昨年末に吉本興業を退所した藤森さん(写真/東洋経済オンライン)

 昨年末、オリエンタルラジオが吉本興業を退所するというニュースが世間を驚かせました。中田敦彦さんは前々から「シンガポール移住」を公言していたため、既定路線と捉える人が多かった一方で、相方の藤森慎吾さんが共に独立という選択をしたことは、驚きをもって伝えられました。

 藤森さんの初の著書『PRIDELESS(プライドレス) 受け入れるが正解』では、自身の半生、人生哲学、そして相方・あっちゃんへの思いがつづられています。本稿は同書から一部を抜粋しお届けします。

いつだって「そこそこ」の人生

 鬼教官のシゴキは……じゃなかった、あっちゃんとの厳しいお笑いの稽古は、もちろんその夜だけでは終わらなかった。あっちゃんは本気だ。いや、ぼくだってぼくなりに本気だし、やると宣言したからにはついていくつもりだった。というか、すでにノーと言える雰囲気なんかじゃない。来る日も来る日も稽古に明け暮れた。

当記事は「東洋経済オンライン」(運営:東洋経済新報社)の提供記事です

 あっちゃんは、もう単なる友だちというのではない。「相方」ってやつである。

 こんなぼくと一緒になって、

昨年末、オリエンタルラジオが吉本興業を退所するというニュースが世間を驚かせました。
中田敦彦さんは前々から「シンガポール移住」を公言していたため、既定路線と捉える人が多かった一方で、相方の藤森慎吾さんが共に独立という選択をしたことは、驚きをもって伝えられました。

藤森さんの初の著書『PRIDELESS(プライドレス) 受け入れるが正解』では、自身の半生、人生哲学、そして相方・あっちゃんへの思いがつづられています。本稿は同書から一部を抜粋しお届けします。

あっちゃんはお笑いの道を目指してくれている。ありがたく思わなくちゃいけない。が、ツッコめどもツッコめどもうまくいかず、怒られっぱなし。そこまで言うか?というほどダメ出しをされた。

 つらい……。でもここはがんばる。がんばるしかない。

 長野県諏訪地方の寒冷地で生まれ育ったぼくは、「この土地の者は粘りと忍耐力が持ち味だ」と聞かされてきた。自分にはその持ち味がなぜかまったく備わっていなかった。それでもここはむりやり信じ込んだ。

 諏訪育ちのオレの粘りを、ナメるんじゃないぞ!って。それに、じつを言えば、どこか打算的な気持ちもあった。ぼくだって何者かになりたい。ひととは違う、抜きん出た、ド派手なことをしたい。ひらたく言えば「ビッグになりたい!」。せっかく生きるんなら、そうありたい。ここを耐えれば、そこに近づけるかもしれない。

 すこし冷静になって考えれば、いやでも気づく。自分にはひとより秀でたものなんてなにもなかった。ちいさいころから、勉強やスポーツがまったくできないわけじゃなかった。学校での人間関係もそこそこうまくこなせるほうだった。いやむしろ、「クラスの人気者」的なポジションにいる時期のほうが、どちらかといえば長かった。なのだけど、ぼくの決定的な弱点は、

「これだけはひとに負けない!」

「だれよりもこのことが好き!」

 と言えるような、強い情熱を傾ける対象を見つけられたためしがないことだ。いつだって、すべてが「そこそこ」だった。

 なにか大きいことをやるひとは、だれにも負けない強い気持ちや、「熱」を持っているものじゃないか? そういうのが自分には欠けているってことは、ぼく自身いちばんよくわかっていた。

あっちゃんについていこう

 そんなぼくが、デカいことをするにはどうすればいいのか。自分の内側をいくら探しても、圧倒的に情熱を傾けたくなるなにかは見つかりそうにない。ならば、手っ取り早くひとの力を借りるしかないじゃないか。

 だれだって、ひとと仲良くしたり協力するのはいいことだと、ちいさいころから教えられて育つはず。だったら自分の力じゃなくって、ひとに頼ってなにかを成そうとすることも、きっと悪くはない。

 じゃあ、だれに頼るのか。そのときのぼくには、もちろんあっちゃんしかいなかった。

 このひとの言うことなら、聞ける。このひとに頼ろう。くっついていけば、自分ひとりじゃ決して見られない光景をきっと見せてくれる。

 そう信じさせる雰囲気があっちゃんにはあった。自分の人生を自分で切り開こうとする熱量みたいなものが、圧倒的だった。20歳そこそこのやつらなんてたいてい、不安、期待、絶望、すべての感情が入り混じったモヤモヤを抱え込んだまま、どうしたらいいかわからず立ちすくんでいる。具体的な行動なんてそうそう起こせやしない。

 でもあっちゃんは違った。同い年なのに、本当にスゴいなあ。単純に、素直に、そう思わせられた。のちにぼくらがオリエンタルラジオとしてデビューして、出世ネタ「武勇伝」で何千回と繰り返すことになるフレーズは、このころからずっとぼくの頭のなかで鳴っていたのだ。

