
非行少女だった中学生時代、落ち切った人生をネタにかえようと一念発起。有名大学、大手企業へ。だが、うつ病により休職。復帰後、『冷たい社会』を痛感した。誰かの背中を押せる仕事を求め、たどり着いた受刑者向けの求人誌作り。
今、受刑者に立て直しのチャンスを届ける傍ら、納棺師として生計を立てる。2つの仕事に込める思いは同じだ。どんな人も最期は笑ってほしい―。
そんな思いを語る間も、三宅さんはよく笑っていた。
受刑者向けの求人情報誌を創刊
そこにいるだけで三宅晶子さんは目立つ。30代後半から白髪が増え、49歳の今はほぼ真っ白だ。
「父も若白髪だったので遺伝ですね。黒く染めるのが面倒だし、他人と違っても差別しなさそうな人だと、ひと目見てわかってもらえるアイコンになったらいいなと」
違いは外見だけではない。三宅さんが手がける仕事もユニークだ。
日本で初めて、受刑者向けの求人情報誌『Chance!!(チャンス)』を2018年3月に創刊。年4回の発刊で全国の刑務所、少年院などに置かれている。同誌を通じて、これまで108人が出所後の居場所を得た。
最新の2020冬号には25社が求人広告を出している。最も多い求人は建設作業員。ほかにはドライバー、介護など人手不足の業種が目立つ。仕事内容、給与、待遇など基本的な情報のほか、採用が難しい罪状や条件も細かく書かれている。
「殺人、放火、性犯罪、覚せい剤累犯」「長袖長ズボンを着て入れ墨が見える人」などは不可とする企業が多いが、なかにはどんな罪状でも受け入れる企業もある。
「『Chance!!』が自分を変えるきっかけになった」

そう話すのは栃木県の建設会社『大伸ワークサポート』で働いて2年になる朝倉大輔さん(39)。窃盗で2度目に服役した刑務所の中で同誌を知った。
《自分も受刑者の気持ちがわかる。絶対に見捨てない》
会社の紹介ページに載っていた社長のコメントに惹きつけられ、三宅さんと社長に手紙を出した。何度か手紙でやりとりして罪を犯した背景などを詳しく説明。その後、社長が刑務所に面接に来てくれて採用が決まったという。
「ここに来てからも、“ああもうイヤだな、仕事に行きたくない”とか、何度も落ちそうになりましたよ。でも、そのたびに社長や同僚が話を聞いてくれて。それまで心の底から話せる相手がいなかったので救われましたね。結局は自分の意思の問題なんですけど、自分を心配してくれる人たちを裏切れないですから」
初めての給料が出ると朝倉さんは、三宅さんに食事をごちそうしたそうだ。
「最初に刑務所に入ったとき親から“手紙も寄こさないでくれ”と言われて、もう自分を必要としてくれる人なんていない。ずっとひとりで生きていくんだろうなと。でも、三宅さんは“必要とする人は必ずいる”と返事をくれて、心強かったです」
三宅さんの会社に全国の受刑者から寄せられる手紙は年間約1000通。三宅さんひとりでは手が回らなくなり、外部スタッフに業務委託をして対応。受け入れ先企業のサポートもしている。
社長は
肝っ玉母ちゃん的存在
昨年末のある日、朝倉さんが勤める大伸ワークサポートとの打ち合わせに向かう三宅さんに同行した。同社は掲載企業のなかで応募率2位の人気を誇る。
三宅さんは社長の廣瀬伸恵さん(42)に、雇用した人のその後や、応募してきた受刑者の進捗状況を聞いていく。
「○○さんはどうですか?」
「うちで働いて3日後に無銭飲食で警察に捕まりました。弁償して連れ帰ったけど、また4日後に飛んで(突然いなくなること)」
「××さんとは?」
「雇うつもりで、手紙のやりとりはしています。たぶん薬(覚せい剤)なので、やめる覚悟を根ほり葉ほり聞いている感じですね」
同社では17歳から69歳までの男性37人が働いている。そのうち9割近くが元受刑者だ。『Chance!!』のほかにも、出所後の指導をする保護観察所や知人などから頼まれて雇っている。
廣瀬さんは『Chance!!』のことを手放しで称賛する。
「こんなのを待ってました。受刑者専用の求人誌なんて、ありそうで誰も思いつかなかった。私も『Chance!!』があれば応募したかったですよ」
