ひとり息子がいる小野広報官

「周りからは“ヒッコちゃん”と呼ばれていました。学業で優れていただけでなく感性豊かで優しく、友人からはとても慕われていました」

 新たに就任した小野日子(ひかりこ)内閣広報官(55)の小学校時代の担任は、誇らしげに回想する──。

突如辞職した山田真貴子氏の後任に抜擢

「飲み会を断らない女」。そう豪語してきた山田真貴子・前内閣広報官が、高額接待を受けて辞職した。

山田氏は2020年9月、菅義偉内閣のもとで女性初の内閣広報官に就任しました。

 ところが今年2月、総務省時代の2019年に利害関係者の放送事業会社から高額の接待を受けていた事実が発覚。幹部である菅総理の長男、正剛氏などから7万4千円の飲食代をおごってもらっていたんです」(全国紙政治部記者)

 和牛ステーキや海鮮料理など高級料理をごちそうになりながら、発覚直後は「相手が誰か認識していなかった」と信じがたい言い訳をしていた。

 山田氏は女性として初めて内閣総理大臣秘書官や総務審議官などのポストに就くなど、出世街道を駆け上ってきた。

 昨年、若者に向けたメッセージ動画では、「イベントやプロジェクトに誘われたら絶対に断らない。飲み会も断らない。出会うチャンスを愚直に広げてほしい」と呼びかけていたが、断るべき場面でもそのマインドは健在だった。

 当初は辞意を否定していたが批判はやまず、3月1日に「体調不良」という唐突な理由で辞職が発表された。

 後任人事に国民の厳しい視線が注がれる中、抜擢されたのが、外務省外務副報道官だった小野新広報官だ。山田氏に続き、再び女性が選ばれた。

 外務省時代はというと、

「入省は1988年で、官邸国際広報室長や東南アジア諸国連合日本政府代表次席公使などを歴任しました。

 1993年に同期の男性と結婚した後、アメリカ赴任中の2003年には妊娠・出産をしており、育児休暇も取得したそう」(前出・記者)

飲み会を「断る」女

 出産を経験した外交官は史上5人目で、苦難も多かった。過去にWEBメディアの取材で小野広報官は「出産後に復帰すると“本当に君たちみたいな人の置き場には困る”と言われた」と打ち明けている。

 いちばんつらかったことについては、「独身女性のように夜中とか土日も働けて、幹部に誘われたときにはちゃんと飲み会にも行ける人じゃないとダメだ」と上司から何度も言われたことを挙げている。

「断らない」ことで出世の道を歩んできた山田氏とは真逆に、小野広報官は「断る」ことで育児と仕事を両立させ、キャリアを積み上げてきた。

入省翌年の1989年、雑誌『時評』で奮闘ぶりが取り上げられた

 そんな彼女のルーツとは。冒頭の小学校の担任、千葉恵子さん(76)が語る。

「ヒッコちゃんはとにかく頭がよくて、日能研の全国テストで日本一になったことも。

 自分から前に出るタイプではないけど、しっかりクラスのことを考えていて、縁の下の力持ちでした。 

 当時、新米教師だった私は彼女を頼りにしていましたし、友達も勉強でわからないことがあると彼女に聞きに行っていましたね」

外務省の先輩・雅子さまとは今も交流

 地元の小学校を卒業した後、私立の女子学院中学校・高等学校に入学。中学時代には「第24回青少年読書感想文全国コンクール」で内閣総理大臣賞を受賞したこともある。

 一橋大学時代には「平和に貢献したい」という思いから外交官になることを決意した。

 外務省の1年先輩には、後に現在の天皇陛下と結婚された小和田雅子さんがおり、イギリス研修で留学したオックスフォード大学時代には一緒にスキーや温泉旅行へ行くなど、親交を深めたという。

外務省時代の雅子さま(1988年)

 今でも雅子さまとの交流があるという小野広報官だが、実は入省前から皇室との“意外な”接点があったようだ。

美智子さまとのお茶会に招かれる

「日子ちゃんとは入省前の1988年、一緒に上皇ご夫妻(当時は皇太子ご夫妻)とお住まいでお茶をしたことがあります」

 そう語るのは、児童文学作家​で、幼少時の戦時体験を綴った『ガラスのうさぎ』の著者、高木敏子さん(88)だ。

 この『ガラスのうさぎ』は、小野広報官が中学時代に読書感想文で総理大臣賞を受賞したときの課題図書だった。

「賞をとられてから、彼女とは40年来の仲なんです」

1982年、読書コンクール授賞式での美智子さま

 どういういきさつで、招かれたのか。

「幼いころ、秋篠宮さまは図鑑を眺めてばかりで文学作品はあまり読まれなかったそう。

 それが、中学生のときに『ガラスのうさぎ』を読んだところ、珍しく2日で読み終えた。それがきっかけで秋篠宮さまは文学に親しむようになったそうです。秋篠宮さまは上皇ご夫妻にもすすめられたそうで、そのご縁で東宮御所に招かれました」

 2度目の面会となったのが、昭和天皇が崩御する前年である1988年3月のこと。

「ちょうど上皇ご夫妻に会う前日、外交官試験に合格したばかりの日子ちゃんから“会いたい”と電話がきたんです。

 それで、“外務省に入るので、今後、何かとおふたりのお手伝いをできるかもしれませんよ”と宮内庁に了承を得て、一緒に行くことになりました

 小野広報官は上皇后美智子さまとどんな会話をしたのか。

「美智子さまが聖心女子大学、日子ちゃんが女子学院と2人ともキリスト教系の学校を出ているので、そういった共通の話題や文学についてお話をしましたね」(高木さん)

 1時間ほどの歓談だったが、小野広報官はかなり緊張した様子だったという。

 3月5日には就任後の“デビュー戦”となる総理記者会見を仕切った小野広報官。緊急事態宣言の延長を発表する重要な内容だったが、70分間、そつなく進行を務めた。

 小野広報官のように「断っても」仕事で評価され、道が拓かれる社会になってほしい。