現在、全国に100万人いると推測されるひきこもり。近年、中高年層が増加しており、内閣府は一昨年初めて、40歳以上が対象の調査結果を公表した。一般的には負のイメージがあるひきこもり。その素顔が知りたくて、当事者とゆっくり話してみたら……。(ノンフィクションライター・亀山早苗)
田澤光太郎さん(32)のケース
「あれ以上の地獄はなかった。外に出たいけど出れば気持ちが悪くなるから出られない。“ひきこもる”のはつらかったけど、ひきこもらざるをえなかったのも事実なんです」
そう話すのは埼玉県に住む田澤光太郎さん(32)。現在はアニメーターとして制作会社に勤務する。多忙ながらやりたいことを仕事にできた彼だが、その道のりは長く険しいものだった。
体調不良で早退を繰り返すように
会社員の父と専業主婦の母、姉ふたりの末っ子として生まれた田澤さんは、活発な子だった。小学校のときはサッカーが大好きで、「給食と休み時間が大好きな」クラスの人気者だった。
ところが6年生になったある日、なぜかけだるさを覚えて学校を早退。それ以来、体調不良が続いて早退を繰り返した。運動会や行事が続いて疲れたのかと思っていたが、「明日はちゃんと行くぞ」と思って寝ても、起きると頭痛がひどい。
「子どもながらに何が起こっているのかわからない。学校に行っても給食が食べられない。ひどく気持ちが悪くなって吐きそうになる。あんなに大好きだった給食の時間が苦痛になって、午前中だけで帰るんですが、帰ってしまったらサッカーができない。でも気持ちが悪くなるからしかたがない。そのうち、今にも吐くのではないかという恐怖感にさいなまれるようになりました」
病院に行っても、「風邪」という診断しか下らない。「気持ちが悪くなると思うのは気のせい」だとも言われた。だが、明らかに風邪ではないと田澤さん自身が確信していた。結局、学校へ行けなくなって家にひきこもるようになった。
「ときどき学校の先生が来てくれたんですが、朝、僕は家でパンを食べていたりするわけです。それを見て『食べられるじゃないか』と。
でも学校へ行くとやはり気持ちが悪くなって給食の時間はいられない。自分でもどうしてなのかわからないんです。歯がゆくてたまりませんでした」
それでも最初のうちは学校から帰ってきた友達と遊んだりしていた。新しくできた大きなスーパーにみんなで行ってみたら、人の多さに恐怖心を覚えて突然、気持ちが悪くなった。そうなると2度と同じ場所へは行けなくなる。それどころか、近所の小さなスーパーにさえ行くことができない。「スーパーは気持ちが悪くなる」という経験則が自分の中に根づいてしまうからだ。
「行動範囲はどんどん狭まっていき、中学に上がるころにはまったく家から出られなくなっていました」
彼の切迫感に、聞いているこちらも胸が苦しくなっていく。
「両親も心配はしていましたが、どうすることもできない。病院では身体に異常がないと診断されるわけですし。両親はうるさいことは言わずに見守ることに徹してくれた。とてもありがたかったです。ただ、それだけに申し訳なさも募っていきました」
8年外に出られず、20歳を迎えて…
中学には1度も行っていない。家にこもっていると登下校で外を通る同世代の声が聞こえたりする。それが彼の焦りに拍車をかけた。
「そうなるともう、アニメやゲームに逃げるしかない。でも逃げながらも、みんなに置いていかれる不安があるんです。朝起きてゲームを始めるんだけど、内心は恐怖感しかありません。年をとるのが怖かった。そのうち昼夜逆転して、起きると夕方になっている。もう、うつ状態ですよね。今でも休日にうっかり寝坊して昼まで寝てしまうと当時の絶望感を思い出します」
無限ループに入り込んだ心境だったと彼は遠い目になる。親は見守ってくれたが、当時の姉たちは辛辣だった。
「あんたはいいよね、ひたすら家にいてわがままに過ごしてと、よく言われました。そう見えたんでしょうね」