「あっちゃん、カッコいい~!」

 って。

 こんなひとと出会えたことを、全力で喜ぼう。そして同時に、言葉は悪いが大いに利用させてもらおう。そう考えていた。あっちゃんと同じ未来を思い描いて歩いていくのは大変そうだ。実際にぼくは、その初日から音を上げたくなった。

 でも一緒にいれば間違いなく、上昇気流に乗せてもらえそうだ。そんな打算も働いていた。

 自分の将来のことだろうに、ひとに頼ってばかりでどうするんだ? 若いうちからそんなふらふらした態度でどうする! そういう声はごもっともなんだけど、ここはひとつだけ反論したい。

 ぼくだって、みだりに自分の運命を、ひとに預けたりはしない。相手の見定めはちゃんとしているつもりだ。このひとになら乗っかりたい、信頼できそうだし、意志・能力・気力もじゅうぶんにありそうだから、と。

 つまりぼくは、あっちゃんなら絶対にだいじょうぶだと踏んで、あっちゃんを選んだ。このひとの言うことなら、聞ける。つらくていろいろ文句を言ってしまうこともあるかもしれないけれど、きっといい方向に進んでいくはず。心からそう思えた。信じられるひとを自分でしっかり選んだのなら、あとは相手の姿を見失わないようにしっかりついていく。そんな生き方があったっていいじゃないか。

 だれもが先頭を歩こうとする必要なんてないのだ。

「自分から道をかき分けようとはしないのか? ひと任せで本当にいいのか?」

 と問われたら、もちろんそれでいいんだと、ぼくは答えたい。そんなところで自分のちっぽけなプライドを通す必要なんてない。それよりも、一緒に歩くひとをこの目で選び、道を照らしてもらいながら、ともに楽しく歩いていく。そっちのほうがぼくにはずっと大切だし、そういう生き方のほうが性に合っていたのだ。

ミーハー中のミーハー

 そうやって、あっちゃんという格好の導き手を得て、ぼくはお笑いの道に踏み込んだ。

 アルバイトを終えるとぼくらは決まって元住吉のいつもの公園に出かけていき、来る日も来る日も漫才の稽古に明け暮れた。

 すこしでもうまくなっているのか、成長しているのか、自分じゃ正直なところよくわからなかった。なかなか進歩しなかったんだろう。あっちゃんに怒られっぱなしなのは、まったく変わる兆しもなかったから。

 それまでの付き合いから、ぼくはよく知っていた。あっちゃんはうそをつかない。思ってもいないことを口にしたり、なにかに忖度(そんたく)してものを言ったりすることはない。あっちゃんがガミガミ言うってことは、ぼくの漫才がちっとも満足のいくレベルに達していない証拠だ。

 ぼくはお笑い芸人になりたいというよりも、ただ華やかな芸能界への憧れだけが漠然とある、ミーハーなやつだった。お笑いでもいいかな。いちおう芸能界だしね。どんなかたちでも、デビューしちゃえば芸能人でしょ。

 などという甘い考えが、心のうちにあった。それがにじみ出ていたのだろう。長野県と山梨県で過ごしていた中学高校時代、ぼくはずっと木村拓哉さんに憧れていた。ほかにも俳優でいえば窪塚洋介さんや、同い年の小栗旬くんがすごく好きだった。

おめでたいやつ

 大学生になって上京してからは、渋谷の道玄坂で一度だけ、芸能プロダクションのスカウトを名乗るひとに声をかけられたことがあった。めちゃくちゃテンションが上がったものだった。結局そのときは、オーディションを受けるまでには至らなかったんだけど。

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 大学生時代にはほかにも、たまたま街頭インタビューみたいなのを受けたことがあった。それだけで、

「おお! オレってすこしはイケてる? 歩いているだけで声かけられちゃうなんて選ばれし者なのかも!」

 と勘違いしそうになったこともある。おめでたいやつだ。単純な田舎者だったぼくは、有名人になることに、ただバカみたいに憧れていただけ。なにか具体的な努力や行動をするというのでもないくせに、華やかな世界に興味津々ではあった。

 とはいえ、芸人という道はまったく頭になかった。ほとんど関心を持っていなかったのである。それなのに勢い、予備知識も思い入れもないお笑いの世界に飛び込んでいこうというのだから、われながら無謀だ。

 全力で「先生」たるあっちゃんに食らいついていく。食らいついていく以外になかった。


藤森 慎吾 お笑い芸人
1983年、長野県生まれ。2003年、明治大学在学中に中田敦彦とオリエンタルラジオを結成。04年、リズムネタ「武勇伝」でM‐1グランプリ準決勝に進出しブレイク。11年、「チャラ男」キャラで再ブレイクを果たす。決めゼリフ「君かわうぃーね!」は同年の流行語大賞にノミネートされる。 14年、音楽ユニット「RADIO FISH」を結成し、16年には楽曲「PERFECT HUMAN」がヒット、NHK紅白歌合戦にも出場した。 現在、バラエティ番組のほか、テレビドラマ、映画、ミュージカルなど俳優としても活躍。20年、YouTubeチャンネル「藤森慎吾のYouTubeチャンネル」の配信をスタート。オンラインサロン「FILLLLAGE」も開設するなど、マルチに活動している。