毎日、鏡で目にする自分の顔。しかしよく考えると、なぜ私たちには「顔」があるのだろう──。太古の生物の体の最先端に、餌を効率よく食べるために「口」ができたときに、顔の歴史は幕を開けたという。
人類進化研究の第一人者・馬場悠男氏の著書『「顔」の進化 あなたの顔はどこからきたのか』(講談社ブルーバックス)では、ヒトや動物の顔の歴史を振り返りながら、顔がもつ深い「意味」を解き明かしている。本稿では同書の一部を紹介しよう。
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あなたはさまざまな動物の顔を、正面から見た顔で認識しているだろうか。それとも横顔で認識しているだろうか。と尋ねられても、そんなことはふだん考えたこともないだろう。
ネコ、サル、フクロウなどは、正面顔として認識されることが多い。それは二つの眼が正面を向いているからだ。一方でサカナ、ウマ、ハトなどは、眼が横についているので、横顔として認識されることが多い。微妙なのはイヌである。漫画に描かれたものや、自分の飼い犬はおそらく正面顔で認識しているが、一般的なイヌを認識するのは横顔という人が多いかもしれない。
コインに刻まれる顔は、必ず横顔
ヒトは、一般には正面顔で認識され、パスポートの写真も正面顔である。では、我々は、横顔ではお互いを認識しているのだろうか。横顔で他人を識別できるのだろうか。
ヨーロッパ人は鼻が高く隆起し、頬が引っ込んでいるので、横顔でも個体識別することが可能である。ところがアジア人は、稀な例外はあるが、一般には横顔では個体識別ができない。
紙幣に印刷された偉人の顔は、斜め正面のことが多いが、コインに刻まれる顔は、必ず横顔である。それは、コインに顔を刻みはじめたのがヨーロッパ人(西アジア人も含む)だったからだ。もし、東アジア人がコインに横顔を彫ろうとしても、個体識別ができないのであきらめざるをえなかっただろう。かと言って正面顔や斜め正面顔を刻もうとしても、当時の技術では難しかった。イギリスの元首相チャーチルのコインは何種類かあるが、じつは完全な横顔だけでなく、やや斜め、正面に近い斜め、正面などいくつものバリエーションがある(図1)。それは、チャーチルの顔がヨーロッパ人としては比較的平坦で、真横顔では個体認識が難しいからだろう。
横顔を表す言葉は、英語なら「profile」、フランス語なら「profil」、ドイツ語なら「Profil」であり、実際の横顔だけでなく、その人物の実像や特徴を示してもいる。犯罪捜査の「profiling」も、個人の具体像を浮き上がらせることである。日本では、「横顔」という言葉には正面からは見えない意外性のある側面、あるいは付加的な一面という意味がある。洋の東西で横顔の意味はずいぶん違うのだ。それは生物学的な違いが基礎となっているのだろう。
アジア人には横顔がない
どれくらいずれるまで横顔と見なせるかを知るために、ヒトの顔における横顔の定義をしておこう(図2)。
たとえば、ヒトの顔の左側に立ち、左前方から顔を見ながら、徐々に左後方に移動した際に、右側の眼あるいは頬が鼻に隠れはじめる角度から、真横を通り過ぎて、鼻が左側の眼あるいは頬に隠れる角度まで見える顔を横顔とする。
つまり、顔の正中の輪郭が連続して見える範囲を横顔とすると、ヨーロッパ人ではその範囲が30度くらいあるが、アジア人では範囲がきわめて狭く、大部分は0度になる。つまり、東アジア人の大部分には、ヨーロッパ人のような横顔は存在しないに等しい。だから私たちは横顔で個人認識をしないし、識別はほとんどできない。
“片目つぶり”など表情にも集団差がある
同じホモ・サピエンスでも、集団によって表情の表し方に違いがあることはよく知られている。アジア人は控えめだが、ヨーロッパ人やアフリカ人は大げさといわれる。そして、その違いの原因は、主に背景としての文化的あるいは心理的な違いによると考えられている。
ところが、表情を表すための顔面筋にも、じつは生物学的特性があり、そこに集団差がある。
そのことを発見したのは、人類学者の香原志勢(こうはら・ゆきなり)である。文化の違いだけではないのだ。以下には、香原の『顔と表情の人間学』の内容を紹介しながら、表情の違いの生物学的特性をみていく。
(1)片眼つぶり
片眼つぶり(ウインク)が上手か下手か。それを香原は次のように分類した。
・顔が歪まずに、反対の眼にまったく影響を与えずにできるなら完全(+)。