中学時代にパソコンを手に入れ、『パニック障害』という言葉を知った。自分がぴったり当てはまるとわかったものの、症状が改善されたわけでもない。高校にも行かないまま、彼は20歳を迎えた。実に8年間、家からほぼ一歩も出なかったのだ。自傷や希死念慮はなかったものの、気持ちが荒れて自室で暴れたこともある。壁には今もいくつか穴があいているという。
「20歳になったとき年齢のプレッシャーを感じました。このまま親と一緒に何もしないままに年をとっていくと心底、怖くなったんです。だからといって、外に出て何をするんだという気持ちもある。それでも体力が落ちているのはわかっていたので怖かったけど、ある夜、外に出てみたんです。死ぬ思いでしたよ。だけどどちらにしても悲惨なら、1歩出てみるしかない。外を歩いてみて、そのうちジョギングを始めて。近くの小学校にサッカーボールが落ちていたのでそれを蹴ったとき、ものすごくうれしかったのを覚えています。そうやって少しずつクリアしていったんです」
朝早く起きて人のいない近くの山を散策したり、両親に近くの湖に連れていってもらったり外に出ることが徐々に楽しくなっていった。だがそこで、はたと彼は気づく。
「他者と接触していないから自分のコミュニケーション力が12歳で止まっているわけです。このまま30歳になったらまずいと真剣に思いました」
外に出ることはできたが、どう人と接触したらいいのか、この先、何をしたらいいのか見当がつかなかった。
8年ぶりに他人と話すことができた
そんなとき、年上の旧友から電話がかかってきた。
「ドライブに誘われて。最初は断ったけど何度も誘ってくれるので意を決して行ってみたんです。8年ぶりに他人と接したんですが、ごく普通に話すことができた。それは大きな自信になりました。恐怖感はあったけど、なんとか先に進めるかもしれないと、かすかな希望がわいてきた。翌日も、その人とゲームをしに行ったんです。2日続けて人に会って他人に対する怖さが少しだけ薄れました」
もっと別の場所に身を置いてみたいと思った田澤さんに、親が手を差しのべてくれた。保健所や職業訓練所などに連絡をとってくれたのだ。そして、地域の活動支援センターにつながった。
「そこに1日中いられる“居場所”があって通うようになりました。同じようにひきこもっている人にも出会って、フットサルチームを作ったり、お互いの家に行ってゲームをしたりひきこもっているときのことを話したり。たくさんのことを吸収しましたね」
そのころ、病院でパニック障害の診断が下った。薬ももらったが副作用が強いため、常用はせずに「お守りがわりに持っていた」という。その後、その居場所のスタッフが経営している喫茶店でアルバイトをするようになった。
「人生にはいろんな可能性があると喫茶店のスタッフさんに言われたんですよね。定時制高校もすすめられました。20歳過ぎても高校に行けるんだと知って、中学時代の教科書を引っ張り出して勉強、高校に入学したのは25歳のときでした」
25歳、意欲に満ちあふれた高校生活
10歳年下のクラスメートと一緒に学生生活を謳歌した。美術部に入って好きだった絵を描き、文化祭では委員長も務めたし、10歳年下の彼女もできた。とにかく何でもしてやろうという意欲に満ちあふれていたという。
「本能のままに動き始めた感じ(笑)。とはいえ、やはり人との距離の取り方がおかしいとわれながら思うこともありました。好きな子にいきなり告白してストーカー扱いされそうになったこともあったし、女の子のグループに急に話しかけてドン引きされたり」
そうやって適切な距離を学んでいったのだろう。そういう経験をする機会を逸して大人になった田澤さんにとっては、ひとつひとつの行動が、「死ぬかこれをやるかの二者択一」だったという。
「外に出てから常にそうでした。あの人に話しかけてみるか死ぬか、高校へ通うか死ぬか、いつもそうやって死との二者択一で、行動するほうを選択してきた。ここでまたひきこもったらすべてが終わり。そう強く思っていましたね」