廣瀬さん自身、2度の服役経験がある。両親の離婚を機に非行に走り、18歳でレディースと呼ばれる暴走族の総長に。覚せい剤の売人をしていて逮捕され20代の5年間を刑務所で過ごした。妊娠中に再び逮捕され、獄中出産。「こんなかわいい子を、こんな中で産まなきゃよかった」と、初めて自分のやってきたことを後悔した。

27歳で出所したが、仕事は見つからない。履歴書には長い空白期間がある。嘘はバレると思い「刑務所にいた」と正直に言うと、どこの会社も雇ってくれない。介護の資格を取り、何も言わずに介護施設で働いたが、前科があることがわかるとクビになった。
「刑務所を出てきたんなら、俺んとこ来いよ」
途方にくれる廣瀬さんを救ってくれたのは建設会社の社長だ。現場で雑用をこなすアルバイトから始め、9年前に独立して、大伸ワークサポートを立ち上げた。
最初は食べるだけで精いっぱいだったが、元受刑者の就労支援に目を向けるようになる。
「やり直そうとする人の気持ちを理解してあげられるのは、私なんじゃね? と思って(笑)。でも、廣瀬は過去がひどすぎるから、裏で暴力団とつながっているんだろうとか、全っ然、信用されなくて……。それが変わるきっかけをくれたのは、三宅さんなんです」
2年前、18歳の少年が『Chance!!』を通じ大伸ワークサポートに応募してきた。その少年はひどく荒れていて保護観察所ですら雇用を不安視するほど。だが、廣瀬さんは反対を押し切って少年を雇い、更生させた。その一件で周りの見る目が変わったのだ。
「彼は両親の所在が不明で幼少期から施設で育ってきたんです。非行に走る子って、親から虐待を受けていたり家庭の愛情を知らないことが多い。だから“何があっても私は見放さないからね”と言って、居場所を作ることがいちばんだと思っています。
うちに来たら、まずご飯を食べさせます。みんなで食卓を囲んで、今日は何があったとか話すだけでも、受け入れてもらっていると感じると言われたので、どんなに疲れていても作ります。みんなわが子だと思って、栄養バランスも考えて、毎日、安い食材を探し回っていますよ(笑)」
この日のメニューはすき焼きときのこ汁。社宅に住む10数人が廣瀬さんの自宅に夕飯を食べにくる。廣瀬さんはみんなの様子に目を配り、悪いことをすれば正座をさせて厳しく叱り飛ばす。まさに肝っ玉母ちゃんという感じだ。
廣瀬さんとの打ち合わせを終えた三宅さんも一緒に食卓を囲む。
「三宅さんみたいな髪の色がいい。どうしたらそんな色にできるの?」
髪を明るく脱色した若い社員から聞かれた三宅さん。
「生きてるだけ(笑)」
真顔で答えて、みんなの笑いを誘った。
受刑者を雇う企業の本音と葛藤
冒頭の朝倉さんのように家族に縁を切られ、刑務所を出ても身元引受人がいない人は多い。仕事が決まれば雇用主が引受人になれるのだが、理解のある職場は少ない。
国も努力はしている。出所者を雇用し更生に協力する民間の事業主を「協力雇用主」と呼び奨励金を出している。
2019年時点で約2万2千社の登録があるが、実際に雇用しているのは約950社にとどまる。刑務所だけでも年間約2万人の出所者がいるので、圧倒的に足りない。その結果、再犯をして刑務所に戻った人の約7割は無職だったという現実がある(平成30年『矯正統計年報』)。
どうにか就職できても、途中で辞めてしまうケースが後を絶たない。定着率の高い廣瀬さんの会社でも5割前後だという。
「やっぱり孤立している子のほうが飛びやすいので、もっとこっちからガツガツ話しかけたほうがいいのかなーとか、何がいけなかったのか考えて眠れなくなっちゃったり。よくひとりで泣いてます」
悩んだときは、三宅さんに電話で相談する。
いつもじっくり話を聞き、一緒に怒ってくれ、こう励ましてくれるそうだ。
「廣瀬社長のやってることは間違ってません」

こうした取り組みを知ってもらうため、三宅さんは全国の刑務所、少年院、民間団体などに出向き、講演もたくさんこなしてきた。テレビや新聞などの取材も積極的に受けている。
努力の成果もあり、同誌は創刊以来ほぼ黒字だが、三宅さんは一切、報酬を得ていない。生活費は納棺師の仕事でまかなっている。
一体、何が三宅さんを突き動かしているのだろうか。
