「彼女には『鉄の女』でいる理由がある」東の夫はそう言って微笑む。3月18日、突如「胃がん」を公表した東ちづる。会見では、同情は無用! と言わんばかりのバイタリティーに満ちた姿で報道陣を圧倒してみせた。数々の困難をステップアップにつなげてきた東。彼女の周りには、差別や偏見、病と闘い、ともに称え合うたくさんの仲間の姿があった──。
オリパラ大会公式文化プログラムを担当中、胃がんが発覚
東京にある渋谷区文化総合センター大和田のホール。
その舞台上に女優でタレントの東ちづる(60)の姿があった。悪魔のような魔法使いのような黒の衣装。まるでハロウィンのようなコスチュームに身を包み、演者やスタッフたちに向かってテキパキ指示を出している。
「みんなタイミングをもっと合わせて、ちゃんとお客さんのほうを向いてくださいね」
3月18日、東が座長を務める「まぜこぜ一座」の舞台『月夜のからくりハウス 渋谷の巻』のリハーサルが行われていた。全盲の落語家、ろう俳優、義足や車椅子のダンサー、自閉症のダンサー、小人プロレスラー、女装詩人、ドラァグクイーンなど“マイノリティー”にくくられる演者がズラリ。そこに極悪レスラーのダンプ松本やアコーディオン奏者なども加わり、障がいの有無にかかわらず、まぜこぜになって、パフォーマンスを披露していく。
東は、障がいのある人や生きづらさを抱えた人たちの創作活動を行う「まぜこぜ一座」を2017年に旗揚げし、演劇の総合演出を務めてきた。
そんな実績が認められ、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会公式文化プログラム「東京2020 NIPPONフェスティバル」のひとつの文化パート総指揮者にも就任。「多様性」がテーマとなる映像制作の準備も着々と進んでいた。
だが、冒頭のリハーサル同日、突然開かれた記者会見で東は「胃がん」を公表した。
「私、胃がんだったようなんです。でも、内視鏡で切除しまして、こんなふうに元気になって、日々バリバリやっております!」
昨年11月末に、胃痛と貧血の症状で診察を受けたところ胃潰瘍(いかいよう)と診断され、1週間の入院。念のため12月初旬に受けた精密検査で早期の胃がんが発見されたのだ。
今年2月3日に内視鏡的粘膜下層剥離術を行い、13日には退院していたという。
会見での姿は溌剌(はつらつ)としていたが、改めて本人に話を聞いてみた。
「胃潰瘍が、がんを教えてくれたと私は思っています。胃潰瘍にならなければ気がつかない可能性もありましたから」
東は「スキルス性胃がん」を恐れていたと明かす。
医師に詳しい説明を聞きに行く前、家にいた夫にはこう告げていた。
「たぶん早期のがんなんだと思う。でも、もしスキルス性だとしたら今後のことを話し合いたい」
スキルスとは、「硬い腫瘍」を意味する言葉。一般の胃がんとは異なり、胃の壁に沿って染み込むように患部が広がっていく。症状が現れにくく、悪化してから発見されることが多い。5年生存率は7%未満といわれている。
そのため、「死」を連想しなかったわけではなかった。
「いちばんに考えたのが、引き受けたオリパラの仕事でした。引き継いでくれる人を探さなきゃならないと思った。これは私じゃなかろうが、実現させねばならない。とりあえず、あと1、2か月命があるんだったら、ガッチリと信頼できる映像班で、編集もこんな感じでとどう伝えればいいか真剣に考えました。
あとは夫が1人になったらどうなるのか、形見はどうしよう、少ないけど遺産はどうなるのか、最後に旅行にも行きたいなとか……」
東の夫、堀川恭資さん(58)は、妻の異変を感じ取っていた。
「具体的に言葉には出さないけど、長く一緒にいるので、僕には彼女が普段と違って見えて、不安な気持ちでいるのがわかりました」
それでも、悩んだのはたったのひと晩。スキルス性ではなく、初期の胃がんと判明した後は、すっかり普段のペースを取り戻していた。
