数年間開けていなかった壊れた冷蔵庫の野菜室からは悪臭が立ち込め、台所ではいつでもゴキブリたちが大行進――。
そんな“汚部屋”に、美しいけれどもどこかおかしい母と2人で暮らしてきた“東大生”の主人公、ユウ。
「自分だけ幸せになろうなんて、ママ許さないからね!」
子どものころから過干渉をし続け、ときには手を上げる“毒親”の母。さらには、もともと別に家庭がある父――。
汚部屋、東大生、毒親、不倫。現代のパワーワードで構成されつつ、ひとりの女性が母を捨て自立に至るまでを描いた漫画『汚部屋そだちの東大生』が、いま話題だ。
毒親をもった作者の今
積み重なるゴミ、汚れきったトイレ、ゴキブリ……。交流するほかの東大生たちとは違いすぎる主人公の私生活。この部屋に存在する電化製品たちのように“壊れた”母のエピソードも淡々と続き、底知れぬ恐怖が続く。とはいえ、そういったグロテスクなシーンは落ち着いたタッチで描かれており、主人公の心のあきらめぶりを表しているかのようだ。
しかし、主人公がドアを開けるラストは、読者にもその瞬間の外の光が見えるかのように輝かしい。
しかもこの話、時系列を多少変えている以外はほぼ「実話」なのだという。スマホ向けコミックサイト『マンガよもんが』『LINEマンガ』で連載中から反響を呼び、このたび3月10日にコミックスも株式会社ぶんか社から発売されることとなった。
そんな主人公、もとい作者は現在、どんな思いを抱いているのか。作者のハミ山クリニカさんに話を聞いた。
「主人公は大学卒業と同時に家を出たということにしていますが、実際に家を出られたのは、就職して2年ほどしてからでした。私がいなくなってすぐは、親戚経由で連絡をとってこようとしたり、役所に行って私の現住所を調べようとしたらしいんですが、やったことはそれくらいだったみたいです。本気を出せば興信所に頼んで調べることもできるのに。携帯番号を変えたということもありますが、今はまったく連絡は来ません。そこまで私に執着はしていなかったんだと、拍子抜けしましたね」
驚くべき半生でも“不満はなかった”ワケ
現在は結婚し、平和に暮らしているというハミ山クリニカさん。会社員と漫画家の二足の草鞋(わらじ)を履く。
ほかにも漫画と決定的に違うのは、実際は東京藝大に入学・中退してから、母親の意向もあり、東大(理科二類)に入り直していた、という点だという。ますます壮絶な話だ。
漫画家として活動し始めたのは、2年ほど前から。そして、家を出るまでの自分の半生を振り返れるには脱出から6~7年はかかったという。
「(漫画の)担当編集者さんが、打ち合わせの際に話した私の半生に、ものすごくびっくりして。“それを漫画にしませんか”と言われて、それまではちょっと違うくらいだった認識が、やっぱりおかしかったんだと確信しました。
子どものころからそんな状況で暮らしてきたのと、母親があまりほかの友達と遊ばせてくれなかったこともあって、ほかの家の様子を知らなかったんですよ。だから“○○ちゃんの家には○○があっていいな”といった、ほかと比べての不満は持ったことはなくて。でも“うちはエアコンが壊れていて使えないから寒くていやだな”とか“机がまともに使えないから、布団やゴミの上でものを書くのは書きづらいからいやだな”という不快な感情に対する不満はありました」
片づけはできず、常にだらしない。かつ支配的な母親に対しての不満はなかったのだろうか。
「母は、断続的ではありましたが、会社勤めをしていたんですね。洋服は買い漁(あさ)っていたくらいで、いつも同じものを着て出勤していたわけでもなかった。おそらく、あんな汚部屋で暮らしていると想像できた同僚はいなかったのではないでしょうか。
一応、私を育ててくれているということもあって、いくら理不尽な思いをして“めちゃくちゃだなあ”とは感じつつ、感謝しなくてはいけないと思っていたところもあったんです。素直に憎しみだけ持てれば、もっと早く母のもとから飛びだしていたかもしれません。
あと、私がいい成績を取っていれば機嫌もよかったので、怒らせたくないから勉強をしていましたね。いろんなやり方を考えてなんとか成績を落とさないようにがんばっていました」
そんな努力が実り、東大の門もくぐることができた。
「もちろん母は喜びました。“いい会社に入って、ママを養ってね”と。母としては、恋人でしかなかった父に見放されていたし、私が大企業に入れば確実にお金を持ってきてくれるから安泰! くらいの感覚だったんでしょうね。
みなさんが“東大、すごいね”と言ってくれるんですが、実際は入れる人数も多い。がんばれば奨学金ももらえるし、授業料も免除になる。ある意味、間口が広いんですよ。私は母にお金の負担をさせたくなかったから、東大に入ったともいえます」
「親と連絡したくないし、会いたくない」
私たちは、東大生という言葉についひるみがちだが……。
「私も、どんな人が東大では“普通”なんだろうと思っていたところがあります。でも実際は、ウチみたいに母子家庭や、お金がないという環境で育った子もけっこういたし、めちゃくちゃお金持ちの留学生も多かった。だから“こんな家庭が普通”ということはなかったですね。むしろ東大に入っていろんな人と交流するにつれて、世の中にはいろんな事情を背負った人がいるんだなと、初めて知りました。
地方出身で頭がよくて、家にお金があって、東大に入れたけれども、上には上がいて、その人たちと自分を比べて挫折してしまう人たちは何人も見てきました」
ハミ山さんがもうひとつ気づいたのは“親に押しつけられた価値観を守らなくていい”ということだった。
「うちの家庭の話をすると、みんなにドン引きされたんですね。その姿を見て、自分も無意識に我慢していたことだったって気づいたんです。ああ、これ、我慢しなくていいんだ、と」
自分が変だな、嫌だな、と思ったことに、ふたをしなくていい。自分の意志を尊重していい――。価値観を変えることは勇気がいる。しかし、その勇気は、新しい世界への扉でもある。
そこから数年の時を経て、母を捨て、穏やかな生活を手に入れることができたハミ山さん。
今は夫、子どもと暮らしているが、その壮絶な経験から家庭を持つことに不安はなかったのだろうか。
「夫は他人のことをあまり気にしない性格で、“親と連絡取ってないし会いたくない”と伝えたら、すんなり受け入れてくれました。子どもを持つことは、自分と母のような関係が再生産されるのではと不安でしたが、いろいろ勉強したりカウンセリングに通ったりしてから産んでみて、今のところ楽しく過ごしています」
最後に、この漫画をどんな人に読んでほしいかをうかがった。
「表面だけでは人って、わからない。普通だとか、立派な肩書があったとしても、だから正しいというわけではないし、幸せというわけでもない。特に家庭の中に違和感がある場合、自分の感情を押し殺しがちになりやすいと思います。
自分がちょっと嫌だと思っていることって、どうなんだろう。このまま我慢をしたほうがいいのかな。そんなふうに感じている人に読んでほしいですね。その我慢は、たいていの場合、する必要のないものだったりするので」
ハミ山さんの母親が、期せずして娘に与えたものは、その自立する心と、何事も俯瞰(ふかん)して見ることができる視線だろう。いちばん、渡したくなかったものでもあったのだろうが。
(取材・文/木原みぎわ)