「私、ダメ人間なんですよ、本当に。マザー・テレサみたいに言われることがありますが、全然、そういうのじゃない。いろんな人に迷惑をかけて生きているので、ダメな自分をちょっとでも許してほしいとか、昔やらかした悪さがちょっとでもプラマイゼロになるといいなーとか。エゴと言ってもいい。自分のためにやっているんです」
実は三宅さんも、かつては非行少女だった。新潟市に住んでいた中学時代、友人の家に不法侵入して大金を盗んだこともある。友人は三宅さんが犯人だとわかっていたが、問い詰めなかった。それを25年後に返済して謝ったそうだ。
「新潟は狭い町なので、帰省するとその子とばったり会ったりします。そのたびに魂が曇る感じがして……。20代のときも返そうと決めてお金も用意したけど、警察に突き出されるかもと勇気がしぼんでしまったんです」
やってしまったことが消えるわけではないが、友人がゆるしてくれたことで心の曇りはなくなった─。
優等生から不良グループへ
三宅さんは1971年、新潟市で生まれた。地方銀行に勤務する両親、父方の祖母、11歳上の姉と5人家族。姉は高校を卒業して上京、両親は家にいないことが多かった。
「家族団欒とか、家族みんなで過ごした記憶があまりないんです。母が出勤する前に私がワーッとしゃべりかけるんだけど、もう行かなきゃと聞いてもらえない。だから、自分の話は聞いてもらえる価値がないという思い込みみたいのがずーっとあって、今でも自分の話をするのは苦手なんですよね」
両親が多忙だったのは、仕事のためだけではない。母は銀行での男女の賃金格差是正を求めて裁判を起こして勝訴。その後、父が定年制延長裁判を起こし、11年にわたって闘った末に敗れた。三宅さんが幼いころから家には裁判を支援する仲間が集まり会議をしていることが多かった。

小学生のときは学級委員長を任される優等生だった三宅さん。中学生になると一変し、不良グループに入って遊び回るように。
「単純に憧れですね。カッコいいから。お酒、タバコ、夜遊びとか覚えて、楽しいー! みたいな」
両親への反発もあったのではと聞くと、三宅さんはしばらく考えてこう答えた。
「亡くなった両親のことは今でも世界一、尊敬しています。あんなに自分たちの時間とお金を使って裁判をしていたのに、自分たちのためではない。困っている人がいるからという理由でやっていたんです。でも、自分はそんなふうにはなれないという、焦りみたいなものは、ずーっとあったんですよね。それと、ずっとかまってもらえなかったという恨みもあったんでしょうね」
父の裁判が始まり家の中がピリピリしてくると、三宅さんの非行もエスカレート。万引き、窃盗、暴行、バイクの無免許運転……。父に怒られると家出をして、5歳上の彼氏の家に逃げ込んだ。
荒れる三宅さんを受け止めてくれたのは、中学3年時に担任だった大滝祐幸さん(68)だ。家出した三宅さんを探して連れ戻し、気持ちが落ち着くまで1週間近く、自宅で預かったこともあると話す。
中3の秋、クラスで事件が起きた。登校すると1人の男子生徒の机がない。全員で学校中を探したがどこにもなかった。
卒業して10年後。大滝さんの家に遊びに来た三宅さんが、こう告白したそうだ。
「あれは私が信濃川に捨てた(笑)」
机の中には教科書などがぎっしり詰まり重たかったが、朝早く登校して学校の近くを流れる川まで運んで投げ捨てたと聞いて、大滝さんは驚いたという。
「ある日、自分の机が倒れて教科書がバラバラに落ちていて、その男子が蹴飛ばしたと知って頭に来たからだと言っていましたよ。日ごろからバチバチやっていたようです。
わが家では晶子のことを“規格外”と呼んでいるんです。ビックリするようなことも、思いついたらやってしまう。今の仕事を始めたのも予想外でしたが、昔から全然変わらないですね。意志が強くてクールなんだけど、ハートは常に熱いんですよ」
大滝さんは進学するつもりのない三宅さんを説得し、私立高校に入学させた。
だが、三宅さんは「面白くない」と学校には行かず、家へも帰らずに喫茶店でアルバイト。1年の夏休み明けに退学になる。
父に連れられて当時、入院中だった母に、退学の報告に行った。
「なんで?」
そうつぶやき、さめざめと泣く母親を見て、三宅さんの脳裏に浮かんだものがある。
「なんか、真っ黒い大きなグラフみたいのが見えて。それが右肩下がりにストーンと落ちている。それで、私の人生は、今、すごく落ちているんだなと実感したんです」
