スポーツマンで精悍(せいかん)な顔立ちの宏規さん(村上さん提供)

 自宅の仏壇に朝ごはんを供える。きょうの献立はいもの天ぷら、ほうれん草のおひたし、豚汁、ごはん。線香を焚き、手を合わせ、顔をあげて写真の宏規さんを見つめる。

 宮城県気仙沼市の村上勝正さん(71)・和子さん(68)夫妻の日課だ。夜ごはんの時間になるとまた取り替える。あの日までここで3人で暮らしていた。

「朝はお茶がわりに牛乳を飲んでいた。だから牛乳も供えるんです」

 と勝正さんは言う。

 同居していた長男・宏規さん(当時33)は学校の事務職。地元の気仙沼西高校を卒業後、県内の気仙沼、石巻、名取各市の小・中学、高校を渡り歩き、震災当時は学校現場を離れて県南三陸教育事務所の主査で災害担当をしていた。

 宏規さんは自宅ではほとんど仕事の話をせず、両親は事務所職員らと高台に避難したものと思っていたが、実際には海に近い南三陸防災対策庁舎に駆けつけ、避難した屋上で津波に巻き込まれたとみられる。行方不明のまま半年が過ぎ、葬式をあげた。宏規さんの骨壺(こつつぼ)は今も仏壇にある。

「骨っこ見つかったら入れようと。でも全然見つからず10年たってしまった。妻と話しているんです。どちらかが先に亡くなったとき、宏規と一緒にお墓に納骨してもらおうって」

 骨壺には、宏規さんにあてた両親からの手紙などが入っている。

 宏規さんが最後に目撃された南三陸防災対策庁舎にも夫婦で足を運んできた。

「月に2回。新しい道路ができたけれども、宏規が職場に通った道を行くんです。花と洋菓子と缶コーヒーを持って」(勝正さん)

あんなにおとなしい子が──

 3000グラムに満たない小さな赤ちゃんだった。心が広く、規律ある人に育つように「宏規」と命名。おとなしい性格で反抗期もなかった。

「正義感の強い子でした」と和子さんが振り返る。

「小学校高学年のころ、クラスに給食を食べられない男の子がいたらしいんです。一部のクラスメートが“食べてみろよ”などと囃(はや)し立てていたところ、宏規が“いずれ大人になれば食べられるようになるんだから、そういうことを言うな”と守ったそうです。あとで先生から聞かされて知ったことですが、あんなにおとなしい子が、ってうれしかったです」

 足が速く、中学・高校と陸上部で主に400メートル走の選手だった。高校では引退試合が終わっても部に顔を出し、学校の事務員になってからも生徒と一緒に走って指導していたという。

「スポーツは何でも好きで、オリンピック中継によくかじりついていました。たぶん東京五輪では聖火ランナーを走りたがったでしょうね」と勝正さん。

 唯一、苦手なのが水泳だった。

「なぜか宏規は泳げず、小学生のころ、プールで泳ぎを見たときはいかにも溺れそうで“もうやめて、もういいから”と、かわいそうで見ていられませんでした」(和子さん)

 震災当日、南三陸防災対策庁舎に駆けつけた宏規さんは、

「県から来た村上です。遅くなってすいませんでした」

 と挨拶したという。

ケーキは仏壇に半分、和子さんが半分

長男・宏規さんのエピソードを話すと笑みがこぼれて(撮影/渡辺高嗣)

 和子さんの手料理で好きだったのはコロッケ、ポテトサラダ、麻婆豆腐。ケーキにも目がなかった。

 同庁舎に通って10年。ケーキや缶コーヒーなどのお供えものは鳥などに荒らされるので持ち帰らなければならない。ケーキは仏壇に半分、和子さんが半分。「私もケーキが好きなのでいつも半分こ、なんです」と和子さんは言う。

 勝正さんが、

「頭では完全に亡くなっているとわかる。しかし、心の底では、どこからかフッと帰ってくるんでねえかな、と思う」

 と言うと、

「だから片づけられないんですよね。もし、帰ってきたときに何もかもなくなっていたらかわいそうだから」

 と和子さんがつけ加える。

 取材の終わりに宏規さんの部屋を見せてもらった。壁には陸上部のユニホーム、大会出場時のパネル写真、色褪(あ)せたアイドルのポスター。その部屋は10年帰っていないとは思えないほどきれいに掃除されていた。

◎取材・文/渡辺高嗣(フリージャーナリスト)

〈PROFILE〉法曹界の専門紙『法律新聞』記者を経て、夕刊紙『内外タイムス』報道部で事件、政治、行政、流行などを取材。2010年2月より『週刊女性』で社会分野担当記者として取材・執筆する