東には、がん告知に動じずにいられた理由がある。30年以上にわたり『骨髄バンク』の活動に携わり、数々の死を目にしてきたからだ。
「こういう活動をしていると、私より若い人がたくさん亡くなるんですよ。ある日突然、仲間がいなくなる。骨髄移植で成功する人もいれば、亡くなってしまう人もいる。毎日のように弔電を打って、白い花を贈っていた時期もあります。“なんでうちの子なの……”って泣くご遺族の姿もたくさん見てきました。人生は本当に思いどおりにはならない。生と死は隣り合わせだと学んだんですよ」
ひと呼吸おいて、「今の私はたまたまラッキーだっただけですね」と微笑(ほほえ)み、その声は弾んでいた。
「私、胃がんだと聞いて、自分の身体にゴメンなさいと謝りました。私が悪い、生活を改めますと誓った。
生っきよう♪ 一生懸命生きようって、思いましたね。自分を使い切ろう。絶対無駄にしないぞ、と」
優等生の挫折と母の言葉
1960年、広島県因島市(現在の尾道市因島)で、造船関係の仕事をしていた父と会社員だった母の長女として生まれた。
「母親は、子育て本を読みあさって、それはもう一生懸命に私を育ててくれました」
幼いころから、母親は毎晩本の読み聞かせをしてくれたという。
「母からは『1番にならないといけない』『優しい子でいてね』『ちゃんとしなさい』と教えられ、私もそれに頑張って応えていました」
成績はずっとトップクラス。家の居間の壁には東の賞状がずらりと貼られていた。周囲の期待を感じ、いつの間にか何となく教師を目指すようになっていた。
目標は、国立の広島大学の教育学部。誰もが彼女の合格を信じて疑わなかった。
ところが──受験は失敗。そのとき、母がつぶやいた言葉が忘れられない。
「母はボソッとつぶやくように言いました。“18年間の期待を裏切ったわねぇ”って。それはとてもリアルでした。景色が霞(かす)んで、壁の賞状がボンヤリと目に入った」
あまりに大きな衝撃だった。浪人する道もあったが、母親の言葉にショックを受けた東は、大阪の短大に滑り込む。
小さな島から出て、大阪という大都会でひとり暮らし。それまでの自分を知る人が誰もいないという解放感を堪能し、卒業の日を迎えた。
有名企業の会社員から芸能界へ
当時は、「青田買い」という言葉があるくらい就職には有利な時代である。誰もが知っている有名企業に就職し、イベントプロモーション、ショールームを運営する会社の広報部に配属された。
「年功序列もなくて、新入社員でもすぐ企画が出せました。ワクワクするような毎日でしたね。職場の雰囲気も労働条件もよかった。お茶くみとかコピー取りといった雑用は一切なし。それでも、女性の昇格には高い壁があった。後輩の男性社員に追い越され、納得できないこともありました」
東は、満たされた日々を送るために「仕事以外」のことに熱中した。休日のアルバイト、ウインドサーフィン、テニス、スキー、ディスコ、食べ歩き、旅行、デート……。忙しく時間を使うことで「生きている」という実感を得ようとした。
「会社の有休を週末にフルに使って、黒姫高原のペンションに居候してアクティブに活動してましたね。インストラクターの資格を取るくらい熱中してました」
このころ、東には学生時代から交際していた恋人がいたが、大失恋を経験する。
「原因は私の強い依存心。ムードだけの口約束だけでは不安だった私は、結婚への約束、保証が欲しかった。それが彼のプレッシャーになったんですね」
当時は、結婚や出産を機に退職する「寿退社」が華だった。結婚が決まらない人はやがて「お局」と呼ばれるようになっていく。
「寿退社」という選択肢を失った東は、進むべき道に迷い始めていた。
「私は組織には合わないんじゃないか、と思うようになっていました。とはいえ安定からこぼれ落ちるのも怖い。