・片眼をつぶれるが、反対の眼が動いたり口が曲がってしまったりすると不完全(±)。
・そもそも片眼つぶりがまともにできないなら(−)。
香原が調べた対象は、アメリカのヨーロッパ人(国籍や出身ではなく人種としての:アイオワ大学と国際基督教大学の学生)、中国人と東南アジア人(日本に留学中の学生で、中国人は東南アジアの華商の子弟が多い)、日本人(信州大学の学生)である。
その結果を見て香原は、被験者数は少ないが、アメリカのヨーロッパ人、とくに女子は非常に片眼つぶりがうまい。しかも注目すべきことに、性差が日本人と逆である。また、中国人は、男子はうまい者が多いが、女子はうまくない者が多いことから、片眼つぶりには文化的要因もかなり加わっているが、人種差あるいは民族差といえるものがあることがわかる、と指摘している(図3)。
(2)片眉上げ
香原は片眉上げについても調べ、人種差は歴然としていて、右でも左でも、ともかく片方の眉を上げることができる者はアメリカの白人でだいたい半数であるが、中国人、東南アジア人、日本人ではできる者の率が非常に低い。つまり、アジア人はヨーロッパ人より片眉上げがはるかにへたであると結論づけている。
(3)表情豊かなアイヌ
さらに香原は、アイヌについても片眼つぶりができるかどうかを調べ、純アイヌは片眼つぶりがうまいが、和人(本土日本人)との混血が進むほど、へたになることを突きとめた。最近の人類学研究によって、アイヌは縄文人の遺伝的影響が強いことがわかっているので、縄文人はアイヌと同様に片眼つぶりがうまかったことだろう。和人は、北方アジアに由来すると考えられる渡来系弥生人の遺伝的影響が強いので、渡来系弥生人も片眼つぶりがへただったと思われる。
じつは、私が監修したNHKの番組で、眼の大きさと片眼つぶりとの相関を知るために、50人に街頭インタビューテストをしたら、縄文系と思われる二重まぶたで大きな眼を持つ人は片眼つぶりがうまいというかなり明瞭な結果が出た。
(4)生物学的解釈
片眼つぶりがうまいのは、眼をつぶらせる眼輪筋を支配する顔面神経を左右別々に操作できるからである。その巧拙は遺伝的に決まっていて、へたな人が練習してもほとんど上達しないらしい。そもそも顔面神経は、眼輪筋も含まれる顔面筋の上部に関してのみ、左右の脳がそれぞれ両方の顔面筋を動かすようになっているので(「両側性支配」という)、生物学的には眼輪筋を別々に動かせなくても不思議ではない。虫が飛んできて眼に入りそうになったら、また、くしゃみをするときも、反射的に両眼を同時につぶればよいのである。
しかし、世界中の多くの人々が片眼つぶりをうまくできるので、ホモ・サピエンスはもともと片眼つぶりがうまかったと思われる。どうして北東アジア人が片眼つぶりをできなくなったのかは、まったくわからない。偶然の突然変異による可能性が高いと考えられる。
香原はいくつかの家系を調べ、片眉上げが優性遺伝することを突きとめた。なお「優性」とは優性と劣性の遺伝子が対になったら優性の特徴が現れるということで、その意味では「顕性」であり、決して優勢だからその遺伝子が増えるわけではない。ただし、片眉上げのうまい人がたくさん子どもを残すことになれば、その遺伝子が増える。
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そのほか、『 「顔」の進化』では顔の不思議をさまざまな視点から解説している。性別による顔の違いについては、別記事《なぜ女性の鼻は華奢なほうが魅力的で、アメコミヒーローの顎は割れているのか》で詳しく紹介する。
馬場悠男(ばば・ひさお)
人類学者。1945年東京都生まれ。国立科学博物館名誉研究員。1968年東京大学理学部生物学科卒業。獨協医科大学助教授を経て1988年国立科学博物館主任研究官、1996年同人類研究部長および東京大学大学院理学研究科生物科学専攻教授を併任。人類形態進化学を専門とし、ジャワ原人の発掘調査に長年取り組む。国立科学博物館の特別展を数多く企画するほか、NHKスペシャル「地球大進化」「病の起源」「人類誕生」など多くの科学番組を企画・監修。著書は『ホモ・サピエンスはどこから来たか―ヒトの進化と日本人のルーツが見えてきた!』(KAWADE夢新書)、『顔を科学する!―多角度から迫る顔の神秘』(共著=ニュートンプレス)など、監修書は『ビジュアル 顔の大研究』(丸善出版)など多数。