著者の五十嵐大さんとお母様

 ダイバーシティが謳われるようになり、SNSの発達とともにこれまで知られていなかった社会的マイノリティの人たちの存在が可視化されるようになりつつある。そのなかのひとつに「コーダ(CODA)」と呼ばれる人たちがいる。

 コーダとはChildren of Deaf Adultsの頭文字を取った言葉(CODA)であり、「聴こえない親の元で育った、聴こえる子どもたち」を意味する。この言葉が生まれたのは、1983年のアメリカでのこと。しかし、いまの日本で、この言葉を知っている人はどれだけいるだろうか。それくらい知られていない存在だ。

 本稿はそんな「コーダ(CODA)」の筆者が綴る、母との記憶。

◆   ◆   ◆

ぼくの「ふつう」と世間の差

 ぼくの両親は耳が聴こえない、いわゆる「ろう者」である。父は幼少期の病気が原因で聴こえなくなり、母は生まれつき、先天性のろう者だった。両親は耳が聴こえない、対して息子であるぼくは聴こえる。幼いころはそれが「ふつう」のことであり、聴こえる・聴こえないの違いはありつつも、手話で会話することができるぼくにとって、そんなことは別に大した問題ではないと思っていた。しかし、物心つくのと同じころ、それが「ふつう」ではないことを知る。

 両親、特に先天性の聴覚障害者である母は、なにかを言おうとしても、その発話がくぐもって響く。「こんにちは」は「おんいいわ」というように。それを初めて耳にした人は、なにを言わんとしているのか正確には理解できないだろう。

 あるとき、家に遊びに来たクラスメイトがこう言った。

大ちゃんのお母さんって、喋り方おかしいね

 ぼくの母の喋り方は「ふつう」ではないんだ。ぼくはクラスメイトを責めることができず、悪いのは、ちゃんと喋れない母なのだと思うようになっていった。彼女のせいで、こんなにも恥ずかしい目に遭う。残酷にも、そう思ってしまったのだ。

 そうして年を重ねるごとに、そのとき感じた恥ずかしさは、少しずつ母に対する怒りへと変容していった。

「どうしてちゃんと喋れないんだよ」
「どうして耳が聴こえないんだよ」
「どうしてぼくは、障害者の親を持たなきゃいけなかったんだよ」
「そんな親なんて、欲しくなかったよ」

 幼さもあって、怒りのまま、母にひどい言葉をぶつけたこともあった。でも、その言葉の一つひとつを母は受け止め、いつもこう言うのだ。

――お母さんの耳が聴こえなくて、ごめんね。

 眉尻を下げ、哀しみをたたえた笑顔を浮かべる母の表情を見るたび、ぼくは胸が締め付けられるような気持ちになった。……それでも、悪いのは母なんだ。そう思い込むことで、どうにもならない現実を呑み込もうとしていたのかもしれない。そのときは、想像以上に母を傷つけているだなんて、まったく気がついていなかった。

 加えて、近所にはあからさまに差別をしてくる人もいた。

「障害者の親に育てられている子どもなんて、ろくな大人にならないでしょうね」

 ぼくは障害者の子どもなんだから、差別され、迫害され、偏見をぶつけられる。障害者の子どもとして生まれた以上、それはしょうがないことなのだと心に蓋をするように幼少期を過ごしていった。

 次第に、母との間には距離が生まれた。「もしも母の耳が聴こえていれば、こんなに苦しむこともなかったのに」「母の耳が聴こえないから、人一倍苦しまなければいけないんだ」胸中にはいつも、そんな鬱屈した想いが渦巻いていた。

 だからだろう、中学生のころになると手話を使うこともやめ、母とのコミュニケーションに使うのは、もっぱら口話(口の動きを読み取り会話する読唇術の一種)になっていた。その上、理解してもらえるように、ゆっくり・はっきりと話す努力もしない。ぼくが言わんとしていることを理解できない母を見るたび、言いしれない苛立ちを募らせながら。

「なんで理解できないんだよ」「もっと努力して、ぼくが言いたいことを理解しろよ」あまりにも乱暴で、そんなぼくに、

――ごめんね。もう少しだけ、ゆっくり話してもらえる?

 そういって母は怒りをぶつけることはせず、ただひたすら申し訳なさそうにお願いするのだ。

母が聴きたかった本当の「音」

 そうやって開いてしまった距離を、母なりに埋めようとしていたのかもしれない。ある日、学校から帰宅すると、うれしそうにぼくを出迎えた。

――なにかあったの?

 切り出すと、母が髪の毛をかきあげて左耳を見せてくる。

 そこには薄いベージュ色の小さな機械のようなものが装着されていた。耳にかけられた部分から透明なチューブが伸びており、その先が耳の穴に続いている。

――これ、なに……?

