約1800世帯が壊滅した福島県南相馬市。防波堤が決壊した小高町は集落がまるごとなくなっていた(2011年3月12日)

 東日本大震災から10年。地震発生直後、『週刊女性』の記者とカメラマンは、すぐに現場へと向かった。

 混乱する現場では、いったい何が起きていたのか。「記者が実際に見て、聞いて、肌で感じたこと」。週刊女性2011年4月5日号に掲載され、反響を呼んだ『被災地ルポ』と、編集部に保管されていた大量の写真の中から一部を公開する。

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北上していく取材班
茨城、そして福島、宮城へ

 東日本大震災から17時間後の3月12日朝8時。記者とカメラマンは茨城県・大洗町に到着した。地震直後、大洗沖では不気味な渦巻きがボートをのみ込み、町役場は1階部分すべてが海水に浸かってしまうほどの被害を受けたこの地域。

地震直後に渦巻きが発生した茨城県の大洗港は、何隻もの船がひっくり返り、壮絶さを物語る(2011年3月12日)

 港に降り立つと、鼻をつく汚泥のニオイ。これから行く先々で、同じニオイを嗅ぎ続けることになるのだが…。そこには、数えきれないほどの船とトラックがひっくり返っていた。

 まだ大津波警報が発令中にもかかわらず、港には漁師たちが集まっていた。

「水位が上がってきたと思ってからは、あっという間だったよ。家は流されたし、船も流された……。必死に坂を上がって助かったけど、損害は数千万円だし、これからどうすればいいんだか……」(60代の漁師)

 大洗町のライフラインは、すべてがストップ。300人が避難生活をしている大洗小学校は、すし詰め状態。ベッドがわりに運動用のマットを敷き、毛布1枚で寒さに耐えながら避難所生活を送っていた。中には、カセットコンロで沸かしたお湯で子どものミルクを必死に作る女性の姿も。食料の配給や復旧がいつになるか情報が入ってこないことも、被災者には精神的にツラいようだった。

 大洗町から50キロ離れ、建物損害が多く見られた茨城県・日立市。車の上には瓦や電柱などが倒れて、ガラスも全部割れていた。

 お好み焼き店のオーナーは、両隣の家が全壊。そのときの恐怖をこう話す。

「車の中にいたんですが、ずっとハンドルを握りしめていましたよ。そこから降りたら、家が倒れてきて……。あのまま車にいたら危なかった。店のことは、まだ考えられない」

 まさに九死に一生だった。

 東北自動車道が封鎖されているため、一般道をひた走り、午後2時、“原発エリア”である福島県双葉町に入る。

福島県双葉町を南北に走る常盤線の線路がグニャリと曲がり、記者が進む国道に崩れ落ちていた(2011年3月12日)

「避難してください!」

 警察車両の呼びかけがあり、自衛隊の大型車両と、避難する乗用車とすれちがい、我々は“進入禁止”区域に突入する。そこは、道路と立体交差する常磐線の線路がグニャリと曲がり、民家は屋根が崩れ落ち、陥没した道路にタイヤを取られて動けなくなったトラックが取り残されていた。

 私たちは、そんな大地震と津波の爪痕を横目に国道6号線の北上を続けた。

7メートルの津波に襲われた街には…

福島県南相馬市、地元の消防士は「まだ遺体が残ってるけど、探し出すのは簡単じゃない」(2011年3月12日)

 午後3時、福島県南相馬市に入る。海岸沿いの1800世帯が流され、壊滅的なダメージを受けた街だ。あったはずの集落は跡形もない。地元消防団員は、

「まだ遺体が残っているけど、一面に広がる海水と木屑の干潟から、捜し出すのは簡単じゃない」

 と、ため息混じりに話した。ここに住んでいた40代トラック運転手は、

住宅や防風林があって海は見えなかったのに、一瞬にして景色が変わっちまった。そこらじゅうに遺体がまだ沈んでいる。

 地震が起きたとき、俺はトラックを運転中だったんだけど、対向車が道の上でポンポン跳ねてるのよ。しばらくしたら海のほうに白いシブキが見えて。それが津波で、次第に近づくから急いで陸地に逃げたんだよ」

 そう話し、避難所に戻って行ったのを見届けると、今度は男性3人組が海の方へ力なく無言で歩いていた。

「大津波警報が出てるぞー! 海には近づくなぁー!」

 作業服姿で重機を操縦する男性が、3人組に声をかけるが、全くふり向こうとせずに、黙々と海に向かう。まさに茫然自失。自らの住まいがあったであろう場所に佇み、何かを探しているようだった。

