マツコ・デラックスやはるな愛など、LGBTのタレントは今やメディアでは欠かせない存在。その道を切り開いたパイオニアが、カルーセル麻紀さんだ。戸籍も身体も男から女へ――。偏見や差別と堂々闘ってきた日々を振り返り言葉の規制が激化する「うるさい社会」を一蹴する。
アンティークの調度品や絵画がセンスよく配置された部屋でカルーセル麻紀さん(78)がソファに腰かけてタバコをくゆらす。きれいに手入れされた銀髪のショートヘアに赤いルージュをひいた凛とした風情は、酸いも甘いも噛み分けてきたパリのマダムのよう。
「昨年末に閉塞性動脈硬化症で入院したとき、思い切って長い髪を切ったの。金髪に染めようかと思ったんだけど、美容師さんがこのままがカッコいいですよと。だから染めてないのよ、どうかしら?」
女らしい仕草で髪に手をやる麻紀さん。15歳でゲイボーイとなり、日本で初めて性転換手術(現在の性別適合手術)を受けた。天性の美貌とキレのいいトークでお茶の間の人気者となり、テレビや映画でも大活躍。今もピンヒールをはいてお笑いと歌謡ショーのステージに立つ。戸籍を男性から女性にしたパイオニアでもある。
麻紀さんの自宅を訪ねたとき、折しも東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会森会長の女性蔑視ともとれる発言が問題視され、メディアをにぎわせていた。一連の騒動について水を向けると、麻紀さんはこう答えた。
「あー、あのおっさんね、よく知ってるんですけど。ゴルフも温泉も行ったことありますしね。すごく気さくでね、会うと“おう、あんた元気かい?”って話しかけてくれる人なのよ。あの発言を私は蔑視だと思わないわね。女は話が長いってだけのことなのよ。そのとき周りの人たちも笑ってたというんだから。私たちの時代を考えると、セクハラ・パワハラ発言もなんでもアリだったじゃないですか」
ジェンダーや性同一性障害という言葉がなかったころ、差別と偏見の目にさらされながら麻紀さんはゲイとして自分の道を生き抜いてきた。
「テレビのコメンテーターに“いくら女だって言ったって、オメェ、オカマじゃねえか”と言われてさ、“なに言ってんだ、この野郎!”と暴れて帰ったことは何度もありましたね、生放送で。有名だったんですよ、“カルーセル、生で使うな”って。キレるとテーブルひっくり返して途中で帰っちゃうって。はははは。
今はマツコやオネエたちがもてはやされるけど、当時は見世物、化け物扱いよ。自分たちとは違う人間をバカにして笑いものにする演出ばかりで耐えられなかったのね」
現在はジェンダーに理解のある社会になったが、昨今の言葉の規制には違和感を覚えるという。
「先日もあるテレビ番組に出させていただいたんですが、放送禁止用語がたくさんあって大変ですよ。オカマって言葉、私が言っても駄目なんだから。なんでもね、卑下したり、見下したりして言ってるんじゃないんですよ。ああ言ったこう言ったって、マスコミがバッと突っ込むわけじゃない、それはちょっとどうかなと思うのよね」
うるさい世の中になってしまった、人の失敗を許さない不寛容な社会はまた別の差別を生んでいくと嘆く。
「オリパラのことにしたって、ロゴのデザインから国立競技場の設計の問題、それにコロナによる延期と、森さんが何とか頑張ってきたのにさ、あそこまでいじめなくてもいいと私は思ったけどね。あれじゃあ年寄りイジメじゃない。みんなが走らないなら、私が聖火ランナーやるわよ。頼まれてないけどね(笑)」
直木賞作家・桜木紫乃さん(56)は、麻紀さんと同じ北海道釧路市出身で、麻紀さんの少女時代から芸能界デビューまでの軌跡をモデルにした小説『緋の河』(新潮社)を上梓した。現在、『小説新潮』で続編を連載中だ。
「私は麻紀さんがモロッコから帰国したとき、地元の大人たちの反応をリアルタイムで見ていました。みんな寄ると触ると挨拶がわりに麻紀さんのことを話題にしてました。あまりいい語られ方をしていなかった場面も。そういうときの大人たちの表情は総じて卑しかったので、それだけ興味がある人をよく言わないというのは一体なんだろうなと、子ども心に思っていました」
麻紀さんとは対談を機に、『緋の河』執筆と並行して、プライベートでも親交を深めていったという。