――補聴器だよ。

――補聴器って?

 補聴器とは聴覚に障害のある人が装着する、音を聴き取りやすくするための器具だ。それにより、多少なりとも聴こえるようになるらしい。補聴器を見せた後、うれしそうに母は、

――なにか喋ってみて。

 とぼくに伝える。上機嫌な母に気圧されてしまう。早く早く、と急かされるまま、ぼくは呟いた。

……お母さん

 どうやら聴こえたみたいで、母はまるで小さな子どものようにはしゃいでいる。音が聴こえるようになったことがよほどうれしいのだろう。もう一回、と何度もせがんでくる。母のリクエストに応えるよう、「お母さん」という単語を繰り返した。

 この補聴器があれば、いままでもよりもスムーズにコミュニケーションが図れるようになるのかもしれない。多少なりとも聴こえるようになるのであれば、「ふつう」の親子に近づけるかもしれない。

 しかし、そんな希望の芽はあっという間に潰えてしまう。

「お母さん、聴こえる?」

 何度か呼びかけた後、母は言った。

――なんて言ってるの?

 先天性の聴覚障害者である母は、音声日本語で発せられる単語の意味を汲み取ることができなかったのだ。

 音がしていることはわかるものの、言語として伝わっているわけではない。

 その事実に、驚くほど打ちのめされてしまったことをよく覚えている。幼いころから母の耳が聴こえないことは当たり前のことで、それが治ることはないと理解していたにもかかわらず、補聴器の存在によりわずかな希望を持ってしまった。

 しかし、落ち込むぼくに対し、母はそうではない。初めて耳にする「音」が珍しく、とても楽しそうにしているのだ。テレビの音が聴こえると「ちょっとうるさいね」と得意げにし、祖父母の会話を聴いては「なんの話?」と首を突っ込もうとする。この瞬間、母はこの世に溢れているさまざまな「音」に感動を覚えていたのだろう。

 そんな母に尋ねてみた。

――それ、いくらしたの?

 するとびっくりするような金額を告げられた。

――20万円。

 それほど裕福ではないわが家にとってその金額は大金。障害者枠で雇用されていた父の給料は健常者のそれよりも遥かに低く、家計に余裕はなかった。それなのに、どうして補聴器なんて購入したのか。装着しても、本当の意味で“聴こえる”ようになるわけじゃないのに。

――高いね。

 思わずそう返すと、母はぼくがなにを思っているのか、瞬時に察したようだった。はしゃぐのをやめ、真剣な面持ちでぼくをまっすぐ見つめながら、

――高くないよ。

 反論するようにこう返す。

――いや、高いじゃん。20万円って、意味ある?

 馬鹿らしくなって話を切り上げようとすると、母がぼくの肩を抱いて続けた。

――高くないよ。だって、大ちゃんの声が聴こえるんだから

 母は言葉の意味を理解したかったのではなく、ぼくの声を「音」として聴きたかったのかもしれない。意味なんて理解できなくとも、ぼくの声がどれくらい高い音なのか、どんなペースで話すのか、その一つひとつを自分の耳で確かめたかったのだ。

――これからは、大ちゃんがなんて言ってるか、聴き取れるようになるから。

 そういって笑った母の顔を見ていると、なにも言えなくなる。ぼくはゆっくりと頷いた。それを見た母はまた目を細めた。

 その日の夜、母が寝室で補聴器を丁寧に拭いていた。慈しみを込めるように、ゆっくりと。通りがかり目が合うと、彼女は「おやすみ」と微笑んだ。

 その手にある補聴器は、まるで宝物みたいに光っていた。

◆   ◆   ◆

 あのころのぼくは、母の気持ちを微塵も理解できていなかった。当時の気持ちを思い出すと、とても恥ずかしくなる。ぼくはなんて浅はかだったのだろう、と。

 あれから20年以上が経つ。いまだに母は、あのとき買った補聴器を大切にしている。その補聴器を見るたび、母からの深い愛情を感じ、やはり胸が締め付けられてしまうのだ。

『ろうの両親から生まれたぼくが聴こえる世界と聴こえない世界を行き来して考えた30のこと』(幻冬舎)著者=五十嵐大 ※記事の中の写真をクリックするとアマゾンの紹介ページにジャンプします 
PROFILE●五十嵐大(いがらし・だい)●1983年、宮城県出身。高校卒業後、飲食店スタッフや販売員のアルバイトを経て、編集・ライター業界へ。2015年よりフリーライターに。自らの生い立ちを活かし、社会的マイノリティに焦点を当てた取材、インタビューを中心に活動する。ハフポスト、「FRaU」(講談社)、「ダ・ヴィンチ」(KADOKAWA)などに寄稿。