「防波堤があったんだけど、意味がなかったみたい。防波堤ごと、(津波)が持ってっちゃったんだ」(作業服の男性)

若い夫婦と2人の子どもが笑顔で写った年賀状の送り主は静岡県、あて先は小高町だった(福島県相馬市、2011年3月12日)

 畳、自転車、ホース、テレビ……。瓦礫の中に、わずかながら、地震前の生活の様子を垣間見ることができた。

<あけましておめでとうございます。今年もよろしく。GWに家族でディズニーシーへ行きました>

 家族4人が笑顔を浮かべた年賀状が埋まっていた。受け取り主は、どこかに避難できたのだろうか……。

 午後4時30分、南相馬市の避難所のひとつ、小高工業高校に行くと、給水車に行列ができていた。“安否確認掲示板”と書かれた、大きな紙が貼り出され、《避難所を移動しました》《まだ連絡が取れません》など、おびただしい書き込みが。

 避難所で生活している人がいる一方で、避難が困難な被災者の姿もーー。南相馬市役所には、パイプイスに座り机につっぷしているひとりの年配女性がいた。

「避難所が空いてないから……。何か原発も危ないみたいだけど、まだそこまで考えられないですよ」

 寝泊まりできるスペースがないため、市役所の駐車場で車中泊する被害者もいた。我々も同じようにして夜を明かそうとするが外気温0度。凍てつくような寒さ。ほとんど眠れないまま、日の出と同時に、さらに北へ向かう。

「いま欲しいのはお金じゃない」

 南相馬市と同じく、ほぼ壊滅してしまった福島の新地町。道路がほとんど寸断されている中、1軒だけ営業しているスーパーに人が殺到していた。

 果物やスナック菓子を大量に買い込む人が列を作っている中、突然、店内が湧き上がった。

「おにぎりができましたー! もしよかったら食べてください!」

 普段の生活であれば、いつでも食べられるようなおにぎり1つに救われる。

「いま欲しいのはお金じゃない。1つのおにぎりとか、1杯の水なんです」(30代男性)

 それでも、このまま救援物資が届かなければ、いつかは底をついてしまう。だが、道も寸断されたこのエリアには、いつになったら届くのか。

 6号線沿いの公衆電話は一切つながらない。コインを投入しても、つながらないことを確認する記者に、

電話つながらないですよね……。母と連絡を取りたいんですけど、携帯もつながらないし、電気もないし。どこに行けばいいんですかね。町じゅうの公衆電話を探し回っていたんですが、公衆電話っていざとなるとどこにあるかわからないし……」(20代女性)

 憔悴しきった顔。食料もなく眠れないままで体力がすり減り、崩れ落ちた道路を駆けずり回る女性の背中からは悲壮感と焦燥感が漂っていた。

波に飲まれて、町がそっくりそのままなくなってしまった(2011年3月12日)

 どこを通っても、瓦礫の山。見ていると、これが当たり前のように感じてしまうほど、感覚がマヒしてくる。

 そうして、ようやく杜の都・仙台に到着した。歴史ある風光明媚な土地で、普段なら日曜日。笑顔があふれているはずの街は、悲しみに暮れていた。

「このままだと略奪が始まっちゃう」

 大都市・仙台市街もライフラインがストップし、仙台駅近くにある避難所となった小学校の女性トイレには、トイレットペーパーを持った女性が行列。ブルーシートのテントには、ガムテープで貼られた段ボールに《毛布ありません。食事未定 バスJR道路状況不明 仙台駅まで行ってみてください》と書いてあった。東北一の大都市でも、情報は伝わってきていないようだ。わずかに営業しているコンビニも行列ができており、食料は棚にほとんどない。

「買い物は5分以内でお願いしまーす!」

仙台市のスーパーには食料や飲み物などを求める客が長蛇の列を作っていた(2011年3月13日)

 時間制限がされるなか、おでんを買い占めんばかりに注文する女性客の姿もあった。同じように長蛇の列が並んでいたスーパーで、トイレットペーパーやティッシュを買い込んでいた男性は、

「3時間以上も待ちました。今はいいけど、このままだと略奪が始まっちゃいますよ」

 海外メディアから「日本人は秩序がある」と称賛されていたが、それも限界が近づいているのかもしれない。このまま食料不足が続くと、最悪のシナリオが始まってしまう。それが、テレビやネットでは知ることができない被災地の真の姿なのだ……。

臨月で大きなお腹を抱える妊婦も

 仙台市街から車でわずか10分ほどの若林区。七郷小学校には、1200人もの被災者が避難をしていた。

 トラックで食料や飲料が運び込まれ、自然発生的に始まったバケツリレーに、記者も加わった。ヨーグルト、ヤクルト、牛乳、シュークリーム、菓子パン、みかん、リンゴ、水など。実に2000食あるという。