「実際の麻紀さんは大人たちが言っていたような人ではなかった。孤高の人で、ものすごく繊細で。気働きというのはまったくかなわない。夜の街や芸能界で長く活躍するということはこういうことなんだなあと思いました」
“お前、コラ”という言葉も人前で求められているカルーセル麻紀を演じているだけで、本当はみんなのお母さんのような温かみがあると話す。
「釧路は漁業と炭鉱の町で、わりと外から入ってくる人に対して開けている土地なんですよ。来るもの拒まず去るもの追わずという感じは、麻紀さんの包容力に通じるところがありますね。住みづらくて家出した場所だったかもしれないけれど、自分を貫く土壌というのは、生まれた土地にもあったと思いますしね」
麻紀さんがゲイボーイになった10代のころから知っていて、自身もゲイボーイとして名をはせた『吉野』のママこと吉野寿雄さん(90)も麻紀さんの心根をこう明かす。
「意志が強いのよ。性転換手術をしたときも自分で決めて特別な相談はなかったわ。そういうところは男らしいの。男にモテたいから女になったけど、中身は男。ゲイボーイの心理というのはなかなか理解できないと思うわ。やっぱりどっかで男っぽさが出ちゃうのよ。私なんかもそうよ」
15歳で家出、ゲイバーへ
1942年、北海道釧路市で会社員の父親と家庭的な母の次男として生まれる。太平洋戦争へと突入して約1年が過ぎるころだった。
「2歳半で終戦を迎えたので、戦争の記憶はありません。子ども心に覚えているのは、貧乏だったことぐらい。なにしろ4男5女の子どもがいる大家族でしたから。父は“アメリカと徹底的に戦える男になれ、男に徹する男になれ”という願いを込めて、“徹男”と名づけたようです」
しかし、厳格な父親の教育方針とは裏腹に物心ついたときには“女の子”だった。
「野球より、お人形遊びのほうが断然好きでした。時代劇ごっこではいつも女役。母の着物を引っぱり出して口紅を塗り、姿見の前でうっとりと自分を眺めたり踊ったりしました。自分がきれいであることが何より好きでしたね」
そんな自己愛の強い性格を早くから見抜いた父は「この化け物!」と大声で怒鳴り、容赦なくゲンコツで殴った。
「典型的な明治の男でしたから、私の行動が理解できなかったんでしょうね」
小学生のころのあだ名は「なりかけ」。「おんなになりかけているから」というのが由来だった。中学生になると、今度は「おとこおんな」と呼ばれるようになったという。
「イヤだったけど気にしないようにしていたわ。言いたいやつには言わしとけばいいって。イジメられると、幼なじみだった番長に仕返ししてもらったの。彼はケンカも強くてイイ男だったわ。いま考えると情婦気取りよね」
14歳のとき、その番長が家に泊まりがけで遊びにきた夜、彼に口づけをされた。
「それからお互いの身体に触れ合ったの。お医者さんごっこの延長みたいなものだったけど、初体験の淡い思い出よ」
やがて自分の恋愛対象が男性で、「おとこおんな」であることに悩みを抱くようになる。そんなとき三島由紀夫の『禁色』を読み、“麗しのゲイボーイ”として一世を風靡していた美輪明宏の存在を知り、衝撃を受けた。
「こういう世界があるんだ!って。世の中で自分だけだと思っていたから。ああ、もう私の行く道はこれしかないわと思ったのね」
麻紀さんは15歳で高校を中退し、アルバイトで稼いだお金を元手に家出をする。東京を目指した列車の中で車掌に家出がバレて札幌で飛び降り、『ベラミ』というゲイバーで働き始めた。
「着いたその日から店に出て、お酒も飲んでショータイムでダンスも踊ったの。中学生のころから父の日本酒を飲んでいたし、漁港の船員さんたちに可愛がられて、船の中でいろんなステップを教わっていたから、マンボやジルバ、タンゴも踊れたのよ。住み込みで下働きをしながら、この世界の礼儀や接客、それに男の騙し方、悦ばせ方まで、徹底して仕込んでもらったわ」
その後、全国各地のゲイバーを転々としたのち、17歳で上京、銀座の『青江』で働くことになる。前述の吉野さんが当時の麻紀さんやゲイバーの様子を話してくれた。