一方で、もっと自分を表現できる仕事がしたい、という思いも強くなっていたんです」
そんなある日、十二指腸潰瘍を発症。医者には「仕事を辞めればきっと治りますよ」とあっさり言われてしまう。
時代はバブル期。一流ブランドの会社を捨ててもどうにかなる気もしていた。
「スキーのインストラクターにでもなればいいぐらいに思って、会社を退社しました」
会社を辞めた東に声をかけたのは、芸能事務所に勤める友人だった。「遊びにこない?」と誘われたのは芸能プロダクションのオーディション。軽い気持ちで会場へ向かった。それが人生を大きく変えることになるとも知らずに……。
ド派手なファッションだった東は司会者の目に留まり、ステージに上げられた。何しろ、髪はソバージュ、ピンクのヘアバンド、白い革ジャンにピンクのTシャツ、白いパンツにハイヒール……。
「いつクラブやディスコ、パーティーに誘われても大丈夫なように、普段からそんなスタイルだったんですよ(笑)」
実は、友人が東をオーディションに出演させるよう仕組んでいたのだという。
「そのオーディションは、新人の最終選考でした。テレビ局のプロデューサーやディレクター、制作会社の人たちが審査員だったんですね」
東は、ステージでテレビに対する自分の意見を語った。そして男性司会者と腕相撲をして勝ってみせた。さらに、ガタイのいい司会者に向かって、「ここさぁ、あなたの仕事としては面白く見せるところでしょ?」とツッコミ、会場を沸かせたのだった。
「私は何の欲もないから、すごいリラックスしてたんです。みんなめっちゃ緊張してやってるのに、私は普通に笑いを取りにいったんですね」
その場でグランプリを受賞。審査員の数人が、「この子をすぐ使いたい」と次々手を挙げた。
初仕事はテレビの情報番組のレポーターだった。
「会社で広報担当をやっていて、イベントなどでレポーターに指示を出す立場でしたから、何をすべきか現場のノウハウはすべてわかっていたんですね。なんて要領のいい子だと思われました(笑)」
当時は、芸能界の仕事は単なるアルバイトのつもりだったが、だんだんテレビの仕事が増え、東は現場をこなしながら実力を磨いていった。
帯番組の司会を務めるようになると、料理番組『金子信雄の楽しい夕食』(朝日放送)の出演を射止め、全国ネットにデビュー。2年後には『THE WEEK』(フジテレビ系)の司会に抜擢(ばってき)されて上京する。時事問題を扱うバラエティー番組やドラマにも出演するようになり、大阪6本、東京で5本のレギュラー番組を持つ超売れっ子になった。「お嫁さんにしたい女優ナンバーワン」にも選ばれている。
少年の本当の気持ちが知りたい
東は、そんな活躍の一方で、骨髄バンク啓発の活動を始めるようになる。
きっかけは32歳のとき。自宅で情報番組を見ていると、画面に17歳の高校生が現れた。
「彼は白血病でした。私の故郷の因島の男の子で、余命いくばくもないかもしれないとナレーションが入りました。とにかく泣かす音楽と泣かす演出でした。けれど、その子は泣くでも怒るでもない。それでスタジオのアナウンサーが『病気に負けずに頑張ってほしいですね』と言ったんですね。『えー!』と思いましたよ。だって、頑張ってんじゃん。泣き言も言わずに」
テレビの仕事を始めて7年。東はテレビの持つ巨大な力の強さをひしひしと感じていた。
ところが、その情報番組は“お涙ちょうだいの演出”にすぎず、少年の真意はくんでいないと感じ、愕然(がくぜん)とした。
少年の本当の気持ちが知りたくて、「居ても立ってもいられなくなった」彼女は、連絡先を調べ、彼の自宅に衝動的に電話をしてみた。
「少年のお父さんが出ました。けれど、全国から電話があったんでしょうね。『どうもありがとうございます』と言うだけで切られてしまいました。しばらくして、男の子の妹から私の元に分厚い手紙が送られてきたんです」
