視聴率低下でレギュラー番組を失い、コンビも事実上解散……「タカアキは終わった」とまで言われながらも、まさかの人気復活を果たした平成の視聴率王。「傍若無人」とも評される男は、なぜ愛され続けるのか? それを紐解くカギは、昭和の歌姫との知られざる深い縁にあった──。
石橋貴明と美空ひばりさんの秘話
「ホントに戦力外通告だな、と。“(仕事を)やりたくてもできない”というのは」
1月31日放送の『情熱大陸』(TBS系)で、そう自嘲ぎみに語ったとんねるず・石橋貴明。その言葉どおり、ここ数年、石橋は落ち目だった。前身番組から数えて30年以上続いた看板番組『とんねるずのみなさんのおかげでした』(フジテレビ系)が視聴率低迷を受けて打ち切りになり、高校時代からコンビを組んできた木梨憲武も2人で設立した所属事務所を辞め去っていった。
「業界内でも貴明さんからどんどん人が離れていきましたからね。YouTubeも正直、“コケるだろう”と思っていました」(テレビ局関係者)
ところが、その予想を覆し、石橋のYouTubeチャンネル『貴ちゃんねるず』は開設当初から爆発的人気を集める。テレビではできなくなってしまった過激な笑いが詰め込まれたネット番組の登録者数は153万人を超える。石橋は一躍、芸能界トップユーチューバーのひとりに躍り出た。
「全盛期を知らない若い世代も、貴明さんの作り上げる動画に大笑いしているんです。貴明さんの実力を思い知らされた。いやぁ……脱帽です」(同・テレビ局関係者)
テレビ界に居場所を失い、新たな場所でまたイチから“自分の笑い”を切り開いている現状に、デビューを目指していた18歳当時──オーディション番組『お笑いスター誕生!!』(日本テレビ系)で居並ぶ審査員たちから総スカンを食った自分を重ねているのかもしれない。冒頭の番組で密着取材を受ける石橋が、ポツリとこう漏らした。
「俺たちはあれが“面白い”と思ってやっていて、それを唯一、認めてくれたのがタモリさんだった。(中略)何が何だかわからないけど“なんかいい”と言ってくれた」
そのタモリ以上に、石橋を認めていた大物芸能人がいた。“昭和の歌姫”美空ひばりさんだ。知られていないが、'89年に亡くなるまでの4年間、石橋らとひばりさんは“年の離れた友達”として濃密な時間を過ごした仲だ。
歌番組に出演すればカメラを破壊し、レギュラー出演する『夕焼けニャンニャン』(フジテレビ系)では客と大立ち回り。業界のしがらみに関係なく自分の笑いをぶつける駆け出し芸人と超大御所歌手の接点はどこにあったのか。ひばりさんのひとり息子として石橋たちとの親交をいちばん間近で見てきた、ひばりプロダクションの加藤和也社長によれば、とんねるずに「会ってみたい」と言いだしたのは意外にもひばりさんのほう。
「たまのオフでおふくろが家にいるときは、必ず僕と一緒にテレビを見てくれるんです。中学生だった僕がかじりつくようにして見ていた番組が『夕焼けニャンニャン』。それで、おふくろはとんねるずを知ったんです。“あら、面白い人たちねぇ”って」
「お嬢」「タカ」と呼び合う仲に
ひばりさんと、石橋たちが初対面したのは'86年。フジテレビのある特番収録で、ひばりさんからの“ご指名”だった。初対面のふたりを、すぐに気に入った。
「収録が終わると、貴明と憲武を自分の愛車だったリンカーンに乗せて、赤坂にあるなじみの店へ連れていって。ひばりさん、よっぽど楽しいお酒だったんでしょうね、その日会ったばかりのふたりの前で、生歌を1曲披露したそうですから」(フジテレビ関係者)
ひばりさんは石橋を「タカ」と呼んだ。そして、自分を「お嬢」と呼ばせた。
「おふくろがリクエストしたんだそうです。おふくろは“生涯歌手”として“時代についていきたい”とずっと思っていましたから。タカさんたちのエネルギーに触れたかったというか、うらやましさもあったのかな」(加藤社長)
深夜、仕事を終えた石橋たちを、ひばりさんが自宅に招くこともたびたびあった。30以上も年の離れた石橋たちの与太話に、ひばりさんは声をあげて笑った。
「おふくろは、交友関係は広かったですけど、本当のお友達は決して多くはなかった。タカさんたちが年の差も立場も超えて接してくれることが新鮮で、うれしかったんだと思います。人間性に惚れていたんですね」(加藤社長)
誰にでもまっすぐな石橋
放送作家の海老原靖芳氏も「貴明は誰にでもまっすぐだった」と振り返る。'83年のある日、自宅に電話をかけてきた石橋の悲壮な声を、よく覚えているという。
「開口一番、貴明が“エビさん、助けてください!”と」
所属事務所に内緒で仕事を受けたことがバレて無期限謹慎を食らった、というのだ。テレビへの出演も白紙に。そこで、お笑いライブを開催して芸を磨きたい、という。
「ついては僕に“コント台本と演出をお願いしたいんです”と。それも“ノーギャラで”って(苦笑)」(海老原氏)
ぶしつけな依頼にも聞こえるが、それが石橋らしさだという。
「貴明の言葉って、彼の実直さが伝わってくるんです。笑いにかける熱が電話越しに伝わってくるというか。胸にスッと入ってきた。それで引き受けたんです」(海老原氏)
渋谷の小さなライブハウスで行われた単独ライブは大成功。その後、とんねるずは飛ぶ鳥を落とす勢いでテレビ界を席巻していくのだが、この話には続きがある。
石橋が和也さんに託した言葉
「僕の担当番組で“とんねるずをゲストに呼びたい”という話になった。でも彼らは超売れっ子になっていて、番組側が出演交渉したけれど事務所から断られた。しかたなく昔のよしみで私から貴明に直接頼んでみることになって。電話に出た貴明は“わかりました。エビさん、少し時間ください”と。すると事務所から本当に“出演OK”の返事が来たんです」(海老原氏)
実はその日、石橋たちは地方で別の仕事があった。
「“車や電車移動では間に合わない”と現地からヘリコプターで飛んで来てくれた。30分の収録を終えるとヘリでトンボ返り」(海老原氏)
苦境に陥った自分たちに手を差しのべてくれた海老原氏の恩を、忘れていなかった。
「貴明には“裏”がないんです。この業界は裏表がある人間ばかりだけれど、彼にはそれがない。ただただ“笑いをやりたい”っていうだけ。それが、みんなに好かれた理由じゃないかな」(海老原氏)
石橋とひばりさんが最後に言葉を交わしたのは、ひばりさんが亡くなる3か月前。ニッポン放送のラジオ特番『美空ひばり感動この一曲』──ひばりさん最後のメディア出演となる現場だった。
かねてから患っていた病気が進行し、体力が落ちてしまったひばりさんは、それでも気力を振り絞り、自宅からこの番組に出演することになった。10時間ぶっ通しという異例の長時間番組には、萬屋錦之介、岸本加世子らが入れ替わり立ち替わり自宅を訪れ、ゲスト出演。その1組として石橋たちも駆けつけた。
「タカさんから、かけられた言葉が今でも残っているんです。たったひと言“和也、ママを守ってくれよ……!”って」(加藤社長)
そう言うと、貴明は真っ赤になった目をぬぐい“年の離れた友達”お嬢の待つ部屋に入っていったという。