母が入院したのは、居眠り運転をして大ケガをしたからだ。自分が心配をかけたせいで夜も眠れなかったのだろうと思い、申し訳なさでいっぱいになった。
そしてその夜、こう決意する。
「これまでの人生をネタにかえよう」
思い描いたのは、大勢の人の前で講演をしたり自伝を書いている未来の自分だった。
大企業で経験したうつ病
やり直す決意はしたが、何から始めればいいかわからない。お好み焼き屋に就職して働いていると、父が訪ねてきた。一緒に食事に行くと、帰りにデカルトの『方法序説』という哲学書を渡された。
「難しくて、もう、全然歯が立たない。それが悔しくて。父に認められたい気持ちもあったんでしょうね。勉強して大学に入ったら読めるようになるかと思ったけど、いまだに読めてません(笑)」
2年遅れで進学高校に入学。「今度はいい子でいよう」と決め、あまり素の自分を出さずに過ごした。部活は空手部に入部。中学のとき男子とケンカをして、足が震えている自分に気がつき、少しでも強くなりたいと思ったのだ。

2浪の末、23歳で早稲田大学第二文学部に合格した。大学時代に何か学んだことはと聞くと、三宅さんはひと言。
「夫と出会ったこと!」
そう言って、大笑いした。少林寺拳法部に入ってすぐ、当時5年生だった夫と意気投合。長く付き合い、36歳のときに結婚した。
「夫とは性格が全然違います。私は多動というか、思い立ったらすぐ動かないと気がすまないけど、夫は例えば、コンタクトを買おうか2年くらいうじうじ悩むタイプです(笑)。でもね、もーのすごくやさしいんです。あの夫じゃなかったら、私、結婚なんて一生できなかったと思う(笑)」
大学卒業後は得意な英語を生かして輸出入代行業の会社で働いた。3年で退職して、ステップアップのために北京、バンクーバーに語学留学。帰国後、33歳のときに一部上場の商社に中途入社し、オフィス向け通販のバイヤーとして働いた。
「人生をプロデュースするにはギャップが必要だと早大に入ったけど、まだ足りない。社員証をピッとやると自動ドアが開くような大企業で働いたという経歴が欲しくて。単純だから(笑)」
だが、入社2年目にうつ病になってしまう。
「母が亡くなって、父が家を売りたいと言い出して。土蔵には古い物がいっぱいで、その片づけもあるし、仕事も忙しかったから抱え込みすぎてパンク。半年休職しました」
復職後は本部に異動し、積極的に弱音を吐くように心がけた。最初は席に座っているのもやっとだったが、上司や同僚のサポートもあり、再び働けるようになったそうだ。
虐待を受けた少女を引き取る覚悟
「次は人材育成のような、誰かの人生の背中を押せるような仕事がしたい」
そう考え、43歳で10年勤めた会社を辞めた。毎年受ける社内の昇進試験が苦痛で、ストレスで体調まで崩したことで踏ん切りがついた。
退職後に友人から電話をもらう。ひきこもりや出所者の自立支援をする塾を作りたい。実現したら講師をしてほしいという依頼だった。
「私ならできると言われて、“え?”と思ったけど、よく考えたら人材育成の範疇ではある。だったら出所者とか生きづらさを抱えている人に、たくさん会って話を聞いておけば何も怖くないなと」
自立支援団体や受刑者支援の団体でボランティアをしながら、彼らの話を聞いた。

奄美大島の青少年支援センターで17歳の少女と親しくなる。両親に育児放棄され2歳から施設で育った福島美香さんだ。この少女との出会いが、三宅さんの人生を大きく変えていく─。
三宅さんが東京に戻って半年後、美香さんから手紙が届いた。窃盗で捕まり少年院にいるという。そこで美香さんが出院した後は自分の家に引き取ろうと考えた。
だが、美香さんは赤の他人だ。どうして一緒に暮らそうと思ったのか。理由を聞くと三宅さんはじっと考えて、慎重に言葉を選んだ。
「自分でもよくわからないけど……縁だと思います。美香は一見明るくてしゃべるのも好きだけど、最初から、心が、ものすごく泣いているみたいな感じに見えました。本当はすごく寂しいんだけど、寂しいって言わない。本音を言わないところとか、自分に似ている感じもしたんです」
養子縁組を前提に、美香さんを迎え入れた。三宅さん夫婦に子どもはいない。