手紙には、「骨髄バンク啓蒙(けいもう)のためのポスターを作ってほしい」と綴(つづ)られていた。それこそが少年がテレビに出て伝えたかったことだったのだ。
「だったら、番組でそのことを伝えるべきじゃないか。それはすごく申し訳ないことをしたなと思いました。私の番組じゃないけど、テレビ業界にいる人間としてね。これは完璧に作り手の課題だと思ったわけなんですね」
東は、少年が出演した番組の担当者にも連絡を入れた。
「彼はなぜテレビに出たのか、そしてどうしてメッセージが伝わらなかったのかと尋ねたら、担当ディレクターから『テレビだよ、数字取らなきゃ』と言われました。それも正解ですよ。でも『数字も取りつつメッセージも発信する、両方できるんじゃないですか』と言ったら『まじめだね』と」
骨髄バンクとは、白血病をはじめとする血液疾患などのため「骨髄移植」などが必要な患者と、骨髄を提供するドナーをつなぐ事業のことだ。
厚生労働省の調査によると、日本では毎年新たに約1万人以上が白血病などの血液疾患を発症している。そのうち骨髄移植を必要とする患者は、年間2000人を超える。
東が活動を始めたのは、日本で骨髄移植が実施される以前のことだ。自分が何か行動を起こさなきゃいけない、という衝動に駆られたと言う。
「何もしないということは、溺れている人を見て素通りするような感覚があった」
錚々(そうそう)たる一流の業界の仲間を集めてポスターを制作。プロのクリエーターたちによるモノクロ写真を使った斬新な仕上がりだった。病院、学校、企業に配布し、貼ってほしいと呼び掛けたが、想定外の壁に直面する。
「いろんなポスターが送られてくるから貼る場所がない、と断られるんですよ。そのとき、骨髄バンクがまったく認知されていないと知りました。
日本中の患者さんをつなげて、骨髄バンクを知ってもらうことが先決だと思い、関係者を探して連絡をとっていったんです」
やがて患者会と連携して講演やシンポジウムなどを開催するようになる。しかし、「骨髄バンクについて語ろう」という趣旨のイベントを開いても、集まるのは関係者だけ。興味のない人をどう巻き込むかが課題だった。
「そこで思いついたのが、『泣いて笑ってボランティア珍道中!』というタイトルをつけ、さらに『芸能界の裏側まで話しちゃう!』というコピーで一般の人々を呼び込み、骨髄バンクの話をしてパンフレットを持っていってもらうという作戦でした」
芸能人による活動には、反発もあった。週刊誌などは、こぞって「売名行為だ、偽善だ」「パフォーマンスだ」という記事を書きたてた。
「そのときに闘ってくれたのが、所属事務所ではなく活動仲間でした。出版社に電話して『まったくパフォーマンスなんかじゃないですよ。東さんは全部自分で動いているんですよ』と言ってくれたり、手紙を出してくれたりしたんです。あ、大人になっても仲間ってできるんだと思いましたね」
全国骨髄バンク推進連絡協議会元会長の大谷貴子さん(59)は、自身が白血病を発症し、ドナーから移植を受けたことから活動を始めた。彼女は、東をこう評価する。
「東さんは決して迎合しないし、ヘラヘラもしない。だから敵もいるけど、味方もたくさんいます。脳より先に足が動く人ですね。賢いんだけど、ずる賢いイメージの“クレバー”ではなく、“スマート”な人。だからダメなものはダメとはっきり言ってくれる。でも、とっても楽しい人でもあります」
母と娘でカウンセリングへ
芸能界での活躍、骨髄バンク啓蒙運動の陰で、東は精神的な悩みも抱えていた。
自分がAC(アダルトチルドレン)なのだと知ったのは、37歳のときだ。
「あのころの私は、周囲の期待通りに振る舞いながら1人になると、訳のわからない焦燥感に押しつぶされそうだった。『生きていて何の意味があるのだろうか』なんて思い悩んでいたころでした」