「1200食が必要なのに、昨日は足りなかった。2000食あれば大丈夫です」

 と、小学校教諭らボランティアたちが喜んでいた。

 徐々に物資が届いてはいるが、やはり避難所生活は楽なものではない。農家を営んでいた60代の女性は、

「近くで働いている息子が車で戻ってきて、“早く逃げよう。津波が来る!”って。だから、服はそのまんまで着替えはありません。家もなくなっちゃったけど、家族5人が全員無事なのが不幸中の幸い。近くの遺体安置所に探しに行く人もいます。明日、身元がわかった遺体の葬式をするって聞きました。テレビはないので、ラジオを聞いたり、新聞を回し読んだりしています」

 犬を連れていた40代の男性は、悲痛な胸のうちを明かしてくれた。

避難所に入れない愛犬と一緒にいた男性は、自宅が津波で流され、着ている服も借りものだと話してくれた(2011年3月13日)

「もうね、何もなくなっちゃった……。仕事場からそのまま避難したので、スーツ1着しかないし、免許証もなければ、私は右足が悪いのですが障害者手帳も持ってきてない

 家があった場所は今でも立ち入り禁止だし、ご近所さんたちはどこへ行ったかもわからない。祖父の代から3代続いた家だったんだけど、私の代でなくなっちゃいました……」

 これからのことを考えたときに、一気に絶望感が押し寄せてくるようだった。

 20代の美容院勤務女性は、

家族バラバラになっていて、お母さんと連絡がつきません。別の避難所にはお父さんがいて、ずっと電話をしているみたいなんですが、どこの掲示板を見てもお母さんの情報がないんです。携帯もつながらないんです……」

 さらに、

「友達と避難所で会えて喜んだんですが、その友達のお父さんとおばあちゃんが流されて亡くなってしまったんです。なぐさめることしかできませんでした」

 自らの悲しみや不安を隠しながら、友人の悲しみをなぐさめるなんて……。

 ほかにも、避難所には臨月の妊婦がいた。

「ずっとお腹が張り続けていたんです。母と一緒に車で逃げたんですが、“いまはお願いだから出てこないで”って祈ってました」

 後日、無事に生まれたという連絡が入った。悲劇から3日後のことだった。

目の前の光景に絶望

 七郷小学校から1キロ離れた荒浜に向かった。200〜300人の遺体が見つかったというあの場所だ。見渡す限り水田のようになっていて、水もまだ引いていない。積もり積もった泥の海。

仙台市若林区荒浜、卒業アルバムらしきページが風にはためいていた(2011年3月13日)

 これまで見たどの被災地よりも、広範囲にわたって津波にのまれていた。地面はグチャグチャとぬかるみ、まともに歩くこともできない。遠くでは黒い煙が立ち上り、サイレンが鳴りやまない。泥にまみれていた1冊の卒業アルバム、ビリビリに破れた教科書なども。ほとんどの家が流されたこの地にあって、ポツリと残された家の前で、とある男性は、

家の前にある塀の高さまで津波が押し寄せましたよ。家も家族も無事だったんだけど、従姉妹から連絡がないんだよね……。もっと海側にいたんだけど、流されちゃったと思う……。今は片付けをしながら待つしかないよね。救助隊が来てもさ、この泥は誰も片づけてくれないでしょ?」

 その海側まで行こうとすると、規制線が張られ、立ち入ることができない。目の前には絶望的にすら思えてしまう光景が、ただ広がっていた。

 それでもジャージを着た女子中学生たちが、

「生きてたの!? みんな無事だよ! 会えてよかった。心配してたよ」

 涙ぐみ、抱き合いながら再会を喜ぶ声も。

避難所となっていた七郷小学校に電気がついた瞬間。そのとき、歓声と拍手が湧き上がった(2011年3月13日)

 日が暮れ始めた午後6時、七郷小学校では、炊き出しの準備が始まる。空はすでに真っ暗。明かりがない校舎を、ぐるりと囲い込むように炊き出しを待つ列ができた。

 そして午後7時。突然、目の前が明るくなった。実に地震発生から52時間。小学校の電気が復旧した瞬間だった。一斉に歓声と拍手が沸き起こった。ガス、水道、電気、どれがなくなっても困るに決まってはいるが、

「水はペットボトルが配られたり、売ってたりするけど、電気だけはどうしようもないからね」(40代女性)

