かつて世間の注目を集めた有名人に「あのとき、何を思っていたのか?」を語ってもらうインタビュー連載。当事者だから見えた景色、聞こえた声、当時は言えなかった本音とは? 第22回は芸名をめぐって世の中をにぎわせた、坂本一生(49)。芸能界について何も知らない青年を巻き込んだあの騒動の真相は──。
“加勢大周・新加勢大周”騒動の始まり
「なんで芸能界なんかに入っちゃったんだろう。僕は野球選手になりたかったのに」
'93年、“新加勢大周”の名でデビューするや一躍、時の人となった坂本一生。
「体力だけは自信があって。日本に戻っても、特にやることは決まっていないから、とりあえずプロ野球のトライアウトでも受けてみるか」
意気揚々と留学先のオーストラリアから帰国した22歳の青年は、降り立った成田国際空港で人生が一変する。
妙に自信満々な姿が印象的だったからか、たまたま空港に居合わせた芸能事務所インターフェイスプロジェクトのマネージャーの目にとまり、その場でスカウトされる。芸能史に残る珍事件“加勢大周・新加勢大周”騒動の始まりである。
「今だったら、海外にいても日本の情報をネットで知ることができるけど、当時はそんなことできません。事務所と加勢さんのトラブルはもちろん、加勢さんという存在も知りませんでした」
坂本がオーストラリアに留学している2年の間に、加勢大周は織田裕二や吉田栄作とともに、“トレンディー御三家”と呼ばれる人気俳優へと駆け上がっていた。
しかし、'91年、加勢は所属していたインターフェイスプロジェクトに不信感を抱き、契約解除を申し入れるや、法廷闘争へと発展。
2年後、事務所側が敗訴し、加勢はそのまま芸能活動を続けられることになった。だが事務所側もただでは転ばなかった。スカウトしたばかりの坂本を事務所に呼び出し、
「新加勢大周の名前でデビューさせるから」
と告げたのだ。
「彼の活躍を知っていたら、おこがましくて新加勢大周なんて名前でデビューしてないですよ!(笑)“あっちは白のTシャツだから、お前は黒のタンクトップでいく”とだけ言われて、なすがまま。あとはノープランです」
新加勢大周という名前と黒のタンクトップ以外に何も決まっていないまま、メディア関係者200人以上が集まる記者会見に臨んだ坂本は、
「とにかく丁寧語を心がけた」という。そうして生まれたのが、記者から「(この騒動について)何かご存じですか?」と聞かれ、『ご存じです』と返答した伝説の記者会見だった。
「ものすごい数のフラッシュがたかれて。自分がとんでもない犯罪を起こしたんじゃないのかと錯覚した」
と笑いながら振り返る。
それにしてもプロ野球志望から一転、なぜ関心のなかった芸能界に入ることを決めたのか?
「契約書を出されると書いちゃうんだよね。バカなんだろうね」
と、まっすぐな目で答える。
「今はもう大丈夫。でも、昔からニンジンをぶら下げられると、何も考えずに突き進んでしまうところがあって。“もうちょっと疑えよ!”って自分でも思う。だから、いろいろと巻き込まれるんだろうね」
当時ワイドショーを席巻した騒動は、その後、事務所が加勢大周の名を“本家”の加勢にプレゼントすると公言し収束。“新加勢大周”は坂本龍馬にちなんで、坂本一生として再スタートを切る。
実は、彼が新加勢大周と名乗っていた期間は、たった20日間にすぎない。だが、その宣伝効果は絶大だった。
「デビューから名前と顔が知れ渡るまで、僕は芸能界史上最速最短だと思う。名前と顔を覚えてもらうのに、何年もかかる人がたくさんいるのが芸能界。当時は、たった20日で改名するなら、最初から坂本一生でやらせてくれよと思ってましたよ。だって、登場のたびに“新加勢大周あらため坂本一生さんです!”って紹介されるんだよ。火つけ盗賊あらため長谷川平蔵じゃないんだから。でも、いま思うと新加勢大周は、見事なブランディングだったんだなって思いますね」
その言葉どおり、坂本はデビューからわずか1か月で休みなく働くまでの人気者になったのだ。
過酷な芸能生活、
ギャラ未払いや夜逃げも
瞬く間に売れっ子の仲間入りを果たすも、