アダルトチルドレンとは、子ども時代に、親との関係で何らかのトラウマ(心的外傷)を負ったと考えている成人のことで、その傷が現在の生きづらさやパーソナリティーに影響を及ぼす状態を指す。
「18年間の期待を裏切った」
大学受験に落ちた日、そう口にしたことを母は忘れてしまっていた。だが、母の言葉に東は、その後も長くとらわれていた。そのため、東は高校時代の記憶が抜け落ちている。これは「解離」と呼ばれる精神障害のひとつ。記憶、意識、感情、感覚、思考などの心の働きが、一部切り離されてしまっていたのだ。
「母に遠慮している自分を変えたかった。そばから見れば仲よし親子だけど、実は関係性は崩れていた。ちょうど父が亡くなった後で、大きな反省と未練もありました。もっと対話すべきだったなあという。とにかく母が生きているうちに関係を取り戻したい、そして本当の私を知ってほしいと思った。また、母自身にも、妻、母ではなく、それ以前のアイデンティティーを取り戻してほしいという思いがありました」
東は「カウンセリング」という心理療法を2人で受診したいと母に迫った。
しかし、母親の説得には2年もの時間がかかった。母親の英子さん(82)が言う。
「カウンセリングなんて言われても理解できないですよ。催眠術かけられるのかなって(笑)。でも、ちづるから『そうじゃないから』って何度も説得されて、受けました」
8か月、計12回にわたって母とカウンセリングを受けた。「変化はめちゃめちゃあった」と東は言う。
「それ以前は、母が傷つかないような、悲しませないような言動をしていたと思うんです。お互いに心配をかけてはいけないと思いがちだった。でも今は、『今日はしんどい』『私は嫌だ』と普通に言えるようになったんですね」
母親の英子さんは、自分の盲信に気づいたという。
「私は、21歳という若いときにあの子を産んで、それも未熟児だったから、余計になんとかちゃんと育てなきゃ、という気持ちがあった。だから、育児書を読みあさって『あの子のために』と頑張ってきた。それが、あの子につらい思いをさせてたなんて考えてもいませんでした。『ああ、そうだったの?』と素直に謝れました」
カウンセリングが終わって飲みに行った日、母は娘に謝罪の言葉を伝えたのだ。
東はその言葉を聞いて初めて、「私は母に謝ってほしかったんだ」と自覚したという。
夫の難病と向き合い、団体設立
東は、パートナーである堀川恭資さんと暮らして今年で26年目になる。堀川さんは、広告などにタレントやモデルなどをキャスティングする、キャスティング・コーディネーターをしていた。
共通の友人であるスタイリストから紹介されたのが出会いだった。
東の第一印象を堀川さんはこう振り返る。
「面白い人だなと思ったのと、ほかの芸能人とは違うなと思いましたね。すごく勉強熱心で、やっぱり会社員を経験しているせいかなとも思いました」
映画や食事に出かけるうちに距離を縮め、'95年には事実婚、'03年に入籍した。夫は飲食店を経営するようになり、幸せな生活を送っていた。
ところが2010年、突然堀川さんが「ジストニア痙性斜頸(けいせいしゃけい)」を発症してしまう。自分の意思とは関係なく、筋肉が収縮する症状が首や肩に生じるもので、頭が回転したり、前後左右に傾いたりする。
脳の機能がうまく働かなくなることが原因で発症するらしいが、詳細は明らかにはなっていない。東が言う。
「2年間は寝たきりでした。しんどかったのは、最初は病名がわからなかったこと。闘う相手がわからないのが気持ち悪かったですね。どう治療していいかもわからない」
それでも、西洋・東洋医療、民間療法など、宗教と霊的なもの以外は何でもやってみた。そして専門の医師と出会ったことで徐々に改善し、現在では多少の苦労はあるものの、車椅子生活を送っている。自動車の運転や軽い散歩もできるほどになった。堀川さんが言う。
