈夫?”って心配するんで、“大丈夫、大丈夫!”って明るく答えてたけど、俺、内心真っ青だった。こんな悲惨な店、初めてだったから」
店の前はバス通りで、頻繁にバスが行き来した。ガラガラの店に立つ秋葉さんは、バスの乗客と目が合うたび、恥ずかしさで背中を向けた。
「どうせすぐつぶれるって思われてるんだろうなってね。今まで、10数年にひとりの逸材だなんてほめられてたけど、鼻をへし折られた心境でした」
精神的にもきつかったが、肉体的にもボロボロだった。
「夜遅くに家に帰って、売り上げの計算して、寝るのは12時過ぎ。そんで、朝は3時起きですからね。カミサンなんて、俺より先に起きるからいつ寝てたんだか。俺、3日で後悔しましたよ。なんでこんな商売、始めちゃったんだろうって」
男のロマン、支店を出したい
それでも投げ出さなかったのは、「あきらめなかった」からではなく、「あきらめたから」だと話す。
「1年後に閉店しようと決めたんです。店への執着心がなくなったら、気が楽になりました。ただし、お世話になった人たちに、あれだけやっても無理ならしかたないって納得してもらえるよう、1年間は全力を尽くそうと」
それからはプライドをかなぐり捨てて、店に立った。
客がいなくても呼び込みを続け、冷やかしの客にも懸命に自慢の青果を紹介した。
苦手だったバスの乗客にも売り込みを始めた。
「紙に大きく、『大根10円』って書いて、バスに向けて掲げたの。そうしたら、おばあちゃんたちが降りてきてくれてね。ほら、乗り降り自由のシルバーパス持ってるから。そんで、“お兄ちゃん頑張ってるね”って感心して、“嫁に言っとく”って帰ってくの。で、今度はお嫁さんが来てくれる。だから、うちのお客さんは、ほとんど口コミなんです」
来店客は徐々に増え、売り上げも比例して上昇。開店から半年後には、1日80万円を突破するようになった。
「ありがたかったですね。そのころには、閉店しようと考えてたことも忘れてました」
こうして、店は軌道に乗り、収支は黒字に転じた。
しかし、これにてめでたし、めでたし、とはいかなかった。
「男のロマン、ですね。次々に支店を出しては、苦労をしょい込んでました。カミサンや家族が反対しても、俺、耳を貸さなかった」
2号店、3号店と出店するたび、資金繰りに行き詰まり、首が回らなくなった。
「特に3号店には苦労しました。借金の返済がにっちもさっちもいかなくなって、死んで保険金で払おうかと思ったほどです。借金のカタに自家用車を没収されたときは、小さかった娘たちが泣いてね。粘土で代わりの車を作って、自分たちの小遣いを差し出してくれてね。うれしかったけど、情けなかった」
それでも逃げずに、すべての店を軌道に乗せてきた。
アキダイで経理を担当している妹の横山友栄さん(49)が話す。
「兄は根っからの商売人で、逆境を力にかえていくタイプです。驚くほど運も強くて、今度ばかりは無理だと思っても、周りの人や銀行に助けてもらえる。それは、兄の人柄のせいかもしれません」
娘の由加里さんが、話を引き継ぐ。
「父はめったに怒らないけど、逆鱗に触れるツボがあるんです。子ども時代に私が友達におもちゃを貸してあげなかったときも、『減るもんじゃない! 貸してやれ』って、すごい剣幕で怒られました。父は、人に喜んでもらうことが好きなんです。自分のことよりも、友達や周りの人のことを優先します。そういう父だから、困ったときに、恩が返ってくるように思います」
亡き父に伝えたかった感謝
「アキさん、じゃがいも、いくら?」
「イチキュッパ!」
「秋葉さん! きゅうりは?」
「イチニッパ!」
開店前の取材中も、スタッフが次々と売値を聞きに顔を出し、秋葉さんが即答する。
