3月11日で東日本大震災から10年。震災直後から被災地に入り、取材を重ねてきたジャーナリストの渋井哲也氏が、現地からリポートする。第一弾は宮城県栗原市の通大寺の金田帝應住職による、人と人のつながり、復興支援のお話です。
内陸部で岩手県境にある宮城県栗原市の通大寺(曹洞宗)。金田帝應住職は、東日本大震災の避難所や仮設住宅などで、移動傾聴喫茶『カフェ・デ・モンク』を開いてきた。「モンク」は仏教用語で「僧侶」だが、「文句」を言いながら、カフェで過ごすことをかけ合わせた言葉でもある。
お互いが“武装解除”をした
筆者が金田住職の活動を知ったのは、震災から間もなくだった。仙台市内のカフェを借りて傾聴活動をしていたが、当時の南三陸町は瓦礫の山。避難所がなくなると、『カフェ・デ・モンク』は仮設住宅で傾聴活動をし、年越しそばを振る舞ったこともあった。
お寺でインタビューをしていると、電話が鳴った。
「10年前、最初の活動で知り合った人からでした。『あのときは、ありがとうございました』って。3回くらいしかその場所には行っていませんが、ちゃんと覚えていてくれたんだと思いました。自分のしていたことが間違っていなかったんだな。震災直後は、火葬場でボランティアをし、死者の供養をしていました。しかし、4月28日の四十九日を過ぎ、“死者の供養はもう終わり”と思い、今度は被災者に目を向けたんです」
金田住職は『カフェ・デ・モンク』で、手作りのケーキを持ってくる。ほかの宗派のお坊さんやキリスト教徒も巻き込む“超宗派”で、被災者たちの話を聞いていた。
「当初、宗教者は立場の違いを超えていました。自ずと、お互いが“武装解除”をしたんです。1、2年は、宗教者として震災や被災者との向き合い方を真剣に考えました。そこに『教団』はありませんでした。あれが本当の宗教協力だったと思います。焚き火をしながら話し合い、焼きイモを焼きはじめ、被災者みんなに配りました。これが原点だなと」
『カフェ・デ・モンク』などで関わったのは、石巻市や南三陸町が中心だった。
「岩手県にも、福島県にも行ったんです。でも活動しやすかったのは、北上川や志津川、追波川の流域です。なぜなら、言葉も文化も理解できるからです。私たちは、川上に住んでいます。震災時に助けるのが礼儀です」
例えば、石巻市では仮設住宅の抽選では「弱者優先」だったため、抽選にもれた人たちとは対面で繋がりを持ち、孤立を防いだ。お年寄りの女性が利用することが多かったが、何度も顔を出してくれたある若い男性がいた。彼には、「コーヒー飲んで行けよ」「家族は大丈夫だったか?」「仮設での生活はどうだ?」などと話しかけていた。
「実はこの男性は、津波で家族をなくしていたのです。しばらく通ってくれていたのですが、恋人ができてあるとき旅行に出かけたんです。でもその旅行中に、病気で亡くなってしまいました。10年活動を続けていると、美談だけでは終われません」
夜になると霊を感じで怖い
1年が過ぎた2012年3月11日。この日から住職は、手作りで地蔵を作りはじめた。それは亡くなった人の供養でもあった。
「最初は自分の供養をするためでもありました。そのことが知られると、いろんな人から被災地のために、と地蔵が送られてくるようになったんです。これは、グリーフワーク(人との離別時に受ける悲しみと立ち直りのプロセス)になるんだな、と思いました。地蔵が欲しいという人もおり、送ったりもしました。自分だけで作りきれないので、みんなで作ろうとなったんです」
しばらくすると、幽霊を見たと言ってくる人もいた。
「特に復興に携わる人が多かったですね。石巻市の海岸で、夜になると霊的なものを感じ、『怖い』と言っていた人がいました。もちろん、実際にいるかどうかはわかりません。いずれにせよ、『それがその人の苦しみだから、供養をすることが必要だ』とアドバイスをしました。震災をきっかけに、普段見えないものを見えるようになった人は多かったですね」
東日本大震災では1万5899人が死亡、2529人が行方不明となった。いまだに遺体が見つからず、「曖昧な死」を感じざるを得ない人も多い。
「ご家族がまだ見つからない、ある高齢の女性に数珠を作りました。そうすると、『海の底には穴があって、お父さんはそこから上がってこれない』というのです。死を受け入れるプロセスは、例えば、位牌を作ったり、宗教的、習俗的なことをすることで進みます。あるとき、『お墓を作ってみたい』と言うのです。死を受け入れ始めたと思うとうれしくなりました」