三宅さんは親子になろうと意気込んでいたが、美香さんは「施設に戻るよりはまし」と思っただけ。そんな美香さんと暮らすのは、一筋縄ではいかなかった。
個室を与えると部屋はぐちゃぐちゃ。三宅さんは「片づけて」とうるさく言ったが、美香さんは掃除ができない。
連絡用にスマホを買って渡すとSNSを通じてすぐ恋人をつくった。3週間後には遠方に住む彼が上京。このまま彼の家に行って一緒に住むと電話してきた美香さんを、三宅さんは怒鳴りつけた。
「何を言っとんじゃー!」
少年院や刑務所を出た後は一定期間、保護観察という指導を受ける。その間は1週間以上の外泊が認められておらず、家出をすれば少年院に再送致もありうる。
「その後も、美香はバイトして小銭が入ると彼に会いに行って、バイトもクビになる。そんな繰り返しだったから、ちゃんと働きなさいと言ったけど、そのたびに反発して」
三宅さんが言うことはもっともなのだが、美香さんは素直に受け入れない。それには壮絶な過去が影を落としていた。父が再婚して一緒に暮らしたときのこと。小学1年だった美香さんは再婚相手にひどく虐待されたそうだ。
「髪を引っ張られたり、ゴルフボールのついた孫の手で頭を叩かれて血を流したり。父にも物を投げつけられたりしていたので、もともと大人が大っ嫌いで。だから、私の心の中にズカズカ入ってこられると、もう無理と思ってシャッターが下りちゃうんですよ。そこまで近くなると、うっとうしいというか、ダメなんですよね。それで、どんどんバトっちゃって」
結局、養子縁組はせず、1年ほどで美香さんは家を出た。だが、美香さんと何度もぶつかったことで、三宅さんにも変化が起きていた。
「彼氏のところに行く美香を見ていて、初めて両親の気持ちがわかりました(笑)。親ならこうすべきだと自分のやり方を押しつけていたことにも気がついて、泣きながら謝りましたよ。
私、もともとキレやすいんですよ。それが美香と暮らしたおかげで、相手は今、こういう気持ちなのかなと想像する癖はついたと思う。今の仕事でも落ち込んだり、腹が立つこともあるけど、まず相手の背景を考えるようになりました」
現在、美香さんは23歳。2人の幼子を育てるシングルマザーだ。
「ちょっとヤバい」
3歳の娘がかんしゃくを起こして自分が耐えられなくなると、三宅さんに電話をかけて話を聞いてもらう。
美香さんは三宅さんのことをママと呼んでいたが、今は子どもたちと一緒に、ばあばと呼んでいる。1、2か月に1度、三宅さんはお米を買って美香さんの住むアパートを訪ねる。それくらいの距離感がちょうどいいと、2人とも口をそろえる。
元同僚に売られたケンカを今も……
'15年7月。三宅さんは受刑者などの就労支援をする会社を立ち上げた。社名の『ヒューマン・コメディ』には「誰かを笑顔にして、最期は自分も笑って死ねるように生きる」という意味が込められている。
会社の登記日は美香さんの誕生日にした。
実の親に「死ね!」と言われ続けてきた美香さん。
「自分なんか生まれてこなければよかった」
そんな思いを今も抱えている。だからこそ、三宅さんは毎年、設立記念日に従業員とみんなで一緒に美香さんの誕生日も祝い、「生まれてきてくれてありがとう」と伝えたかったのだという。
三宅さんの深意を知り、美香さんも変わりつつある。
「昔ほど誕生日が嫌いではなくなったかな。好きではないけど」

三宅さんが受刑者支援をする裏には、美香さんの存在があるのは確かだが、実は、それ以外にも理由がある。
前の会社を辞めるときのこと。送別会の席で、ある社員が「うつ病で復職する社員の世話係を命じられた」という話をすると、別の男性が吐き捨てるように言った。
「よく引き受けるね。俺だったら、絶っ対、ヤダね!」
その言葉を聞いて、三宅さんは頭に血が上り、口論になった。どうにか気持ちをおさめて解散したが、ワンワン泣きながら家まで帰った。
「私だって、うつ病で休職したとき、みんなが受け入れて、できるようになるまで待ってくれたから今がある。なのに、レールをはずれて戻ってこようとしている人に対して、そんなことを言うのは、冷たい社会の縮図のような気がして……。あのときのことを思い出すたびに、彼をぶん殴らなかったことをずーっと後悔していたんです。まあ、殴るのは犯罪だとかは、さておき(笑)。