「麻紀は女の子みたいで、とてもきれいだった。ゲイバーは上下関係が厳しかったけど、礼儀正しかったから、青江のママにも大事にされていたわ。そのころ、東京のゲイボーイはみんな短髪で着流し姿だったの。街角に立ってるような連中が女装していたからね」
そうした男娼への蔑称が“オカマ”という言葉だったのだとか。麻紀さんは腰まであった髪をバッサリ切った。とっさに名乗った牧田徹という名前から「マキ」と源氏名がつく。『青江』に集まる財界人らから粋な遊びや知らない世界を教わった。
恋愛ざたなどが原因で転居を繰り返し、19歳で大阪に流れ着く。キャバレーのような大型店『カルーゼル』で働いた。そして、フランスの女優、ブリジット・バルドーを模して髪を金髪に染め、女性ホルモンを打って胸の膨らみとしなやかな身体を手に入れた。
「最初は女としておしとやかに接客するんだけど、酔うとつい男言葉でベラベラしゃべりまくる癖があったの」
興が乗ると披露するストリップショーもウケ、「ブロンドヘアの面白い子」と評判になった。
やがて店に出入りする芸能関係者からも贔屓にされ、大阪OSミュージックホールでヌードダンサーとして初舞台を踏む。“カルーゼルで働く麻紀”だから“カルーセル麻紀”と芸名がつけられた。
一流のダンサーしか踊ることが許されない東京の日劇ミュージックホールにも出演。
日本テレビの深夜番組『11PM』をきっかけにレギュラー番組を抱える売れっ子となった。歌手や女優としても活躍し、『プレイガール』シリーズや映画『道頓堀川』でも好演している。
「27歳のとき、関口宏さんたちの演劇グループ“いもの群”の『いただいちゃってゴメンネ!』に出していただいて、私のセリフでお客さんが泣いたり笑ったりするのを見て感動したの。それから芝居の魅力に取りつかれて、アングラ劇場や前衛的な芝居小屋にも出演したわ。渋谷のジァン・ジァンで公演した『ゲバラ一九七一 東京』は思い出の作品よ」
活動の合間に銀座のクラブでホステスとして働き、作家の山口洋子が経営する『姫』に在籍していたこともある。
「シーンとしてる席があると、なにこれお通夜なの? おい、ドンペリ持ってこ~い! って。それだけでわ~っと盛り上がって、一発でしたよ(笑)」
性転換手術でモロッコに渡航
30歳のときモロッコへ渡り、性転換手術を受けた。すでに19歳で睾丸を摘出する去勢手術を闇医者から受けていたが、パリのクラブ歌手、コクシネルがモロッコで性転換手術を受けて男性から女性に生まれ変わったというニュースを知り、自分も完全な女性の身体を手に入れたいとの思いを募らせていたのだ。
「女になって愛される歓びを味わいたいという欲望はもちろんあったけど、それ以上に完璧な美でストリップショーをしてお客さんたちを喜ばせたいという気持ちが強くなったの。
ちょうどパリに青江の姉妹店をオープンするので、ママをやらないかって話があって、二つ返事でOKしたわ。もちろん目的は性転換手術!」
'72年4月にはパリで働きはじめ、10月には性転換手術のためにモロッコへ渡った。
青江の同期で、赤坂のゲイバー『ニュー春』を経営する春駒こと原田啓二さん(78)が当時を振り返る。
「まだ男性が女性になることが考えられない時代に、神を冒とくするとか頭がおかしいとか言われていたわ。“人間の急所をいじったりして、あんた死んじゃったらどうするの?”と言っても、それでもいいの、私は女になるのと。あの女はね、けっこう気が強いから、決めたら誰の言うことも聞かないのよ」
手術は残されていた男性器と肛門の間に孔を開け、造膣するものだった。内部臓器を除いた陰茎の表面を大陰唇および小陰唇とした。陰嚢皮膚は膣壁とし、尿道口は陰茎の根元に形成した。
「術後、傷口が化膿して高熱と激痛に見舞われたんだけど、ドクターに訴えても“問題ない”の一点張り。鏡で見て腐ってる部分を取り出して、結局自分で治しちゃった。人間生きようと思えばなんでもできるのね。皮膚の感覚と性感帯は残されたの。それはドクターに感謝しているわ!」
帰国後、世間の誹謗中傷に加え、仲間内で陰口を叩かれることもあった。だが、術後初めてのショーで味わった喜びは今でも忘れられない。
「それまではショーのときに突起物があったから、ガムテープで前張りしていたんだけど、その必要がなくなったことが何よりうれしかった。ちっちゃい下着で堂々とストリップできるようになったの」
