3月25日、岐阜市の河渡橋で路上生活をしていた渡邉哲哉さん(当時81歳)が襲われ死亡した事件からちょうど1年目、傷害致死罪に問われた、元少年2人(ともに20歳)の裁判員裁判の判決が、岐阜地裁であった。
「今日は渡邉さんの命日。朝から雨で、渡邉さんが天国で泣いている気がした」
渡邉さんと20年間ともに生活し、一緒に襲撃をうけた女性・アイさん(仮名・69歳)も、傍聴席に着き、固唾をのんで判決を待っていた。
「主文……」
出口博章裁判長は、渡邉さんに致命傷を与えた元少年Aに懲役5年(求刑懲役8年)、共に現場にいた元少年Bに懲役4年(求刑懲役6年)を言い渡した。
判決によると、2人は共謀し昨年3月25日未明、河渡橋付近で渡邉さんを襲撃。約1キロにわたって追いかけながら石を投げつけた。Aが投げた土の塊が渡邉さんの顔に命中し、転倒して脳挫傷などで死亡させた。
判決理由では「執拗で陰湿、卑劣な犯行」と指摘。事件前から面白半分に投石をくり返し、渡邉さんに追いかけられるなどのスリルを楽しんだ末の犯行で、被害者は一方的にいわれのない暴行を受け、「理不尽で厳しい非難に値する」と断罪した。
一方で「ことさらに痛めつけようとはしておらず、強い攻撃の意志があったとは認められない」と指摘。2人が「事実を認め反省の態度を示していること」や、20歳と若く、更生のために親が支援する意向を示していることも考慮した、という。
判決を聴いて、アイさんは「あまりに軽すぎる、私は納得できない」と、憤りを語った。
襲撃現場には10人以上が行っていた
一年前の事件当初から取材を続け、アイさんを支援してきた筆者が知りたかったのは、少年たちはなぜ「ホームレス」の渡邉さんとアイさんを、くり返し襲ったのか。その動機、背景、心理、そして今はどう思っているのか。初公判から結審まで全5回の審理を傍聴した。その手がかりはあったか、報告したい。
初公判の日、東京から始発の新幹線に飛び乗り、岐阜地裁へ向かった。
午前10時、元会社員のA、無職の元少年Bが、ともに黒っぽいスーツに紺のネクタイ姿で入廷した。マスクで顔が覆われ表情はわからない。Aはスポーツ刈りが伸びた頭、Bは襟足まで長く髪がのび、目元もほぼ前髪に隠れていた。罪状認否では、二人とも消え入りそうな声で「間違いないです」と起訴内容を認めた。
検察官の冒頭陳述によると、被告人らのグループは、3月6日から25日当日までの20日間で、計7回にわたって襲撃に行っていたことがわかった。さらに驚くべきは、
襲撃に関与していたのは、「A、B、C、D、E、F、G、H、I、J」と称される当時19歳の元少年たち10人。さらに、その「彼女」や「友達」なども含めると、10数人が襲撃現場に行っていた。公判では、そのうち、F、G、Hの3名が法廷で証言した。
事件当日、AとBは、当時、朝日大学硬式野球部員の3人、C(傷害致死の非行内容で少年院送致)、D、E(嫌疑不十分で不起訴)の計5人で、車で現場に行き、二手に分かれて投石を始めた。検察側の証拠調べでは、当日、被告らが投石の合図を送りあう、スマホの通話アプリの音声も明らかになった。
「俺らいけるよ」「じゃあ、3、2、1、でいくで」「いくよー。3、2、1、ライト、ライト、ライト」といった肉声を、裁判員らは実際にイヤホンで聴いていた。
衝撃だったのは、廷内のモニターに映し出された、河川敷現場の監視カメラの映像だった。暗闇の中、堤防下の狭い道を、自転車を押しながら逃げるアイさんの影と、その後を追う渡邉さん。アイさんの前に突然、まぶしい光と人影が立ちはだかり、すぐに渡邉さんの背後にも光が近づき、2人は前後を挟み撃ちにされた。
「怖かった、怖かった、殺されると思った」と、アイさんから何度も聴いていたが、その恐怖を初めて実感した。わずか2分の映像、アイさんの動く速度に比べて、後ろをついてくる渡邉さんは遅い。81歳の高齢の身で懸命に走っていたのだろう。涙で目がかすんだ。その映像が唯一、初めて私が見た渡邉さんで、生きて動いている最期の姿だった。