「発症して2年間は、本当に彼女もつらかったと思う。僕をみて仕事に行って『彼がどうなってるかわからないから』と好きなお酒も飲まずに急いで帰ってきてね。寝ていても僕は熟睡するまでずっと頭が動いているからその衣(きぬ)ずれで彼女は眠れなかっただろうし」
2012年、夫がリハビリに励む中、東は『一般社団法人Get in touch』を発足。音楽やアートなどエンターテイメントを通じて、誰も排除しない「まぜこぜの社会」を目指す活動をスタートさせた。
「なぜやるの?」と反対し続ける堀川さんに東は言った。
「他者のため、社会のためにやることがあなたのためにやることなの。このままだったら、私たちは生きづらくてたまらない。社会が少しは変わってくれないと、我慢すること、耐えること、諦めることばっかりになってしまう。やらなければ何も変わらない」
そして、2人の意見がぶつかったまま、『Get in touch』のイベントの日が訪れる。東が会場に到着すると、「東ちづる様」と書かれた段ボールが届いていた。差出人は書かれていない。
「え? なんだろ?」
「怖い、怖い」
もしかしたら、反対派の嫌がらせかもしれない。訝(いぶか)しく思いながら中を開けてみると、中には「Get in touch」のロゴマークが印刷された缶バッジが何百個も入っていた。
「夫からのプレゼントだったんですね。私に内緒でスタッフからロゴマークのデータをもらいプリントしてたんです」
堀川さんは今、妻に“感謝”を伝えたいという。
「反対していた当時は、自分のことだけでも大変なのに、なぜ社会のために他者のためにと……。理解するまでに時間がかかりましたね。
今振り返ってみると、僕も含めて『まぜこぜ』の社会のためにやらなければということだったんですね。今彼女に伝えるとしたら、やっぱり『ありがとう』かな。病気になって11年間ありがとう、一緒にいてくれて26年間ありがとう」
『Get in touch』の活動の中で、スタッフの目に東はどう映っているのだろうか。
2015年から事務局の中心スタッフとして活動している柏木真由生(まゆう)さん(47)は「ちづるさんと一緒だとジェットコースターに乗っている感覚」だと言う。
「とにかく走り出す。(クルマは)走りながら組み立てるわよ! という感覚ですね。それでも、しっかりメンテナンスもして、乗り遅れないでね、と声をかけることも忘れない。ちづるさんは『ピンチはチャンス』が口癖です。どんなことでも面白がる」
驚かされるのは、車椅子ユーザーの関係者が、のんびりしていたりすると、東が「もう、遅い。立って歩きなさいよ~」などと言ったりすることだ。そう言われた車椅子の人はうれしそうに笑い返す。
柏木さんたちスタッフは、初めて耳にした時は驚いて言葉を失ったという。
「私たちにしてみれば完全にアウトですよね。でも、ちづるさんには普通のこと。
『障がい者にはやさしく接しなければならない』と思っていたら、あんな冗談はとても言えない。けど、ちづるさんは言っちゃう。誰でもできることじゃないですよね」
腫れ物に触るのではなく、自然ときついジョークも交わせる関係。その自信と覚悟があるからこそ、ぐっと距離を縮められるのだ。
ハッピーエンドにはしない
昨年11月、東京オリンピック(五輪)・パラリンピック大会公式文化プログラムの依頼を受けた東は、引き受けるかどうか1か月以上悩んだと明かす。
「今までずっと粛々と『Get in touch』の活動を続けてきて、こんな晴れ舞台に出て、もしもバッシングを受けたら活動自体に傷がつくんじゃないか、という不安もありました。もちろん、たくさんのプロがいる中、私でいいのかということもありましたけどね」
背中を押してくれたのは、仲間の言葉だった。
『Get in touch』のメンバーに「こんな依頼が来ているんだけど」と打ち明けると、
「ちづるさんがずーっとやってきたことの積み重ねが大きな形になりますね」
