「TOKIOのみなさんがいて、柴犬の北登や八木橋一家(ヤギ)、それにアヒルの村長さん。……昨日のことのように覚えていますよ」
うっすらと涙を浮かべながら目を細めるのは三瓶孝子さん(84)。
《自分たちの村を作って地図に名前を残そう》
そんな目的で2000年からスタートした『ザ!鉄腕!DASH!!』(日本テレビ系)の人気企画、『DASH村』。農業初心者のTOKIOメンバーが地域の人々から農業の教えを請い、昔ながらの方法で田畑を耕し、野菜を作り、家まで造った。農作業に精を出す姿と日本の原風景のような村の様子に多くの視聴者が親しみを覚えた。
だが、村の時間は“あの日”のまま止まっている─。
TOKIOは息子たちみたいだった
2011年3月11日、東日本大震災。震災はDASH村がある福島県浪江町津島地区も襲った。
当時、TOKIOメンバーは月1回程度のペースで村に通っており、震災当日もロケの最中だった。
メンバーにもスタッフにも被害はなかった。だが、混乱を極め、帰京は困難と判断。農業指導をしていた三瓶明雄さん(故人)が中心となり、布団を集めた。そしてTOKIOとともに不安な一夜を過ごしたという。
孝子さんは自宅で被災した。幸いなことに家族は全員無事だった。
翌12日、午後3時。福島第一原子力発電所が水素爆発。放射能は津島地区にも降り注いだ。しかし、国からも県からも放射能が拡散しているという連絡はなかった。そのため、住民らは無用な被ばくを受けることとなったのだ。
津島地区がある浪江町北西側は『計画的警戒区域』に指定され、全戸避難。村から2キロのところに住んでいた孝子さんも自宅を後にした。県内各地を転々とし、現在も福島市で避難生活を続ける。
DASH村でも動物たちや関係者は避難し、みんなバラバラになってしまった。
原子炉の状況や放射線量の調査で安全が確認されたとのことから'17年3月末、同町の一部の避難指示が解除された。だが、津島地区は依然として放射線量が高いため、なおも『帰還困難区域』に指定されている。
DASH村はもともと孝子さんの夫・宝治さん(84)の親類が開墾した土地で、宝治さんが管理していた。
春にはワラビやフキ、秋にはキノコ。ミツバチ、紙すきに必要な楮(コウゾ)も自生していた。自給自足するにはもってこい、番組の趣旨にぴったりな豊かな土地だった。
当時のディレクターが“土地を貸してほしい”と宝治さんに持ちかけたことから企画がスタート。農業指導で出演も頼まれたが当時、浪江町会議員を務めていたことから断った。そのかわり、親戚の明雄さん(前出)や孝子さんらに出演を依頼、縁の下から村を支えた。
「地元の人間が中心となり、農作業なども手伝って村を維持していました。みんな『DASH村の村民』でしたね。特に女性たちはいつも楽しそうに関わってくれました」
長く続けられた秘訣は地域の力もあったのだろう。
「それに年寄りは昔やっていた方法を懐かしみながら若い人に教えるのもうれしかったんです。彼らはよく勉強していたし、熱心で覚えも早かった。米、野菜、お茶、いろいろ作ったね。ひとつになって取り組んでいた」(宝治さん)
孝子さんは“漬物名人”。お母さん的な存在として番組にもたびたび登場していた。ぬか漬け、たくあんなどの作り方を直接教えてきた。
「メンバーは来るといつも“孝子さん! 来たよー!”って、手を振りながら車から降りてきてね。息子たちみたいだったね」(孝子さん)
山口達也の不祥事のあとは城島が謝りにきて
そんな息子のひとりが母の味を求めて、連絡してきたことがあったという。宝治さんが明かす。
「数年前、突然(国分)太一から連絡がきたことがあったんですよ。“孝子さんの梅干しが食べたいな”って」
震災前、宝治さんの畑には2000本の梅の木があった。孝子さんは丹精込めて木を育て、毎年それで自家製の梅干しを作っていた。
「特別においしい梅でした。それに自家栽培のシソをもみ込んで梅干しをたくさん漬けたものです」(孝子さん)
番組内でTOKIOと一緒にも作った思い出の味。その味を国分は覚えていたのだ。実は震災後、『村民たち』のもとにいち早く駆けつけたのもTOKIOだった。
'11年4月、福島市内で避難生活を送る三瓶さん夫妻を心配し、代表して城島茂が訪ねてきた。