「おにぎり1個」か「リンゴ1/6欠け」の選択

13日の夜、避難所で配られたのはおにぎり1つ、ヤクルト1つ、ひと家族で漬物1袋(仙台市の避難所、2011年3月13日)

 この夜、ひとりひとりに配られたのは、混ぜごはんのおにぎり1つ、ヤクルト1本、ひと家族で漬物1袋。おにぎりはラップに包まれたりしておらず、そのままなので、受け取ったその場で食べ始めた人もいた。決して十分な量ではないのだろうが、

「昨日なんて、おにぎり1個かリンゴ1/6欠けの選択だったからマシですよ。足りないなんて文句を言ってるのはお年寄りばかりです。子どもたちは、最初はお菓子を取り合っていたけど、親に叱られてから、今は率先してみんなで分け合ってる。ウチの父親も補聴器がないだの、お茶が飲みたいだのワガママばかり言ってますよ」

 と40代女性は嘆いた。

 避難所には、中国人の若者も数名いた。住み込みだったのか、住まいがなくなってしまったのか。寒い中でも作業着のまま外にいた。教室に入るのも気が引けてしまったのだろうか。外国人にとって、この異国の地での大災害は、本当に恐ろしかっただろう。夜10時を過ぎ、ほとんどの被災者が眠りについた中でも彼らは起きていたーー。

 翌朝、朝の5時ごろに仙台市・宮城野区役所を訪れると、イスを並べてベッドがわりに寝ている人や、床に段ボールを敷いて寝ている人が30人ほどいた。ここにも避難所がいっぱいで入れない人が、多数流れ込んできていた。テレビモニターを食い入るように見ていた人は、東京の計画停電の報道に対して、

「東京のことなんかより、現地の情報が欲しいですよ。計画停電っていっても、何時間かすればつくんでしょ? こっちはいつになるかわからないんだから……」(30代男性)

 さらには、翌日から雪の予報を見て、頭を抱える人も。区役所はトイレが使えるものの、自動販売機はすべて売り切れ。ゴミ箱にも空き缶が散乱していた。朝の8時前になると、職員が出てきて、

「8時から通常業務が始まりますので、ここから出て行ってください」

 と、非情な退去命令に、

「どこに行けばいいんだろうね。困っちゃうね」

 と、アキレながら話す人も。職員にも、ほとんど情報が入ってないようで、「いつ電気が復旧するの?」「どこの避難所が空いてるの?」と聞かれても、しどろもどろになるばかり。

「こうやって機能がマヒしちゃったら、ハイチ地震と同じになっちゃうよ!」

 職員に怒鳴り散らす男性の姿も。被災者の限界が、刻一刻と近づいているようだ。

 街に出ると、仙台市内はガソリン不足が深刻化していて、若林区に住む60代の運送会社で働く男性は、

「うちらは家もないんだよ。駅のほうに住んでいる人は、家はあるだろ。こっちの立場から言わせてもらえば、家があるだけでも恵まれてるんだから、ガソリンはウチらを優先させてくれたっていいんじゃない。みんな困ってるのはわかってるけどさ!」

 と語気を荒らげていた。

 車以外の交通も地震直後からマヒが続き、仙台駅は相変わらず閉鎖中で、駅前ロータリーには新潟行きのマイクロバスが3台。だが、すべてが満席になっている。ガソリンを諦めた人が、仙台脱出を試みているのだろうか。

「仙台での生活がいつ戻るかわからない。バスが出ているか問い合わせしたら、新潟行きがあるというので予約しました。しばらく新潟のホテルに泊まる予定です」(20歳の男女)

 取材班もカメラマンが朝4時から仙台市内のガソリンスタンドに開店前から並んでいたが、すでに行列が。凍てつくような寒さの中、少しの燃料も無駄にできないため、どの車もエンジンを切っている。ようやく朝11時、ガソリンスタンドが動き出す。だが1台2000円分しか入れられない。車以外での行動を余儀なくされ、自転車店に向かうも、すでに売り切れてしまっていた。そのまま徒歩で行けるところまで行くことに。

仙台市宮城野区(2011年3月14日)

サイレンが鳴る中、港へ向かった若者たち

 地割れした道を通り、宮城野区・中野栄駅付近にたどり着くと、景色が一変する。埃にまみれた道路の両側には、津波で流された車が山になっていた。徒歩で通るのも困難なほど。これが本当に日本かと疑いたくなる光景だった。