冒頭陳述で、A、B弁護人とも「傷害致死罪の共謀成立」は争わないとしたが、「被害者をからかい、その反応を楽しむ目的だった。石を身体に当てたり、けがをさせたりするつもりはなかった」と主張した。
「殺されると思って必死に逃げました」
争点は、(1)石を投げようと思った時期、(2)元少年Bの投石内容、(3)犯行後の口止めの有無、など。が、検察との攻防より、AとBの言い分が対立し、仲間われの泥仕合を見るような場面もあった。
第2回公判では、アイさん自身が、検察側証人として出廷。「きちんとした格好でいかなくちゃ」と、グレーのスカートスーツ姿で臨んだ。傍聴席や被告人らからは、姿が見えないよう、衝立が置かれた。
まず、ホームレス生活をするようになったきっかけについて問われ、「アパート生活をしていた45歳くらいのとき、ストーカーにあい、私が飼っていた犬と一緒にアパートを出て、河川敷で生活するようになりました」とアイさん。
渡邉さんとは、お互い猫のえさやりのボランティアをしていて、知り合ったという。
「20年前、48歳ころです。それから、渡邉さんとはずっと友達関係で、お互いを助け合いながら、命を守りながら、生活してきました」。
昨年3月に入って襲撃が続いていたことについて、「もう毎日のように、どんどんエスカレートして怖かった。殺される!っていう不安が毎日あって、生きた心地がしませんでした。夜、テントに入って身体は横にしていても、目は開いてました。また来る!という恐怖で、眠れませんでした」と、語った。
事件の夜、テントの横にある板にコツンと音がして「来たぞ!」と渡邉さんが叫んだ。アイさんは警察に110番通報するために、急いで公衆電話へと向かった。
「堤防の上から男が小走りで降りてきて、目の前に立ち、ライトを当て、自転車の車輪を、足で何度も蹴ってきた。怖くて『渡邉さん!』と叫んだら、渡邉さんが後ろから走ってきて、鉄の棒を振り上げる動作をして、威嚇し、男を追い払った」という。
男は二度、立ちふさがり『今日は逃がさんぞ、ババアに用がある』などと言い、アイさんは「とにかく怖くて怖くて、殺されると思って、必死で逃げました」と話した。
堤防を下り、しばらく走ると背後から「シッコたれとるぞ!」と声が聞こえ、振りむくと渡邉さんが仰向けに倒れていた。近くにいた男二人は、顔を見合わせて逃げて行った。アイさんの話は1年前の取材時と、全く変わっていない、一貫していた。
「渡邉さんは本当に心の優しい人で、石を投げ返したことも、鉄の棒を持っていたのも、命を守るためで、自分からは絶対に暴力をふるったりする人ではありません」
A、Bは衝立の後ろで、じっとアイさんの言葉を聴いていた。「最後に被告人たちに言いたいことは」と問われて、アイさんは叫ぶように言った。
「私たちをなぜ、狙ったのか! そして、何の落ち度もない渡邉さんを、なぜ殺したのか! 私は、それを聴きたいです!」
ホームレスに安全な場所なんてない
裁判員から、ホームレス生活に関する質問もあった。
――橋の下に20年も暮らしていて、怖い思いをしたことは、ほかにもありましたか?
「ありました。以前は、小学生から石を投げつけられたりとか、中学生からもありました。台風では、何度もテントを流されました。放火もありました。10年前、8月ころだったか、そのときも毎日のように(襲撃に)来たんですよね。最後に火をつけられて、テントが丸焦げになりました」
――そういう怖い思いを20年ずっとしてきて、渡邉さんとそこを逃げ出そうとか、ほかへ移ろうとは思いませんでしたか?
「渡邉さんには猫がいましたし、猫の命を守るために(アパートに入居できなかったし)、生活保護も受けられませんでした」
――例えば、山の奥とか、安全な場所に行こうとは思わなかったのですか?