2004年10月、性同一性障害者特例法が施行される。性別の変更が認められて戸籍上も女性(続柄は二女)となり、本名も「平原麻紀」と改名。麻紀さんは性転換手術や戸籍の変更をマスコミに公表し、性同一性障害の認定やニューハーフの戸籍の問題を動かす機運をつくった。
手術後、自殺する後輩たちへ
麻紀さんを追いかけるように女性ホルモンを打ち、手術をして「女性」になった人たちが後を絶たなかったが、必ずしも望みどおりの幸せをつかんだとはいえない。女性ホルモンの副作用による頭痛や術後の違和感など肉体的苦痛の果てに精神が不安定になり、自殺する人も増えていた。
「戸籍も変わって自分は女と思ってるのに、周りは誰も完全な女だと思わないわけじゃない。私はそれを承知してるから、長いことやれてるわけですよ。元男だから価値があるのに、女として完成したと思うから傷ついて死んでしまう。元男だからって、どうして開き直れないのと。ニューハーフの子たちを怒るんです」
麻紀さんは後輩たちには絶対、思いつきで手術をしないように諭している。
「自分のこと棚に上げてなんだけど、好きな男を手に入れようと思ってやるなら、やめたほうがいい、少なくとも1年はよく考えてからにしなさいと言うの。失敗も後悔もしてほしくないから」
作家・桜木紫乃さんは、麻紀さんが“カルーセル麻紀になろうとしてなれなかった人たち”を山ほど見てきて、「なにかしらの負い目を感じてきたのではないか」と話す。だが、そんな麻紀さんにとって、救いとなる出会いもあったと明かす。
「一昨年、麻紀さんとギャランティーク和恵さんのお店へ行ったとき、“元男の子で、戸籍も変えて、いまOLやってます”という女性に会ったんです。麻紀さんは、芸能や夜のお仕事をしている人はたくさん見たけど、女の子になって昼間のお勤めをしている人に会ったのは初めてだって驚いていました」
その女性は「私、すごく幸せなんです。麻紀さんのおかげです。ありがとうございます」と話し、麻紀さんは泣かんばかりに喜んだという。
戸籍を変える第1号として、身体検査やカウンセリングには精神的な負担を強いられた。自分を「障がい」と認めないと通らないような質問をされ、何度も投げ出したくなった。
「麻紀さんは“しんどかったけど、あれは無駄じゃなかったんだ、私、誰かのためにひとつでもいいことができたのかな”と話していました。これまでご自身が何を成し遂げたのか、はっきりした手応えをお持ちでなかったことに驚いたのですが、彼女の言葉にとてもうれしそうでした」
桜木さんは麻紀さんのことを「死んで花実は咲かない」と誰よりも知っている人で、常に咲いているために最大限の努力をした人だという。
本当に愛した男を女に取られて
誰もが麻紀さんを元男性と知りながら、女性としての魅力に惹かれていく。幾多の芸能人や作家、スポーツ選手と浮名も流してきた。麻紀さんが今は亡き俳優・菅原文太さんとの恋を懐かしむ。
「文ちゃんがまだあまり売れてなくて新東宝でハンサムタワーズのメンバーだったころから仲よかったの。昔からいい人でしたよ。いつか札幌に仕事で行ったとき、お辰(梅宮辰夫さん)と文ちゃんの飲み会に合流したの。ホステスの女の子が10人くらいいる中、“お~麻紀来たか!”って。2人の間に座らされたのね。女の子たちに妬まれながら、2大スターに挟まれて鼻が高かったわ!」
それから何十年も会うことはなかったが、偶然再会する。
「亡くなるずいぶん前ですけど、ホテルオークラのレストランで会ったの。こちらはお客さんや女の子たちと一緒で天婦羅を食べてて。お久しぶりですと挨拶したら、おう元気かって。帰るときお客さんが会計しようとしたら、菅原文太さんがもう払っていきましたって。何も言わずにね。あー文ちゃんと思ったわ。それからは会っていません。お礼を言おうと思ったけど」
麻紀さんは性転換手術の翌年、31歳のときにパリで知り合った19歳のフランス人青年、ジャンと事実婚をしている。熱烈にプロポーズされ、両親にも紹介された。「麻紀と結婚したい。彼女はもともと男だったけれど、今は手術をして女になっているから」と言うと、父は「わかったよ。麻紀はチャーミングだね。俺が若かったら俺が結婚したよ」と結婚を承諾したという。