頭の中に、仕入れ値と売値がすべて入っていることにも驚くが、感心するのは、スタッフとの壁のなさだ。
「俺のこと、誰も社長なんて思ってない(笑)。みんな対等だから、遠慮ないの。俺もスタッフの一員って感じです」
従業員数は、支店も合わせて170名にのぼる。
若かりしころは、人の使い方も未熟だったと振り返る。
「今だったら、注意する前に2つほめて、1つ叱るみたいにできるけど、若いころは自分の考えを押しつけてました。そんで、裏で悪口言われて、それを告げ口されて嫌な思いしたりね。1度、みんなを集めて言ったことあるんです。俺の悪口言ってもいいけど、告げ口すんなって。俺、少なくともみんなのこと好きでいたいからって。そうやって、いろんな思いしながら、俺自身、育てられてきました」
アキダイで27年働く、ベテラン社員の下田清江さん(57)が話す。
「私もそうだけど、うちの従業員はパートも含めてみんな長いの。20年なんてざらです。働きやすいからね。アキさんは、なんでも本気で言い合える仲間です。だから一緒に店を盛り立てていこうって思える。“助かった”“ありがとう”って、感謝を口にしてくれるのもうれしいですね。みんな社長なんて呼ばないですよ。アキさんとか、お父さんが『あんちゃん』て呼んでたので、そう呼ぶ人もいます」
ともに働く仲間を大切にしてきた秋葉さんだが、ひとりだけそうできなかった人がいると悔やむ。それが、2年前に他界した父親だ。
「おやじは自分の商売をたたんで、1号店から俺を手伝ってくれました。だけど、従業員には責任のある役職をつけても、おやじは最後までヒラのまま。配達や支払いに、都合よく使ってました」
秋葉さんが会社勤めを辞めたとき、「好きなようにやらせてやれ」と息子を信じてくれた父親だった。
資金繰りで困ったときも、人間関係で悩んだときも、陰になり日向になり支えてくれた大切な人だった。
「一緒にいると忘れちゃって、感謝の言葉もろくに言わなかった。おやじ、息子の下でどんな思いで働いてたのかなぁ」
くしくも、その答えは妹の友栄さんが父親について話した中にあった。
「父と兄は、『あんちゃん』『おやじ』と呼び合う、昔気質の親子で、ケンカもしょっちゅうしてました。晩年、父は重い病気で片足を切断しましたが、入院中も廊下を這うように、『あんちゃんを助けるんだ』って出ていこうとするんです。父にとって、アキダイで働くことは生きがいだったんです。兄がテレビに映ると、父は病室でうれしそうに見ていました。兄は長男として十分に親孝行をしたと思います」
父親を看取り、昨年は娘・由加里さんのところに初孫が生まれた。命のリレーを経験して、自身の考え方にも変化があったという。
「経営者は欲がなきゃいけないんだけど、今は欲しいものもないし、事業の拡大も考えてません。いつか引退したら、携帯を置いて旅に出るのが夢ですね。俺、ずっと点みたいなちっぽけなところで生きてきたから。世界中を回って知識を仕入れて、この業界で役に立つ話をコンサル的にできたらなって。お金なんかとらずにね。ボランティア精神で人生を終える! それが俺の次なる男のロマンかな(笑)」
そう話すそばから、「アキさん、しいたけいくら?」とスタッフが顔を出し、「イチキュッパ!」、せわしなく答える。
年間の休日はわずか3日。忙しく働く大黒柱の引退は、まだまだ先になりそうだ。
「らっしゃい、らっしゃい!」
だから今日も、気合を入れて店に立つ。
トレードマークのしゃがれ声を響かせて──。
取材・文/中山み登り(なかやまみどり) ルポライター。東京都生まれ。高齢化、子育て、働く母親の現状など現代社会が抱える問題を精力的に取材。主な著書に『自立した子に育てる』(PHP研究所)『二度目の自分探し』(光文社文庫)など。高校生の娘を育てるシングルマザー