「本当にうれしかったね」
孝子さんはそう言って顔をほころばせる。震災から1か月余りの避難生活や不安な日々を涙ながらに吐露した。すると、城島は黙ってそのことばを受け止めていたという。
「城島さんが持ってきてくれた漬物もおいしかったな」(宝治さん)
それは番組のロケで訪れた愛知県の農家が作った自家製守口大根の漬物だった。出演者と住民の関係を超え、DASH村の人々はひとつの家族のようだった。震災後、直接会う回数は減ったが、その交流は続いている。
一方で、住民を悲しませる出来事がいくつも起きた。
'18年4月に発覚した山口達也の女子高生への強制わいせつ事件だ。スキャンダル直後、城島はメンバーを代表して村関係者のもとを訪れ、山口の事件のことを謝罪した。
実は城島は宝治さんにも直接、謝罪をしていたという。
「みんなに謝った後ですね。私ひとりだったところに城島さんが直接来て“申し訳ありませんでした”と頭を下げていました。彼はやっぱりリーダーだと思いましたね。普段はおとなしいですが、何事にも熱心で万能です」
そして別れも─。父親のようにTOKIOを支え、二人三脚ならぬ6人7脚で村を開墾してきた明雄さんは'14年に白血病で亡くなった。村の看板犬の北登も'17年に息を引き取った。
「北登は避難した後も幸せそうに暮らしていたよ。可愛い犬だったね。いつもこうやって抱っこしてね……」
孝子さんはそう言いながら番組から記念に贈られた北登のぬいぐるみを愛おしそうに優しく抱きしめた。
「ほかにも親を亡くし、家族を亡くし……帰れなかった津島の人たちがいます。原発事故がなければそんなことはなかったのに」(宝治さん)
原発事故がなければDASH村を続けていたはず
津島地区の住民は国と東電に対し、原状回復と損害賠償を求めて裁判を起こし、今年7月判決が出る。
「私たちは国策によって故郷を追われた。戦前は満州(今の中国東北部)への開拓。戦後は原発事故……私たちは2度、国に裏切られた。ふるさとに帰れないまま生涯を終えなければいけないのか……」
悔しい思いを打ち明ける宝治さんはさらに続ける。
「TOKIOだって原発事故がなければDASH村を続けていたはずだ。村で農業をしていれば山口さんも悪いことはせず、バラバラにはならなかったと思う。彼らも原発事故の被害者です」
現在の村の状況を尋ねると、
「番組との土地の契約は続いています。ですが、そろそろ、今後のことも話し合わなければいけない」(宝治さん)
三瓶さん夫妻らは一時立ち入りが緩和されると村を訪れ草刈りをし、壊れたところを修復してきた。いつ彼らが帰ってきてもいいように管理を続けている。だが、年月とともに建物の老朽化も進んでいるのも現実だ。さらに、
「心ない人が敷地に侵入し、荒らしたり、焚き火をしたり。廃車まで残していきました……」(同・前)
村民の帰りを待ちわびるDASH村。実は宝治さんには考えていることがある。
「DASH村を地域の復興の拠点にしたい。TOKIOのみなさんが本気で福島の復興を考えてくれているのなら、あの土地を無償で譲ってもいいと私は思っているんだ」
宝治さんを支えたのは彼らからの福島復興メッセージだった。そのひとつ、'15年に松岡昌宏が福島県を応援するCM発表会でこう語っていた。
《僕らTOKIOは福島のみなさんと一緒に頑張っていきたいと思っています》
その固い決意はつらい避難生活の中で見えた光だった。
「村が復興のシンボルとなり、地域の農業や農家の暮らしなどを次の世代へとつなげる場所になればいいと思っているんです」
津島の暮らしをいちばん近くで学んできた彼らは適任だ。
「目指すは『北の国から』(フジテレビ系)のロケ地として盛り上がった北海道の富良野かな」と宝治さんは笑う。
「DASH村があるから浪江町に来た。そんな場所になってほしいと思ってるんです。次の代へとかわっても津島地区の復興を私たちは願っています」孝子さんも語る。
「TOKIOのみなさんとの時間も思い出もみんなかけがえのない財産です。今もDASH村のことを夢で見ますよ」
今年3月末、長瀬智也はジャニーズ事務所を退所、TOKIOは『株式会社TOKIO』に変わる予定だ。
彼らがもう1度、村に帰って来るその日を待ち望みながら、村民たちはDASH村をこれからも守り続ける。