「ありのままの私を受け入れてくれたお義父さんの言葉には感激したわ。フランスは私たちのようなトラベスティ(女装者)という存在にも居心地のいい国なのよ。でもね、日本で始めた結婚生活は半年で終わったの。こっちはフランス語がしゃべれないし、彼は嫉妬深いし、もう大変ですよ。ちょうど観光ビザが切れるタイミングだったから、トランクに全部荷物を詰めて半ば強制的に帰しちゃった。“オウルヴォアー、オウルヴォアー、またねー”と手を振りながら、小さい声で“アデュー、あばよ”と。その日からほかの男と同棲してたわ(笑)」
恋多き女、麻紀さんだが、本当に愛した人はいたのだろうか。
「文ちゃんとかお辰は愛とかじゃなくて、ちょっと興味を持たれただけよ。それはわかっているわ」
何百人もの男性と付き合ったが、心から愛し合ったのは、2、3人なのだとこぼす。尽くした人が女性のもとへ去り、泣きわめいた過去もある。
「いちばん愛した人はね、20代前半のとき、私が長崎で見つけて、東京で一緒に暮らした人よ。銀座で働かせながら、モデルをやらせたりしてね。最後は仮面ライダーまでやっていいところまでいったの」
しかし彼の浮気が発覚し半年で別れてしまったそうだ。
「夜中にいろんな女から電話がかかってくるのよ。それで “徹出してよ”と言うから、“うるせーこの野郎”と。可愛がっていた妹分の銀座のホステスが“なんで元男のくせに、あんないい男と付き合ってるのよ”って身体張ってくるわけですよ。女にも腹立つけど彼にも腹立つからもう別れましょうって」
だが、たとえ裏切られても1度は本気で愛した人。ほとぼりが冷めれば、手を差しのべるのが麻紀さんだ。
「別れた後しばらくして、彼がロケ中に事故に遭って。“まこ(麻紀)、バイクでケガしちゃった”と連絡があったの。病院へお見舞いに行って、九州に帰る飛行機代を持たせてあげたわ。
その後も九州へ公演に行くと、彼は楽屋に会いに来てくれてね、もうやけぼっくいはなかったけど。いい思い出ね」
父と和解、母と姉の愛情
ゲイボーイになって家族から縁を切られ、故郷に帰れなくなる人は多いという。麻紀さんも自由に生きてきた分、家族には迷惑をかけたと振り返る。
「“近所の人に『お宅の息子さんオカマになったんですね』と言われて、お母さんイヤだったよ”と言われたことがあります。でも母はそれがお前の生きる道なら、一流になりなさいと見守っていてくれました」
確執があった父も麻紀さんが芸能界に入ると、テレビに出演し、盛り上げようと一生懸命しゃべってくれた。
「父が亡くなった後、レコードがたくさん出てきて。自転車で釧路中のレコード屋さんを回って何枚も買ってくれていたことを知ったんです。親の愛って深いなぁって思いました。今こうしていられるのは、両親と兄弟姉妹たちが陰で支えてくれたおかげだと感謝しています」
麻紀さんは姉の幸子さん(85)と40年あまり一緒に暮らしている。毎朝、幸子さんがつくる果物と野菜のスムージーを飲み、夕飯を一緒に食べる。幸子さんは料理上手で、毎年、麻紀さんの誕生日パーティーにはご馳走をつくってゲストをもてなしてきたそうだ。
「今、コロナで仕事がないけど、借金がなくてよかったって。姉がお金のこともきちんとやってくれたおかげなの」
麻紀さんの読書好きも、幸子さんが給料日のたび本や漫画を買ってくれた影響だという。一方、幸子さんも麻紀さんには感謝していると話す。
「麻紀は私が行ってみたいというところにあちこち連れて行ってくれました。香港で夜景を見たり、映画『ローマの休日』に出てきた場所を訪ねたりもしましたよ」
幸子さんの目に麻紀さんがいちばんつらそうに映ったときは、麻薬所持の疑いで誤認逮捕され、仕事ができなくなった時期だという。
「家にこもって、“仕事がしたい”と訴えていました。なにより仕事が好きですから」
2001年に40日間勾留された。後に冤罪で不起訴になるのだが、麻紀さんが毎年企画から考えてつくり上げている年末のディナーショーなどの予定がすべて中止になった。
マネージャーの宇治田武士さん(51)も「ファンや関係者に迷惑をかけてしまったことが、いちばん堪えたようでした」と振り返る。
思いもよらぬ空白ができ、麻紀さんは、幸子さんや宇治田さんと冬のパリ旅行に出て、心の澱を洗い流した。