「……安全な場所なんて、ホームレスにありません」
なぜそこを出なかったのかと、尋ねた裁判員は、単に、本当に疑問で、善意から心配もしたのだろう。でも、私は、このやりとりが、気になった。
アイさんは事件前、警察に、命の危険を感じるから本気で捜査してほしいと訴えると、「犯人といたちごっこになるから、(渡邉さんとアイさんのほうが)ここから出て行け」と言われた。「なぜ出て行かないのか」という疑問視と、「ここにいるべきではない」という否定感は、根底で繋がっているように思えた。
路上生活者は「そこに居るほうがおかしい。嫌なら、ほかへ行けばいい」と言われる。ではどこへ行けというのか。行き場を失い、辿りついた今そこが、命の生き場なのだ。選択できると考えるのは、選択肢を持っている人々だ。人はなぜ路上に至り、どのように命をつないでいるか。その理解と関心が、まだまだ社会全体に足りていないのだと痛感した。
第3回公判では、いよいよAへの被告人質問が行われた。生い立ちや事件の経緯などを、国選弁護人の質問に答えて語った。
Aは事件当時、会社員1年目。中学高校は野球に打ち込み、野球の成績を評価され、高校卒業後、野球部のある企業に就職した。母と兄と弟、叔母、祖父母と暮らし、ひとり親家庭で「お母さんに中高時代にたくさん支えてもらったので、野球しながら働いて、少しでも支えたいと思っていた」という。
高校までは野球に明け暮れ、「平日は練習、土日は試合、次の朝には学校で、友だちと遊びにいくこともなかった」という生活をしていた。
野球仲間のつながりで、元少年Cのアパートに遊びに行くようになり、Bたちとも知り合い、複数人で夜中に車で心霊スポットや野球を見に行ったりしていた。
「それまで遊ぶのを我慢してたから、友だちと遊ぶのが楽しかった。仕事もあるので学生と同じようには遊べないこともあったけど、つきあい悪いなと思われたり、ハブかれたくなくて、なんとか時間を作って参加するようにしていました」
Aの母親は証言で「私のパート収入だけではやっていけず、借金もありました。Aが小さいときから、“お金がない、お金がない”と、顔を見るたびに言っていたので、それがストレスだったのではないかと……。就職してからは帰ってこなくなり、私がお金のことばかりいうのが嫌で帰ってこないのかなと思いました。反省しています」と語っていた。
Aは、河渡橋へ計4回行っている。初めて訪れたのは、愛知県・小牧城の心霊スポットを仲間たちと見に行った帰り、公園のベンチで寝ていたホームレス男性を、仲間が木の棒でつついたり、からかうのを見て、Bが「もっとおもしろいところがある」と言い出したのがきっかけだった。
「B君から、河渡橋の下にも人が住んでいると聞いて、(からかうと)怒って出てくるとか、鉄の棒を持って追いかけてくるとか聞いて。最初は怖いなあと思って、(石は投げず)ただ、近くで見ていました」。しかし、「2回、3回と、みんなと行くうちに、一緒に石を投げたり、被害者をからかったり、逃げたりすることが、だんだん楽しくなっていきました」と、襲撃がエスカレートしていったことを明かした。
口から血か泡を出していた
事件の夜、堤防下の道を逃げるアイさんを追っていたAは、「渡邉さんがポケットから石を投げてきたので、ぼくも投げ返してやろうと思い、堤防に上がって石を拾って投げ返しました。2、3センチくらいの小石でした」。そのまま北進し、寺田橋付近で坂をおりたあと、「石を投げ返そうと、田んぼに入って土を拾いました」。
そのとき手にした「土の塊」が、渡邉さんに致命傷を与えることになる。
「ソフトボール位の大きさで少し湿っていて、少し重かった」。軽くはなかったのだ。
「その土の塊を拾って、田んぼから出ようとしたときに、被害者が僕の方へ向いて、棒を振り上げたので、その棒が飛んでくるんじゃないか、自分に当たるんじゃないかと、思って、持っていた土を被害者の方へ投げました」
渡邉さんとの距離は「1~3mの間ぐらい」で投げたときの力加減は「(全力の)半分以上の力だった」という。そして、土の塊は「被害者の顔の当たってしまい、土はくだけました……」。
Aは鼻をすすり、泣き出していた。
「僕はこんなふうになるとは思ってなくて、びっくりして、ヤバいなと思いました。どうしようという気持ちになり、近くにB君がいたので、どうしようと話して……、そのまま、B君と逃げていきました」
倒れた渡邉さんの様子を聞かれ、「一回、そこから離れていきましたが、何回も後ろを振り向いて、心配だったので、B君に戻ろうといって、二人で戻っていきました。被害者は、口から泡か血を出していて、いびきをかいて寝てるような感じでした」
そのときなぜ救急車を呼ぶなり、救命しなかったのか。「そのときは、僕がやってしまったことから逃れたいと思っていたので、救急車を呼ぶこともできませんでした……」
しかしこの話を、Bは「2人で一度、現場に戻ったという記憶はない」と否定した。まず車に乗り込み、C、D、Eらも全員一緒に車で現場に戻って様子を確認したという。5人いて、誰も通報せず救急車も呼ばなかった。無罪放免の者たちも、無実ではないはずだ。
AとBからの口止め依頼
犯行後の「口裏合わせ」についても、AとBは対立していた。
ほかの友人F、G、Hの3名が、第1~3回公判で、検察側証人として証言していた。彼らは、AやBから犯行後「マジで言うなよ」「リレキ消しといて」など、口止めを依頼されたことを証言した。
さらに、AとBの両名から「橋の下で花火をしていたら、ホームレス(渡邉さん)が来て、(争いになって)正当防衛だったということにしてほしい」と持ちかけられたと証言した。
しかしAは、自分ではなく「B君からそのような話をした」と主張し、一方、Bは「私はそんな話はしていない」と否定。結局、この件は仲間の了解を得られず、それきりになったことで、量刑事情にはならなかった。
ほかの点でも、2人の主張の食い違いは続いた。
Aはアイさんらを追いかけていたとき、Bが渡邉さんの背後から石を当て、渡邉さんが上着のフードを頭に被るのを見て、「後頭部に当たったように思った」と述べた。もしそれが本当なら、致命傷とされた「土の塊」をAが投げる前に、Bが渡邉さんの後頭部を傷つけていたかもしれないことになる。重要なポイントだった。
けれどBは、自分は当日、渡邉さんに石を当てていないと主張していた。
いったい何が本当で嘘なのか?