別の女性は、死を受け入れる中で、遺体が見つかった。
「夫と子ども二人の遺体が見つかっていなかったんですが、市役所に行って、死亡届にハンコを押すことを決めたようです。でも『私、子どもを殺してないですか?』『遠くの島でいい人が拾い上げて育てているかもしれない。それなのに、ハンコを押してしまった』というのです。でも、1年後、明るい声で電話がありました。『骨のかけらが見つかりました。二人の子どもの骨です。やっと家族が揃いました』と教えてくれました」
また、死者が自分に憑依をすると訴えてきた女性もいた。「死にたい」と訴えてきたので話を聞いてみると、水に関する事故で亡くなった人が憑依しやすいというのだ。例えば、子どもを迎えに行く途中で津波にのまれて亡くなったという父親の霊、子どもを二人亡くして、自殺をした父親の霊、亡くなったことがわかっていない4歳の男の子の霊……。
「危機的な状況が起こると心の状態は敏感になり、また感度も高くなります。起こったことにどう向き合うか。そこに心理学をあてはめようとしても仕方ありません。物語を聞き取り、その中で解決の糸口を見つけていくしかありませんでした。メカニズムはわかりませんし、例えわかったとしても、それが即、解決には導かれるとは限りません。そんなことがあるの?と科学者は言います。憑依を訴える女性が『私は精神病ですか?』と聞いてきましたが、『精神病にはしないからら大丈夫だよ』と言いました。憑依をどう科学的に解釈するのか、ではないのです」
原発問題が収束しない限り、復興ではない
金田住職が、地域の社会的活動を意識しはじめたのは震災前からだった。それは、栗原市の自殺率が高かったためだ。人口10万人あたりの自殺死亡率は05年の48.6をピークに増減はするものの、震災前の10年には40.3と、国(23.4)や宮城県(22.8)よりも高い数を示していた。
「社会派のお坊さんとして、宗教が社会を変えていくことに興味がありました。でも、自殺死亡率の高さはショックでした。社会の歪みを強烈に考えました。震災から10年ですが、出発は自殺の問題だったんです。自殺が多い社会が放置されたまま、震災を迎えたんです」
震災から3年目。金田住職は気分が沈み、うつ状態になったという。被災者への支援にエネルギーを費やしすぎたのだろうか。
「自分の限界を知りつつやっていたわけではなかったのでしょうね。3年目になると、被災地の中でも、復旧・復興への差が出てきていました。そのため、見えないストレスがかかっていたのです。自殺防止のネットワークとしても24時間対応をしていました。後を振り返らずに突っ走っていました。そんなときにネットワークの仲間から、『やっと私たちの仲間になったね』と言われたんです。先駆的な活動をしている人たちは同じような思いをしていたのです。そのため、肩から力が抜けたのです。そういうプロセスを経て、第2のブースターに火がついたのです」
東日本大震災における復興について、どう考えているのだろうか。
「孤立、孤独、自殺。私たちの活動の原点は自殺の問題です。訴えることも、叫ぶこともできない人たちが、年間3万人もいました。心の復興は常に進行形であり、プロセスです。10年経ったなりにいろんな問題が残っています。復興住宅でも、孤独や分断の問題があります。避難所や仮設住宅と違って、住民のつながりが見えにくいのです。復興住宅ができたので、支援は『もういいだろう』と思っていたんですが、『もっと続けて』と言われました。孤独死の問題があるためです。そのため、復興住宅まわりをすることになったんです。それに、原発問題が収束しない限り、復興ではありません」
父親も、過去の津波では、沿岸部の支援活動をしていたという住職。内陸部の住職が津波被災にあった地域を支援するのは、「DNAに組み込まれている」(金田住職)のかもしれない。そんな金田住職は、震災10年を機に『東日本大震災 3.11生と死のはざまで』(春秋社、1980円税込)を出版した。
取材・文/渋井哲也(しぶい・てつや)◎ジャーナリスト。長野日報を経てフリー。東日本大震災以後、被災地で継続して取材を重ねている。『ルポ 平成ネット犯罪』(筑摩書房)ほか著書多数。