「近所の人たちも“麻紀ちゃん、無罪でよかったね!”と新聞に載った“カルーセル麻紀無罪”の記事を見て喜んでくれました。私が無罪だったから、麻取の人たちは全国各地に飛ばされちゃったみたい。でも、留置所にいる間に気心が知れた仲になって。大阪で公演すると、麻取の人が来てくれたのよ!(笑)」
「北海道内のゲイバーを渡り歩いていた10代のころ、真冬にストーブもなくて押し入れを開けたら雪が積もっているような部屋で暮らしたこともあるわ。今こんな贅沢な暮らしができて、好きなことをして世界中走り回って、何の悔いもないわ。本当に楽しい人生だったもの。生まれ変わってもまた男でもない女でもない、“カルーセル麻紀”になりたいと思ってるのよ」
そう言い切る表情は晴れやかで、湿っぽさは微塵もない。
春駒こと原田さんが語る。
「麻紀はたとえ湿っぽくなったとしても、自分で解決してしまうからね。いつまでも悲しみとか苦しみを引きずらないのよ。だって、いちばん苦しいのは自分ですから。そうじゃなくてもつらいわけでしょ、男が男を愛してるんだから。自分で諦めるしかないの」
原田さんも「また男性に生まれて男性を愛する自分になりたい。結局私たち、自分がいちばん好きな人が多いのよ」と笑い、多くの共通点を持つ麻紀さんのことが大好きなのだと語る。
女と男という性別を超え、お互いに人として好きで共鳴し合う関係が麻紀さんの周りにはたくさんある。
自宅のリビングルームには交流のあった友人との写真や思い出の品が所狭しと飾られていた。その特等席に置かれた石原裕次郎の遺影を指さし、麻紀さんが語り出す。
「裕さんと知り合ったのも銀座のクラブに出ていたから。あの人オカマが嫌いと聞いてたから、席につかなかったのよ。でも盛り上げてほしいとマネージャーさんから頼まれて、端っこの席に座ったの。そしたら“あ、カルーセル麻紀だ”と喜んでくださって」
石原はその場で自分の主演映画に麻紀さんを誘い、麻紀さんのために台本を書き換えさせたという。
「本当に可愛がってもらった。“麻紀、いま飲んでるから来いよ”と言われたら、なにを置いても同棲してる男を置いても、すっ飛んでいったわ。裕さんとは一線を越えたことは1度もなかったし、そうなりたいとは全然思わなかった。ただ裕さんという人間が大好き、それだけだったのよ」
また大親友だった女優・太地喜和子と2人で撮った写真を手に取ると「喜和子はいい女だったよ~」と目を細める。
「俳優座にいた峰岸徹の卒業公演を見に行ったときにすごく目立つ女がいたの。それが喜和子で。ロビーに出てきた徹と話してたら、“なんなのこの女、あんたがカルーセル麻紀?”と言われて。それからすごく仲よくなって、このソファでいつも酔っぱらって裸で寝てましたよ(笑)」
太地は女優としての麻紀さんを認め、互いにアドバイスし合うこともあったという。
「私の舞台を見に来てくれて、すごく褒めてくれたこともあったっけ。喜和子が主演してた蜷川さんの『近松』を見に行ったとき、“あそこで暖簾をくぐるとき、スッと入るんじゃなくて、1回ちょっとためてみたらどうかな?”と言ってみたら、“そうか、やってみるよ!”と言って、次に見に行くと、そのとおりにやってくれてたのよ」
2月末、『徹子の部屋』に15回目の出演をした。45年前に初出演したときと同じドレスをまとった麻紀さんを黒柳徹子は絶賛した。
「コマーシャルの間に徹子さんに“(私のように)45年前に出た人で、生きてる人います?”と聞いたら、“1人もいませんあなただけです、みんな向こうです”と(笑)。私が長生きしすぎてるのかもしれないわね」
あとどれくらいの命が残されているかわからないけれど、あの世で待っている人たちに会えると思うと、死ぬのも怖くないと話す。
「でもね、昨年4月にやった脳梗塞も治っちゃったし、12月に両足を手術して、また13センチのピンヒールもはけるようになったの。“タバコは1日3本”を守って、命ある限り舞台に立ち続けたいわ!」
好きな仕事をして、好き放題恋をして、男女の違いを飛び越えて多くの人に愛された、人たらしの麻紀さん。雑音はピンヒールで蹴とばして、涙はメイクで消してきた。麻紀さんがみんなを夢中にさせるのは、自分の人生をいつも情熱的に生きているから!