今年はデビュー30周年として、アルバムとフォトブックを発売し、コンサートも予定している。今でもファンは女性が多く、親子2代のファンもいるんだそう

 かつて注目を集めた有名人に「あの騒動の真っ最中、何を思っていたか?」を語ってもらうインタビュー。当事者だから見えた景色、聞こえた声、当時は言えなかった本音とは? 『C.C.ガールズ』初代メンバーだった原田徳子(51)。バブル末期に現れたセクシーグループの正体と、同期だったSMAPの忘れられない“事件”とは――。

C.C.ガールズ初代メンバーが語る秘話

 C.C.ガールズがデビューしたのは'91年。原田徳子はアダルトな“セクシーガールズユニット”のメンバーとして芸能活動をスタートした。

「“第1回日本美人大賞”の上位入賞者4人で結成されました。オスカープロモーションが『国民的美少女コンテスト』の“大人版”として開催したんです」

 原田は子どものころから歌手志望で、松田聖子や中森明菜に憧れていた。18歳でコミック誌のミスコン準グランプリとなり、スカウトされて石川県から上京する。

「まさか自分が“セクシーイメージのグループ”に入るとは思いませんでしたね。それまでは人の前で水着になるなんて体育の授業だけでしたから(笑)。ただ、後から出てきたグループに比べると露出は少なめでしたし、4人でよく“セクシーって誰のこと?”って言ってたんです(笑)」

 健康美という印象が強かった。特に原田は根っからのスポーツ少女だったという。

「地元の石川県七尾市では小学校から高校までソフトボールをやっていて、ぼんやりですがオリンピック出場を夢見ていました。高校では県大会で優勝して、県の強化選手に選ばれたことも。でも、どうしても歌手になりたい気持ちのほうが強くて」

 C.C.ガールズになってからも行動は体育会系。

「どちらかというと“色気より食い気”でしたね。地方でコンサートや収録が終わると、とにかく食べに行っていました。各地のおいしいものはすべて把握。新幹線のどこのホームにおいしいお弁当があるか、とか。激しいステージをこなしていたから、たくさん食べても大きく太ることはなかったんですね

 デビューした年が同じだったSMAPとは仕事で一緒になることも多かった。

「大阪でのテレビ収録の帰りが偶然にも同じ新幹線で、そこにSMAPのファンも乗ってきたことがありました。私がメンバーと一緒にトイレに行ったとき、ドアの横に女の子たちが立っていて“すみません、コレを木村君に渡してくれますか?”って、すごく丁寧に頼まれたので“いいですよ”って、ごく普通な気持ちで引き受けたんです。

 そのことを知った木村君が、ダダダーッとファンのほうへ駆け寄って“お前らさ、なにCCさんにそんなこと頼んでんだよ! 失礼だろ!”って、すごい剣幕で怒鳴りつけたんです。“わわーっ!”って驚きましたが“私たちなら大丈夫、気にしないで、私たちが引き受けたのだから……”と、なぜかとっても記憶に残っている出来事です」

C.C.ガールズが『D.D.GAPS』という別名義でデビューした'91年に6人組のSMAPもデビュー

 C.C.ガールズはバラエティー番組でも活躍。『爆笑! スターものまね王座決定戦』(フジテレビ系)にはたびたび出演していた。

右から原田徳子、青田典子、藤原理恵、藤森夕子。この曲は'94年JALキャンぺーンソング。C.C.ガールズはANAの森高千里に対抗して抜擢されたという

「私たちは真剣で、ものまねをするというより“歌って踊る仕事”という気持ちでした。審査員の野口五郎さんが私たちのミニスカを見て“デレッ”とするのがお決まりで“1回戦と2回戦の華”的なイメージでしたが、1度だけ優勝も。決定戦で私がミュージカル『キャッツ』の代表曲『メモリー』をメインボーカルで歌ったんですよ。

 厳しかった淡谷のり子先生に10点満点をつけていただき、司会の研ナオコさんにも“あなた、歌うまいのね”って言われて大泣き。何よりも本業の方に認めてもらえたことがうれしかったんです

ファンクラブは女性が多い!?

『ものまね王座決定戦』の視聴率は30%以上。C.C.ガールズの名はお茶の間にどんどん浸透していく。

「地方イベントとかホテルのディナーショーに出演すると、お子さんからおじいちゃん、おばあちゃんまで私たちを見に来てくれました。私のファンは小学生の女の子も多くて、雑誌『りぼん』の付録になっているような便箋で手紙を送ってくれるんですよ。意外かもしれませんが、C.C.のファンクラブ会員は女性のほうが多かったんです

 雑誌『小学五年生』の人気アンケートでも1位になった。

 '94年にはJALや資生堂のCMに起用される。芸能活動は順調だったが、かなわぬ夢があった。

「『紅白歌合戦』に出場できなかったのは心残りですね。『さんまのまんま』と『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングに出て『紅白』にも出てセンバツ高校野球の入場曲になる目標があったんです。でも残念ながら私たちにはそこまでのヒット曲がありませんでした。毎年、大みそかのスケジュールをあけていたんですが(笑)」

 原田は'95年にC.C.ガールズを卒業。

「25歳になり、人生についての心の変化を感じるようになりました。1度ひとりになって、原田徳子の人生を見つめてみようと思ったんですね。C.C.に関しては全力でやり切った感がありましたし、次のステージにいこうかなと」

 同時にメンバーだった藤原理恵も抜けて、4人が2つに分かれたことから、グループ内の対立を噂された。

“不仲説”は何度も言われました(笑)。全員20歳を越えていたので、感情的なもめごとはなかったんですよ。仕事に関する前向きな意見の相違や交換はありましたが、みんな大人でしたから、言い合いやケンカはありませんでした。まあ不仲説はグループにはつきものなので(笑)

バブル青田には追いつけない

 原田は卒業後、しばらくすると表舞台から姿を消す。

「引退ではなく、無期休業です。しばらくソロで活動してから、結婚してロスとパリに住んだりもしました。現在はシングルに戻っていますが“私は一生、結婚しないタイプかも”と思っていたので、素晴らしい経験をさせていただいたと感謝しています」

 '09年に歌手・原田徳子として本格的に活動を再開。

復帰したばかりのころ、テレビ朝日系の『ロンドンハーツ』に青田典子さんから“一緒に出演しよう”と、お誘いをいただいたのです。でも丁重に断りました。“バブル青田”として活躍している彼女に、私のキャラでは追いつけないですよ(笑)。“すごいね! いつもテレビで見てるよ”って伝えました。

 でも、昨年ごろからテレビ出演のオファーが増えまして。先日も久々にクイズ番組に出演したのですがファンや故郷の方々が喜んでくれて、知人や友人たちからも“見たよ!”と連絡があって、反響の大きさに改めて驚いてます(笑)

 今も初代C.C.ガールズ復活を待望する声が絶えないが、原田はどう思っているのか。

「そんな声が本当にあれば、とてもうれしいこと。何年か前に再結成の話がありましたが、個人的には人さまのお役に立てるような、例えばどなたかの希望になれる企画ならば考えても……という思いがなくもないのですが、ただ、なんとなくのムードでは……という感じでしょうか」

 再結成は難しそうだが、原田にとってC.C.ガールズは今もかけがえのないものだ。

「宝物のような時間でした。忙しかったけれど、あのメンバーだったから、苦楽も含めてあの時代を乗り越えることができた。誰が欠けてもダメだったろうなって思います。私にとっては“宝石箱”なので、簡単には開けられないんです」

 C.C.には“COOL & CLASSY”という意味が込められていた。クールで高貴な思い出は、ずっと輝き続けている。