 すると、午前11時半過ぎに、突如として街が騒ぎ出す。パトカーと消防車のサイレンが鳴り響き、

「避難してください! 今すぐ避難をしてください!」

 拡声器で叫んでいるが、何が起きたのか全くわからない。

「早く逃げるぞ! 高台に逃げるぞ!」

 と住民がパニックに。車も渋滞となる。私たちは、見ず知らずの場所であるため逃げ場がわからない。

「高台はどこにあるんですか?」

 近くにいた男性に聞くと、

「ここらには高台はないよ」

 と答えた。辺りを見回すと、歩道橋に30人ほど避難していたが、さらにその先にある歩道橋はポキっと折れていた。これでは何とも心もとない。

 近所の中野栄小学校に住民が避難しているというので向かうと、付近の公園で水をタンクに汲む3人の若者に出会った。

「僕たちが水や食料を届けようと。これから港近くの倉庫まで行って食料を集めて、避難所を回ります。津波警報? 津波が来たら終わりですね。でも誰かがやらなきゃいけませんから。港は地獄絵図で、遺体を見た人もいたそう」

 そう言い残し、トラックで港へと向かって走り去った。

津波警報でサイレンが鳴り響く中、中野栄小学校の屋上に避難する人たち。非常用階段にまで人があふれていた(2011年3月14日)

 中野栄小学校に着くと、屋上に100人近く、非常用階段にも人があふれ返っていた。屋上へ上がると、

「こんなところで死にたくない……」

 と祈るようにつぶやく女子中学生が。

 乳児を抱いて、不安そうにしている20代女性は、

「まだ1か月なんです、なんとかこの子だけでも助けたい。いまは家が無事で、そこで生活しているけど、食料が足りないから母乳が出るか心配です……」

 結局、津波が襲ってくることはなく、警報は正午過ぎに解除された。その瞬間、拍手とともに、みんなが抱き合う姿が。

「これから頑張ろうね!」

 誰かれとなく、励まし合っていたのが印象的だった。

“仏さん”よりも生存者を…

 その後、先の若者3人が向かった仙台港へ。大型ホームセンターや、イベントホールはそのまま残されていたが、それ以外はすべて壊滅。マスクがないと喉が痛くなるほどの塵が舞っていた。何もなくなってしまったこの場所に、運送会社で働く男性が、様子を見に来ていた。

「どうなっているか見に来ました。地震のときは別の場所にいましたが、奥さんが妊娠中で急いで家に帰って逃げました。昨日、警察が来て捜索活動をしていたのですが、動かない車の中に仏さんがいるけど、それはひとまず後回しにしてたみたいで、生存者を捜していましたね」

 男性に「今、いちばん欲しいものは何ですか」と尋ねると、「充電したいから電池」と真っ先に答えた。確かに、どこのコンビニでも電池は売り切れ。記者は、東京から電池をいくつか持って来ていたため、わずかながら渡すと「本当に助かります!」、そう感謝をされた。

 港付近にあるビルの中で働く40代男性は、

「私は単身赴任で来ているんですが、家に帰ったら、ドアが開かなくて。帰っても1人だから、この会社にいるんです。奥さんに無事だと伝えたかったんですが、なかなかつながらなくて。ようやく話せたときは向こうも“無事でよかったね”って……。ここは港だからすぐ津波が来た。隣のホールでは、ちょうどイベントをやっていて500人ぐらいがこの会社に避難したんです。最初は3階にいましたが、4階に逃げました」

 もし、避難が遅れていたら、この港だけで500人以上の犠牲者が出ていたかもしれないと思うと、さすがに鳥肌が立った。また、自転車で港に来ていた30代男性によると、

「僕の友達はブロック塀にしがみついて、下半身まで水に浸かって耐えていたそうです」

 津波が引くまで必死に耐えていたのだろう。その恐怖は計り知れない。

 仙台市街に戻ると、やはりまたガソリンを求める列が。救急車や消防車などの緊急車両が優先だが、宮城野区に住む男性は、

「こっちも父が透析をしているんだ! 万が一のことがあったらどうするんだ。こっちだって命かかってるんだ!」

仙台市の弁当店には行列が。わずかみそ汁1杯のために3時間待ち(2011年3月14日)

 と、激高するも、ガソリンスタンドの店員もどうしようもない様子で対応するしかなかった。

 電気が通っている自動販売機も、軒並み売り切れに。弁当店が開いていたが、わずかみそ汁1杯のために3時間待ちになっていた。

 食料、水、ガソリン、ほかにもないものだらけの被災地。東京も買い占めで日用品がなくなっているが、本当に“今”必要なのはだれなのかを考えるべきだと思う。また、取材を通して、ツラいはずのなのに気丈に振舞っていた被災者の笑顔が本当に印象的だった。あの顔がある限り、絶対に復興できるはずだーー。