「やっとですね、やっとですね。こういうチャンスを作るために私たちは頑張ってきたんですよね」
みんな口々にそう言って涙を流したのだ。東も目を潤ませて言った。
「ああ、そうか。こういう仲間がいるんだったら大丈夫だなと思いましたね」
世界配信される映像のテーマは『多様性』。タイトルは「MAZEKOZEアイランドツアー」だ。
「冠パートナー企業がJALなので、飛行機で多様な島をツアーしていくというコンセプト。(飛行機の)機内に乗るとドラァグクイーンのCAさんがいて、『さあ、みなさま。次の島はですね』と案内をする。その島には、障害のあるダンサーや全盲のシンガー・ソングライターなどがいろんなパフォーマンスを見せてくれる。いろんな人たちが参加して、アートや音楽やパフォーマンスを見せていくというもの。1本の映画ですね。これは、私の29年目になる活動の集大成なんです」
東は、作品にこんな思いを込めようとしている。
「ここ何年か、『多様性を目指す』とか『共生社会を目指す』という言い方をされることが多いんですが、“目指す”というのがそもそもおかしい。すでに私たちは、『まぜこぜの社会』にいるんです。全員が多様な色とりどりの人たちの1人で、一緒に生きているんだと。
でも現実は、多様な特性が理解されなかったり、尊重してもらえないことで、生きづらさを感じている人がたくさんいます。傷ついている人がすぐそばにいるのに、なぜそのことに気づけないのか? 頭では人権を理解しているつもりでも、実感はできていないのかもしれませんね」
韓国や欧米と比較しても、日本の「多様性」への意識は遅れていると指摘する。
「LGBTQを差別していないと言うけれど、日本はうわべだけ。例えば、欧米や韓国のドラマでは、学校や会社が物語の舞台になると、日常的にマイノリティーの小人や同性愛者や障がい者が登場します。日本の映画やドラマでは彼らが出てくるとしたら、それがメインテーマになってしまう。それを克服する感動ものになっちゃう。『日常的に一緒にいる』という描き方がまだできないんですね」
そこで東は「共生・多様性」を可視化、体験化できる映像を企画したのだ。
「私たちの作品の内容は基本的には、楽しく笑えて泣けて、最後はモヤモヤする。すっきりはさせません。実は最初はハッピーエンドにしてたんですよ。でも、森喜朗前会長の女性蔑視の発言があって、やめました。世界中が怒ったのに、私が『日本は多様性OKですよ』みたいな映像を作ったら、私が見せかけのヒューマニズム、美談にしちゃうことになるでしょう?」
東の考えやアイデアを言語化し、舞台の脚本を担当する尾崎ミオさん(55)は言う。
「ちづるちゃんは、パッションと感性の人。一緒にワクワクしながら刺激的な冒険の旅を楽しんでいる感覚がある。面白いからやめられない(笑)」
夫の堀川さんは、東の体調を気遣いながらも、こう理解を示す。
「手術後も100%体力は戻ってないけど、彼女にはやらなきゃいけないことがいっぱいあるので、気は張っていると思います。
彼女は外から見ると『強い、可愛くない、女らしくない』と思われるかもしれない。けれど、僕からしたら『弱くて優しい女性』です。でも、そのままだと男社会で闘うことができないから、あのサッチャーのように『鉄の女』でいるのかもしれないですよね」
今、東ちづるは「多様性・共生」という言葉を死語にしたいと意気込んでいる。
「ピンチはチャンスだなと思ってるんです。ピンチってことは、こうじゃない別の方法を選べ、ということ。あ、ほかにもっといい方法があるんだってサイン。だから、まったくめげないですね!」
《取材・文/小泉カツミ》
こいずみかつみ ノンフィクションライター。社会問題、芸能、エンタメなど幅広い分野を手がける。文化人、著名人のインタビューも多数。著書に『産めない母と産みの母~代理母出産という選択』など。近著に『崑ちゃん』『吉永小百合 私の生き方』がある