墓所は復興途上の街並みを見渡せる高台にあった。岩手県大槌町の水産関連会社に勤務する千葉孝幸さん(55)と長男・雄貴さん(21)は、慣れた足取りで家族が眠るお墓の前に立ち、静かに手を合わせた。
孝幸さんの妻・峰子さん(当時32)は行方不明のまま。二男・一世くん(同1歳5か月)、父・兼司さん(同75)、母・チヤさん(同73)は遺体で見つかった。自宅にいた4人で車に乗って避難中、津波に襲われたとみられる。
孝幸さんは言う。
「震災から10年、こうしてふたりとも生きているってことが幸せなのかなと思う。生きたくても生きられなかった人が大勢いるんだもん」
賑やかな6人家族は、あの日を境に父子ふたり暮らしとなった。翌年、底冷えのする真冬の夜の仮設住宅で初めて取材させてもらった。まだ小学6年生だった雄貴さんは大人びていて「どうぞ」と缶コーヒーを差し出してくれ、孝幸さんは、あの日のことや生前の家族について話すたびに泣いた。質問した私は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
今年も孝幸さんは同じことを言った。
「雄貴には食べ物でも何でも、できるだけ震災前と同じような環境にしてあげたくて」
そして、今年は続きがあった。
「いまの雄貴はオレにとっては安心なのさ。何かあれば相談してくれるのでアドバイスもできる。頑張っているのがわかるから」
弁当にイクラを敷き詰めたことも
雄貴さんは地元の高校を卒業後、進学のため東京へ。一時離ればなれになったが、昨年、地元の塗装会社に就職した。
個人宅や工場などの建築物、船舶などの建造物に塗装を施す仕事。朝早いときは午前6時過ぎに自宅を出る。
雄貴さんは言う。
「朝はすごく眠いです。キツいので極力早く寝るようにしています。生活のペースが乱れるから休日も昼過ぎまで寝ていることはありません」
孝幸さんは早く起きて朝食を準備する。雄貴さんが氷点下の現場で働いてきた日は、エビやホタテを入れた豪華なキムチ鍋をつくった。水産関係の仕事柄、海の幸をぜいたくに使った男メシはお手のもの。雄貴さんが中学生のころ、持たせる弁当にイクラをびっしり敷き詰めたこともある。
孝幸さんはそんな10年を振り返り、
「親のありがたみがよくわかった。自分も雄貴と同じ年のころ、母親が同じようなことをしてくれたなって。寒い日にあったかいものを食べさせてくれたり、朝早く出かけるときは父親がリンゴをむいてくれたり。本当はもっと早くわかればよかったんだろうけど」
と亡き両親への感謝を口にする。
向こうでは4人で楽しくいるんだって
お墓の脇には杖(つえ)とサンダルが2足ずつ供えられていた。数年前、親戚が青森・恐山のイタコに口寄せしてもらったとき、歩くのにたいへんだから杖と履き物が欲しい、と孝幸さんの両親が言ったからだという。
「震災直後の葬送で、白装束に足袋をはかせてワラジをはかせて杖を持たせて、っていうのが何もできなかったから。そのことかなって。それと、うちの奥さんは行方不明でしょ。だけど、向こうでは4人で一緒に楽しくいるんだって。よかった〜と思う反面、心の中では“なんだよ、楽しくいんのかよ。こっちはたいへんだぜ”って。まあ半分冗談だけど」と孝幸さん。
雄貴さんは職場の人にも恵まれ、この仕事を続けていきたいと考えている。手がけた仕事について聞くうち、雄貴さんが塗装したものを見たいと思った。
「あっ、たぶんここから見えると思います。鉄骨などに塗装したんですけど、急ぎながらも丁寧に、どうにかムラを出さず仕上げられました。ほら、そこの工場現場があるじゃないですか。その隣の……」
雄貴さんの仕事ぶりに安心しているのは孝幸さんだけではないだろう。それは家族が眠るお墓から見える場所にあった。
◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)
〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する