今になって、自分はこの仕事をすることで、あのとき売られたケンカをずっと買い続けているんじゃないかなって思うんですよね」
最初は今のような求人誌ではなく、有料の職業紹介事業としてスタートした。営業先の会社に「元受刑者を雇ってくれないか」と話してみたが、結果はさんざん。
「一体全体、何を言っているんですか?」
「その人が何かやらかしたら、どう責任を取るんですか?」
理解のある会社が見つかり雇ってもらえても、すぐに辞めたり、行方不明になってしまい、謝罪に回る日々。
「私が面談して、この人なら大丈夫だとお墨つきをつけた人たちが、もれなく(笑)」
その当時のことを三宅さんは「光の見えないトンネルをずっと歩いているような感覚だった」と振り返る。行き止まりなんじゃないかと、内心は焦りと不安でいっぱいだったとも。
それでも、三宅さんは歩みを止めなかった。どうしてなのかと聞くと即答した。
「ずっと困っている人のために社会活動をしていた両親の背中を見ていたし、自分はそんなパパとママの子だから、絶対、大丈夫だと思っていました。何か糸口があると信じていたし、私がヒューマン・コメディを続けて誕生日を一緒に祝うことが、美香への愛だと思っているので、絶対、続けるんだと」
希望の光は思わぬところから差してきた。ある日、訪れた協力企業で工業高校向けに制作を始めた求人誌を目にして、ひらめく。
「ウチもこんなの作ったらどうだろう」
すぐに求人誌作りに方向転換。法務省に足を運び、刑務所などに求人誌を置く許可も得た。
ところが、創刊号が完成する前に資金が枯渇─。
「退職金とマンションを売ったお金を会社の資本金にしたんですが……。瞬く間に使い切りました(笑)。
すごく不安で、どうしようとなったときに、ああ、私はこの会社から報酬を得なければいい。求人誌は掲載料の範囲で作って、自分は納棺師で生計を立てればいいんだ。そう思うようになったら、気負いがなくなったし、覚悟が決まったんです」
まだトンネルの真っただ中にいたとき、三宅さんは講演に呼ばれた先で納棺師の女性と知り合った。「あなたのようにちょっと道をはずれた人は、度胸があって共感力が高いから向いている」と誘われて、弟子入りしていたのだ。
「根底にあるのはヒューマン・コメディと一緒です。笑って死んでほしいなって。納棺のとき私が整えたお顔を見て、ご遺族が“笑ってる”と涙を流して喜ばれるのを見ると、本当に感動します」
元受刑者の墓までつくる企業の輪
創刊号には13社が求人を載せてくれた。デザイナー、ライターなど外部委託はしているが、これまで編集作業は三宅さんが1人でこなしてきた。
「もう無理、もう無理」
年に4回、締め切りが近づき悲鳴を上げるたびに、夫が励ましてくれる。
「ひとつずつやればいいよ」
この仕事を始めて、よかったと思う瞬間がある。ひとつは『Chance!!』を通じて採用になった元受刑者が笑っている顔を見るとき。
もうひとつは思いのある事業主と出会えたときだ。
「受刑者は身寄りのない人が多いので、ある会社の会長が社員用にお墓を建てたんですよ。その話を別な会社の社長にしたら、ウチもまねすると言ってくれて。そんな素敵な輪が広がっていくのを見ると、本当にうれしいですね」

残念なのは、せっかく配った『Chance!!』を「御社だけ特別扱いできない」と閲覧禁止にしたり、連絡先など一部情報を黒塗りにしている刑事施設があること。どう活用するかは各施設の判断に任されているからだ。
今後は日本中、できるだけ多くの理解のある企業に参加してもらいたい。
「本当は、うちみたいな会社はなくなるといいんですけどね。出所者がちゃんと職に就ける仕組みができれば、それがいちばんいい。失敗とか、間違いを犯しても、許して受け入れることのできる、やさしい社会に近づいたらいいなーと思っています」
誰よりも強い意志と熱いハートを持つ三宅さん。たくさんの笑顔に背中を押され、挑戦は続く─。
取材・文/萩原絹代(はぎわらきぬよ) 大学卒業後、週刊誌の記者を経て、フリーのライターになる。'90 年に渡米してニューヨークのビジュアルアート大学を卒業。'95年に帰国後は社会問題、教育、育児などをテーマに、週刊誌や月刊誌に寄稿。著書に『死ぬまで一人』がある。