彼にとって、ひきこもることは、それほど“地獄”だったのだ。あそこに戻りたくない。その一心だった。
「だからいつでも緊張はしていました。そのころにはパニック障害との付き合い方もわかっていたので、気持ちが悪くなりそうになるとフリスクを口に放り込むんです。あるいはポケットに手を入れて自分で太ももをつねる。そうすると瞬間的に気が紛れるんです。一時期、太ももが内出血だらけになりましたが、同じ症状を抱える友人に言ったら、『フリスクと自分をつねるのは、パニック障害あるあるだよね』と盛り上がりました(笑)。自分だけじゃない、みんなそうやって頑張ってるんだというのも、ひとつの希望でしたね」
ただ、人前で食べるのだけは今も苦手だという。みんなでカラオケに行っても喫茶店に行っても、彼が「食べる」ことはほとんどない。「食べて気持ちが悪くなったら人に迷惑をかける」という不安が強いのだ。
定時制高校の卒業率は60パーセントとも70パーセントとも言われる。昼間仕事をしている人が多いため、両立できずに中退していくケースが多いのだろう。田澤さんは昼間アルバイトをしながら、1日も休まず4年間で卒業した。
「高校時代、僕は絵が好きだなと実感したんです。ひきこもっているとき映画とアニメばかり見ていたこともあって、アニメを作る側にいってみたいと思っていました。年齢的にハードルが高いとも思ったけど、思い切ってアニメの専門学校に通うことにしたんです」
アルバイトで貯めたお金で専門学校に入学。2年間、1度も休まずに片道1時間以上の電車通学をやり遂げた。車の免許も取得した。なによりアニメ制作を学ぶのが楽しかったし、外国人学生も多く、多様性があるところが彼に合っていたのかもしれない。
夢を叶え働く今も肯定できない過去
そして彼は望みどおり、アニメ制作会社に就職した。採用理由は「(映像になることを)きちんと考えて絵を描いているから」。加えて、彼のまじめさも評価された。1年間、動画部分を描く仕事をし、その後、少し格上の「原画マン」となる。現在はコロナ禍で、在宅勤務が多い。
「夕方になって急に、この部分を明日の朝までにお願い、と言われることもあるんです。でも忙しいのは嫌じゃないですね。まだまだ未熟ですけど、『あなた、うまいから背景描いて』なんて言われると本当にうれしい。家で仕事をしていると、食事も気軽にできるから僕にとってはいい環境で仕事ができます。会社に行くと、どうしても食べない選択をしてしまうので」
ひきこもっていた8年間は、彼にとってエネルギーをためる時間だったのかもしれない。安易にそう思ったが、彼はまだそう考えることはできないという。
「今でも僕は、自分なんかが楽しんでいいのか、笑っていいのかと思っているんです」
言われて初めて気づいた。彼は柔和な表情でいつも微笑みを浮かべているのだが、そういえば大きく笑うことはない。笑うのが怖い、本性を出すのが怖いという気持ちは抜けないのだという。
「不登校やひきこもりは親不孝だというイメージがあるでしょ。僕自身もそれにとらわれている。ネットで知り合った人たちがひきこもりを悪く言っているのを聞いて裏切られたような気持ちになったこともあるし、世間がどう見ているかもわかってる。だからずっと自分は楽しんではいけない人間なんだという気持ちがどこかに残っているんです」
外で傷ついたことによって、ひきこもってホッとする人もいるかもしれない。それでもある程度の時間がたてば、今度はひきこもっていることがつらくなっていく。
ひきこもりは甘えだと言う人たちに、彼は「いや、地獄だよ」とアンチテーゼを突きつけている。
かめやま・さなえ 1960年、東京生まれ。明治大学文学部卒業後、フリーライターとして活動。女の生き方をテーマに、恋愛、結婚、性の問題、また、女性や子どもの貧困、熊本地震など、幅広くノンフィクションを執筆