「同業者のやっかみもすごかった。弱小事務所だから先輩も後輩もいない。相談できる人もいなくて孤独でしたね」
さらには、加勢大周ファンからの嫌がらせもあったという。
「雑誌の撮影をしていると、道路の向こう側から、女性にコーラの缶を投げつけられて、足元で破裂したり。あるときは事務所の入り口に、犬のフンとは違う……どう見ても人糞が置かれていたこともあった。マネージャーがそれを片づける姿を見て、とんでもない世界に足を踏み入れてしまったと思いましたね」
テレビ出演だけでなく、イベント出演も多数こなしていた坂本は、厳冬期の屋外でも黒のタンクトップでハッスルし続けた。寒すぎて死ぬかと思った、と本音を明かすが、
「女性からモテていたことだけが、唯一の救い。たくさん失敗もしたけど」
と、ジェットコースターのような芸能生活を楽しんでいたという。だが、本当の絶叫はこれからだった。
「デビューして1年くらいたった夜、ものすごい勢いで自宅のドアを叩く音がして。“いるのはわかってんだぞ! 出てこい!”と怒鳴り散らす取り立て屋でした」
当時、事務所から家賃50万円の白金台のマンションを与えられていたという坂本だったが、
「半年以上、家賃が支払われていないと。社長がいないことを伝え、いったんお引き取りしてもらい、すぐに夜逃げの準備をしました。最低限の生活必需品とダンベルを抱えて、実家がある千葉に帰りました」
その予兆は、坂本自身も感じていた。
「半年以上たっても、給料らしいものをもらっていなかったんです。でも、芸能界のしきたりがよくわからないことに加え、衣食住は事務所持ちだったため生活に困ることもなかった。あのときは“こういうもんなのかな”って」
地方イベントに出演した際などは、その場でギャラをもらうことも珍しくない。
「それももらっていない。美味しいご飯とキャバクラに連れて行ってくれたから」
しかし、その代金は本来、自分に支払われるものだったのでは?
「言われてみれば……俺がおごっていたようなもんじゃん!(笑) なんでギャラをもらっていなかったんだろ」
夜逃げ後、事務所について情報収集をしてみると、加勢大周との裁判費用で事務所は火の車だったことが判明。支払われるべきギャラは、すべて事務所の借金返済に回されていたという。新加勢大周あらため坂本一生は、事務所が抱えた巨額の負債を効率よく返済するために生み出された“神輿”だったのだ。
「いつも黒のタンクトップとジーパンだから衣装代もかからない。芸能界に対して無知だから扱いやすく、所属タレントも自分ひとりだけで、相談できる仲間もいない。まるで奴隷商売(笑)。自分で言うのもなんだけど、僕じゃなかったらもっと早い段階で大問題になっていたと思いますよ」
事務所を転々とした後、ホスト、探偵、便利屋などさまざまな職業を経験。
「ボロ雑巾になりながら、その都度、自分できれいに修繕して生き延びている」
と笑う。現在は故郷の千葉県八千代市で『SISパーソナルジム』を運営。
「あの騒動で結果的に名前が知れ渡ったことで、パーソナルジムにお客さんが来てくれるケースもある。一夜にして何百万も稼ぐ世界も知ってるし、1日で1万円を稼ぐことの大変さも知っていることは、今とても役に立っていると思います。
芸能界って、やめるやめないが通用する世界じゃない。1度認知されたら、ずっと背負っていかなければいけない。後ろ指をさされながら一般社会で働くのは大変。死にものぐるいでやらないと」
彼の言葉には、とんでもない説得力がある。
最後に、新加勢大周としてデビューしたことを問うと、
「ケースバイケースとしか言いようがないですね。昔は芸能界の道に入ったことを恨んで、自殺も考えました。青木ヶ原樹海まで車を飛ばしたのですが、道に迷って樹海の入り口といわれていた駐車場にたどり着くことができず……。
ぐるぐるしているうちに、“何しに来たんだっけ?”ってバカらしくなって帰ってきましたけど(笑)。今では笑い話になって、パーソナルジムを運営できている。人生は山あり谷あり。いま振り返ると前向きに考えられるかな」
(取材・文/我妻アヅ子)