現在、全国に100万人いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は一昨年初めて40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。(ノンフィクションライター・亀山早苗)

※写真はイメージです

上田真人さん(39)のケース

 ある日、東京下町の古本屋の2階で『コロナ禍に生きる、居場所を求める人が人と繋がり続ける為の本・文学』という会が開かれた。数人が集まってコロナ禍で読んだ小説や写真集を紹介し、それについてみんなで語り合う。カミュの『ペスト』やプルーストの『失われた時を求めて』の話題が出たかと思うと、元ひきこもりだった男性が当時の話を始めたり……と話題は豊富で自由だ。 

 この会を主宰したのは、上田真人さん(39)。過去にひきこもった経験をもつ。そのとき恋愛エッセイや心理学の本に助けられたという彼は、今もこうして本がらみのイベントを行っている。本のみならず、上田さんの芸術・文化への興味は深い。

 仕事のかたわらさまざまな活動を続ける上田さんだが、「人生の方向性が見えてきたのは30歳を越えてからですね」と穏やかに言った。

父と母は上司と部下のような関係

 上田さんはサラリーマンの父とパートで働く母のもと、長女に次ぐ第2子として生まれた。

両親とも複雑な家庭で育ったらしいんです。父は親が離婚して母親に引き取られ、苦労したようです。母は親ではなく、幼稚園を経営するクリスチャンの家庭で育てられた。そんな父と母が職場で出会って結婚したんです。母は熱心なクリスチャンだったので、父もクリスチャンになって。僕も子どものときはよく教会に行っていましたね。大きくなったら何になりたい? と聞かれ、『牧師さん』と答えて周りの大人に喜ばれていました」

 父と母は上司と部下のような関係に彼には見えたという。父親のいない家庭で育った父は、おそらく「こういう家族が理想的だ」というイメージがあったのだろう。一家でよくドライブに出かけたりもしたが、父親中心にまとまるのが暗黙の了解だった。

「父が家で食べるのが好きだったので、外食なんてまったくしませんでした。しかも家族は絶対に一緒に食べないとダメなんです。家のことは母に任せきり。母もパートで働いていたから大変だっただろうなと今になると思いますね。母が何かミスをすると父が上司のように怒るんです」

 親に虐待されたことはない。ただ、典型的な家庭像を望む父とそれに従っている母を見て「何か違う」と思いながら育った。

「姉が摂食障害で苦しんでいた時期があったので、やはりどこか家族関係が歪んでいたのかなぁとは思います。僕自身は小・中学校のころはごく普通で、中学ではサッカーをやっていました。でも高校入学後、山田かまちを好きになって、それを周りで理解してくれる友人がいなくて(笑)」

 山田かまちは、1960年に生まれ、17歳で夭逝後、詩や絵画などが遺族によって発表されて人気を博した人物。絵や詩文は少年から青年へと向かう心の揺れや魂の叫びに満ちており、その“孤独”に上田さんは憧れたという。ちなみに私は高校時代に三島由紀夫にハマり、「好きで生まれてきたわけではないのだから、最後は自分の選択で人生を終わらせるべきだ」という考えに固執して学校へ行けなくなった時期がある。10代の心は非常に脆く繊細なのだと思う。

「高校時代は休み時間、いつも図書室で本を読んでいました。『若きウェルテルの悩み』とか。美術部だったので淡々とひとりで絵を描いたり詩を書いたり。友人との交流もトラブルもなかったです。でも、誰かと一緒に落ち着ける“居場所”が欲しいなぁと感じていましたね

恋愛トラブルと将来への不安

 目標もなく、やりたいこともない。大学へ行く必然性も感じなかったが、やることがないため一浪して、ある有名私立大学へ進んだ。

 学生時代は音楽にハマってヒップホップを楽しんだりもした。一方で、親にあまり経済的負担をかけまいと、朝からコンビニやティッシュ配りのバイトもした。バイトと大学と趣味で多忙になったことに加えて、将来の不安が急に重くのしかかってきて、ある日ふと、バイトをサボってしまう。

 さらに、中学時代の同級生と一緒にやっていたフットサルチームでトラブルが起きる。マネージャーの女性を好きになり、断られても何度も告白し、それが仲間にバレて総スカンを食ったと彼は感じていた。高校、大学とあまり友人に恵まれなかった彼にとって、中学時代の友人は大切な存在だったが、その一件で自分がしでかしてしまったことなのに人間不信となった。

なんだか、何もかもどうでもいいというか気力がなくなってしまったんです。大学はなんとか卒業したけど就職する気にもなれず、そこから4年近くひきこもりました。両親には“働かないのか”とよく言われていましたね。ネットを使って音楽関係の器材を安く仕入れて売ってみたり、ホームページを作るショップをネット上に作ったりしたんですが、儲けはほとんど出なかった」

自助グループの心地よい距離感

 何をしたらいいのか、何をしたいのか。彼は苦しい思いを抱えながら暗中模索していた。そんな息子をみて、母親はひきこもりについて勉強を重ねていたようだと彼は言う。

「姉は短大を出て隣町で就職、ワンルームマンションで暮らしていたんです。結婚してその部屋が空いたので、そこに住めと親に言われて。親子で少し距離をとったほうがいいと母が考えたようです。ネットビジネスはうまくいかないのでやめましたが、やはり外で働くことはできない。そのとき依存したのが本ですね。女性向けの恋愛エッセイや心理学関係の本を、図書館やネットカフェで読みあさっていました。依存症関係の本からカウンセリングにつながり、とある自助グループを紹介されたんです」