仲間の元少年たちの証言にも食い違いがあった。元少年の一人は、「AやBやCたちと、(襲撃に行って)やっていたことは同じなのに、自分たちはこの1年、普通に外で暮らしていて、申し訳なく思う。だから本当のことを証言したい」といったが、その直後、自分の「彼女」が襲撃現場にいたことを指摘されると、平然と「忘れていました」と述べ、彼女の代わりにAがいたように証言していた。
何を信じればいいのか、傍聴を重ねるたび、陰鬱な気持ちになった。
被害者に対する気持ちを問われて、Aはこう述べた。
「被害者の渡邉さんには、本当に申し訳ないと思います。また、一緒に暮らしていた方アイさんには、毎日、本当に夜も寝られないぐらい、いつ殺されるかわからないという、怖い思いをさせていたんだと、(アイさんの証言を聴いて)感じました。石が当たったらケガもするし、危ないし、自分たちは5人も6人もいて、2人を相手にして、やっていることは弱い者いじめをしていたんだと思いました」
「そして僕が、被害者の立場を見下すような考えをしていたので、嫌がらせや、石を投げるようなことをしていたと思います。その考え方は全部間違っていたと思います」
と、涙を流した。
検察尋問に変わると、Aは緊張した様子で返答に窮したり、口数が減った。
――なんで、ホームレスの人に石を投げたの? 石を投げたあとの反応を見るのが楽しいといっているが、なんでそんなことが楽しいの?
「橋の下に、石を投げると、被害者やアイさんが怒って出てくるのをみんなで見たりするのが楽しかった」
――それの何が楽しかったの?
「被害者に、『待てー』と言われたときに、『こっちに来いよ』というようなことを言ったりしているのが楽しかった」
――だから、それの、何が、楽しかった? 何を、楽しいと思うの?
「みんなでやることが、楽しかった」
わずかに掴めた心理のカギは、「見下す気持ち」と「みんなでやること」。
では「ホームレス」を具体的にどう、見下していたのか。汚い臭いと思ったのか、怠け者だと思ったのか、稼げない奴には価値がないと考えたのか。
みんなで一緒にやることが重要ならば、それがなぜ「ホームレス襲撃」という「いじめ」になるのか。野球は? 遊びにはならなかったのか? 言葉は足りず、もっと知りたかった。
そしてもう一人の元少年Bは、どんな気持ちで、襲撃をくりかえしていたのか。Bの心の奥底に潜む闇、第4回、第5回の公判、さらに「生き証人」アイさんの今を後編《【岐阜ホームレス襲撃事件】元少年Bの深い闇、彼らこそ心の「ホーム・レス」だった》でレポートする。
北村年子(きたむら・としこ)◎ノンフィクションライター、ラジオパーソナリティー、ホームレス問題の授業づくり全国ネット代表理事、自己尊重ラボ主宰。 女性、子ども、教育、ジェンダー、ホームレス問題をおもなテーマに取材・執筆する一方、自己尊重トレーニングトレーナー、ラジオDJとしても、子どもたち親たちの悩みにむきあう。いじめや自死を防ぐため、自尊感情を育てる「自己尊重ラボ Be Myself」を主宰。2008年、「ホームレス問題の授業づくり全国ネット」を発足。09年、教材用DVD映画『「ホームレス」と出会う子どもたち』を制作。全国の小中学・高校、大学、 専門学校、児童館などの教育現場で広く活用されている。著書に『「ホームレス」襲撃事件と子どもたち』『おかあさんがも