 それが25歳を過ぎたころ。本しかすがるものがないのはよろしくないと自分でも感じていた時期だった。

 人と接するのは怖くもあったが、「とりあえず、行くだけ行ってみた」という。

 最初に参加したミーティングで、自己肯定感をもてないのは自分だけではない、さまざまな生きづらさがあると知った。それから徐々に上田さんはそのグループにのめり込んでいく。

「ひとり暮らしで昼夜逆転生活になり、ミーティング以外は何もしない生活が続きました。そういう話をミーティングで相談すると““朝、散歩するといいんじゃない?”と言われる。だけど誰かが“一緒に散歩しましょう”とは言わない。その距離感が僕にはちょうどよかったんですよね。実際、朝、散歩してみると1日が長い。当時はミーティングに出ることだけを目標として暮らしていました」

 そのころ、母から誕生日に手紙をもらった。彼は8月下旬の残暑厳しい日の昼に生まれたのだが、母はその日のことだけを綿密に書いていた。暑くて出産までに時間がかかり、大変だったけど生まれてとてもうれしかったこと。その手紙を読みながら、彼は「ただ涙が止めどなく、こんなに涙って出るものなのかと不思議に思いながら声を出して泣いた」という。もし育ててきたことを恩着せがましく書かれたら、彼の心は動かなかっただろう。

「それまで、母の思いどおりにしなければ愛されないという思いが強かったのかもしれない。でも、母は母なりに愛してくれていた。父は威張っていたけど、それは家族を思っていたから。ストレスで家族に八つ当たりしがちだったのかもしれない。そう思いました」

 彼の中で何かが少しずつ溶けていった。生活費や自助グループへ行く交通費などは親がかりだった。

 客観的に見ると、上田さんの親は少しずつ彼の意識を変えるよう努力してきたのではないかと思う。うまく距離をとりながら、息子をゆっくり見守ってきたのではないだろうか。

仲間との和解、自立への一歩

 ところが27歳のころ、親に「もうお金がない」と言われる。自助グループに行けなくなったら困る。彼は初めて「自分が何をしたいのか」を真剣に考え始めた。 

「環境問題にすごく関心があったんです。農薬に利用されている化学物質の危険を訴えた『沈黙の春』の著者、レイチェル・カーソンに憧れました。彼女は生物学者だけど、僕は今から生物学者にはなれない。でも、もしかしたら環境を守るための樹木医にはなれるかもしれないと考えたんです」

 知的障害者と農作業をする福祉関係の仕事があると自助グループの仲間に聞き、実務経験を得るために彼は飛びついた。さらに「ひきこもり」に特化した自助グループを仲間と立ち上げる。

 ここから上田さんの人生はうまく転がり始めた。

「最初に行った自助グループのおかげですね。僕はいつも自分にダメ出しする気持ちが強かったんです。でも自分に対して肯定的になる、自分のよさを見つけるセルフケアを意識するようになって、自分を徐々に受け入れ認められるようになった。そうしたら何か人のためにできないかと考えられるようになったんです」

 同時に過去へのこだわりにも訣別したい思いが強まり、29歳のとき、当時のフットサル仲間のもとへ赴いて謝罪した。ところが、仲間たちはほとんどそのことを覚えていなかったし、気にしていなかった。過剰反応して、自分から距離をとっていたとわかったのだ。過去の人間関係を取り戻したことが、彼の心を安定させた。

就職・結婚を叶え、人を救う立場へ

 それから9年。さまざまなことがあった。母と姉が相次いで病気で鬼籍に入った。団地の自治会長をしながらひとりで暮らしている父を、上田さんはときどき連絡をとりながら逆に見守る立場になった。

 仕事では、樹木医を目指していたものの福祉関係の勤務先でパン作りの担当になってしまい、夢が頓挫。だが、仕事をしながら、彼は自分が本当に望んでいるものに気がついたようだ。

 2019年春、専門学校に1年間通った末に精神保健福祉士の資格をとり、精神障害者施設に転職。さらに同年7月に、5年間の交際を実らせ、ひと回り年下の女性と結婚した。

「収入面を考えると、なかなか結婚に踏み切れなかったんですが、精神保健福祉士の資格をとって方向性がはっきり見えてきたので、やっとプロポーズできました。結婚してよかったと思います。親をはじめ、いろいろな人から無償でもらったものを、次の人に無償で与える機会を得たような気持ち。そういう存在に自分がなれるのかな、と。子どもはいらないと思っていたけど、僕みたいに親の文句ばかり言ってきた人間がどういう親になるのか楽しみなので(笑)、子どもをもつのもいいかなと思っています」

 ひきこもり経験者としての活動も多岐にわたる。自分が主宰する当事者会もあるし、冒頭で紹介した本を媒介にしたイベントも定期的に行っている。

 上田さんには1年数か月にわたって断続的に会ってきたが、会うたびに存在感が増していくのを感じていた。じっくりと自分を見つめながら着実に充実感を得ている様子がわかる。饒舌なタイプではないが、さまざまな文化・芸術への造詣の深さ、新しいものへのアンテナの鋭さにも学ぶ点が多い。また彼は『暴力的“ひきこもり支援”施設問題を考える会』を共同で立ち上げ、いわゆる「引き出し屋」の問題も提起し続けている。

「これからも、僕はトラウマや居場所の欠如からひきこもった人たちに何か発信していけたらと思っています。YouTubeで始めた“居場所をくださいチャンネル”はそのひとつです」

 自分の経験を糧にして、そこからさまざまな助けとなる雫を周りに振りまいているように見える上田さん。彼自身はクリスチャンではないのだが、敬虔なクリスチャンだった母の思いが彼の血肉になっているのかもしれない。


かめやま・さなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